第1話 君の代わりはいくらでもいる
深夜3時。空調の効きすぎたフロアには、並んだサーバーラックが吐き出す低い排気音と、乾いたキーボードの打鍵音だけが規則的に響いていた。
杉本直樹は、ブルーライトに照らされたモニターから一切視線を外さず、手探りでデスクの上のマグカップを探り当てた。中身はとうに冷え切って油膜の浮いたブラックコーヒーだ。舌にまとわりつくような泥臭い味がしたが、今はカフェインという成分を血中に流し込むだけの作業に、味など関係なかった。
30連勤目。日付が変わったのは分かっているが、それが何曜日なのかはとうに消え失せている。
本来なら整っているはずの顎のラインは無精髭に覆われ、オフィスの洗面所の鏡を最後に見た時には、目の下には消えない隈が深く刻まれていた。最後に自分の家のまともなベッドで横になって眠ったのがいつだったか、直樹のすり減った記憶回路ではもう辿り着けなかった。
直樹は膨大なコードの海に没入し、システム全体を蝕むバグの出処を執念深く追っていた。彼が所属する『ダークネス・システムズ』において、直樹の肩書はプロジェクトマネージャーだ。しかし実態は、炎上したプロジェクトに次々と放り込まれ、後輩の尻拭いと顧客からの理不尽な要求をすべて一人で処理するだけの都合の良い便利屋でしかなかった。
無心でキーを叩き続けていた直樹の指が、ピタリと止まった。
データベースの連携部分における非同期処理の競合。パッチを当てて誤魔化せるような表層的なエラーではない。トランザクションの処理順序が根本から破綻しており、このまま稼働させれば、高負荷時にいずれ致命的なデータ欠損を引き起こす時限爆弾だった。根本的なテーブル設計から見直さなければならない。エンジニアとしての職人気質が、この妥協を絶対に許すなと警鐘を鳴らしていた。
「杉本。まだ終わらんのか」
背後から、不機嫌を絵に描いたような声が降ってきた。佐々井部長だ。定時で帰宅し、たっぷり睡眠をとってきたであろう顔は脂ぎり、微かに酒の匂いすら漂わせている。
直樹は手を止めず、画面から目を離さないまま答えた。
「データベースの連携部分に、根本的な設計ミスがあります。根本から組み直してテストを完了させるには、最低でもあと3日は必要です」
「3日? 馬鹿を言うな。明日の朝10時の定例会議までに動くようにしろ」
「物理的に不可能です。サーバーの再構築から必要になります。そもそもこの仕様変更は――」
「あのなあ、杉本。できない理由を長々と説明されるこっちの身にもなれよ」
佐々井が革靴の爪先で、直樹のキャスター付きの椅子をガツンと蹴りつけた。座面が揺れ、鈍い音がフロアに響く。
「先週の定例で、クライアントに『いけます』って言ったのはお前だろうが。今更になって根本から組み直すだの、ふざけたこと言って俺の顔に泥を塗る気か? 向こうの担当者がどれだけキレてるか分かってんのか。お前の手際が悪くてチンタラやってるから、ズルズルとスケジュールが押してるんだろうが」
先週、佐々井自身がクライアントの「ついでにこの機能も」という無茶な要求を、酒の席の勢いと二つ返事で引き受けてきたことがすべての原因だ。直樹は「持ち帰って検討させてください」と制止したが、佐々井は「うちの優秀なPMがなんとかしますよ」と笑って請け負ったのだ。だが、直樹は言い返す気力すら湧かなかった。この男に技術的な正論や事実確認をぶつけたところで、保身のための無意味な怒号が倍になって返ってくるだけだ。
「不満そうな顔だな。嫌なら辞めていいんだぞ、杉本」
佐々井は直樹の肩をポンと叩き、耳元で低く囁いた。
「お前一人が抜けたところで、会社は回る。お前の代わりなんて、下請けを探せばいくらでもいるんだからな。32歳で独身のお前に、ここを辞めて行く当てがあるとは思えんが」
直樹は、キーボードの上に置いた自分の手を見つめた。関節が白くなるほど力を込めていたが、すぐにふっと息を吐き、力を抜いた。
怒りすら湧かない。ただ、疲労だけが全身の骨を軋ませている。ここで見切りをつけて帰ることは簡単だ。だが、自分が逃げ出せば、このシステムは確実に破綻し、無関係な下請けの人間たちがさらに地獄を見ることになる。
ならば、美学には反するが、泥臭くても絶対にシステムを止めない強固なバイパス処理を一晩で書き上げるしかない。
「……分かりました。やります」
直樹の感情の抜け落ちた低い声に、佐々井は「最初からそう言えばいいんだよ」と満足そうに鼻を鳴らした。
直樹は再びモニターに向かい、キーを叩き始めた。背後で佐々井の足音が遠ざかっていく。心が少しずつ、確実にすり減っていく音だけが、直樹の耳の奥で鳴り続けていた。
★★★★★★★★★★★
午前11時。
どうにかシステムが破綻しないよう、強引だが堅牢な代替処理を構築し終え、直樹は会社を出た。妥協の産物とはいえ、稼働テストをクリアするまでは気を抜けなかった。
オフィスビルの自動ドアを抜けた瞬間、真夏の刺すような日差しが、徹夜明けの網膜を容赦なく焼いた。アスファルトからの暴力的な照り返しで眩暈がし、むせ返るような排気ガスの匂いに胃が小さく痙攣する。直樹はふらつく足取りで、駅へと続く足早なサラリーマンたちの雑踏を避けながら歩き、ポケットからスマートフォンを取り出した。
今日はボーナス支給日だ。
周囲の明るさに負けて白飛びしている画面に目を凝らし、銀行のアプリを開く。生体認証を通り抜けて表示された数字を見て、直樹は乾いた笑いを漏らした。
30日連続で会社に泊まり込み、みなし残業という言葉で片付けられ残業代も出ない環境で、文字通り命と精神を削って得た対価。それは、数ヶ月分の家賃と光熱費、そしてギリギリの食費を口座に残せば心許なくなる程度の、呆れるほどささやかな額だった。
「……帰ろう」
誰に聞かせるでもなく呟いた声は、都会の喧騒にあっさりと呑み込まれた。もう何も考えたくなかった。ただ、温かい布団に倒れ込み、泥のように眠りたかった。
熱波から逃れるように駅前のアーケード街に入った直樹は、ふと冷気の漂うペットショップの前で足を止めた。
普段なら素通りする場所だ。幾つも並んだショーケースの中では、子犬たちが無邪気にじゃれ合ったり、お腹を出して眠ったりしている。だが、直樹の目は一番端の小さなケースに向けられていた。
ポップには『チワワ 生後57日』と書かれている。
淡い茶色と白の混ざった毛並み。そのチワワは、ケースの隅っこに張り付くようにして丸まり、周囲の喧騒に怯えるように小さく身を縮めていた。大きな、潤んだ黒い瞳が、ガラス越しに直樹を見上げる。
直樹は無言のまま、冷たいガラスにそっと指先を触れた。チワワは逃げる場所もないため、ただ不安げに直樹の指先を見つめ返している。
「お客様、抱っこしてみますか?」
いつの間にか隣に立っていた、エプロン姿の店員の明るい声に、直樹は静かに頷いた。
消毒液を擦り込んだ両手に乗せられたその命は、驚くほど軽く、そして温かかった。直樹の手のひらの上で、チワワは緊張で全身を硬直させていたが、やがて直樹の親指の付け根に小さな鼻先を押し当て、クンクンと匂いを嗅いだ後、小さく「きゅう」と鳴いた。
手のひらから伝わってくる、微かで、確かな心臓の鼓動。それが、直樹のひび割れた心にじんわりと染み込んでいく。
「……この子、連れて帰ります」
直樹がそう口にするまでに、迷いはなかった。
ケージや大型のトイレ用品などは明日の配送手続きにし、当面必要なキャリーケースや少量のドッグフードだけを提げて店を出た。徹夜明けの体に容赦なく照りつける太陽から逃れるため、大通りでタクシーを拾おうと手を挙げかけた直樹の視界に、大型家電量販店の壁面に設置された巨大なモニターが飛び込んできた。
『誰もいない世界で、何もしない贅沢を。最新フルダイブVR――Arcadia Second』
キャッチコピーと共に映し出されたのは、透き通るような青い海と、どこまでも続く白い砂浜、そして静かな森。高品質なスピーカーからは、風に揺れる木々の葉音と、穏やかな波の音が周囲の騒音を切り裂くように微かに聞こえてくる。
直樹の足は止まった。ボーナスの残額は、チワワの購入費用と今後の生活費を考えれば決して余裕のあるものではない。
しかし、直樹は財布の中のクレジットカードの感触を確かめると、そのまま店内へと足を踏み入れた。分割払いなら、なんとかなる。いや、ならなくてもいい。最悪、昼飯を抜けばいいだけだ。理性が今後の生活の計算を急ぐよりも早く、限界を迎えた脳が強烈な「癒やし」を渇望していた。
黒いヘッドギア型の最新機器と周辺機器一式を購入し、大きな箱を抱えた直樹は、今度こそタクシー乗り場へと並び、エアコンの効いた車内に逃げ込んでアパートへと向かった。
★★★★★★★★★★★
散らかったボロアパートに帰り着くと、直樹はまず脱いだ靴や雑誌が散乱する部屋の片付けを後回しにして、部屋の隅のホコリを払い、タオルケットを四つ折りに敷いて小さなスペースを作った。
エアコンのスイッチを最強に入れ、買ってきたばかりのキャリーケースの扉を開ける。チワワはおずおずと顔を出し、新しい環境に戸惑うように辺りの匂いを嗅いでから、タオルケットの上へと恐る恐る足を踏み出した。だが、まだ直樹の方を警戒しているのか、部屋の隅っこにペタンと座り込んで動こうとしない。
「ちょっと待ってろ」
直樹はお湯を沸かし、買ってきたばかりの子犬用のドッグフードをふやかした。人肌程度に冷めているのを確認し、小さな皿に乗せて差し出す。
チワワは警戒するように鼻をヒクヒクさせていたが、やがて空腹に負けたのか、小さな舌を出してぺちゃぺちゃと音を立てて食べ始めた。
その一生懸命な姿を見ていると、直樹の胸の奥で、カチカチに凍りついていた何かが少しだけ溶け出していくような気がした。
綺麗に完食し、口の周りを少し汚したチワワは、直樹の手をじっと見上げていた。
直樹はそっと手を伸ばし、小さな頭を指の腹で撫でた。チワワは気持ちよさそうに目を細め、直樹の指先に自分から頬をすり寄せてくる。
「……名前」
直樹は、その温かい毛並みを見つめながら呟いた。
「小麦色の毛だから……『こむぎ』。うん、こむぎがいいな」
直樹がそう呼ぶと、こむぎは短い尻尾をパタパタと振り、小さく吠えた。
「よろしくな、こむぎ」
しばらく撫でていると、安心したのか、こむぎはタオルケットの上で丸くなり、スースーと静かな寝息を立て始めた。
その小さな寝顔を見届けた後、直樹は買ってきたばかりのVR機器の箱を開けた。梱包材を雑に引き剥がし、無機質なプラスチックの匂いがする黒いヘッドギアを取り出す。
ベッドに身を横たえると、軋むマットレスの音が静かな部屋に響いた。
「少しだけ……休ませてくれ」
誰にともなく呟き、直樹は冷たいヘッドギアを深く被った。
視界が完全に遮断され、電源を起動する微かな電子音が耳元で鳴る。
「リンク・スタート」
直樹は静かに目を閉じた。




