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3.揺らぐ教室

あり得ない。

そんなこと、あるわけがない。

昨日の今日だぞ。

いくらなんでも、超展開がすぎるだろう。


しかしどれだけ否定しようとも、目の前の光景は変わらない。

彼女は確かにそこにいて、少し緊張したように肩を縮めながら、教室の中へ一歩足を踏み入れた。


うろたえそうになるのを、俺は必死に我慢した。


……とりあえずは、この状況を呑み込むしかない。


女は教卓の横まで歩き、担任の隣で足を止めた。


誰かの椅子が床を擦って、小さく音を立てた。

それすらやけに大きく聞こえるくらい、教室は静まり返っていた。


みんな、圧倒されている。

無理もない。

昨日の俺と同じだ。

あんなものを突然見せられて、まともな反応を返せる人間の方がおかしい。


「えー……」


改まった声を出す担任。

その肩にも妙な力が入っているのはきっと気のせいじゃない。


「今日からこのクラスに入ることになった、花守(はなもり)小夜(さよ)さんだ」


そう言って担任は、黒板に名前を書いた。


花守 小夜。


黒板に並んだその四文字を見て、俺は奇妙な違和感を覚えた。

いや、名前そのものは、別に変じゃない。

むしろ、見た目に似合った綺麗な名前だと思う。

でも、昨日あんなふうに俺に絡んできた宇宙人みたいな女に、そんな普通の名前があることが、ひどく不思議に感じられた。


「じゃあ、花守。簡単に自己紹介をしてくれるか」


担任に促され、花守小夜は、こくりと小さく頷いた。

そして、顔を上げる。

彼女の視線が、教室の端から端へゆっくりと巡っていく。


転校生の自己紹介など、普通はどこか浮ついた空気になる。


今は違った。


男子も女子も、誰一人として茶化していなかった。

全員が、どんな顔をすればいいのか分からずに、ただ固まっている。

花守小夜も、そんな張り詰めた教室の空気に怯えて萎縮しているように見えた。


だが。

その瞳が、教室の隅に座る俺を見つけた瞬間。


彼女の表情が、ぱっと明るくなった。


驚いているわけではなさそうだった。

少なくとも、俺にはそう見えた。

昨日見たような、『やっと見つけた』というような面持ちでもない。

むしろ、期待していた相手が本当にそこにいることを確認して、安心したような顔だった。


固くなっていた頬がふっと緩み、じわりと濡れた瞳に、昨日と同じ熱が宿る。


やめろ。その……薄い本で学んだ語彙を拝借するなら、女の顔をするな。


「……花守?」


担任が当惑したように声をかける。

花守は、はっと我に返ったように肩を跳ねさせた。


「あ……は、はいっ!」


それから彼女は、両手を胸の前で軽く握りしめ、自己紹介を始めた。


「花守、小夜です」


夜の繁華街で聞いた時と同じ、耳に触れた瞬間、胸の奥の変なところをざわつかせるような声。


「えっと……その、今日から、こちらの学校でお世話になります」


彼女の視線が、ちらりと俺へ向く。


「以前は、外国の高校に通っていました。家庭の事情で、この時期の転校になってしまいました。みなさんの輪に突然入り込むような形になるので、ご迷惑をおかけするかもしれません。でも、できるだけ早く、こちらの生活に馴染めるように頑張ります……!」


用意していたのだろう。

若干声を震わせつつも、すらすらと話してみせた花守。


つーか、外国の学校………帰国子女か? 

それともハーフ?

ルーツが外国にあると知れば、彼女の並外れた美しさも、どこか説得力を帯びてくるように感じられる気がするような、しないような。


などと考えていると、ヤツはまた、俺を見た。

今度は、割とはっきりと。


……だから、こっちを見るなって。


「好きな食べ物は……」


そこで、なぜか自己紹介が急に詳しくなった。


「卵焼きと、白いご飯です。あと、最近はコンビニのプリンも好きになりました。飲み物は、麦茶が好きです。淹れてもらったものを飲むと、なんだか胸がぽかぽかします。炭酸は、少しびっくりします。甘いのは好きですが」


教室の何人かが、呆気に取られたように顔を見合わせた。

俺も同じ気持ちだった。

何だ、その情報量は。


「趣味は……えっと、日本の言葉を調べることと、きれいな景色を見ることです。花の名前を覚えるのも好きです。あと、絵本も好きです。特に、」


突然、恥じらうように伏し目がちになる花守。


「……王子さまが出てくるお話が……好きです」


……おい。

昨日のアレか。

急に飛び出したメルヘンなワードに、教室が揺れる。


「王子さま?」

「今、王子さまって言った?」

「かわい……いや、なんかすご……」


小さな話し声が、あちこちから漏れ始める。


「えー、花守。もういいぞ。続きは休み時間にでもな」


担任も流石に微妙な空気を察したのか、ストップをかけた。


「あ……はい」


花守は名残惜しそうに口を閉じた。

まるで、本当はもっともっと自分のことを知ってほしかった、とでも言いたげに。


勘弁してくれ。


「席は……そうだな」


担任が教室を見回す。


「安久理の隣が空いてるな。花守、あそこの席に座ってくれ」


終わった。

完全に終わった。

教室中の視線が、俺の方へ集まる。

花守は、一瞬きょとんとした顔をした。それから、意味を理解したのだろう。


「はい……!」


声が弾んでいた。

なぜ嬉しそうなんだ。

俺の隣だぞ。

クラスの中で最も忌避すべき席だぞ。


花守は鞄を胸に抱えるようにして、俺の隣――窓際最後列の席の、一つ隣の席へ向かって歩いてくる。


俺は慌てて頭を下げ、机の木目を見つめながら、できる限り呼吸を殺した。

椅子を引く音。花守が隣に座る。


「……昨日ぶり、ですねっ……!」


小さな声がした。

俺にしか聞こえないくらいの声。

俺は答えなかった。

答えられるわけがない。


ホームルームが終わるまでの数分間、俺はずっと机の一点を見つめ続けていた。

隣から熱っぽい視線を感じることがあった。

それも、何度も。


チャイムが鳴る。朝礼が終わり、担任が教室を出ていく。

直後、教室の空気が一気に弾けた。


「やば……」

「めっちゃ可愛い!」

「可愛いだけで……良い」

「可愛いっていうか、綺麗すぎない?」


ざわめきが、あちこちで膨れ上がる。

俺は軽く顔を上げ、花守の様子を伺う。

鞄から新品の教科書を取り出して、授業の準備をしているようだ。

自分に向けられる多くの眼差しに気後れしているのか、若干動きがぎこちなく見える。


「髪、染めてんのかな」

「すげぇ色だよな」

「ガチで、尊過ぎて滅なんだけどっ!」

「カラコン? いや、でもなんか違くない?」


ますます大きくなっていくざわめき。

しかし、誰もすぐには、花守に直接話しかけなかった。


異様な光景だ。


普通、転校生が来れば、クラスの中心にいる連中が真っ先に距離を詰める。

特に、転校生が美人ならなおさらだ。


それなのに今、全員が少し離れた場所から、ただ彼女を見つめていた。


近づきたい。

でも、どう近づけばいいのか分からない。

そもそも、近づいていいのかすら分からない。


それもアイツの、桁外れな美貌によるものだろう。

花守の半径1メートルには今、透明な不可侵領域のようなものが出来上がっていた。


俺も、花守に直接問いただしたいことは山ほどあった。

というか、俺こそ、って感じだ。

それでも、ここで行動を起こしてみんなからの注目を集めるのが嫌で、何も言いだせずにいた。


そんな中、膠着した状態を、最初に破った男がいる。


ニヤリと口角を上げ、わざとらしく大きな音を立てて椅子を引き、おもむろに立ち上がった男。


それまで好き勝手に囁き合っていたクラスメイトたちの声が、潮が引くように萎んでいく。


やがて教室中の意識が、その男の背中に集まった。


不穏な空気が、立ち込め始める。

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