第20話 狂騒の週末と、金髪の迷子
金曜日の午後8時。
ダークネス・システムズのオフィスは、もはや戦場というより沈没しかけた難破船の様相を呈していた。
空気は澱み、数日洗われていないスーツのにおいと、大量に消費されたエナジードリンクの甘ったるい匂いが混ざり合っている。
グローバル・ネットワークスによる突然の契約凍結と監査、そして労基署の立ち入り検査。さらにメインバンクの融資引き揚げ検討という致命的な情報が社内に漏れ伝わり、現場の空気は完全に死に絶えていた。若手社員たちはモニターに向かってはいるものの、もはや意味のあるコードを書いている者は皆無に等しい。誰もが己の身の振り方を検索するか、隠れて転職サイトを眺めるかのどちらかしかしていなかった。
そんな泥舟と化したフロアの中央で、杉本直樹はただ一人、自席のモニターに向かって淡々とキーボードを叩いていた。
視線の先にあるのは、複雑に絡み合った非同期処理のコード群だ。外部からのシステム遮断というイレギュラーな事態に対し、彼が担当していたモジュールの隔離とエラー回避のプログラムを走らせる。
「……よし、これで非同期処理のテストは完了だ」
直樹はエンターキーを静かに押し、小さく息を吐いた。今週彼に割り当てられていた正規のタスクは、これで完全に終了した。これ以上の残業は、ただでさえ目をつけられている労基の監査において命取りになるはずだった。PCをシャットダウンし、デスクの横に置いていた鞄を手にして立ち上がる。
「お疲れ様です。お先に失礼します」
機能していないフロアに向かって短く声をかけ、出口へと向かいかけた直樹の背中に、濁りきった怒声が叩きつけられた。
「待て! 杉本!!」
佐々井部長だった。目の下には真っ黒なクマを作り、何日も洗っていないであろう髪は脂でべっとりと張り付いている。血走った目は完全に常軌を逸しており、手には分厚い仕様書とアクセスログのファイルが握られていた。
「どこへ行く気だ。仕事はまだ山ほどあるだろうが!」
「私の担当タスクは先ほど共有サーバーにアップしました。今日は定時をとうに過ぎています」
「定時だと!? 会社が明日潰れるかもしれないって時に、お前は自分だけ逃げる気か!」
佐々井がドスドスと床を強く踏み鳴らしながら歩み寄り、直樹の胸ぐらを掴もうと手を伸ばす。直樹はそれを半歩下がって冷静に躱し、冷ややかに見据えた。
「会社が潰れるのは私のせいではありません。事ここに至ったのは経営と管理の責任です。私はエンジニアとしての契約を果たしています」
「理屈をこねるな!!」
佐々井の怒声がフロア中に響き渡る。キーボードを叩くふりをしていた社員たちの肩がビクッと跳ねたが、誰もこちらを見ようとはしなかった。
「いいか! 月曜日の朝までに、グローバル・ネットワークスの現行システムを旧サーバーから完全に切り離し、ダミーのクリーンな環境に移行させろ! 監査チームに、これまでのバグだらけの履歴と超過残業のアクセスログを見られるわけにはいかないんだよ!」
直樹は、あまりの要求に小さくため息をついた。
「……つまり、監査の目を誤魔化すための隠蔽工作と、それに伴うインフラの全面移行を、この週末の二日間で私一人にやれと?」
「そうだ! お前が組んだシステムだ、お前ならできるだろ!」
「物理的に不可能です。サーバーの切り離しだけでも通常ならチームを組んで一週間はかかる。それに、そんな突貫工事でフロントをすげ替えれば、月曜日の稼働時に必ずトランザクションの不整合が起きます。データが欠損し、システムが止まる」
「止まらせるな!!」
佐々井の口から飛沫が飛ぶ。
「もし月曜にシステムが止まれば、先方の損害賠償でうちは即死だ! 下請けも孫請けも全部飛ぶぞ! 何百人もの人間が路頭に迷うんだ、お前がやらなくてどうする!!」
卑劣な論理だった。会社を危機に陥れたのは自分たちの無能と隠蔽体質であるにもかかわらず、「無関係な人間への被害」を盾にして、直樹の良心と責任感を縛り付けようとしている。
直樹は、佐々井の脂ぎった顔を数秒間見つめた。
怒りよりも先に、深い徒労感が足元から這い上がってくる。ここで断って帰ることは簡単だ。「労基に駆け込む」と一言言えば、佐々井は何も言えなくなるだろう。だが、自分がこのシステムの心臓部を放り出せば、現場でシステムを使っている無数の末端ユーザーや、何も知らない下請けのエンジニアたちが月曜日の朝に地獄を見ることになる。彼らのシステムが停止すれば、医療機関の予約システムや物流の配送網の一部までが連鎖的にストップする。
(……俺の代わりなんて、いくらでもいるはずなんだけどな)
直樹は鞄をデスクの上に置き、ゆっくりとジャケットを脱いだ。
「……月曜の朝8時までに、新環境での稼働を保証します。ただし、データ移行中のエラーには一切責任を持ちません。それが飲めないなら帰ります」
「最初からそう言えばいいんだよ!」
佐々井は安堵と狂気が入り混じった笑みを浮かべ、直ぐに他の若手社員へ向かって「おいお前ら! 杉本のサポートに回れ! 今すぐダミーのログを抽出して……」と別の怒号を飛ばし始めた。
直樹は再びPCの電源を入れ、黒い画面に向き直った。
そこから始まったのは、VRで得た活力を全て前借りで使い潰すような、純粋な命の削り合いだった。
★★★★★★★★★★★
土曜日の午後2時。
夏の強烈な日差しが、アスファルトの照り返しとなって直樹の網膜を容赦なく焼いた。
徹夜でのデータ移行作業を強引に終わらせ、どうにかシステムが止まらない最低限のバイパスを構築し終えた直樹は、フラフラとした足取りでアパートへと向かっていた。
脳は酸欠を起こしたように痺れ、視界のピントがうまく合わない。数日前の、あの健康的な血色を取り戻していた大人の男の姿は見る影もなく、目の下には再び深いクマが刻まれ、無精髭が顎を覆っていた。
アパートに帰り着くと、玄関先でこむぎが「きゅう、きゅう」と不安げに鳴いて直樹の足元にまとわりついてきた。
「悪い……遅くなったな」
直樹はしゃがみ込もうとして、そのまま膝から崩れ落ちそうになるのを壁に手をついて堪えた。こむぎの餌皿が完全に空になっている。水はかろうじて残っていたが、ストックのドッグフードも昨日で切れていたことを思い出した。
「……買いに行かないと」
ベッドに倒れ込みたいという身体の悲鳴を無視し、直樹は再び外へ出た。
近くのホームセンターでドッグフードとペットシートを買い、レジ袋を提げて歩く帰り道。
公園の横を通りかかった時、直樹の足が限界を迎えた。足首から先の感覚がなくなり、膝がカクンと折れ曲がる。
「少し……休むか」
木陰にあるベンチに、糸が切れたように座り込む。
セミの鳴き声が、遠くのノイズのように耳の奥で反響している。目を閉じると、このまま意識が溶けてなくなりそうだった。
(帰って、こむぎに飯をやって……あの島に……)
「――ねえ。隣、座ってもいい?」
不意に、上から澄んだ声が降ってきた。
直樹が重い瞼を少しだけ開けると、強烈な逆光の中に、一本の黒い日傘が見えた。
日傘の下には、高校の制服を着崩した金髪の少女が立っていた。西洋の血を引いているような、人形のように整った顔立ち。だが、その瞳には年齢にそぐわない、冷たく見透かすような知性が宿っている。
「……ベンチは誰のものでもない。好きにしろ」
直樹はそれだけ言うと、再び目を閉じて首を後ろに反らせた。
水野亜紀は、日傘を畳んで直樹の隣に腰を下ろした。
彼女は昨日から、警察庁の特任顧問の権限を私的流用し、直樹の会社のサーバーに対する異常なアクセスログをリアルタイムで監視していた。金曜の夜から土曜の昼にかけて、たった一つのIDが、狂ったような速度でシステムの全面移行をたった一人で完遂させたのを見届けていた。信じられないほどの最適化されたコードと、一度のミスもないタイピングの痕跡。
(本当に、バグみたいな処理能力。……でも、人間は機械じゃないのよ)
亜紀は、隣で浅い呼吸を繰り返している男の横顔を見つめた。
VRの島で、自分に「夜更かしは体に悪い」と呆れながらも温かいオムライスを作ってくれた、あの落ち着いて精悍な大人の男の面影はどこにもない。そこにあるのは、ただ無能な大人たちに都合よく搾取され、今にも消え入りそうな命をすり減らしている一人のボロボロの労働者の姿だった。
亜紀の胸の奥で、経験したことのない種類の怒りがチリチリと音を立てて燃え上がった。
「ねえ、お兄ちゃん」
亜紀はわざと、あの島で彼を呼んだ時と同じトーンで声をかけた。
直樹が薄く目を開ける。
「……俺は君の兄貴じゃないぞ。迷子か?」
その言葉に、亜紀は少しだけ目を丸くした。
こんな限界の状態で、得体の知れない女子高生に声をかけられて、最初に出る言葉がそれなのか。警戒よりも先に、相手の心配をする。
「迷子じゃないわ。でも……お腹空いちゃった」
亜紀は直樹のシャツの袖を軽くつまみ、クイクイと引っ張った。
「なんか奢って。あそこのファミレスでいいから」
「……警察に行くか、親に電話しろ」
「親なんていないもん。いいから、行こう? ね?」
強引に引っ張られ、直樹はため息をつきながらよろよろと立ち上がった。相手にする気力もないが、こんな危なっかしい子供を放置して帰ることも、彼にはできなかった。
★★★★★★★★★★★
ファミレスの冷房が、熱った直樹の身体を急激に冷やしていく。
向かいの席では、亜紀が運ばれてきたオムライスをスプーンで器用に崩しながら食べていた。直樹は運ばれてきたアイスコーヒーのグラスに手を添えたまま、その様子をぼんやりと眺めていた。
「お兄ちゃんは食べないの? 死にそうな顔してるよ」
「……コーヒーだけでいい。胃が受け付けない」
直樹が低く呟くと、亜紀はオムライスを口に運びながら、じっと直樹の目を見つめた。
「お兄ちゃん、オムライス作れる?」
「……まあ、作れるが」
「ふーん。今度、私にも作ってよ。すごく美味しいやつ」
直樹はグラスに結露した水滴を指で拭いながら、目の前の少女に、なぜかあの島で出会った日傘の吸血鬼の姿を重ねていた。言葉遣いも、少し生意気な態度も、どこか似ている。
「……なんだか、知り合いの子供に似てるな」
「へえ。その子も私みたいに可愛かった?」
「ああ。生意気で、よく食う子供だった」
直樹が少しだけ口角を上げてそう言うと、亜紀の頬がほんのりと赤く染まった。
「……生意気は余計よ」
亜紀はスプーンを置き、グラスの水を一口飲んだ。そして、冷徹なハッカーとしての顔を覗かせた。
「ねえ。そんなにボロボロになるまで働いて、何になるの? 仕事なんて辞めちゃえばいいのに。お兄ちゃんの能力なら、どこだってやっていけるでしょ」
「……能力の問題じゃない。俺が今投げ出せば、システムが止まって、無関係な奴らが割を食う。それだけだ」
直樹の言葉は、自己犠牲という高尚なものではなかった。ただ、自分の手が届く範囲のものを理不尽に壊したくないという、純粋な職人の矜持だった。
亜紀はテーブルの下で、自分のスカートの裾をきつく握りしめた。
この男の優しさや責任感につけ込んで、ギリギリまで搾取する。あの佐々井という男も、ダークネス・システムズという会社も。
(……絶対に許さない。私のお兄ちゃんを、こんなにボロボロにした連中)
亜紀の脳内で、とある「処刑」のプロセスが完璧に組み上がった。ダークネス・システムズの隠蔽工作を白日の下に晒し、完全に息の根を止めるためのスクリプト。彼女の手にかかれば、月曜の朝を待たずにあの会社を社会的に抹殺することなど造作もなかった。
「ごちそうさま。美味しかったわ」
亜紀は立ち上がり、直樹に向かってニッコリと笑った。それは、年齢相応の無邪気な少女の笑顔だった。
「お兄ちゃん、ゆっくり休んでね。……お兄ちゃんの会社、来週にはもう、お兄ちゃんが心配しなくてもいいようになってるかもしれないから」
「……ん?」
直樹が眉をひそめる前に、亜紀は日傘を手にしてクルリと背を向けた。
「じゃあね、ナオお兄ちゃん」
ファミレスの自動ドアが開く音と共に、その言葉が直樹の耳に届いた。
直樹はハッとして顔を上げたが、外の眩しい日差しの中に、少女の姿はもう見えなかった。
「……今、ナオって……」
疲労で回らない頭でその意味を考えようとしたが、限界を迎えた脳はすぐに思考を放棄した。気のせいだ。そう結論づけ、伝票を手に取りふらつく足でレジへと向かう。
アパートに帰り着き、待ちわびていたこむぎの皿にドッグフードと水を流し込む。こむぎが勢いよく食べ始めるのを確認した後、直樹はベッドの傍らに倒れ込んだ。
シャツを脱ぐ気力すらなく、靴下を半分脱ぎかけた状態で、ただ手を伸ばして黒いVRヘッドギアを頭に被る。
現実の泥沼から逃れるように。あの静かな波の音と、温かい飯を待ってくれている彼女たちのいる場所へ。
「……リンク、スタート」
掠れた声と共に、直樹の意識は深い暗闇の中へと落ちていった。




