第21話 限界の崩壊と、7つの逆鱗
視界が明滅している。
自分の足音なのか、心臓の鼓動なのか、それとも換気扇の低い唸り声なのか、耳鳴りと混ざり合って判別がつかなかった。薄暗い階段を上るたびに、鉛のように重い足が何度も段差に引っかかりそうになる。
杉本直樹がボロアパートの自室に辿り着いたのは、月曜の午前4時を回った頃だった。
金曜の夜から続いた、監査逃れのためのダミー環境移行とデータ偽装作業。ただでさえ複雑に絡み合った旧システムの構造を、システムを止めることなく裏側で改ざんするという狂気の沙汰を、直樹は一睡もせずに一人で終わらせた。佐々井部長を含め、他の社員はとうに連絡がつかなくなっていた。無人のオフィスで一人、吐き気と眩暈に耐えながら最後のエンターキーを押した時の記憶すら、今はもう曖昧だった。
玄関の鍵をどうやって開けたのかも思い出せないまま、土間に崩れ落ちるように座り込む。
奥の部屋から微かな爪音が聞こえ、チワワのこむぎがタタタッと駆け寄ってきた。いつもなら短い尻尾をちぎれんばかりに振って迎えてくれるはずが、今のこむぎは耳をぺたんと後ろに伏せ、直樹の革靴の先を不安げに舐め、ひんひんと細い声で鳴いている。動物の本能が、目の前の飼い主の命の火が消えかかっていることを感じ取っているようだった。
「……悪い、こむぎ。ご飯は……昨日多めに入れといたやつ、まだあるな」
直樹は霞む目で、部屋の隅にある餌皿を確認した。カリカリのドッグフードがまだ半分ほど残っているのを見て、安堵の息を漏らす。こむぎの小さな頭を一度だけ撫でると、直樹は靴も脱がずに這うようにして部屋へ上がり、ベッドへと向かった。
泥のような眠りが、限界を超えた肉体を底なし沼へと引きずり込もうとしている。ワイシャツのボタンを外す指先すら震え、うまく力が入らない。
だが、直樹の乾ききった脳裏には、あの白い砂浜で自分の帰りを待っているであろう者たちの顔が浮かんでいた。
(……晩飯の仕込み、まだだったな。ベルが釣ってきた魚が、インベントリに入ったままだ)
まともな判断力など、とうに失われていた。ただ、「自分が作った場所に、自分を待ってくれている奴らがいる」という事実だけが、今の直樹を動かす唯一の原動力だった。彼女たちを、またあの空腹と孤独の中で待たせるわけにはいかない。
ワイシャツのネクタイを乱暴に引き抜き、黒いVRヘッドギアを手探りで掴んで頭に被る。ベッドの上に倒れ込むように横たわりながら、ひび割れた唇を動かした。
「……リンク、スタート」
擦れ切れた声で呟く。
視界が光に包まれ、ログインゲートの純白の空間に切り替わる。
だが、いつものような爽やかな海風の匂いは訪れなかった。ゲートを抜けた直後、直樹の視界には赤い警告ウィンドウが幾重にも重なって展開された。
『警告:プレイヤーの生体バイタルに著しい低下がみられます』
『警告:心拍数の異常、および血圧の低下を検知しました』
『推奨:直ちにログアウトし、現実世界で医療機関を受診してください』
システムが発する不快な電子音が、ズキズキと痛む頭に響く。
「……うるさい。わかってる」
直樹は鬱陶しそうに空中で指を滑らせ、アラートをすべて強制非表示にしてダイブを強行した。
視界が晴れると、そこはいつもの白い砂浜だった。
太陽の光が網膜を突き刺すように痛い。波の音が、ひどく遠くに、まるで水中にいるかのようにくぐもって聞こえる。アバターの肉体は現実の疲労をある程度リセットしてくれるはずだが、今日の直樹の足取りは、両足に鉛の枷を嵌められたように重かった。呼吸をするたびに、肺の奥がひゅーひゅーと嫌な音を立てる。
「遅かったわね、ナオ。待ちくたびれたわ」
波打ち際にあるヤシの葉のパラソルの下から、純白のビキニ姿のエレアノラ・ホジャ――ノーラが立ち上がった。彼女は本来の人魚の尾びれではなく、魔法で作り出したすらりとした人間の脚で砂を蹴り、直樹の元へ歩み寄ってくる。
「……悪い。少し、現実で手間取った」
「いいのよ。今日は私と出かける約束でしょ? エミたちには内緒で、北の岬まで行きましょう」
ノーラは蠱惑的な笑みを浮かべ、直樹の右腕に自分の腕を絡ませた。豊かな胸の柔らかな感触が押し当てられるが、今の直樹にはそれを気にする余裕すらなかった。視界の端がチカチカと点滅し、足元の砂浜が波打っているように見える。
「……約束した覚えはないが。まあ、岬に新しい果樹が自生していないか、見に行きたかったのは確かだ」
「ふふっ、それなら私をエスコートしてね」
ノーラは直樹の腕を引いて歩き出した。
だが、数分と歩かないうちに、ノーラの表情から余裕のある笑みが消えた。
彼女はヨーロッパの裏社会を統べる巨大PMCの総帥だ。血と硝煙の中で生き抜き、数え切れないほどの死線と、人間の命が散る瞬間を見てきた彼女の研ぎ澄まされた感覚は、隣を歩く男の異常を正確に読み取っていた。
腕を組んで密着しているからこそわかる。直樹の呼吸が、ひどく浅く、不規則だ。アバターの体温をシミュレートするシステムが、不自然なほどの冷えを伝えてきている。そして何より、足の運びがおかしい。平坦な砂浜を歩いているだけなのに、バランスが崩れ、何度もつまずきそうになっている。
「……ナオ。あなた、少しおかしいわよ」
ノーラは歩みを止め、直樹の顔を正面から覗き込んだ。
「おかしい? 何がだ。道はこっちで合ってるはずだぞ」
「そうじゃないわ。息が上がってる。顔色も……システムのアバター補正が追いついていないくらい、酷い顔よ」
ノーラが直樹の額にそっと手を当てる。仮想空間であるにもかかわらず、冷や汗のような不快な湿り気を感じた。瞳孔の動きも鈍く、焦点がどこか遠くをさまよっている。
「平気だ。これくらい……いつものことだ。少し、眠いだけ……」
「強がる男は嫌いじゃないけど、自分の限界を誤認する男は戦場じゃ真っ先に死ぬわよ」
ノーラは直樹の腕を強く引き寄せ、自分の肩を貸すようにして支えた。普段の甘えるような態度は鳴りを潜め、部下に指示を出す時のような鋭く低い声になる。
「果樹なんてどうでもいいわ。ログハウスに戻りましょう。今日はもう休みなさい」
「……馬鹿言え。みんなの分の、夕飯を……作らないと。シルフィが……腹を空かせてる……」
直樹の言葉のピントが、急激にズレていく。呂律が回りきっておらず、自分が何を言っているのかも半分理解していないような状態だった。
ノーラは舌打ちをし、無理やり直樹の進路をログハウスの方角へと向けた。彼女の知る限り、人間の肉体がこの状態に陥るのは、極度の過労による心不全か、致命傷を負って出血性ショックを起こす直前だけだ。
「いいから歩きなさい。倒れるなら、せめて日陰で倒れなさいよ」
★★★★★★★★★★★
ログハウスの前の開けた場所には、すでに常連客たちが集まっていた。
「あー! ノーラ、またナオを独り占めして!」
縁側に置かれた巨大な手作りクッションから身を乗り出し、エミが白い狐の尻尾を逆立てて抗議の声を上げる。
その横では、シルフィとリヴィが呆れたようにため息をつきながら、木彫りのコップで冷たいお茶を飲んでいた。かまどの近くではベルが愛用の大剣の手入れをしており、アリスとモモは直樹がいつも座る切り株の特等席を巡って、互いに牽制し合っている。
いつもの、騒がしくも平和なリゾートの光景。現実の重圧から解放された、彼女たちだけの絶対的な安息の地。
「ナオ! 早くおやつにしてよ!」
「モモ、ナオに抱っこしてもらうの!」
口々に要求を投げかけるヒロインたちの声を聞き、直樹は安心したように少しだけ口角を上げた。
「……すまない、待たせたな。今日の飯は……」
直樹がノーラの支えから離れ、自力で一歩前に出ようとした、その瞬間だった。
ジジッ……!!
直樹のアバターに、激しいノイズが走った。
輪郭が赤いポリゴンのブロックに分解されかけ、システムエラーを知らせる不快な電子音が周囲に響き渡る。
「え……?」
アリスが目を見開いた。
直樹の体が、まるで操り糸を切られた人形のように、音もなく砂浜へと崩れ落ちた。
「ナオっ!!」
最も近くにいたノーラが手を伸ばしたが間に合わず、直樹はうつ伏せに倒れ伏した。
ログハウス前の空気が、一瞬にして凍りついた。海風の音だけが、異様に大きく聞こえる。
「ナオ!? ちょっと、どうしたの!」
エミがクッションから転がり落ちるようにして駆け寄ろうとするが、それよりも早く、凄まじい速度で動いた影があった。
ベルだった。彼女は褐色肌の女戦士のアバターのまま、しかしその瞳は完全に『天才外科医』のそれに変わっていた。
直樹の横に膝をつき、即座に仰向けに返す。首筋に指を当て、瞳孔を確認し、胸の動きに神経を集中させる。
「ベル! ナオはどうしたの!? ゲームのバグ!?」
シルフィが血の気を引かせた顔で問う。
「違う。アバターのダメージ判定じゃない。……呼吸が浅すぎる。脈拍も異常よ」
ベルの低く緊迫した声に、全員の息が止まった。
「VRのセーフティ機能が強制的に作動してるのよ。現実の肉体が、極度の睡眠不足と過労でショック状態に陥っている。脳の負荷が限界を超えたから、システムがこれ以上は危険だと判断して、意識を強制的に『セーフモード』に落として遮断したの」
「現実の……過労で……?」
リヴィが絶句する。
その時、直樹の傍らにしゃがみ込んでいたアリスが、空中に複数の半透明なウィンドウを猛烈な勢いで展開した。警察庁の特任顧問としての特権IDを使い、システムのプロテクトを物理的に破壊するような手荒なやり方で、直樹のダイブ環境のローカルログを強制的にぶっこ抜いたのだ。
膨大な文字列が、彼女の碧い瞳に反射して高速で流れていく。
「……バイタルが真っ赤。心室細動の一歩手前だわ」
アリスの声は、微かに震えていた。彼女は展開したウィンドウの一つ――ダークネス・システムズのサーバーへのアクセスログと稼働記録を、全員に見えるように空中に固定した。
「……私、金曜日にお兄ちゃんに現実で会ったの。ボロボロで、死にそうな顔してた」
アリスは日傘の柄を白くなるほど強く握りしめ、ギリッと奥歯を噛み鳴らした。
「あの会社、金曜日に監査が入ったのに、この週末の二日間……お兄ちゃん一人に、システムのダミー環境への移行とデータ偽装を全部押し付けてたのよ。お兄ちゃん、一睡もせずにそれを終わらせて……それでもシステムが止まらないように、一人で……」
アリスの言葉が、波の音だけが響く空間に重く落ちた。
「……そう」
シルフィが、静かに、ひどく冷たい声で呟いた。
彼女の手から、飲んでいた木製のコップが滑り落ち、砂浜で鈍い音を立てて転がった。中に入っていたお茶が、乾いた砂に黒い染みを作っていく。
「私たちが、法的な手順を踏んで、綺麗にあの会社を終わらせてあげようと手心を加えていた間に……彼らは、ナオの命を削って自分たちの保身を図ったのね」
世界的なIT企業のCEOである彼女の瞳からは、先ほどまでの穏やかな感情が一切消え失せ、絶対零度の怒りだけが静かに燃えていた。
「ええ。私たちの警告を無視したどころか、一番やってはいけない選択をしたわ」
リヴィが、腰に帯びた小太刀の柄に手を置きながら、氷のように冷たく言い放つ。国際弁護士としての理性が、完全に「害虫駆除」のモードへと切り替わっていた。
「本当に、滑稽ね」
直樹を支えきれなかった自分の両手を見つめ、ノーラが残虐に微笑んだ。
「私の最も価値ある宝物を壊しておいて、自分たちは明日も安全なベッドで眠れると思っているなんて。……更地にする準備はできているわ」
「許さない」
モモの背中から、純白の大きな羽が不気味なほど静かに広がった。
「モモからナオを奪う奴は、インフラごと全部止めてやる。日本という国から消してやる」
「社会のゴミは、ちゃんと炎上させて燃やし尽くさないとね。私のフォロワー数、舐めないでよね」
エミもまた、干物狐の皮を脱ぎ捨て、数千万の人間を動かすトップインフルエンサーとしての凄まじいオーラを放っていた。
ベルは意識を失った直樹の上半身を抱き起し、アリスの方を見た。
「ナオの現実の座標はわかるわね、アリス。私が財団の特権を使って、最高の医療チームを乗せた専用ヘリを今すぐ向かわせる。ナオの命は、私が絶対に繋ぐわ」
「……わかったわ。じゃあ、私はあの会社のサーバーを今から完全にロックする。隠蔽しようとしていた脱税も横領の証拠も、全部警察のメインサーバーに直接ぶち込んでやる」
アリスの冷酷なハッカーとしての目が、青白い光を帯びていた。
「あいつらを潰すのは、あなたたちに任せていいわね?」
ベルの問いかけに、シルフィが代表して頷いた。
「ええ。明日の朝……あの『ダークネス・システムズ』という会社が、この世に存在したという痕跡すら残さないわ」
彼女たちの視線の先では、静かな波が白い砂浜を洗い続けている。
どこまでも続く青空の下、一定のリズムを刻む波の音だけが、ただ静かに響き渡っていた。




