2.砕け散る日常
王子さま。
その言葉を聞いて、俺は本気で自分の耳を疑った。
王子さま、だって?
背後を振り返る。
もしかすると、俺のすぐ後ろにどこかの芸能人か、モデルか、あるいは本当に王家の血を引いていそうな風格の外国人男性でも突っ立っているんじゃないかと思ったからだ。
だが、そんな都合のいい存在はいなかった。
女は、間違いなく俺だけを見つめている。
恍惚とした表情を浮かべながら。
まるで、長い間探し続けていた宝物を、ようやく見つけたみたいに。
まるで、俺なんかを見て、本当に嬉しくてたまらないみたいに。
俺はこの女を知らない。
こんな女と関わった記憶など微塵もない。
こんなヤツ、一度見たら忘れられるはずがない。
じゃあ、なんで?
「……あ、あのぅ……」
ようやく、喉の奥から情けない声が出た。
女の瞳がわずかに揺れる。
俺が言葉を発したこと自体が、たまらなく愛おしいとでもいうように。
「お、俺……」
違います。
人違いです。
そう言えばいいだけだった。
それだけのはずなのに、極度の困惑と緊張のあまり、口がうまく動かない。
その時、耳の端に、ひそひそとした声が引っかかった。
「え、なにあれ」
「女の子、やばくない?」
「何かの撮影?」
「いや、男の方エグいやろ」
ぞわり、と背筋が冷えた。
気づけば、通行人の何人かが立ち止まり、じろじろとこちらを見ていた。
夜の繁華街のど真ん中で、あり得ないほど美しい女が、あり得ないほど醜い男を上目遣いで見つめて、心底幸せそうに顔をとろけさせている。
異常だ。
どう考えても異常な光景だった。
人目を集めないはずがない。
「いや、あの……違う……」
何が違うのかは、言った自分でも分からなかった。
だがとにかく違う。
全部違う。
俺は王子さまではないし、この女の知り合いでもないし、異性に縋られていいような男でもない。
四方から向けられる視線が、槍のように俺の羞恥心に突き刺さる。
見るな。見るな。見るな。こっちを見るな。
俺という人間は、人目に晒されることを前提にデザインされていない。
もう耐えられない。
「あっ……!」
俺は逃げた。
死ぬ気で、逃げた。
人混みの隙間に身体をねじ込み、肩が誰かにぶつかっても構わず、駅の方へ向かって足を動かす。
なぜだ。
なぜ俺なんだ。
分からない。
分からないから怖い。
「ま、待って……!」
背後から声が聞こえた。
追ってきている。
あの女が、俺を追ってきている。
振り返る余裕はない。とにかく走りまくる。
「っ、は……はぁ……!」
息がすぐに上がった。
当然だ。
俺はデブなのだから。
「待ってください……!」
また声が聞こえた。
近い。
さっきより、明らかに近い。
このままでは追いつかれる。
追いつかれて、あの訳の分からない状況に、また引きずり戻される。
それだけは無理だった。
前方の信号が青に変わる。
どっと人の流れが動き出した。
俺は脇目も振らず、その中へ飛び込んだ。
「すみません、すみません……!」
誰に謝っているのかも分からないまま、俺は人混みをかき分ける。
肩。
舌打ち。
鞄。
「この野郎……!」
汗の臭い。
スマホ。
「なにっ!? キモっ!」
香水。
いくつもの感触と罵声と匂いが、ぐちゃぐちゃに混ざって押し寄せてくる。
あの女の気配は雑踏に掻き消されたが、それでも俺は止まらない。
駅の入口が見えた。
俺はほとんど転がり込むように階段を駆け下りて、滑り込むように改札を抜ける。
ホームへ下りると、ちょうど最寄り駅方面の電車が到着したところだった。
俺は開いたドアに飛び込み、車内へ入る。
数秒遅れて、発車ベルが鳴った。
ドアが閉まる。
その音を聞いた瞬間、ようやく全身から力が抜けた。
「…………はぁ」
安堵の息が漏れる。
肺が痛い。喉も痛い。制服の内側で贅肉を汗が滝のように伝って不快だ。
俺はドア横の手すりに掴まりながら、荒い呼吸をどうにか整えようとした。
ホームの景色がゆっくりと遠ざかっていく。
そこにアイツの姿は見当たらなくて、俺は改めて胸を撫で下ろした。
「……マジで……なんだったんだ……あれ……」
分からない。
ただ、あれは、演技なんかじゃなかった。あの女は本気だった。
それだけは、はっきりと分かった。
日頃、人の顔色を窺ってばかりいるおかげで、人間観察力が身に付いている俺だからこそ、断言できる。
それ以上は、頭がうまく働かなかった。
走ったせいで酸素が足りていないのか、疲れすぎているのか、現実感が妙に薄い。
車内の揺れにぼんやりと身体を預けているうちに、気づけば最寄り駅に着いていた。
帰宅すると、母親が何かを言った気がする。
夕飯がどうとか、そんな内容だったと思う。
俺は曖昧に返事をして、自室に入ると、適当に鞄を投げ捨てた。
すると途端に身体が重くなった。
ベッドに倒れ込む。
スマホを見る気力もなかった。
考えたいことは山積みだったが、思考を巡らせる暇もなく、すぐに疲労が意識を押し潰した。
***
翌朝。
目が覚めると、身体の節々に鈍い痛みが走った。
頭も重い。
シャワーを浴びるのが億劫だったので、代わりに濡れタオルで全身を拭いた。
それから制服に袖を通すと、昨日のあれこれが不意にフラッシュバックした。
……昨日は色々ありすぎたし、できれば休んでしまいたかった。
だが、休む理由がない。
熱があるわけでもない。腹が痛いわけでもない。
ただ心身が、昨日より少し削れているだけだ。
そんなもの、正当な欠席理由にはならない。
俺はいつも通り家を出て、いつも通り電車に乗り、いつも通り学校へ向かった。
脳内だけは、いつも通りじゃなかったが。
教室の前まで来ると、足が鉛のように重くなる。
毎日のことだ。
別に、いじめられてるってほどじゃない。
意味深な無言。含みのある視線。薄ら笑い。
いつぶつけられるかも分からない『いじり』という名の投石。
ただそういうものが、日増しに少しずつ積もっているだけだ。
いつまで経ってもこの場所には馴染めないし、俺を馴染ませてはくれない。
扉を開ける。
教室の中は、普段より騒がしい気がした。
俺はなるべく誰とも目を合わせないように、自分の席へ向かう。
席に着き、鞄を机の横に掛けたところで、教室の前方からやけに熱のこもった声が聞こえてきた。
少しだけ顔を上げる。
陽キャ寄りの男子たちが数人、前の方で固まっている。
女子も何人か混ざっていて、何やら全員が同じ話題に食いついているらしい。
「銀っぽい髪の子でさ」
「え、昨日駅前にいたってやつ?」
「そうそう。その子めっっちゃくちゃ可愛かったらしい!」
「噂によると、なんか男追いかけてたらしい」
「なにそれ、ドラマやん」
……聞き捨てならないワードが、いくつも含まれているような。
心臓が、嫌な音を立て始める。
キーンコーンカーンコーン。
その時ちょうど、朝のチャイムが鳴った。
前で話していた連中を含め、クラスメイトはそれぞれの座席へ散っていく。
数秒後、担任が入ってきた。
いつもなら、出席簿を片手にだるそうな顔で教壇へ向かう。
だが今日の担任は、どこか神妙な面持ちをしていた。
その様子を受けてか、教室の空気が、わずかに引き締まった。
担任は教卓の前に立ち、軽く咳払いをした。
「えー、急な話だが」
そこで一旦区切ってから、言葉を続ける。
「今日は転校生を紹介する」
教室が一気に沸いた。
「マジ?」
「この時期に?」
「男子? 女子?」
「えっ、もしかして……」
もしかして、なんだよ?
……いやいや、まさか、な。
担任が廊下の方を一瞥した。
「入ってきていいぞ」
教室の前の扉が、ゆっくりと開く。
次の瞬間、昨日ヒビが入った俺の代わり映えしない日々は、破片も残らず砕け散った。
…………そう。
昨日、俺を『王子さま』と呼んだ女が、制服姿でそこに立っていたのだ。




