第2話 絶対的な孤独と、無心になれる作業
視界を覆っていた深い暗闇が、水中に落ちたインクのようにゆっくりと薄れ、やがて柔らかな光の粒子へと変わった。
無重力の空間に浮かんでいるような浮遊感の中、無機質だがどこか心地よいシステム音声が脳内に直接響く。
『――網膜スキャン、バイタルチェック完了。フルダイブシステム、正常に起動しました。Arcadia Secondへようこそ』
ログインゲートである純白の空間に降り立つと、直樹はすぐさまメインメニューを開き、オプション項目から『現実環境モニタリング』の機能をオンにした。
ダイブ中であっても、現実の部屋で一定以上の環境音が発生した際、アラートを鳴らすか強制ログアウトさせるかを設定できる機能だ。直樹はマイクの感度を調整し、小さな子犬の鳴き声でも即座にシステムに反映されるよう設定を済ませる。
「……よし。これで、こむぎが起きてもすぐ分かるな」
画面の隅に小さく表示されたマイクのアイコンが正常に稼働しているのを確認し、直樹は小さく息を吐き出した。数時間だけ、頭を休ませる。もしこむぎが不安がって鳴くようなら、その時はすぐに起きてやればいい。
安心感が得られたところで、目の前に半透明のウィンドウが展開された。アバターの作成画面だ。
直樹は目の前に現れた自分の姿を映す仮想の鏡を見て、僅かに目を細めた。
そこに映っていたのは、現実の自分と同じ顔立ちをした男だった。ただ一つ決定的に違うのは、目の下に深く刻まれていた土気色のクマが消え失せ、頬のコケも改善されていることだ。無精髭はなく、肌には適度な血色がある。連日の徹夜とエナジードリンクで削られる前の、本来の杉本直樹の顔だった。
『外見のカスタマイズを行いますか? 種族、髪の色、骨格など、細かな設定が可能です』
「いや、このままでいい」
直樹は即答した。ゲームの中でまで、何者かを演じる気力はない。服装も初期設定の、麻のシャツに丈夫そうな綿のズボンという素朴な村人風のままで確定ボタンを押す。
『プレイヤーネームを入力してください』
「……ナオ」
本名をもじるだけの適当な名前を入力する。キーボードを叩くのではなく、空中に浮かんだ仮想キーを指でタップする感覚は、驚くほど自然な触覚のフィードバックがあった。
『最後に、降り立つ初期エリアを選択してください』
目の前に広大な世界地図がホログラムで浮かび上がる。大陸の中央付近には、初心者のサポート施設が充実しているという『始まりの街』が光っていた。推奨エリアという文字が点滅している。
直樹は迷わず地図をスワイプし、大陸から遠く離れた、海の端にある小さな点のような島をタップした。
『警告:選択されたエリア【辺境の無名島】は、周辺にNPCの街や他のプレイヤーがおらず、物資の調達難易度が極めて高いサバイバルエリアです。本当にここをスタート地点にしますか?』
「構わない。誰もいない場所がいい」
直樹は確認ボタンを押し込んだ。
理不尽な仕様変更を押し付けてくる上司も、絶え間なく鳴り続けるチャットツールの通知音もない場所。今の彼がゲームという仮想空間に最も渇望しているのは、他者の顔色を窺う必要のない、しがらみから切り離された静寂だった。
『座標確定。ダイブシークエンスに移行します』
再び視界が真っ白な光に包まれ、次の瞬間、足の裏に柔らかな感触が伝わってきた。
「……っ」
直樹は息を呑んだ。
目を開けると、視界の先にはどこまでも広がるコバルトブルーの海があった。足元にはサラサラとした白い砂浜が広がり、背後には深い緑を湛えた原生林がそびえ立っている。
頬を撫でる海風には、微かな潮の香りと植物の青臭さが混じっていた。遠くで波が砕ける音、風に揺れる葉の擦れる音が、立体的なサラウンドで鼓膜を揺らす。
現実世界でむせ返るような排気ガスとアスファルトの熱波に焼かれていたのが、まるで遠い昔の夢のようだった。
呼吸をするたびに、澄み切った空気が肺の奥深くまで入り込み、澱んだ細胞を一つ一つ浄化していくような感覚がある。
「すごいな……」
これが最新のフルダイブ技術か。直樹は自分の両手を開き、そして強く握りしめた。関節の動き、筋肉の張り、手のひらに爪が食い込む感覚。どれも現実と何一つ変わらない。いや、現実のあの疲労困憊で重鉛を引きずっていたような肉体より、はるかに軽く、思い通りに動く。
視界の隅に小さく点滅していたアイコンを視線で選択すると、インベントリが開いた。中には初心者用の支給品である『粗末な石斧』と『粗末なツルハシ』、そして少量の水と固パンだけが入っている。
システムから『まずは木を伐採し、拠点を作りましょう』というチュートリアルメッセージが表示されたが、直樹はそれをスワイプして消した。
直樹はインベントリから石斧を取り出すと、背後の森へと足を踏み入れた。
手頃な太さの木の前に立ち、石斧を構える。
木材を集める。ゲームの基本中の基本だ。現実の体力が反映されているわけではないが、斧を振るうという動作にはそれなりの疲労度が設定されているはずだ。
直樹は斧を振り被り、木の幹に叩き込んだ。
カーン、と乾いた音が響き、木の表面が僅かに削れる。直樹の視界の端に『木材+1』というログが小さく表示された。
「……」
もう一度、斧を振るう。
カーン。『木材+1』。
カーン。『木材+1』。
直樹の目が、スッと静かな色を帯びた。
それは、現実世界で終わりの見えないバグ取り作業に向かう時の、一切の感情を交えずにタスクを処理する時の目だった。
プログラムのコードを書く作業は、常に神経をすり減らす。一つの括弧の閉じ忘れ、一つの変数のスペルミスが、システム全体を停止させる致命的なエラーを引き起こす。さらに、苦労して組み上げたロジックも、佐々井部長のような人間の「やっぱりこういう仕様にして」という思いつきの一言で、全てが水の泡になる。
積み上げても、積み上げても、理不尽によって容易く崩される。それが直樹の日常だった。
だが、これはどうだ。
斧を振れば、木が削れる。削れた分だけ、確実に自分のインベントリに『木材』という成果が追加される。
仕様変更はない。後輩のミスによる手戻りもない。ただ、物理的な法則に従って、やった分だけ百パーセントの成果が手元に残る。
「……最高じゃないか」
直樹の口角が、自然と上がった。
カーン、カーン、カーン、カーン。
斧を振るう速度が、明らかに常軌を逸し始めた。
ただ闇雲に叩いているのではない。木の繊維の走る方向、斧の刃が入る角度、最も少ないモーションで最大の威力を伝えるための筋肉の連動。直樹は数回斧を振っただけでシステム側の『伐採の最適解』を感覚的に理解し、無駄な動きを削ぎ落としていった。
右に一歩移動し、斜め下から刃を入れる。そのまま手首を返し、引き抜く反動を利用して次の木へ。
一連の動作が、まるで精密な機械のピストンのように寸分の狂いもなく繰り返される。いつしか彼の意識から余計な雑念は消え失せ、眼前のオブジェクトを効率的に資源へと変換する作業の心地よさだけが残っていた。
『木材+10』
『木材+15』
『伐採スキルを獲得しました』
『伐採スキルがレベル2に上がりました』
システムログが滝のように流れていくが、直樹は視線を動かさない。ただ目の前の木を切り倒していく。その単純で確実な因果関係が、すり減った直樹の心を強烈に癒やしていた。
ものの小一時間で、砂浜と森の境界付近にあった木々は綺麗に刈り取られ、直樹のインベントリはカンストギリギリの木材ブロックで埋め尽くされた。
「よし。次は拠点だ」
直樹は息を一つ吐き、額に浮かんだ汗を手の甲で拭った。疲労感はあるが、現実のあの精神を削られるような疲労とは違う。スポーツの後のような、心地よい達成感を伴う疲労だ。
直樹は開けた砂浜の少し高台になっている場所を選び、インベントリから木材を取り出した。
建築システムは直感的だった。木材を空間に配置すると、カチッという小気味良い音を立ててブロック同士が結合していく。
直樹の頭の中には、すでにログハウスの完成予想図が三次元の設計図として組み上がっていた。土台の配置から壁面の立ち上げ、屋根の架構まで、どの工程をどう並行して進めれば最も効率が良いか。長年の炎上プロジェクトで培われたスケジューリングとタスク管理の能力が、皮肉なことにこの仮想空間の建築作業で遺憾なく発揮される。
歩きながら、視線を動かしながら、指先で仮想のインターフェースを弾くように木材を連続で配置していく。
床板が敷き詰められ、壁が立ち上がり、窓枠が抜け、屋根が組み上がる。
わずか数十分後には、雨風をしっかりと凌げる立派な1LDKの木造ログハウスが完成していた。内部には余った木材で作ったシンプルなベッドと机まで備え付けられている。
「寝床は確保した。あとは……」
直樹はログハウスの窓から、島の内部に広がる森の奥を見つめた。
海水で体を清めることもできるが、塩水が肌に残るのは不快だ。真水、欲を言えば、お湯が欲しい。
直樹はインベントリからもう一つの初期装備である『粗末なツルハシ』を取り出し、森の奥へと向かった。
島の中央に向かって緩やかな傾斜を登っていくと、植生が少しずつ変化していくのに気づいた。地面の土の色が赤茶けており、空気中に微かな硫黄の匂いが混じっている。
「地熱が高いな……」
直樹は足を止め、周囲の地形を観察した。
岩肌が露出している一角があり、その隙間から僅かに陽炎のように空気が揺らいでいる。
直樹はその岩肌の前に立ち、迷わずツルハシを振り下ろした。
ガキンッ、という硬い手応えが腕を痺れさせ、暗い足元に火花が散った。木を切るよりも遥かに強い反動が襲うが、直樹の集中は途切れない。
岩の亀裂、音の変化、打感。
それらをリアルタイムで分析し、最も脆い部分をピンポイントで穿っていく。
『採掘スキルを獲得しました』
数分間、無心で岩盤を砕き続けた時だった。
ゴボッ、という鈍い音が岩の奥から響いた。
直樹がバックステップで距離を取った直後、砕いた岩の隙間から、勢いよく白濁した湯が噴き出した。もうもうと立ち昇る湯気が、強い硫黄の香りを辺り一面に運んでくる。
「……ビンゴだ」
直樹は落ちていた手頃な石を拾い集め、湧き出した湯が溜まるように周囲を囲んで即席の湯船を作った。
湧出量と温度は申し分ない。天然の掛け流し露天風呂の完成だ。
直樹は初期装備の服を脱ぎ捨て、湯気で霞む湯船にゆっくりと足を踏み入れた。
ピリッとした熱さが皮膚を刺すが、すぐにそれは圧倒的な心地よさへと変わっていく。
肩まで湯に浸かり、大きく息を吐き出す。
「……っぁあ……」
口から漏れたのは、言語にならない深い嘆息だった。
湯の熱が、固く強張っていた全身の筋肉を内側から溶かしていく。
徹夜続きで鉛のように重かった頭が軽くなり、無意識に入っていた肩の力が、ゆっくりと解けていく。
空を見上げると、木々の隙間から抜けるような青空が見えた。
聞こえるのは、湯が岩を打つ音と、遠くの波の音、そして鳥のさえずりだけだ。
直樹は静かに目を閉じ、後頭部を滑らかな岩に預けた。温かな湯の揺らぎが、擦り切れていた輪郭をそっと包み込んでいく。




