第22話 限界社畜のクビ宣告と、天使との空の旅
目を覚ますと、そこは見たこともないような豪奢な白い天井だった。
消毒液の匂いすらない。壁には落ち着いた間接照明が配され、最高級ホテルのスイートにすら匹敵するようなふかふかのベッドは、まるで雲の上にいるような寝心地だった。直樹の腕には点滴の管が繋がれており、傍らには最新鋭のバイタルモニターが静かな電子音を一定のリズムで刻んでいる。
「ここは……?」
掠れた声を出すと、傍らに立っていた白衣姿の初老の外国人医師が、流暢な日本語で穏やかに告げた。
「お目覚めですか。無理に動かないでください。あなたは極度の過労と栄養失調により、心不全の寸前で倒れました」
彼によれば、直樹は自宅のアパートで意識を失っているところを『匿名の通報』によって保護され、この医療財団の特別病室に緊急搬送されたのだという。
「丸三日、あなたは眠り続けていました。点滴で必要な栄養は補給しましたが、本来なら1ヶ月は絶対安静のレベルです」
水曜日の朝。
医師の言葉を聞きながら、直樹は呆然としつつも、シーツの下にある自分の身体が驚くほど軽いことに気づいた。数日前まで全身にまとわりついていた鉛のような四肢の重みは完全に消え去り、深く息を吸い込んでも肺が軋むような痛みがない。洗面所の鏡で見せられた自分の顔は、あの死相が浮かんでいた限界社畜のそれではなく、健康的な血色を取り戻した精悍な大人の男の顔だった。
(匿名の通報……? アパートの大家か?)
疑問は残ったが、それ以上深く考える気力は湧かなかった。とにかく、命を拾ったのだ。
点滴を外され、医師の制止を「自己責任で帰ります」と振り切って退院手続きを済ませた直樹は、一度自宅へは戻らず、そのままの足で『ダークネス・システムズ』のオフィスへと向かった。
無断欠勤の始末をつけ、デスクに残した私物を片付けるためだ。
★★★★★★★★★★★
午前10時。
オフィスに足を踏み入れた瞬間、直樹は空気が物理的に腐臭を放っているのではないかと錯覚した。
フロアの至る所で、外部からのクレームを告げる電話が狂ったように鳴り響いている。しかし、誰もその受話器を取ろうとはしない。若手社員たちはモニターの前で青ざめ、魂の抜けたような顔で虚空を見つめたり、小刻みに貧乏揺すりをしたりしている。数日前まで飛び交っていた殺伐とした怒号すらない、絶望的な静寂と無機質なコール音だけが空間を支配していた。
直樹が自分のデスクに歩み寄ったその時、奥の社長室のドアが乱暴に開き、中から佐々井部長が飛び出してきた。
「杉本ぉぉっ!!」
ネクタイは引きちぎられたように緩み、髪は脂でべったりと額に張り付いている。目は完全に血走り、焦点が合っていなかった。佐々井は直樹の姿を認めるなり、獣のような咆哮を上げてドスドスと床を踏み鳴らして突進してきた。
「てめえ! この三日間、どこをほっつき歩いてやがった!! 電話も出ねえで!!」
佐々井が直樹の胸ぐらを掴もうと手を伸ばすが、直樹は半歩下がってそれを軽々と躱した。完璧な休息を得た直樹の反射神経に、過労とパニックでフラフラの佐々井が追いつけるはずもなかった。宙を掻いた佐々井は体勢を崩し、無様に隣のデスクに手をついた。
「自宅で倒れて救急搬送され、今日まで入院していました。連絡ができず申し訳ありません」
直樹の淡々とした、平熱の言葉が、佐々井の狂気に油を注いだ。
「入院だぁ!? ふざけるな! お前が勝手に消えたせいで、月曜の朝から新システムが完全にロックされたんだぞ! わけのわからんプロテクトがかかって、データが一切見られなくなった!」
佐々井は唾を飛ばし、肩で荒い息をしながら直樹を指差した。
「グローバル・ネットワークスからは莫大な損害賠償の請求! メインバンクからは融資の即時一括返済の通達! それに今朝、脱税と横領の疑いで警察と国税局が社長の自宅に入った!!」
フロアのあちこちから、社員たちの短く息を呑む音が聞こえた。誰もがモニターを見るふりをしながら、二人のやり取りに耳をそばだてている。
「終わりだ! うちの会社はもう終わりだ!! これも全部、お前がチンタラ仕事して、月曜にシステムを飛ばしたせいだ!!」
「……そうですか」
直樹の口から出たのは、その短い一言だけだった。
怒りも、自己弁護も、焦りもない。ただ、目の前で喚き散らす男を、路傍の石でも見るような静かな目で見下ろしていた。
「なんだその目は! 自分が何をしたかわかってんのか!」
「私に責任があると仰るなら、そうなのでしょう。で、私にどうしろと?」
そのあまりにもフラットな態度に、佐々井は一瞬言葉を失い、次いで顔を赤黒く染め上げて叫んだ。
「お前のような無能はクビだ!! 即時解雇だ! 荷物をまとめてさっさと出て行け!! 損害賠償も覚悟しておけよ!!」
フロアの空気が完全に凍りついた。周囲の社員たちが、一斉に直樹を見る。
どんなブラック企業であっても、ここまで理不尽な解雇通告は異常だ。通常なら激昂して掴みかかるか、あるいは労働組合や弁護士に駆け込むと抗議する場面である。
だが。
直樹は数秒間沈黙した後、ゆっくりと息を吸い込み――。
「……承知しました」
ふっ、と。
直樹の口角が、隠しきれないほど自然に、緩やかに上がった。
「え……?」
拍子抜けしたような、佐々井の間の抜けた声が漏れる。
「クビですね。分かりました。不当解雇として争うつもりはありません。離職票と解雇通知書は、後日アパートの方へ郵送しておいてください。……あ、会社が存続していればの話ですが」
直樹は引き出しを開け、デスクの上に置いてあった私物のマグカップと数冊の技術書だけを鞄に放り込んだ。そして、背もたれにかけてあったジャケットを腕にかけた。
「じゃあ、お疲れ様でした。佐々井部長も、せいぜい警察の取り調べを頑張ってください」
「お、おい! 待て杉本! お前、本気で……」
直樹は呆然と立ち尽くす佐々井を一瞥もせず、弾むような足取りでフロアの出口へ向かった。自動ドアが開き、エレベーターホールへ出る。
夏の眩しい日差しが、大きな窓から容赦なく降り注いでいた。
★★★★★★★★★★★
「ただいま、こむぎ」
アパートのドアを開けると、足元でこむぎが短い尻尾をちぎれんばかりに振って飛びついてきた。直樹の顔から疲労と死相が完全に消え去っているのを本能で感じ取ったのか、こむぎは「きゅうっ! きゅうっ!」と高い声で鳴きながら、直樹の靴紐にじゃれついた。
「よしよし。いい子にしてたか。……なあこむぎ、俺、無職になったぞ」
直樹はしゃがみ込み、こむぎの小さな身体を両手で抱き上げた。温かい体温が胸に伝わる。
「これからは、ずっと一緒にいられる。……あの島にも、ずっとだ」
こむぎの頭を優しく撫でた後、直樹はシャワーを浴びてから迷うことなくベッドに横たわり、傍らに置いてあった黒いVRヘッドギアを頭に被った。
視界が暗転し、ログインゲートの光が溢れる。
「リンク、スタート」
★★★★★★★★★★★
波の音が、心地よいサラウンドとなって直樹を包み込んだ。
視界が晴れると、そこはいつもの白い砂浜。抜けるような青空と、エメラルドグリーンの海が広がっていた。
直樹が深く息を吸い込み、潮の香りを肺いっぱいに満たした、その瞬間だった。
「ナオーーーーっ!!」
上空から、白い弾丸のようなものが猛スピードで降ってきた。
「うおっ!?」
ドスッ!という鈍い音と共に、直樹の胸に柔らかな塊が激突した。
純白の大きな羽を広げ、白いワンピースをはためかせた有翼人の少女――モモだ。
「ナオぉぉ……っ! モモ、心配したんだから! 突然消えちゃうんだもん!」
モモは直樹の首に両腕を回し、顔を胸に押し付けてポロポロと大粒の涙をこぼした。彼女の背中から広がる大きな羽が、直樹の身体をすっぽりと包み込んでいる。
「悪い、モモ。……ちょっと現実で、休んでたんだ。心配かけたな」
直樹はモモの華奢な背中を、ポンポンと優しく叩いた。
「もう大丈夫なの? どこか痛くない?」
涙で濡れた銀色の瞳が、すがるように直樹を見上げる。現実世界では日本の裏も表も牛耳る最高権力者である彼女が、ここではただの、大好きな男を心配する無垢な少女だった。
「ああ、完全に元気になった。……それに、当分は……いや、ずっとここにいられそうだからな」
「ほんと!?」
モモの顔がパァッと輝いた。背中の羽が嬉しそうにパタパタと動く。
「ずっとナオと一緒にいられるの!? じゃあ、今日はモモといっぱい遊んで! デートする約束でしょ!」
「デートというか、島の裏側を探索したかっただけだが……まあ、いいか。今日は時間ならいくらでもある」
直樹が苦笑いしながら立ち上がると、モモは直樹の手をしっかりと両手で握りしめた。
「じゃあ、モモが案内してあげる! ナオ、しっかり捕まってて!」
「え?」
次の瞬間、モモの背中の羽が力強くはばたいた。
フワリ、と重力が消失し、直樹の身体がモモに引かれるままに宙へと浮き上がる。
「お、おい! 飛べるのか!?」
「モモは天使だもん! 行くよー!」
強烈な風切り音と共に、二人の身体は一気に高度を上げた。
眼下に、直樹が組み上げたログハウスや湯屋がみるみるうちに小さくなっていく。白い砂浜と、どこまでも続く青い海が、パノラマのように視界いっぱいに広がった。
「すげえ……」
「えへへ、すごいでしょ! ほら、あっちの山の上に行ってみよう!」
モモは直樹の手を引いたまま、海風に乗って滑空していく。
風を切るたびに、彼女の弾けるような笑い声が響いた。
高い切り立った崖の上の、見晴らしの良い草原に二人は降り立った。
「はぁ、はぁ……ナオ、重いよー」
「勝手に持ち上げたのはお前だろ」
直樹は笑いながら、インベントリから冷たく冷やしておいた果実水を取り出し、モモに手渡した。
「ほら、水分補給だ」
「ありがとう!」
モモは両手でコップを受け取り、ごくごくと飲み干す。そして、満足げに息を吐くと、そのまま直樹の太ももにコロンと頭を乗せ、膝枕の体勢で寝転がった。
「モモね、ここが大好きなの」
空を見上げながら、モモがぽつりと呟いた。
「誰もモモに難しいこと言わないし、怖い顔もしない。ナオの作るご飯は世界一美味しいし、ナオの匂い、すごく安心する」
モモは寝返りを打ち、直樹のお腹に顔をすり寄せた。
「現実なんてどうでもいい。モモはここで、ずっとナオと一緒に空を飛んで、美味しいお菓子を食べて生きていくの」
直樹は、モモの柔らかな銀色の髪をゆっくりと撫でた。
「……そうだな。いくらでも美味いものを作ってやる。クビになった記念にな」
「クビ? なにそれ、美味しいの?」
「いや、一番美味しい魔法の言葉さ」
吹き抜ける風が、草原を青々と揺らしていた。




