第23話 クビ宣告の歓喜と、お菓子なきお手
真っ白な羽が、コバルトブルーの空に軌跡を描いて舞い降りる。
強烈な風切り音と共に、モモとの空の旅を満喫した直樹は、ログハウスの前にある開けた広場へとふわりと着地した。
「あはは! すっごく楽しかったね、ナオ!」
モモが背中の純白の大きな羽を器用に畳みながら、直樹の腕にしがみついて無邪気な笑声を上げる。風に揺れる銀色の髪からは、太陽の陽射しをたっぷりと浴びた心地よい匂いがした。
「ああ。高いところは少し肝を冷やしたが……絶景だった」
直樹がモモの頭を軽く撫でた、その時だった。
着地の風圧とモモの弾むような声に反応するように、ログハウスの縁側や、少し離れた木陰のハンモックから、弾かれたように複数の人影が飛び出してきた。
「ナオッ!」
砂を蹴立てて真っ先に距離を詰めてきたのは、ベルだった。彼女は直樹の腕を強く掴むと、瞬時に空中に半透明のステータスウィンドウを展開し、そこに表示されるバイタルの数値を食い入るように睨みつけた。
「……ええ、心肺機能は安定してる。アバターの生命維持補正も正常値。エラーログもなし……よかった、本当に」
天才外科医として、現実世界で幾度となく死線に立ち会ってきた彼女の鋭く尖っていた目つきが、ふっと限界まで弛緩する。ベルは肺の底に溜まっていた重たい空気をすべて吐き出すように、深く、長い息を漏らした。
「バカ! 心配かけさせないでよ!」
ドンッ、と直樹の胸元にエミが頭から突っ込んできた。
彼女は目を真っ赤に充血させ、直樹のシャツの裾を両手で力いっぱい握りしめている。自慢の純白の狐の尻尾が、不安と安堵の反動でボワボワに膨れ上がり、感情を制御しきれない様子で左右に揺れていた。
「ご飯係がいなくなったら、私、干からびて死んじゃうんだからね……!」
涙声で強がる言葉とは裏腹に、その手は直樹の服を絶対に離さないとばかりに固く結ばれている。直樹は空いた方の手で、その震える頭をぽんぽんと優しく叩いた。
「全く、世話の焼ける男ね。……でも、無事で何よりだわ」
少し離れた場所から歩み寄ってきたリヴィが、腕を組みながらも目元を柔らかく和ませる。完璧な装甲を纏う国際弁護士の彼女が、この瞬間だけは完全に武装を解き、深い安堵の表情を見せていた。
アリスは日傘の先端で直樹の靴のつま先をコツンと小突き、「お兄ちゃん、もう無茶したら絶対許さないからね。私の許可なく倒れるの禁止」と、少し上擦った声で言った。その碧い瞳には、大人たちに向ける冷たい光はなく、ただ純粋な気遣いだけが揺れている。
ノーラが艶然と微笑みながら、優雅な足取りで直樹の背後に回り込もうとする。
「私の宝物を傷つけた連中には、相応の対価を……」
「心配かけたな。俺はもう無事だ」
直樹はノーラの物騒な呟きを自然に躱すように身体の向きを変え、自分を取り囲む全員の顔をゆっくりと見渡した。
「現実の方で少しゴタゴタがあって、三日ほど入院してたんだが……」
直樹はそこで一度言葉を切り、青く澄み渡った仮想の空を見上げて、一つ深呼吸をした。
肺を満たすのは、現実の淀んだ排気ガスの匂いでも、消毒液の匂いでもない。潮風と緑の入り交じった、清浄な空気だった。
「実は今日、会社をクビになった」
波の音が響く広場が、一瞬だけ水を打ったように静まり返った。
ヒロインたちは互いに顔を見合わせ、直樹の口から発せられた言葉の意味を、それぞれの頭脳で咀嚼する。
「……だから、これからは誰の電話にも怯えなくていい。明日の納期も気にせず、ずっとここにいられるぞ」
直樹が清々しい、心の底からの笑顔でそう告げた瞬間。
「やったーーーーっ!!」
エミが両手を挙げてその場でぴょんぴょんと飛び跳ね、アリスが小さな両手で力強くガッツポーズをした。
「ナオがずっとここに!? 最高じゃない! これで毎日美味い飯が食べられるわ!」
ベルが豪快な笑い声を上げて直樹の背中をバシバシと叩き、ノーラが「ふふっ、これで心置きなく私とバカンスね」と恍惚とした表情で唇を舐める。
「クビ!? なにそれ、一番美味しい魔法の言葉ね! ナオ、おめでとう!」
モモが羽をパタパタと羽ばたかせて直樹の周囲を歓喜のステップで飛び回り、少し離れた場所に立っていたシルフィもまた、口元に手を当てて優雅に、しかし隠しきれない喜悦を含んだ笑みをこぼした。
限界まで張り詰めていた精神。命の危機にまで至った過労。それらすべての元凶であった「会社」という鎖が外れたのだ。社会的な体裁や当面の生活費といった現実的な不安は、今の直樹の脳内には一切存在しなかった。
ただ、この温かい場所で、もう二度と理不尽な重圧に引き戻されることなく浸り続けられる。
ヒロインたちの賑やかな歓喜の渦の中心で、直樹は頬を撫でる風の心地よさを全身で味わいながら、深い充足感の中で目を細めた。
★★★★★★★★★★★
現実のボロアパート。
「……ふぅ」
直樹がベッドの上で黒いVRヘッドギアを外すと、部屋はすでに深い夜の闇に包まれていた。
窓の外からは、遠くの道路を走る車の走行音が微かに聞こえてくる。
いつもなら、ログアウトした瞬間に現実の重圧がのしかかり、翌日の仕事への絶望感で胃が締め付けられる時間帯だ。「あと何時間眠れるか」「あのモジュールの修正は間に合うか」といった焦燥感が、ヘッドギアを外した直後の脳を容赦なく侵食してくるのが常だった。
しかし今の直樹の心境は、これまでの人生で最も晴れやかで、静かだった。
「きゅう」
ベッドの足元から、短い鼻を鳴らす声がした。
見下ろすと、チワワのこむぎが前足をベッドの縁にかけ、短い尻尾をちぎれんばかりに振って直樹の顔を覗き込んでいる。
「ただいま、こむぎ。……いや、ずっと家にいたんだがな」
直樹は起き上がり、こむぎの小さな身体を両手で抱き上げた。温かい体温が胸に伝わり、柔らかな毛並みから微かに獣の匂いがする。デジタルではない、確かな現実の命の重みだった。
「よしよし。いい子にしてたか。……なあこむぎ、俺、無職になったぞ」
直樹はあぐらをかいて座り、膝の上にこむぎを乗せて目線を合わせた。
「これからは、ずっと一緒にいられる。……腹、減ったな。そういえば、新しいおやつを買ってきてたんだった」
直樹はこむぎを抱えたまま立ち上がり、キッチンへ向かって戸棚を開けた。
しかし、先日ホームセンターで買ってきたはずの犬用ボーロは、入院騒動の前に封を開けてしまっており、袋の中は完全に空っぽだった。数日間家を空けていた間の記憶が、極度の過労のせいで一部抜け落ちていたのだ。
「悪い、こむぎ。切らしてたみたいだ」
直樹は苦笑し、空になった手のひらをこむぎの前に広げて見せた。
しかし、こむぎは直樹がしゃがみ込んで手を差し出した一連の動作を、「おやつをもらう前の儀式」だと完全に勘違いしたらしかった。
短い尻尾をパタパタと振りながら、直樹の足元でちょこんと行儀よくお座りをする。
そして、小さな右の前足をふわりと上げ、何もない直樹の手のひらの上に『ぽすっ』と乗せた。
きゅるんとした潤んだ黒い瞳で、直樹の顔を真っ直ぐに見上げてくる。「おて、したよ。おやつちょうだい」と言わんばかりの、純粋で、寸分の疑いもない期待に満ちた表情だった。
お菓子が無いのに、健気に「お手」をしてご褒美を待つその姿。
直樹は、胸の奥を強烈な力で撃ち抜かれたような衝撃を受けた。
「……お前、可愛すぎるだろ」
直樹はたまらずこむぎを抱き寄せ、その柔らかい首筋の毛並みに顔を埋めた。
「ごめんな。明日、絶対に世界で一番美味いボーロを買ってきてやるからな」
こむぎは状況をよくわかっていない様子だったが、大好きな飼い主に構ってもらえたことが嬉しいらしく、直樹の鼻先をペロペロと舐めて小さな喉を鳴らした。
こむぎの皿に主食のカリカリと新鮮な水をたっぷりと補充し、小気味良い音を立てて満足そうに食べ始めるのを見届けた後、直樹は小さな丸テーブルに頬杖をついた。
食事に夢中になっている小さな背中を見つめながら、直樹の顔には自然と穏やかな笑みが浮かんでいた。
明日、会社に行く必要はない。
耳をつんざくようなスマートフォンの着信音に怯える必要もない。
目覚まし時計をセットする必要すら、もうないのだ。
ただ、朝陽が昇ったらこむぎの散歩に行き、美味しいおやつを買い、またあの島へ行くだけだ。
絶対的な安心感と自由の予感に包まれた部屋の中で、静かで満ち足りた夜が更けていった。




