第18話 ハッカー少女の侵入と秘密の街角デート
「……ちょっと、待ちなさいよ」
絞り出すような声には、いつもの冷ややかな嘲笑はなかった。
かまどの前で、残った炭火を火箸で均していた直樹は、手を止めることなく背後からの声を聞いた。
アリスは日傘の柄を両手で強く握りしめたまま、直樹の無防備な背中を見つめている。彼女の小さな肩は、微かな緊張で強張っていた。
「私が誰だか分かってるの? あなたのそのガバガバなセキュリティのログから、現実のIPアドレスだって……」
「誰だっていい」
直樹は振り返りもせず、灰を完全に被せて火の始末を終えてから、淡々と遮った。
「人の拠点に勝手に入り込むのは感心しないが、ここはゲームだ。そういう遊び方をする奴もいるだろう。だがな」
直樹は立ち上がり、パンッと両手についた灰を払ってから、傍らに立つ小柄なアバターを静かに見下ろした。
「こんな深夜にうろつくのは感心しない。明日も学校があるんだろ。親が心配するぞ」
「おや、が……?」
アリスの目が、信じられないものを見るように見開かれた。
この仮想空間において、どんな強固なプライベートエリアであっても、彼女の特権IDと技術をもってすれば紙切れを破るよりも容易く侵入できる。その事実に対する驚きや怒り、あるいは背後にある未知の技術力への警戒――彼女がこれまで接してきた大人たちが向けるお決まりの反応を、この男は一切示さなかった。
ただ目の前にいる小柄なアバターを、「夜更かししている子供」としてしか見ていない。
「親なんて……私には関係ないわ。あいつらは私を……」
アリスが言い淀んだ時、ぐぅぅ、と小さな音が、波音だけが響く静かな砂浜に鳴った。
アリスのアバターの腹の虫だ。
彼女の白い頬が、カーッと赤く染まる。
直樹は小さく息を吐き、首の後ろを掻いた。
「夕飯、食いそびれたのか」
「ち、違うわよ! これはシステムのバグで……!」
「そこに座ってろ」
直樹はアリスの言い訳を無視し、先ほど始末したばかりのかまどに再び新しい薪をくべた。
インベントリから、昼間に森で採集しておいた野鳥の卵と、トマトによく似た赤い果実を取り出す。
石鍋で果実を丁寧に煮詰め、岩塩と少しの甘い樹液を加えて特製の即席ケチャップを作る。ぐつぐつと煮える音と共に、爽やかな酸味と甘い香りが周囲に漂い始めた。
別のフライパン代わりの石板を熱し、細かく刻んだ鳥肉と玉ねぎ代わりの根菜を炒める。ジューッという小気味良い音と脂の跳ねる音が鳴り、そこに炊いておいた白飯と先ほどのケチャップを合わせてチキンライスを手早く仕上げていく。
最後に、溶いた卵を別の熱した石板に流し込み、半熟の状態でチキンライスの上に滑り込ませた。
ナイフの先端で卵の表面にすっと切れ目を入れると、トロリとした黄金色の中身が花開くようにライスを包み込む。
さらに、別の小鍋で木の実から絞ったミルクを温め、カカオに似た豆の粉末を溶かし込んだ。
この間、わずか数分。長年の社畜生活で培われた「無心でタスクを並行処理する」スキルは、料理においても一切の無駄を排除し、流れるような手際を実現していた。
「食え」
縁側に座って所在なげに日傘をいじっていたアリスの前に、木の盆が置かれた。
湯気を立てる色鮮やかなオムライスと、甘くホッとする香りのする温かいココア。
アリスは警戒するように目を細めた。
「……私に毒を盛って、アカウントをハックするつもり?」
「お前の頭の中では、世界中が敵で溢れてるのか。冷める前に食え。食ったら寝ろ」
直樹はそれだけ言うと、アリスから視線を外し、今度こそ本当に火の始末を終えてログハウスの壁にもたれかかった。
アリスは、目の前のオムライスと直樹を交互に見つめ、やがて恐る恐る木のスプーンを手に取った。
卵とチキンライスをすくい、小さく口に運ぶ。
「……っ」
卵の濃厚な甘みと、自家製ケチャップの爽やかな酸味が口いっぱいに広がる。チキンライスの香ばしさが後を引き、噛むほどに鳥肉の旨味が溢れ出した。
(美味しい……)
今まで誰も自分自身のことなど見ようとしなかったのに、この見ず知らずの男は、こんな夜更けに温かい食事を当たり前のように差し出してきた。
温かいココアを一口すすると、深いコクと甘みが、極度に張り詰めていた脳の神経をじんわりと解きほぐしていく。
アリスは無我夢中でオムライスをかき込みながら、視界がじんわりと歪んでいくのを感じた。
「……お兄ちゃん」
空になった木の盆にスプーンを置いたアリスが、掠れた声で呟いた。
直樹が怪訝そうに眉を寄せる。
「なんだ」
「お兄ちゃん、これ、すごく美味しい。……アリス、もっと食べたい」
アリスは日傘を放り出し、直樹の足元に駆け寄ってそのズボンの裾をぎゅっと掴んだ。上目遣いで見上げてくるその瞳には、子どもらしい無防備な甘えが宿っていた。
直樹は少し驚いたように目を瞬かせたが、やがて大きなため息をついた。
「……食べすぎは胃にもたれる。続きはまた今度だ。今日はもうログアウトして寝ろ」
「また、来てもいい……?」
「人の睡眠時間を削らない程度にな」
直樹のぶっきらぼうな、しかし拒絶しない言葉に、アリスはパッと顔を輝かせた。
「うん! おやすみなさい、お兄ちゃん!」
光の粒子となってアリスが消えた後、直樹は空になった木の盆を片付けながら首を傾げた。
「変なガキに絡まれたな……」
★★★★★★★★★★★
数日後の、休日の昼下がり。
直樹がログハウスの前で、新しい釣り竿の浮きの位置と糸の結び目を無心で調整していると、ログインエフェクトの眩い光が弾け、エミが現れた。
いつもなら、だるそうなスウェット姿で「ナオ〜、おやつ〜」と巨大なクッションにダイブしてくるところだが、今日のエミは違った。
初期装備の布をベースにしながらも、染色アイテムで淡い水色に染め上げられた、清楚で可愛らしいワンピース。頭にはつばの広い麦わら帽子を被っている。自慢の白い尻尾はスカートの中に無理やり押し込んでいるのか、背面の布地が不自然にこんもりと膨らんでいた。
「ナオ! お待たせ!」
「……なんだ、その格好は」
直樹が手を止めて見上げると、エミは得意げにその場でくるりと回った。ワンピースの裾がふわりと広がる。
「今日はデートよ! ずっとこの島に引きこもってるのも飽きたし、NPCの街に出かけましょう!」
「デートって……お前、尻尾が隠しきれてないぞ」
「いいのよ、街は色んな種族のプレイヤーがいるんだから。それより、美味しいクレープの屋台があるって聞いたの。ほら、行くわよ!」
エミは強引に直樹の腕を引き、インベントリから取り出した『転移結晶』を高く掲げた。
直樹も、最近料理のバリエーションを増やすために塩以外の調味料や香辛料の種を探していたところだった。
「まあ、いいか。少し買い出しに付き合え」
光に包まれ、二人の姿が波音の響く島から消える。
ワープアウトした先は、大陸の中央にある大規模な商業都市だった。
石畳の巨大な広場を中心に、無数の露店やレンガ造りの店舗が立ち並んでいる。金属鎧のすれる音、布擦れの音、NPCの呼び込みの声、そして様々な食べ物の匂いが混ざり合い、多種多様なアバターのプレイヤーとNPCがせわしなく行き交っていた。
島での静寂にすっかり慣れていた直樹にとって、その喧騒は少しだけ懐かしく、そして煩わしかった。
ふと隣を見ると、エミの様子がおかしかった。
先ほどまでの勢いはどこへやら、彼女は麦わら帽子を深く被り直し、直樹の背中に隠れるようにして、周囲の視線を怯えたように窺っている。
「……おい、どうした」
「えっ、ううん。なんでもないわ。ほら、あっちにクレープ屋さんが……」
エミの足取りは硬く、すれ違うプレイヤーがこちらを向くたびに、ビクッと肩を震わせ、直樹のシャツの袖口をきつく握りしめている。
直樹は小さく息を吐き、人混みの波が続く大通りから足を逸らした。
「こっちだ」
直樹がエミの手首を軽く引き、大通りから一本入った薄暗い裏路地へと向かう。
「え? ナオ、そっちじゃないわよ?」
「大通りは人が多すぎて歩きにくい。裏から回った方が早い」
直樹の言葉に、エミは少しだけ目を丸くしたが、すぐに彼の意図に気づいた。
路地裏に入ると、分厚いレンガの壁が音を遮り、喧騒は遠のいた。すれ違う人もまばらになり、石畳の隙間に生える苔が涼しげな空気を運んでくる。エミの強張っていた肩の力が、ゆっくりと抜けていくのがわかった。
「……ごめんなさい。せっかく来たのに」
「気にするな。俺も人混みは好きじゃない」
直樹は振り返らずに、エミの前を歩き続けた。その広い背中が、街の視線から彼女を完全に隠してくれている。
「ナオって、本当に……」
エミは帽子を少しだけ上げ、直樹の背中を見つめながら口元を綻ばせた。
「オカンみたいね」
「なんだそれは。荷物持ちの間違いだろ」
直樹の呆れたような声に、エミは声を出して笑った。
裏路地を抜けた先の小さな広場で、目的のクレープ屋台を見つけた。NPCが運営するその屋台で、エミはベリーとクリームがたっぷり乗ったクレープを、直樹はシンプルなシュガークレープを購入した。
広場の端にある、冷たい水を静かに吹き上げる噴水の縁に腰掛け、エミはクレープを大きな口で頬張る。
「んん〜っ! 美味しい! カロリーを気にしないで街角で甘いものを食べ歩きできるなんて、夢みたい!」
口の端にクリームをつけながら無邪気に喜ぶ姿は、ただの年相応の女の子だった。
「食ったらちゃんと口を拭けよ」
直樹がインベントリから取り出した布を渡すと、エミはそれを受け取りながら、少しだけ寂しそうな笑顔を見せた。
「……私ね、現実ではこんな風に外を歩けないの。いつも誰かに見られてて、勝手に評価されて。マネージャーからは『完璧な古川秀美でいなさい』って怒られてばかり」
エミは視線を落とし、クレープの包み紙を見つめた。
「だから、こうして何も気にせず、誰かと隣を歩けるのが、すごく嬉しい」
直樹は自分のクレープを最後の一口まで食べ終え、紙を丸めた。
「ここはゲームだ。現実のしがらみなんか持ち込むだけ損だ。食いたいものを食って、歩きたい場所を歩けばいい」
夕暮れのオレンジ色の光が、広場の石畳に二人の長い影を落としていた。
直樹のフラットな声に、エミは顔を上げた。
「俺はあんたが現実で何者だろうと興味はない。ただの、よく食う干物狐だ」
「ちょっと、干物狐ってなによ!」
エミが抗議するように直樹の肩をペシッと叩く。
「ナオは本当にデリカシーがないんだから。でも……」
エミは直樹の腕にそっと身を寄せた。
「そういうところ、嫌いじゃないわ」
静かな噴水の音が、夕暮れの空気に溶けていく。
「さて、スパイスの種も買ったし、帰るか。今日の夕飯はカレーにする予定だ」
「カレー!? やった! 私、絶対おかわりするからね!」
「はいはい。食いすぎには注意しろよ」
直樹がインベントリから転移結晶を取り出し、起動する。
転移結晶の光に包まれる瞬間、エミは直樹の腕に回した手に、さらにきゅっと力を込めた。




