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パンゲア王国の異端児譚  作者: 霧ヶ原 悠
第一章  意味を持たないことに、意義は見出せない
2/21

 シナル宮殿は地下二階、地上十四階の特徴的な形をした建物だった。地下にある王立研究所がどんな形をしているか今の時点で知ることはできないが、地上に出ている建物は一見の価値があるとアッシュは思った。

 一階から五階までの第一層は王立研究所附属学院とその学生寮。直径十キロメートルにも及ぶ巨大な円柱型の建物だ。それより一回り小さい円柱型の建物が上に乗っている。この第二層は役所で、シナル宮殿の階数で数えれば六階から九階だ。さらに一回り小さい第三層が十階から十二階で、ここは近衛兵の詰め所兼議事堂があり、最上層にあるのが国王の住まうシナル宮廷だ。ようするにこのシナル宮殿という建物は、円い積み木の上に一回り小さい積み木をどんどん積み上げたような形をしているのだ。

 (どんな設計だよ、これ)

 外階段の真下に大きく開かれた学院の入り口をくぐり、木製の階段を上りながらアッシュはため息をついた。前を歩いていたユキアが軽く学院の中を紹介する。

 「一階から三階までが教室で、四階が男子寮、五階が女子寮です。異性の寮への出入りは、どんな理由があっても禁止ですからね。覚えておいて下さい」

 「言われるまでもなく」

 そんなこと誰がするか。

 アッシュの態度から言いたいことを理解したユキアは「それでよろしい」と頷いた。

 階段は東と西に一つずつあり、今アッシュたちは東側の階段を上っていた。そして四階に着いたとき、そこには黒色の詰め襟を着たアニマが立っていた。

 「お疲れさまです、ソルダーテ」

 「はっ、お疲れさまです。学院長殿」

 ユキアに声をかけられたアニマは、敬礼をして答えた。アッシュのほうに一瞬目線をやってから、すぐに直立不動の体勢に戻った。

 「ご覧のように、四階と五階にはそれぞれ寮監のアヴァターラが年中無休で見張っています。授業時間中も定期的に見回りをしていますし、寮の行き来以外にも、規則を破るような真似は慎むように。ソルダーテは、そのあたり厳しいよ」

 話し声を聞きつけたのか、階段を上ったすぐ前の部屋の小窓が開いて、三十代ぐらいの男が顔を出した。 

 「おお、学院長じゃないですか。どうしたんです?」

 「お疲れさまです、サボエラ寮監。ええ、ちょっと彼を案内していて」

 「彼?」

 サボエラの目線がアッシュへ移る。一瞬その顔がいぶかしげに歪められたが、すぐに得心がいったように頷いた。

 「なるほど。それが例の奴ですか。そりゃ学院長自らが出迎えるはずですね」

 「ええ、まあ。ディーストンくん、授業期間外に寮を出入りするときは、必ず寮監に報告するとともに、出入録を書く規則になっています。そのことや、先ほどの異性の寮への出入り禁止などは生徒手帳に書いてありますから、ちゃんと読んでおくように」

 「ああ」

 「貴様、なんだその態度は! 学院長に向かって!」

 サボエラは憤慨したようだが、アッシュはふんとそっぽを向いただけだった。さらにサボエラが怒鳴ろうとしたのをユキアが止める。

 「まあまあ。僕は気にしてないから。今日の出入録は君がつけてくれますか」

 「学院長がそう言うなら構いませんけどねえ。……おい、貴様。少しは年上に対する礼儀ってものを示さねえか」

 だがアッシュがなおも無視を続けたので、サボエラは忌々しそうに舌打ちした。

 「これがホモデメンスってやつかよ。ロクでもねえな」

 ピクッとこめかみを引きつらせ、アッシュはサボエラを睨みつけた。サボエラも「なんだ、文句あんのか」と同じく睨む。その二人を見て、ユキアは軽く頭を振った。

 「長い付き合いになるというのに、最初からけんか腰とはいただけませんね。……さて、ではそろそろ君の部屋へ行きましょうか」

 歩き出したユキアにアッシュはおとなしくついていったが、窓を閉めるまでサボエラはアッシュの方を睨んでいた。

 「男女ともに寮のつくりは同じです。見て分かるように、左右にぐるりと部屋が並んでいます。お風呂と食堂は東側にあります。各自の部屋は全て相部屋で、一人部屋はありません。もっとも、相手がいなくて一人ということはありますけどね」

 部屋は全部で六十あった。全校生徒は三百六十人ということだそうなので、年によっては抽選になるそうだ。抽選漏れした生徒には、学校近辺の下宿が紹介される。学生寮は学校の上にあるため通学に便利で家事も一切しなくていいが、そのぶん規則にもうるさく、自分だけの世界が構築されにくい。相部屋を嫌い、学年が上がる時に下宿へ転向する人も時々いるという。一方、下宿は家事全般を自分でこなさなくてはならないが、自分だけの自由な時間が好きな時に取れる。学生寮と下宿はどっちもどっちであり、合格者もだいたい半々程度に分かれるそうだ。

 アッシュの場合は、無条件で三年間学生寮入りがすでに決定している。分かっていたことでもあるため、アッシュにできたのは、ルームメイトが人間に興味がなく、無口な人物であるよう祈ることだけだった。

 一番奥の四〇三八号室の前で、ユキアは足を止めた。

 「ここが君の部屋ですよ」

 ドアが閉まっているため、もうすでにルームメイトは到着しているようだ。

 ユキアがコンコンと軽くノックすれば、中から「はいー?」という間延びした声が返ってきた。

 「失礼しますよ、イルダス・グランツェくん」

 「どうぞどうぞ。……ってうおおお!?」

 イルダスというらしいアッシュのルームメイトは、ユキアを見て文字通り、椅子から転げ落ちた。この時点で、アッシュは自分のささやかな希望がなくなったことを悟った。

 「が、学院長殿!? ですよね! 入学式前にお目にかかれるとは、なんたる幸運! どーもはじめまして、イルダス・グランツェと申します!」

 イルダスは素早く立ち上がると、ユキアの手を両手で握った。

 イルダスの注意がユキアに向いている間に、アッシュはすばやく部屋の中を観察した。

 ドアの正面に、平均的なサイズの学習机が二つ並んでいる。備え付けの二つの引き出しには、鍵がかけられるようになっていた。机の上には教科書などが立てられるように、しきりのついた小さな机上ラックが置いてある。壁の両側にはロフトベッドと、その下にクローゼットが設置されていた。ベットの上には布団がすでにたたまれている。机とベットの間には、カーテンが引けるようになっていた。アッシュの身長では、少しかがまないとベットの下には入れないようだ。

 ドアから見て右側は、すでにイルダスの荷物が散乱していた。

 「……ええ、よろしくお願いします。君の活躍を楽しみにしてますよ」

 ユキアは人懐っこい笑みを浮かべるイルダスの手をやんわりと外し、アッシュを示した。

 「彼は、君のルームメイトのアッシュ・ディーストンくんです。仲よくしてあげて下さい」

 イルダスは、じっくりとアッシュの顔を眺めた。アッシュも、不愉快そうに自分の監視役であろう男を観察した。

 オレンジ色の短髪に、緑色の瞳。浅黒く焼けた体は、特にがっしりしているわけでもぽっちゃりしているわけでもなく、平均的な体格と呼べた。

 (第一印象、お調子者の頭の弱そうな奴。けど、どこか一筋縄でいかなさそうな……俺の直感が警戒しろと言っている)

 じきに、イルダスはふーんという声を洩らして腕を組んだ。

 「アッシュ、ね。覚えやすい名前してんな」

 「どういう意味だ」

 「そのまんまさ。お前、髪と目の色が灰色アッシュじゃん。だから」

 「……よく言われる」

 『お前の名前は、一度聞いたら絶対に忘れない』。アッシュは今までの人生の中で、何度もこのセリフを言われてきた。

 その理由の一つが、まさに今のものだ。自分の身体的特徴からすぐに連想できるので、忘れられにくい。

 もう一つの理由が、世界で唯一アッシュだけが持つ肩書き、〝ホモデメンス〟によるものだ。アッシュが男の身でアニムスを召喚したとき、その事実は世界中に報道された。だから、アッシュの顔や名前を見た人が「あっ、あいつホモデメンスの奴だ」と思い出してもおかしくはないのだ。特に、学院ここのようなアヴァターラを身近に扱うところに身を置くような者たちは。

 「ちなみにオレは、名前は忘れてもキャラは忘れないってよく言われるゼ☆」

 「よく分かる」

 片目をつぶって親指を立てたイルダスに対して、速攻かつ無表情で答えたアッシュ。それは思いのほかイルダスの胸を抉ったようだった。

 「ち、ちょっとは否定してくれよ……。まあ、いいや! にしてもお前でかいよなー。身長何センチぐらいあるんだ?」

 「……百八十五」

 「百八十五! ちくしょー! 羨ましい奴め!」

 「お前もそんなに変わらないだろ」

 「変わるわ!」

 くわっとイルダスが目をむく。すたすたとアッシュのすぐ目の前まで来ると、トントンとその胸を叩いた。

 「六センチだぞ、六センチ! お前はその差を理解していない。いや、背の高い奴は誰も理解していない。差が一センチとかなら、まだ二人が並んでもその差は目立たないだろう。だが! 一センチ、また一センチと差が広がるたびに、背の低い奴はその差を痛感する! 許されるのはせいぜい三センチまでだな。それが今! オレとお前の身長差は六センチ。倍だぞ、倍!? これが羨ましがらずにいられるか! 背の高い奴はなあ、それだけでモテるんだよ、この野郎! 隣に高い奴がいるとな、世の中の女の子の目は全部そっちに向いちまうんだよ! デブッちょならまだしも、お前はがっしりとしつつ細い! 女の子が大好きな細マッチョという体型だ。モテる要素しかねえじゃねえかぁー!! よってお前は敵! 今から敵と見なす! オレの半径百メートルには入るなよ!」

 大げさに天をあおいだかと思えば、床を叩いて泣く。百面相を繰り返し、つらつらと語るイルダスの言い分を理解することを、アッシュは早々に諦めた。具体的にいつからと言うと、『お前はその差を理解していない』からだ。

 だが、どこまで本気かは分からずとも、相手から『敵』認定されたことは、アッシュにとって良いことだった。そもそも、アッシュは誰とも仲良くなる気はなかった。

 「分かった。アンタの半径百メートルには近づかないようにする」

 「だからちょっとは否定しろー!」

 イルダスの手がアッシュの胸ぐらへと伸びるが、アッシュが間合いを見切り、ごく自然と後ろへ一歩下がったため、イルダスの手は空を切った。

 なぜ空ぶったのか理解できなかったイルダスが、「お? お?」などと言いながら両手を握ったり開いたりした。

 すると、会話の流れが一段落した(イルダスの口が止まった)のを見て、ユキアが一つ軽い咳をした。

 「コホン。えー、ではディーストンくんも無事に部屋へ着き、自己紹介もすんだようですので、私はそろそろ退散しますね」

 「はいはい、どうもお疲れさまでしたー!」

 ころっと表情を笑顔に変えて、イルダスはユキアに頭を下げる。それに一分の隙もない笑顔で答えて、ユキアは部屋を出て行こうとした。ドアを閉める直前で、思い出したようにユキアはアッシュへ振り返った。

 「そうそう。明日は九時に先ほどの正門前まで来るように、とのことですよ。検査をするそうですので」

 「……チッ。分かったよ」

 「忘れないようにお願いしますよ」

 眼鏡の奥の目が、笑っていなかった。

 体がゾクリと震え、それに気づいたアッシュはまた舌打ちを零した。その間にドアは閉まり、ユキアの姿は完全に見えなくなった。

 とにかく荷物を片付けてしまおうと、顔を上げてドアを見つめるイルダスに背を向けた。すると、はーという感嘆のため息混じりに、イルダスがぽつりと声を洩らした。

 「いやー。まさかこんなすぐに、ユキア・ジャンティルなんていう超大物に会えるとは思わなかった。さすがはホモデメンスのブランド」

 ゴトン、という重い音が部屋に響いた。

 何事かと振り返ったイルダスが見たのは、さっき以上に眉間にしわを寄せてこちらを見下ろすアッシュの姿だった。

 「……今、なんて言った?」

 「え?」

 「ブランド? ホモデメンスがか?」

 アッシュの迫力におされ、イルダスの頬を汗が伝った。

 「え、えっと」

 「押し付けられた、差別するための言葉が、ブランドだと?」

 アッシュの怒りが爆発する前にと、イルダスは片手を顔の前に上げた。

 「す、すまん、好きじゃなかったんだな、その呼び方。ブランドなんて言って悪かった……。けど」

 ふっとイルダスの口が弧を描いた。

 「オレから見れば、やっぱりお前の肩書きはブランドと同じだよ」

 さらに顔を歪めたアッシュを、まあまあと抑える。今のイルダスは、さっきまでのお調子者から一転、何かを企む策士のような顔つきだった。

 「この業界にいてアッシュおまえの名前を知らない奴がいないように、ユキア・ジャンティルという名を一度も聞いたことがない奴はいない。三百戦無敗のコロッセオの覇王にして、数々のアヴァターラの性質に関する論文発表した研究者……。そんな人に顔と名前を覚えてもらえれば、将来への大きな足がかりとなる。それをお前は、顔と名前を覚えてもらってるばかりか、興味まで持たれている。オレのような一般人から見れば、そりゃもう。垂涎の限りだぜ」

 「アンタだって、さっき期待してるって言われただろ」

 チッチッチとイルダスは指を振った。

 「分かってねえな。ああいう人たちは、本当に期待している奴に『期待している』なんて言葉はかけねえんだよ。あれはただの社交辞令だ」

 そのまま腕を組み、肘をトントンと叩きながら椅子の方へ移動する。移動するイルダスにあわせて、アッシュも顔を動かしていく。

 「それに比べてお前は、イーストエンドと揶揄されるような田舎町の農夫の家に生を受けて十六年。世界初、史上初の事例となったおかげで、将来の安泰を約束されたようなもんだ。全く、羨ましいかぎりだぜ。なあ、アッシュ?」

 どかっと椅子に座ったイルダスが指差した。

 「……将来の安泰なんて。モルモットにそんなもん、あるかよ」

 「え?」

 イルダスの聞き返しを受けて、アッシュはハッとして口を抑えた。心の中だけで呟いたつもりが、声に出してしまっていたらしい。

 そのまま無言を貫こうとするも、まっすぐにアッシュを見るイルダスの目を前にして、それができなかった。

 「なんだよ、モルモットって」

 「……そのまんまだよ。俺は、クソジジイどものいいおもちゃにしかならねえのさ。お先真っ暗だよ。それでも羨ましいか?」

 「それが嫌なら、なんでこんなとこに来たんだよ」

 「……抗えるもんなら、とっくに抗っているさ」

 知らず知らずのうちに、手に力がこもっていた。

 たかだか十二歳だったあのときの自分に何ができた。幼かったあの時から、何度も逃げ出そうと試みた。だが、どこへ行っても必ず探し出され、その行動すらも記録された。自分のしていること全てが大人を、研究者を喜ばせていると気づいた時点で、無駄に動くことを——すなわち抗うことを——やめた。それが間違っていたとは思っていない。抗えば抗うほど、奴らは新種発見の喜びを感じている。それが無性に悔しくて、気持ち悪くて、だから抗わない。

 だが頭ではそう分かっていても、感情は納得できていない。だから、中途半端に反抗的な態度を取ってしまう。

 逃げ出すことも負け。受け入れることも負け。だから俺は、せめて——

 「忘れない。あいつらが言ったこと、俺にしたこと、全てこの脳に刻みつける。この先どんな実験が俺を待っているか知らないが、俺はその全てを絶対に忘れない」

 それは、アッシュの宣戦布告のようなものだった。

 監視役であろうイルダスに、そして今もどこかでアッシュを見張っている研究者たちに向けて。

 「相手がでかすぎるんじゃねえの。どう見てもお前、ビビってるぜ」

 イルダスの言っていることは正しかった。図星を指されたということだが、アッシュはそれに逆上することはなかった。

 「意地と虚勢は張り通してなんぼだ。最高に不幸な星の下に生まれたが、一度きりの人生だ。俺は、俺の生き方を貫く」

 静かなアッシュの切り返しに感心したのか、イルダスはしきりに「ほー」と言いながらアッシュをまじまじと見る。

 あまりにも長く見られたので、居心地の悪さを感じたアッシュは頭を掻くと、話題を変えようと口をとにかく動かした。

 「それより、なんで俺が農夫の家の出だと知っていた?」

 尋ねたあとで、アッシュはその質問の愚かさに気がついた。イルダスは自分の監視役であるはずだ。ならば、その程度のことは聞いているに違いない。

 だが、イルダスの答えは違っていた。

 「オレの親父殿が議員様なんでね。そのぐらいのことを知るのは朝飯前なんだよ」

 それも、ウィンクつき。

 なんとなく気を削がれたアッシュは、大きなため息をついて、落とした時に倒れたらしいトランクを立て、ふたを開けた。そこから私服や本を取り出して収納していく。

 「ま、あれだな」

 ニカッと笑ったイルダスが、アッシュに向けて片手を上げる。

 「ルームメイトがホモデメンスとかいう奴だっていうから、どんなイカレた野郎かと思ってビビってたけど、なんだ。べつにお前、悪いやつじゃなさそうじゃん。これからよろしくな、アッシュ!」

 アッシュの目がハッと見開かれる。

 イルダスの何気ない一言が、記憶の中のワンフレーズと重なった。


 『お前、悪いやつじゃなさそうだし、べつにいっか。これからよろしくな、相棒!』

 

 弾かれたようにアッシュは、ベットと机の間を仕切るカーテンを引いた。

 「ええ!? なんで!? どうしたんだよ、いきなり!?」

 「……アンタの半径百メートルには近づかないと約束したからな」

 「マジで信じたのかよ⁉ 冗談だって! なあ、おいー!」

 アッシュは、もはやイルダスの言葉など耳に入っていなかった。バクバクと飛び跳ねる心臓を、服の上から抑える。

 あまりにも唐突な、何気なさすぎるが故の不意打ち。

 フラッシュバックするあの時。そう、

 (忘れもしない、四年前——)


         *         *         *


 この国では六歳になると全員、初等教育を受けるための学校に入る。

 アッシュも例外ではなく、パンゲア大陸の東の田舎の学校に入学した。そのころは何もかもが新しく、また心躍る毎日であった。幼なじみたちとともに野山を駆け回り、悲鳴を上げながら机に向かい、時にはいたずらをして怒られ、時には喧嘩をして泣いた。六年はあっという間に過ぎた。

 初等教育の卒業時に、子どもたちは全国百八十ヶ所ある登録所の一つへ赴き、自身のアヴァターラを召喚する。それは儀式イニシエーションと呼ばれ、学校ごとに申請する。生徒は通知のあった日時に指定された登録所へ行くのだ。

 その日のことを、アッシュは一生忘れないだろう。

 両親に連れられ、白い建物の中へ入る。待合室で順番を待ち、名を呼ばれて一人奥へと進む。そこには、湖があった。

 深く、黒く、底が知れない湖。小さかった当時の自分にはとても大きく見えた。

 そのほとりで下着一枚になり、職員に人工呼吸器をつけられた。アヴァターラを召喚するには、この湖の底へ沈む必要があるからだ。それを聞いて不安にもなったが、今まで事故が起きたことはないと職員は言った。大丈夫だと。

 そしてベットに寝かされ、職員が隣で長々と何かを話しているのをぼんやりと聞く。難しすぎて何を言っていたのか、覚えていない。ただ、自分のアヴァターラがどんなものか、それだけが気になっていた。どうせなら、可愛い女の子がいいなあ。そんなことを考えていたと思う。

 ちゃぷんと自分の体が水面に触れ、そのままゆっくりと湖に浸かっていくのを感じた。それで意識がはっきりと覚醒することはなかったが。

 自分の体が湖の底へ沈んでいくのに合わせるかのように、自分の意識もだんだんと、どこかもしれぬ無意識の世界へ向かっているような気がした。

 自我をいつ手放したのか、それとも手放す前だったのか。それすらも曖昧で分からないとき、アッシュは自分を呼ぶ声を聞いた。

 『お前を私の半身として選ぼう』

 そして自分の手が誰かに力強く引かれるのを感じた。上へ、上へ、水面へと。

 「ぷはぅ!」

 湖から上がったアッシュは、人工呼吸器を外したり目に入ってくる水を拭ったりすることに忙しくて、自分のアヴァターラの姿を見ることも、職員たちが驚きの悲鳴をあげたことにも気がつかなかった。

 職員たちが慌ててどこかへ出て行ったのも知らず、ようやく落ち着いたアッシュは自分のアヴァターラを見た。そして、とっさに何が起こったのか理解できなかった。

 目の前に膝をついていたのは可憐な少女でも、妖艶な美女でもなく、鍛えられた体躯を持つ男だった。

 「えっ……と……」

 『はじめまして。私の半身よ』

 「うおおっ!?」

 アッシュはズザザっと後ずさった。

 「なん! だれ! なんだお前!? 男が召喚するアヴァターラってのは、女の子じゃないのかよ!? お前、なんだいったい!?」

 混乱しているアッシュを見ても、アヴァターラは顔色を変えなかった。むしろ冷静に、

 『そうか。それは期待を裏切ってしまって申し訳ないな』

 と言った。アッシュは陸に上がった魚のように口をパクパクさせていたが、しばらくして、うーんと唸りながらアヴァターラの肩を叩いた。

 「まあ、あれだ。たしかにもっと可愛い女の子とか想像してたから、残念だけどさ。けどまあ召喚しちゃったものはしょうがねえ。お前、悪いやつじゃなさそうだし、べつにいっか。これからよろしくな、相棒!」

 ニカッと笑ったアッシュに対して、アヴァターラも黙って、だが力強く頷き返した。

 「さて、じゃあまず名前か……。なんか希望あるか? 俺が考えてたのって女の子の名前ばっかなんだよなー」

 『べつになんでも構わない』

 「それ、一番困るぞ……」

 うーんと首をひねっていると、ふと自分の目の前に立つアヴァターラが体にぴったり合うシャツと短いズボン姿でいるいることに気がついた。

 「あれ、お前はそんな格好でいいのか? 俺の母さんのアニムスは常にタキシードを着てるけど」

 農夫の粗末な家には不似合いな格好だが、母親もアニムス本人も意外と気に入っているようだった。

 『では失礼して』

 そう言うと、目の前に座っていたアヴァターラは立ち上がり、アッシュが瞬きをした間に、無骨な甲冑に身を包んだ姿になっていた。

 「すげえ! あれだな、本に出てくる騎士みたいだ!」

 『この格好が、私にはしっくりくる』

 「ふーん。じゃあずっとその格好でいろよ。俺はべつに気にしねえし。……あ、じゃあお前の名前! カルヴァリーレでどうだ? 『騎士』の古い呼び名だってどっかの本で読んだんだ」

 『お前がそれでよいのなら』

 アヴァターラ……カルヴァリーレも気に入ったようなので、改めてアッシュはぴょんと立ち上がって、手をさし出した。

 「よろしく、カルヴァリーレ!」

 『こちらこそ、よろしく頼む。アッシュ・ディーストン』

 二人の間で、固い握手が交わされた。 

 しかし、それは良い結果をアッシュにもたらさなかった。

 次々に向けられる好奇の視線。

 「これは驚いた! いったいどんな突然変異なのかね!」

 「生まれてから今までどうやって育ってきたのか、可能なかぎりの詳細なデータを集めましょう!」

 「こんな希少な存在は早々に隔離して保護しなければ! そして調査を!」

 嘲笑、侮蔑。

 「あいつ、男のくせにアニムスなんか呼び出しやがったんだぜ!」

 「お前実は女なんだろー!」

 「男ならちゃんと下についてんだろ? 見せてみろよ!」

 そして嫌悪、忌避。

 「あの子、男の子なのにアニムスを呼び出したんですって。不気味ね」

 「まあ、気持ち悪い。なんか変な病気とかじゃないでしょうね」

 「嫌ね、そんなことがよりにもよってこの町で起こるなんて。怖いわー」

 両親ですら、アッシュを避けた。

 中等教育を受けるための学校に通っていた三年間。それは、アッシュにとって屈辱と辛苦の三年間だった。

 中等教育までは義務教育として国の法律に定められており、すぐに研究所に運び込まれることはなかった。だからこそ、アッシュには研究所への抵抗心を育てる十分な時間があった。さらに、自分を見下し、暴力を振るう者たちに立ち向かうために体を鍛え、自分を避け、排斥しようとする大人達に認めさせるために学を深めることもできた。

 幼なじみ二人の存在も、アッシュを大きく支えた。彼らとの思い出だけが、誰も知らない、何も分からない、先行きが真っ暗なアッシュの足下を照らす、唯一の明かりだった。

         


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