第19話 舞い降りた籠の鳥と温かいシチュー
「あー、最高! 潮風と太陽、それにナオのエスコート! 完璧なデートだわ!」
どこまでも続く青空の下。波の音が遠く聞こえる島の高台を歩きながら、イザベラ・バルガス――ベルは、褐色肌の豊かな胸を張って上機嫌に笑い声を上げた。
足元の柔らかな草が風に揺れ、海から吹き上げる風が微かな潮の香りを運んでくる。
ワイルドな革製のビキニアーマーを身に纏った彼女は、直樹の右腕にこれ見よがしに自分の腕を絡ませ、ぴったりと密着して歩いていた。
「だから、デートじゃない。岩塩の採掘と、新しい香草の探索だ」
直樹は鬱陶しそうに腕を軽く振ったが、ベルは「はいはい、そういう照れ隠しもセクシーよ、アミーゴ」と全く意に介さず、さらに腕の力を強めてきた。
数日前、アリスが強引に直樹を街へ連れ出したことを知ったヒロインたちの間では、密かな『デート権』の争奪戦が勃発していた。今日は、現実世界で数時間に及ぶ難易度の高いVIPの緊急手術を成功させ、文字通り極度のプレッシャーから解放されたばかりのベルが、「私へのご褒美だ!」と半ば強引に直樹の素材集めについてきたのだった。
「でも、ナオとこうして2人で歩いてるだけで、すっごく癒やされるわ。現実じゃ、私の周りはモニターの警告音と、血の匂いと、絶対にミスが許されないプレッシャーばかりだもの」
ベルは少しだけ目を細め、胸いっぱいに新鮮な空気を吸い込んだ。
「何十時間も立ちっぱなしで、1ミリのミスも許されない神経戦。終わった後は泥みたいに眠るだけ。……だから、こういうゲームの中でくらい、イケメンとイチャイチャして美味しい空気吸わないと、自分が壊れちゃいそうになるのよね」
直樹は歩みを止めず、ただ静かに頷いた。
「医者なんて代えのきかない仕事、俺には絶対に無理だな。あんたはすごいよ」
直樹の淡々とした、しかし本心からの言葉に、ベルのラテン系の大きな瞳がパァッと輝いた。
「なにそれ! 今のプロポーズ!? いいわよ、今すぐ私の財団の顧問シェフになって! 毎日タコス焼いて!」
「タコスは毎日食うもんじゃない。塩分過多だ」
「もう、ナオってば本当に……ん?」
直樹の腕に抱きついていたベルが、ふと空を見上げて動きを止めた。
直樹もつられて視線を上げる。
抜けるような青空のキャンバスに、不自然な白い点が一つ浮かんでいた。
風に流される海鳥かと思ったが、違う。それは急速に高度を下げ、直樹たちがいる高台の奥、森の入り口付近へと向かって真っ直ぐに落ちてきていた。
「モンスターか!?」
ベルの目の色が、恋する乙女から一瞬で歴戦の戦士のそれに変わる。背負っていた身の丈ほどもある巨大な両刃剣の柄に手をかけ、いつでも抜けるよう腰を落とした。
「いや、違う。……人だ」
直樹の目に、白いドレスの裾と、バタバタと不規則にもがく『羽』のようなものが見えた。
直後のことだった。
ドザザァァッ!!
森の境界にある手付かずの茂みに、その白い影が激しく墜落し、土煙と木の葉を盛大に巻き上げた。
「行くぞ!」
直樹は走り出し、ベルも剣から手を離して後に続いた。
土煙が晴れた茂みの中に倒れていたのは、一人の女性プレイヤーだった。
風通しの良いふんわりとした白いワンピースを着ているが、所々が破れ、泥で汚れている。そして何より目を引いたのは、彼女の背中から生えている、純白の大きな二枚の羽だった。
「有翼人……天使の種族か」
ベルが驚いたように呟く。
女性の顔立ちは、ため息が出るほど美しかった。西洋の血を引く、愛らしくもゴージャスな造作。だが、その頭上に浮かぶHPバーは墜落のダメージで大きく削れ、黄色から赤へと点滅しようとしていた。
背中の右側の羽が、不自然な角度に折れ曲がっている。システム上、重度の骨折判定が出ているのだろう。
直樹が駆け寄り、片膝をついて彼女の肩に手をかけようとした瞬間。
「……触れないで、ください」
掠れた、しかし酷く冷たく感情の抜け落ちた声がした。
女性はゆっくりと目を開けた。その瞳には、怪我の痛みによる苦痛も、助けを求める色も一切ない。ただ、虚無だけが広がっていた。
「見苦しいところを、お見せしました。……不手際を、詫びます。すぐにログアウトしますので、お気になさらず」
痛むはずの身体を無理やり動かし、彼女はまるでプログラミングされた機械のように、無表情のまま立ち上がろうとした。
「動くな。ダメージエフェクトが深くなるぞ」
直樹が彼女の肩を強めに押さえ、地面に横たわらせた。
「無礼な……! 私の身体に、気安く……っ」
「ここはゲームだ。だが、その痛覚設定のまま無理に動けば、現実の脳にも痛みの錯覚が残る。黙って寝てろ」
直樹は彼女の冷ややかな拒絶を完全に無視し、インベントリを開いた。
木の枝を適切な長さに削り出し、初期装備の布を細長く裂いて包帯の代わりにする。
「ベル、少し手伝ってくれ。羽の付け根を固定する」
「え、ええ。任せて。……右の肩甲骨付近から生えている基部ね。神経系へのダメージ判定が強そうだから、そこはあまり強く縛らない方がいいわ。私が角度を調整するから、ナオは固定をお願い」
天才外科医であるベルが、ゲームのシステム挙動と人体の構造を加味した的確なサポートに入る。
直樹は一切の無駄がない手つきで、折れ曲がった羽に添え木を当て、布でしっかりと固定した。さらに、擦りむいていた足首も真水で洗い流し、適切な処置を施していく。
「……ナオ。あなた、本当に手際がいいわね。惚れ直したわ」
ベルが感心したように口笛を吹く。
「システムのアシストが優秀なだけだ」
直樹は処置を終えると、そのまま女性を軽々と両腕で抱え上げた。
「なっ……下ろしなさい! 私は……!」
「ログハウスに運ぶ。ベル、今日の採掘は中止だ。悪いな」
「気にしてないわよ。怪我人優先は医者の鉄則だからね。それに、採掘なんかよりずっと面白……ゲフン、重要な事態だし」
直樹に抱きかかえられた女性――桜井元子は、直樹の横顔を、呆然と見つめていた。
(この男……私が誰だか、わかっていないのですか……?)
桜井財閥の現当主として、常に他人の打算と恐怖の視線に晒されてきた彼女にとって、ただ「怪我をして動けないドジなプレイヤー」を運ぶだけの、この男の裏のないフラットな気遣いは、ひどく奇妙に思えた。
彼の腕は力強く、歩みは安定している。現実世界で常に周囲を取り囲む屈強なSPたちとは違う、ただの一人の人間としての静かな温もりがそこにあった。
★★★★★★★★★★★
ログハウスのベッドに元子を寝かせると、直樹はすぐにかまどに火を入れた。
「HPの回復には、温かいものが一番だ。胃の負担にならないものにする」
直樹はインベントリから、昨日捕まえて解体しておいた野鳥の肉と、玉ねぎ、そしてじゃがいもに似た根菜を取り出した。
玉ねぎを薄切りにし、根菜を乱切りにする。
石鍋を熱し、バターの代わりになる動物性の脂を落とすと、ジューッという心地よい音とともに甘い香りが立ち上った。
そこへ一口大に切った肉と根菜を入れ、木べらで丁寧に炒めていく。玉ねぎが透き通り、肉の表面に焼き色がついたところで、小麦粉の代用品を振り入れて粉気がなくなるまで炒める。
焦がさないように火加減を調整しながら、少しずつ木の実から絞ったミルクを加えて伸ばしていく。
とろみがつき、鍋の中でフツフツと温かな気泡が弾ける。
最後に、先ほど採掘する予定だった岩塩のストックと、微かなハーブで味を調える。
わずか十数分の間に、ログハウスの周囲には、濃厚で優しいホワイトシチューの香りが漂い始めていた。
「……いい匂いね。デートのフレンチより、こっちの方がずっと最高だわ」
縁側に腰掛けていたベルが、鼻をヒクヒクさせて笑う。
直樹は木製の深皿に熱々のシチューをたっぷりとよそい、木のスプーンを添えてベッドの元子のもとへ運んだ。
「食えるか。熱いから気をつけてな」
直樹が差し出したシチューを、元子はベッドの上で半身を起こし、警戒に満ちた目で見つめた。
「……毒見は、済んでいるのですか」
その言葉に、直樹は呆れたように大きなため息をついた。
「あんたもノーラと同じこと言うんだな。ここはPK禁止エリアだ。わざわざ手間暇かけて作った飯に、毒なんて盛る趣味はない」
「ですが……私は、あなたに何も対価を支払えません。私に何か恩を売ろうとしても、無駄です」
「対価? ただの怪我した女の子を助けるのに、見返りなんて求めるほど俺は暇じゃない。冷める前に食え」
直樹は木のスプーンを元子の手に無理やり握らせると、さっさと背を向けてかまどの片付けに戻ってしまった。
元子は、手の中の温かい深皿と、直樹の無防備な広い背中を交互に見つめた。
(ただの、怪我した女の子……?)
現実で、彼女をそう呼ぶ人間は一人もいなかった。
常に「当主様」「御前」と呼ばれ、彼女自身を見る者など誰もいなかった。
元子は震える手でスプーンを持ち、とろりとしたシチューをすくって、そっと口に運んだ。
「……っ」
瞬間。元子の瞳孔が大きく見開かれた。
ミルクの深いコクと、溶け出した根菜の優しい甘み。野鳥の肉は驚くほど柔らかく、噛むほどに旨味が口いっぱいに広がる。
それは、栄養とカロリーを計算されただけの無味乾燥な食事とも、権力を誇示するための一流シェフによる冷え切ったコース料理とも違う。
ただ、怪我をした人間を温めたいという、純粋な気遣いだけが煮込まれた味。
「あ……」
元子の銀色の瞳から、ポロリと、大粒の涙がこぼれ落ちた。
「おいしい……。なにこれ、すごく、おいしい……」
張り詰めていた心の糸がぷつりと切れ、抑え込んでいた感情が堰を切ったように溢れ出した。
「うっ、ひぐっ……あぁぁっ……!」
元子はシチューの皿を持ったまま、子どものように声を上げて泣き始めた。
ずっと押さえつけていた孤独や、誰にも甘えられなかった寂しさ。それらが温かいシチューと共に胃の腑へ落ちていくと、代わりに行き場を失っていた感情がとめどなく涙となって流れ落ちていく。
「おいおい、そんなに熱かったか?」
驚いて振り返った直樹が駆け寄る。
だが、元子は首を横に振り、スプーンを口に運び続けた。涙と鼻水でぐしゃぐしゃになった顔で、火傷しそうなほど熱いシチューを無我夢中で飲み込んでいく。
「あ、慌てて食うな。おかわりならあるから」
直樹が背中を優しくさすってやると、直樹の手のひらから伝わる確かな温もりに、元子の身体の奥底で、完全に死んでいたはずの『20歳の女の子』の自我が、爆発的な音を立てて目を覚ました。
最後の一口を飲み込んだ元子は、皿を放り出し、そのまま直樹の首に両腕を回して勢いよく飛びついた。
「ナオぉぉっ!!」
「わっ! おい、危ないだろ!」
「モモね、これ大好き! おいしい! ナオのこと、だぁーい好き!!」
元子――アバター名『モモ』の背中から、純白の大きな羽がブワッと広がり、直樹の身体をすっぽりと包み込んだ。
そこにはもう、感情を殺した氷のような少女の面影は微塵もなかった。
モモは直樹の胸に顔をぐりぐりと押し付け、天使のような極上の笑顔を咲かせた。
「モモ、もうどこにも行かない! ずっとここで、ナオのご飯食べる! ナオのお嫁さんになるの!!」
その宣言が響き渡った瞬間。
「――はぁっ!?」
縁側から、ベルのドス黒い怒声が飛んできた。
「ちょっと! デートの途中で助けてあげたのに、恩を仇で返す気!? ナオは私の顧問シェフよ! 泥棒猫ならぬ泥棒鳥!!」
ベルがズンズンと足音を立ててログハウスに乗り込んでくる。その手は背中の大剣の柄をしっかりと握りしめていた。
「ちがうもん! ナオがモモを助けてくれたの! だからモモはナオのものなの!」
モモは直樹の背中にしがみついたまま、ベルに向かって「あっかんべー」と舌を出した。
「このっ……! 綺麗に毛を毟って、そのかまどで焼き鳥にしてやるわ!」
「ちょっと待て、ベル、剣を抜くな! モモ、羽が顔に当たって前が見えない! 離れろ!」
直樹が悲鳴を上げる中、平和だったはずのログハウスは、肉食系の女戦士と限界突破した有翼人の、熾烈な縄張り争いのリングと化していた。
(……この島、どうして極端な奴ばかり集まってくるんだ……)
直樹は羽の感触に窒息しそうになりながら、現実のブラック企業とはまた違ったベクトルの疲労を感じ、心の中で深い深いため息をついた。




