1.わたしの王子さま
陰茎を膣に挿す程度のことがそれほど立派か?
最近できたらしい恋人との初体験を嬉々として語る男を前にして、そんな毒づきがもう、喉元まで出かかっていた。
「まあでも結局そういう行為も、人間同士のコミュニケーションの一部に過ぎないと思うんよねぇ〜」
……などと、のたまっている男の名を野口という。
野口は俺の、中学時代の唯一の友達だった。
容姿が醜い上、コミュニケーション能力が低い。
そんな人間が歓迎されるコミュニティなんて、おそらく地球上のどこを探しても、一箇所たりとて存在しない。
例に漏れず俺の中学もそうだった。
不細工で陰気な俺は、不細工で陰気であるがゆえにクラスの輪から弾き出され、気づけば教室の隅に追いやられていた。
ふと隣を見ると、同じ境遇の男がたった一人だけそこにいた。
それが野口だった。
学校生活を耐え抜くための生存戦略でもあり、純粋に馬が合ったからでもあったのだろう。
そうして出会った俺たちは、いつの間にか固まって時を過ごすようになった。
ペアワークは決まって二人で組み、休み時間は漫画やVTuberの話に耽ったり、自分たちを邪険に扱う連中の言動を陰で冷笑する。
放課後もオンラインゲームで繋がり、休日にはゲーセンやアニメのイベントへ出かける。
誰もが夢見る理想的な中学生活からは程遠かったが、俺はあいつとの、互いの存在を最後の砦とするような日々に、それなりに満足していた。
分相応に充足している。そういう実感はあった。
野口とは別の高校に進学した。
それきり、あいつからの連絡は途絶えがちになり、俺たちは疎遠になった。
だが、俺は信じて疑わなかった。
野口だって、どうせ変わらない。
あいつもどこか見知らぬ教室の隅で、どこの馬の骨とも知れない連中に鼻で笑われながら、俺と似た灰色の高校生活を浪費しているはずだ、と。
俺たちの、非衛生的な絆はきっと切れていない。
そういう『同類への確信』を、俺は日々密かに心の支えにしていた。
だから昨夜、野口から『もしよかったら明日の放課後、どっかで久々に喋らないか』とLINEが届いた時、俺はつい浮き足立った。
またあの頃のように、クソみたいな日常に二人で呪詛を浴びせ、笑い合えるんだ。
そんな仄暗い期待に胸を膨らませて、二つ返事で誘いに応じたのだ。
しかし今日、約束場所のファミレスで俺を待っていたのは、知らない誰かだった。
「よー、久しぶりっ!」
センター分けにセットされた、明るめの茶髪。
スマートな身体で制服のシャツを着こなしている。
イケメンというほどではない。
だが、万人に受け入れられるような『普通の格好良さ』が、そこにはあった。
最初は人違いじゃないかと思った。
「はは、安久理は変わんないなぁ」
でも、耳に届いたのは紛れもなく野口の声だった。
かつて、満たされた者、美しい物を一緒に呪ったはずの声。
それが今は毒気のない、爽やかな響きを帯びている。
何を言えばいいのか分からなかった。
喉の奥が引き攣り、パニックに近い感覚が全身を駆け巡る。
促されるままに、俺は席に腰を落とした。
「僕、最近彼女できたんだよね」
軽く挨拶を交わすと、野口はすかさずそう切り出した。
そこからは、怒涛のような惚気話のオンパレードだった。
どこで出会ったとか、告白はどうしたとか、デートはどこへ行ったとか。
最初は戸惑っていた俺だったが、野口の饒舌な語りを聞いているうちに、急速に頭が冷えていくのを感じた。
ああ、なんだ。
野口が俺を呼び出した目的は、そういうことだったのか。
自分一人、見当違いな期待をしていた俺が、馬鹿みたいじゃないか。
そう思うと途中からはもう顔を上げているのも苦痛だった。
俺は心ここにあらずの状態で、ああうんと適当な相槌を返すマシーンと化していた。
「……って、安久理?」
ようやく、一方的に喋り続けていたことに気づいたらしい。
「……ああ、いや、聞いてる」
「ていうか、なんかごめんね。こっちばっか話しちゃって」
「別にいいよ。話聞いてて面白いし」と思ってもみない嘘を言う俺。
「ならよかった。――ああ、そうだ、そうだった」
野口は唐突に、何かを思い出したように言葉を止めた。
それから、あの頃と比べていくぶんか大きくなったように見える野口の目が、真っ直ぐに俺の顔を捉える。
そこであいつが次に何を言おうとしているのか、俺には直感で分かった。
「安久理もさ、僕と同じように――」
そこから続いた言葉は、やはり俺の予想通りだった。
自分を磨け。
お前もこっち側に来い。
努力すれば、俺みたいに変われるんだから。
要するに、野口はそういうことを言った。
俺だってそんなことは、もうとっくに分かっている。
………痛いほどに。
けれども、ずっと前から諦めている。
自分がそうしたところで、無意味なのだと。
つまるところ、俺と野口とでは、立っている土台が根本から違っていた。
それだけの話なのだ。
中学時代のあいつの容姿は、多少整えれば人並みになれる程度の『乱れ』に過ぎなかったのだろう。
俺が分かっていなかっただけで、あいつには元から、磨けば光る余地が備わっていたのだ。
対して俺はどうだ?
これまで何度も、惨めになるほど試したから分かる。
俺の醜さは、磨けば磨くほど、その歪さが露わになる類のものだった。
表面の汚れではない。
もっと奥にある。
手を入れれば入れるほど、自分という素材そのものの悪さを思い知らされる。
俺には、最初から努力でどうにかなるような、まともな土台なんて存在しない。
出生したときから敗北している。
遺伝子レベルで劣等なのだ。
「僕みたいなのでも垢抜けられたんだよ? だから絶対、安久理にだってできるって!」
熱心に説得してくる野口。
しかし俺には、全くといっていいほど響かない。
恵まれた者による戯言。
単なるポジショントーク。
そんなもんは、俺にとっちゃ、豚の耳に念仏だ。
「悪い。俺、そろそろ行かないと。このあと予備校があってさ」
最後まで聞きたくなくて、俺は野口の話を断ち切った。
唐突な拒絶に、野口は一瞬だけ、虚を突かれたような顔をした。
「……あー、おっけ。てか安久理、予備校なんて行ってたんだね」
「独力じゃ学校の授業についていけなくてな」
「あの安久理でも? やっぱ進学校はレベル違うなぁ」
感心しているようでいて、どこか遠い世界のことのように言う野口の言葉。
……今のお前は勉強なんてしなくても、将来は明るそうだしな。
「まあな」と短く返事をして、途中で頼むだけ頼んで一杯も飲まなかったドリンクバーの代金を、俺は机の上に置いた。
「じゃあ、話の続きはまたいつか聞かせてくれ」
そう言い残すとさっさと席を立ち、まだ俺を引き留めたそうな野口に背を向けて、その場を後にした。
その『いつか』は、残念ながら多分もう来ないだろうがな、と思いながら。
***
もちろん予備校に行くなんてのは、咄嗟に捻り出したただの嘘だ。
一刻も早く、野口から離れたかっただけだ。
俺は人波に紛れるようにして駅前の繁華街へ流れ込み、そのままとぼとぼと帰路を歩いていた。
初夏特有の湿った夜風が、昼間の熱を吐き出しきれない街に、ぬるりと纏わりついている。
日はとっくに沈んでいた。
だが、都会の夜の街は、そんなことなど意にも介さない。
頭上ではネオンがけばけばしく明滅し、赤信号のたびに交差点の前には人だまりが膨れ上がる。
大型ビジョンから垂れ流される広告音声が、こちらの事情などお構いなしに、楽しげに明るく何かを話している。
香水と煙草と排気ガスが混ざり合った、むせ返るような臭気が時折鼻を突く。
そういうもの全てに、俺は半ば無理やり意識を向け続けていた。
そうでもしていないと、さっきの野口との会話が、何度でも頭の中でリピートされる。
……結局あいつは、『あちら側』の人間だったのだ。
俺と同じ場所で腐っているように見えていたのも、ただ一時的に道を踏み外していただけ。
本来いるべき場所へ戻っていっただけなのだろう。
……俺だけだ。
最初から。
ずっと。
この先も、きっと――。
「――っ!」
不意に、後ろから腕を掴まれた。
喉の奥から変な声が漏れる。
反射的に振り向くと、薄手のパーカーを羽織った華奢な女が、すぐ目の前に立っていた。
「……はぁ、っ……はぁ……」
女は肩で息をしていた。
どこかから走ってきたのだろうか。
フードを深く被っていて、顔の上半分は影に沈んでいた。
見えるのは、白い顎先と、浅く開閉する口元くらい。
ただ、その隙間から零れる髪が、一際目を引いた。
銀色に、ほんの少し青を溶かしたような、見慣れない色。
緩やかな曲線を描きながら肩口へ落ちる髪には艶があって、丁寧に手入れされているように見えた。
「あ……」
女が小さく息を呑む。
ふっと、学校の廊下ですれ違う女子を思わせる、独特の甘い匂いが鼻先を掠めた。
……なんだ。
なんなんだ、こいつ。
キャッチか。
宗教勧誘か。
それとも美人局か何かか。
どのみち、こんな夜の繁華街で、わざわざ俺みたいな人間に女が声を掛けてくる理由なんて、ろくでもないものに決まっている。
ただでさえ俺は、不審者の極みのような見てくれをしているのだ。
もし厄介事に巻き込まれでもしたら、その時点で不利になる。
そんなことは、これまでも嫌というほど思い知らされてきた。
俺は強く警戒しながら、大きく身を引いた。
その瞬間だった。
ふわり、と。
不意に吹き抜けた風が、彼女のフードを後ろへ攫った。
それまで影に沈んでいた彼女の顔が、繁華街の光の下に晒される。
息が止まった。
警戒も、疑問も、逃げ出したいという衝動すらも、一瞬どこかへ消える。
ただただ、露わになったその顔から、目を離せなくなった。
そして、数秒後、
――こんなにも美しい女が、この世に存在するのか。
俺はただ、それだけを思った。
初雪のように白い肌。
淡い色を宿した大きな瞳。
小さく整った鼻。
桜色の瑞々しい唇。
細い顎先へ落ちていく、繊細な輪郭。
ひとつずつ拾い上げれば、たぶん言葉にはできる。
けれど、それらをいくら並べたところで、目の前の女には到底届かない。
全てのパーツは、一つの顔の中で、恐ろしいほど自然に噛み合っていた。
何一つとして余っていない。
何一つとして足りていない。
頬を見れば、瞳へ戻される。
瞳を見れば、鼻に吸われる。
鼻を追えば、今度は唇に目が釘付けになる。
だから、視線に逃げ場がない。
ラノベやギャルゲーで、美少女の雰囲気を描写するための言葉なら腐るほど見てきた。
儚い。
透明感がある。
触れたら壊れてしまいそうな。
どれも、きっと間違ってはいない。
けれど、どれを当てはめても、その瞬間に言葉の方が敗北する。
ただただ、圧倒的に美しい。
陳腐だと思った。
けれど、そんな陳腐な語彙でしか、俺には目の前の女を、上手く表現できなかった。
女は潤んだ瞳で、じっと俺を見つめていた。
「…………やっと……」
その唇が、かすかに動く。
「……やっと、出逢えた……」
今にも泣き出してしまいそうなほど掠れた声だった。
けれどその響きはどうしようもなく澄んでいて、聞いているだけで嫌胸の奥がチクチクと痛くなる。
そのまま彼女は、泣き笑いのような表情を浮かべながら、小さく呟いた。
「わたしの、王子さま……!」




