第24話 限界社畜の帰還と、終わらない歓喜の宴
翌日の昼下がり。初夏の少し湿った風に吹かれながら、杉本直樹はアパートへと続く道を歩いていた。
いつものように足取りを重くさせる鉛のような疲労感も、胃を締め付けるような焦燥感もない。ただ、陽光がアスファルトに落とす街路樹の影をのんびりと眺める余裕すらあった。
直樹の右手に提げられた紙袋には、さきほどペットショップで少し奮発して買ってきた『国産鹿肉の無添加ジャーキー』が入っている。
玄関のドアを開け、靴を脱いでリビングへ入る。パッケージの封を切った瞬間、野生味のある濃密な肉の香りが、部屋の空気に微かに混ざった。
「きゅうっ!」
直樹の膝の上で丸くなっていたこむぎが、弾かれたように顔を上げた。潤んだ大きな黒い瞳がジャーキーに釘付けになり、短い鼻先がピクピクと忙しなく動いている。
こむぎは直樹の膝から飛び降りると、全身で喜びを表現するように尻尾を激しく振りながら、小さな前足を直樹の太ももに何度もかけて「早く、早く」と急かしてきた。
「待て。……お座り」
直樹が低く落ち着いた声で命じると、こむぎはピタッと動きを止め、フローリングの上にちょこんと腰を下ろした。しかし、尻尾だけは床をパタパタと叩き続け、興奮を隠しきれていない。
「お手」
差し出した直樹の掌に、小さな温かい前足がちょこんと乗せられる。
「よし」
直樹がジャーキーを口元へ運んでやると、こむぎはサクッ、サクッと小気味良い音を立てて無我夢中で食べ始めた。小さな顎が力強く動き、あっという間に平らげてしまう。食べ終わってもなお、こむぎは「まだあるんでしょ?」とばかりに直樹の指先をペロペロと熱心に舐め回した。
「もうおしまいだ。食べすぎると腹を壊すからな」
直樹は苦笑し、こむぎの小さな身体を両手でそっと持ち上げた。
柔らかな淡い茶色の毛並みから伝わってくる、確かな体温と早い心臓の鼓動。これまでは、この小さな命を狭い部屋に残し、いつ帰れるかも分からない絶望的なタスクの海へ戻らなければならなかった。そのたびに、後ろ髪を引かれるような罪悪感が胃の底に沈殿していたものだ。
過労で倒れる前の自分は、こむぎの散歩に行く時間すら満足に取れず、ただ生きるためのドッグフードを皿に補充するだけで精一杯だった。深夜に帰宅し、泥のように眠り、また朝早くに家を出る。その繰り返しのなかで、こむぎはずっと一人で直樹の帰りを待ち続けていた。
もしあのまま自分が過労で倒れて帰らぬ人になっていたら、この小さな命はどうなっていたのか。そう想像するだけで、ぞっとするような寒気が背筋を駆け上がる。
だが、今は違う。
「……もう、ずっと一緒にいられるぞ、こむぎ」
直樹が首筋を優しく撫でてやると、こむぎは満足したように目を細め、喉の奥で小さく鳴らして直樹の腕の中で丸くなった。
心地よい重みをベッドの端にそっと下ろす。こむぎは直樹の匂いが染み付いた毛布に顔を埋め、すぐに静かな寝息を立て始めた。
直樹は環境モニタリングの設定をオンにし、ベッドの横に座り込んで黒いVRヘッドギアを手に取った。
明日着るスーツにアイロンをかける必要も、深夜に鳴るかもしれない社用スマホの着信音に怯える必要もない。明日の朝は、こむぎと一緒に少し遠くの公園まで散歩に行こう。そんな当たり前の生活の計画を立てられることが、たまらなく贅沢に思えた。
深い安堵とともに、直樹は目を閉じた。
★★★★★★★★★★★
視界が柔らかな光の粒子に包まれ、波の音がサラウンドで鼓膜を撫でる。
直樹がいつもの見慣れたログハウスの前にログインした瞬間、彼の視界には異様な光景が飛び込んできた。
「遅いわよ、ナオ。主役がいないと始まらないじゃない」
呆れたような、それでいてどこか嬉しそうな声。
腕組みをして立っているシルフィの背後には、巨大な木製のテーブルが急造されており、その上には見たこともない量の食材が山のように積まれていた。
ベルが海から釣り上げたであろう得体の知れない巨大な甲殻類。ノーラが持ち込んだと思われる大量の木樽。エミが森から集めてきた色鮮やかなトロピカルフルーツの山。リヴィが狩ってきたのか、見事な角を持った大鹿の肉まである。
足元では、白い聖獣のルナが大量の食材の匂いに当てられたのか、しきりに鼻を鳴らしながら直樹の到着を待ちわびていた。
「お前ら……一体どうしたんだ、これ」
直樹が目を丸くしていると、クッションに深く沈み込んでいたエミが、白い尻尾を揺らしながら顔だけを上げた。
「だって、ナオがもう現実のお仕事に行かなくてよくなったって、アリスが言うから! お祝いしなきゃって!」
「……っ、別に、私がお祝いしようって言い出したわけじゃないわ」
少し離れた木陰で日傘を回していたアリスが、ツンとそっぽを向く。
「あなたのダイブログから、あのブラック企業のサーバーへの接続履歴が完全に消去されてたから……ただの事実の共有よ。ストレス値の異常な低下も確認できたし。……まあ、無理して倒れるような馬鹿な真似をしなくなったのは、褒めてあげてもいいけど」
「細かいことはいいんだよ、アミーゴ!」
アリスの言葉を遮るように、ベルが豪快に笑いながら直樹の肩をバンと叩いた。つい先ほどまで直樹のバイタル数値を血眼になって確認していた凄腕の外科医の顔は、すでにどこかへ吹き飛んでいる。
「あんたが自由になったんだ、最高にハッピーなニュースだろ! ほら、さっさと火を熾してくれ。この特大のロブスターもどき、私が海に潜って仕留めてきたんだぜ!」
次々に声を上げ、期待に満ちた目を向けてくる彼女たちを見て、直樹は小さく息を吐いた。
「……まったく。これじゃ、ブラック企業にいた頃より忙しくなりそうだな」
直樹は口では文句を言いつつも、その顔には自然と柔らかな笑みが浮かんでいた。
彼は袖をまくり上げ、慣れた手つきで石のかまどに火を入れた。
「モモ! ちょっと邪魔だ、火の粉が飛ぶぞ」
「えへへ、だってナオがお料理してるところ、特等席で見たいんだもん!」
背中にくっついて離れない有翼人の少女を適当にあしらいながら、直樹の調理が始まった。
まずは、ベルが持ち込んだ特大の甲殻類だ。分厚い殻を石の包丁で縦に豪快に割り、直樹が育てていた香草と岩塩、そしてモモが採ってきた木の実の油を混ぜ合わせた特製ペーストをたっぷりと塗り込む。それを強火の炭火に乗せると、ジュワァァッという激しい音と共に、甲殻類特有の香ばしい匂いが爆発的に広がった。
「いい匂い……! 早く、早く食べたいわ!」
シルフィが我慢しきれない様子で、空の木皿を持ってかまどの周りをウロウロし始める。
「落ち着け。次は肉だ。リヴィ、この鹿肉も焼くぞ」
「ええ、お願い。……あなたなら、最高の状態に仕上げてくれると信じてるわ」
リヴィが期待を込めた眼差しを向けてくる。直樹は、インベントリから熟成させておいた巨大な猪肉と鹿肉を取り出した。分厚く切り分け、表面に格子状の切れ目を入れ、熱した石板の上に放り込む。
表面の脂が弾け、カリッとした焼き色がつく。そこに、エミが持ってきた酸味の強い果実を煮詰めて作ったソースを回しがけた。フルーツの酸味が肉の脂と絡み合い、甘く濃厚な香りが広場全体を包み込む。
さらに、甲殻類を焼いた際に出た旨味たっぷりの肉汁を使って、直樹が栽培していた穀物を炒め合わせ、即席の海鮮パエリア風の一皿を仕上げる。最後はアリスのために、採れたてのベリーをふんだんに使った冷たいフルーツポンチを手早く作り、氷を浮かべた木樽のジュースと一緒にテーブルへ運んだ。
ノーラが持ち込んだ木樽からは、冷たく冷やされた琥珀色の酒が次々と注がれていく。
「さあ、ナオの新たな門出に!」
「「「乾杯!!」」」
星空の下、波の音を掻き消すほどの賑やかな声が響き渡った。
リヴィは湯上がりのしなやかな身体をクッションに預け、焼き上がった甲殻類の身を上品に口に運んだ。
「……はぁ。やっぱり、ナオの料理には敵わないわね。昨日の夜に食べた三ツ星のフレンチより、こっちの方がずっと細胞に染み渡るわ」
「同感ね。……私の部下たちにも食べさせてやりたいくらいだけど、ここは私だけの秘密の場所だからダメ」
ノーラが琥珀色の酒を煽り、妖艶なため息をつく。
「ナオ! わたし、こっちの赤いお肉も食べたい!」
「モモ、それは私が先に見つけたのよ! ナオ、私に切り分けてちょうだい!」
有翼人のモモと狐耳のエミが、直樹の横で大きな肉の塊を指差して小さな言い争いを始めている。
「わかった、順番にな。喧嘩するなよ」
直樹は苦笑いしながら、熱い肉汁が零れないように素早く肉を切り分け、二人の皿に均等に乗せてやった。二人はすぐに満面の笑みになり、「ナオ、大好き!」と声を揃えて肉に食らいついた。
「ふふっ。ナオはすっかり彼女たちの専属シェフね」
「仕方ないわ。これだけの腕前を見せつけられたら、誰も彼を手放したくなくなるもの。……ねえ、ナオ。現実で私の専属シェフになる気はない? 報酬は言い値で払うわよ」
ノーラがグラスを傾けながら、熱っぽい視線で誘いをかけてくる。
「遠慮しておく。俺は自分が食べたいものを、自分のペースで作るのが好きなんでね」
「つれないわね。まあ、それなら私がここに通い詰めるしかないわ」
少し離れた場所では、アリスが直樹の作ったフルーツポンチをちびちびと飲んでいた。
「アリス、氷のおかわりはどうだ」
「……ん。もらうわ」
グラスを差し出したアリスに、直樹は木樽からすくった氷と冷たいフルーツポンチを足してやった。アリスは日傘の柄を撫でながら「まあ、悪くないわね。砂糖でごまかしてない自然な甘さは評価してあげる」と少しだけ口角を上げた。
「ナオ、お肉のおかわりをもらえるかしら。あと、あのお酒も」
「シルフィ、お前少しは自分で動け。……ほらよ」
直樹は甲斐甲斐しく立ち働きながら、彼女たちの空になった皿を満たしていく。
焼きたての肉を切り分け、空になったグラスに酒を注ぐ。休む暇もない立ち仕事だ。だが、不思議と疲労感はなかった。むしろ、自分の作った料理を心から美味しいと食べ、笑い合う彼女たちの姿を見ていると、胸の奥に温かいものが静かに満ちていくのを感じた。
「……美味いか」
「「「すっごく美味しい!」」」
直樹の呟きに、ヒロインたちの声が見事に重なった。
燃え上がる焚き火の炎が、彼女たちの笑顔を明るく照らし出している。足元ではルナが直樹のおこぼれを待ちながら、気持ちよさそうに尻尾を振っていた。
直樹は自分のグラスを手に取り、静かな海風を胸いっぱいに吸い込んだ。現実の自分は、地位も名誉もない無職の男だ。だが、ここには間違いなく、自分が守るべき、そして自分を必要としてくれる居場所があった。
「……まあ、悪くないな」
誰に聞こえるでもなくこぼした直樹の言葉は、弾けるような笑い声と波の音に、優しく溶けていった。




