第53話 VR世界の大型アップデート『新大陸の息吹』
初夏の少し湿った風が、網戸越しに6畳間へと吹き込んでいる。
部屋の片隅には、杉本直樹が釘や金具を一切使わず、伝統的な「ほぞ継ぎ」の技法のみで組み上げた真新しい白木の犬小屋が置かれていた。入り口から中を覗き込むと、チワワのこむぎが自分の体長の半分ほどもあるお気に入りのロープのおもちゃを抱え込み、安心しきった様子で丸くなっている。規則正しく上下する小さな背中と、時折「きゅう」と寝言のように漏れる鳴き声が、部屋の空気をどこまでも穏やかにしていた。
直樹は手持ちのマグカップから、丁寧にハンドドリップで淹れたコーヒーを一口飲んだ。苦味の奥にある深いコクが、休日の朝の静寂に心地よく染み渡る。
先日、水族館の青い光の中で見たクラゲの浮遊感と、亜紀が不器用に差し出してきたパフェの冷たい甘さが、まだ記憶の片隅に鮮明に残っている。
以前のように、泥のような疲労に塗れ、スマートフォンの着信音に胃を握り潰されていた日々は完全に過去のものとなった。現実世界での時間は、今は澄んだ小川のように、直樹の周りを静かに、そして確かに流れていた。
マグカップをローテーブルに置き、直樹はベッドに腰掛けて黒いVRヘッドギアを手に取った。
足元のこむぎを起こさないよう、静かに横たわる。
「リンク・スタート」
冷たい電子音と共に意識がデジタルの海へ沈み、次に視界が開けた時、直樹は満天の星空から降り注ぐような眩い光に包まれていた。
『――大型アップデート【新大陸の息吹】の実装が完了しました。新たな海域と、未知の大地が解放されます』
システムのアナウンスが空に溶けていくのと同時に、いつもの拠点の風景が少しだけ拡張されたように感じた。
ログハウスの前に広がるプライベートビーチ。そのずっと先、エメラルドグリーンの海面が続く水平線の彼方に、これまで存在しなかった巨大な陸地のシルエットがうっすらと浮かび上がっている。
「ナオ、遅いわよ」
縁側に腰を下ろしていた幸子――シルフィが、銀色の髪を夜風に揺らしながら微笑んだ。
彼女の周りには、すでに全員が揃っていた。巨大な大剣を背負い、ワイルドな革鎧に身を包んだベル。純白の羽をパタパタと揺らすモモ。自慢の尻尾を抱き枕のように抱えているエミ。ゴシックロリータ風のドレスを着て日傘を回すアリス。そして、薄着の双剣士姿でしなやかにストレッチをしているリヴィ。
さらに、波打ち際の浅瀬からは、美しい人魚の姿をしたノーラが尾びれでパシャパシャと水しぶきを上げながらこちらに手を振っていた。
「すごいわね、ナオ。あの水平線の向こう、完全に新しいエリアが生成されてるわよ。私のところの斥候部隊もまだ誰も足を踏み入れてない、完全な未踏破領域だわ」
シルフィが、現実世界の世界的IT企業CEOとしての分析力を垣間見せつつ、純粋なゲーマーのような顔で水平線を指差している。
「ああ。俺もさっきアップデート情報を読んだ」
直樹はインベントリを開き、使い慣れた石のツルハシと、採取用のカゴ、そしていくつかの調理器具を取り出して腰のベルトにしっかりと固定した。
「新しい鉱石や強力なモンスターが出るらしいが、俺の目的はそこじゃない」
「分かってるぜ。新しい食材と、建材だろ?」
ベルが豪快に笑いながら、自分の背丈ほどもある大剣を軽く肩に担ぎ直した。その口調には、現実の天才外科医としての張り詰めた緊張感はなく、バーサーカーとしての気風の良さが満ちている。
「そうだ。塩気を帯びた新種の香辛料と、水に強い広葉樹系の木材を探したい。あと、見たことのない魚介類がいれば最高だな」
「もう、ナオってば相変わらずブレないんだから」
モモがくすくすと笑いながら、空へ向けて大きく羽を広げた。
移動は、直樹が先日島で採集した木材を使って組み上げていた小型の帆船を使うことになった。帆を張り、舵を握る。システムのアシストを受けたとはいえ、風を的確に捉え、波を切り裂いて進むその船の挙動は驚くほどリアルだった。
小一時間ほど波を掻き分け、船は新大陸の白い砂浜に滑り込むように接舷した。
ザザーッという波音の奥、鬱蒼と茂る森からは、直樹たちの拠点がある島とは全く異なる、野性味の強くむせ返るような植物の香りと、聞いたことのない獣の低い鳴き声が漂ってくる。
「私は空から全体のマッピングをしてくるね!」
モモが羽を力強く羽ばたかせて上空へ飛び立つと、ベルとリヴィが前衛として武器を抜き、森の奥へ向かう。シルフィとエミ、アリスも後を追って、植物や鉱石の採取ポイントを探すため陸地の探索へと散っていった。
直樹は船のロープを太い流木にしっかりと縛り付けると、一人、岩場が続く入り江の方へと歩き出した。波が打ち寄せるたびに、ゴツゴツとした黒い岩肌から白い飛沫が上がる。
「私はこっちよ」
パシャリ、と波の音がして、ノーラが人魚の姿のまま浅瀬を並走してきた。
彼女は陸に上がれば人間の足に変えることができるが、水に浸かっている方がステータス補正も入り、何より彼女自身がこの美しい尾びれを持つ姿を気に入っていた。
「陸の探索はいいのか」
「私は森より海が好きだから。それに……」
ノーラは濡れた髪を無造作に掻き上げ、妖艶な笑みを浮かべた。
「たまには、ナオを独り占めする時間が欲しいの。アリスと現実で水族館デートなんて、抜け駆けにも程があるわ」
直樹は岩肌に張り付いた見慣れない海藻の匂いを嗅ぎ、手触りを確かめながら淡々と答えた。
「デートじゃない。PCパーツの買い出しのついでだ」
「ふふ、そういうことにしておいてあげる」
ノーラは尾びれを優雅に揺らしながら、直樹の少し先を泳いでいく。かつて現実世界の重圧や戦いの中にいた彼女が、ここでは一切の警戒を解き、ただ透き通る水と未知の景色に無邪気な声を上げている。
「ナオ、ちょっと来て! これ、見たことない貝よ!」
ノーラが浅瀬の岩陰を指差した。
直樹がズボンの裾を捲り上げて水に入ると、そこには赤紫色をした、大人の掌ほどもある巨大な二枚貝が群生していた。波が引くたびに、少しだけ殻を開いて中の管を出している。
直樹はナイフを取り出し、岩から貝を一つ慎重に剥がし取る。ずっしりとした重みがあり、表面の殻は複雑な模様を描いていた。
「……いけそうだな」
「食べる気? 毒があったらどうするのよ」
「システム上で採取可能アイテムとして認識されてる。それに、この匂い……アサリやハマグリに近い。間違いなく良い出汁が出るはずだ」
直樹はその場にある手頃な平らな岩を見つけ、インベントリから携帯用のかまどを取り出して素早く組み立てた。薪を組み、火打ち石で火を熾す。
小さなスキレットを火にかけ、そこに持参していた自家製バターをたっぷりと落とした。バターが熱で溶け、シュワシュワと泡立ちながら香ばしい匂いが立ち上ったところに、海水でさっと洗ったばかりの紫色の巨大な貝を並べる。
ジュワァァッ!
熱された貝の表面から海水が弾ける音が響く。直樹はそこに、拠点で作っておいた酸味の強い果実酒を少しだけ回し入れ、素早く木の蓋をした。
「……すごく、いい匂い」
ノーラが岩場に腕をつき、顎を乗せてスキレットを見つめる。その切れ長な瞳には、冷酷な女王としての光はなく、ただ純粋な食欲と好奇心だけが満ちていた。
数分後。
直樹が蓋を開けると、白い湯気と共に、暴力的なまでの濃厚な磯の香りと、バターの芳醇なコクが入り混じった匂いが弾け飛んだ。紫色の貝殻は見事にパカッと開き、中にはプリプリとした肉厚な身が、縮こまることなくぎっしりと詰まっている。沸騰する琥珀色のスープの中で、貝の旨味が凝縮されていくのが見て取れた。
直樹は最後に、先ほど岩場で見つけたレモングラスに似た香りのする新種の海草を細かく刻み、彩りと風味のアクセントとして散らした。
「食ってみろ。熱いから気をつけろよ」
直樹が木製のフォークで貝の身を刺し、少し冷ましてから差し出すと、ノーラは少し躊躇いながらも、大きく口を開けてそれを頬張った。
「……っ!」
瞬間、ノーラの目が丸く見開かれた。
「なにこれ……すごく、濃厚。バターの風味に全然負けてないわ。噛むほどに旨味が溢れてくるし、最後に乗せた海草の香りがすごく爽やか……!」
「新大陸の素材は、基礎パラメーターが高いみたいだな。元の旨味が強烈だから、変に味付けするより、シンプルな酒蒸しが一番合う」
直樹も一つ貝を口に運んだ。確かな弾力のある歯ごたえと、舌に絡みつくような貝特有の強烈な甘みが、果実酒の酸味と絶妙に調和している。残ったスープにバゲットを浸して食べたくなるような、完璧な仕上がりだった。
「……ナオ」
ノーラが、カラになった貝殻をそっと岩の上に置き、波に揺れる尾びれを止めて直樹を見上げた。
その表情からは、先ほどまでのからかうような余裕は消え、年相応の女性としての静かな熱が帯びていた。
「私、こんな風に、誰かが目の前で作ってくれたものを無防備に食べることなんて、今までなかったの」
「……知ってる」
「でも、ナオが作るものなら、もし毒が入ってても喜んで飲み込むわ」
ノーラは濡れた手で、直樹の指先にそっと触れた。冷たい海水の中にあって、彼女の指先から伝わる体温はひどく熱く感じられた。
「いつか、現実でもゆっくりとナオのご飯が食べたい。……私のために、作ってくれる?」
直樹は彼女の指先を振り払うことはせず、かといって過剰に握り返すこともなく、ただ静かに彼女の瞳を見つめ返した。
彼女が背負っているものの重さと、この平穏を手に入れるために彼女がどれほどの血を流してきたかを、直樹は理解している。
「あんたが完全に安全な場所を用意できるならな」
直樹はスキレットに残った極上のスープを見つめながら、淡々と言った。
「飯を食う時くらい、背後を気にしなくていい場所じゃないと、俺の料理の味が落ちる」
ノーラは数秒間きょとんとした後、肩を震わせてくすくすと笑い出した。
「あははっ……本当に、ナオには敵わないわ。世界一の殺し屋を雇うより、難しい条件ね」
「難しいなら、しばらくはここで我慢しろ。ほら、冷めるぞ」
直樹が新しい貝をフォークで刺して差し出すと、ノーラは嬉しそうに、花がほころぶような笑顔で口を開けた。
未知の新大陸の風が、二人の間を静かに通り抜けていく。
直樹の頭の中ではすでに、この紫色の貝を使った本格的なパエリアや、濃厚なクラムチャウダーのレシピの組み立てが、確かな輪郭を持って始まりつつあった。




