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その日の放課後。
教室の掃除を終え、研究者たちに呼び出された時間まで少し余裕があったアッシュは、一度部屋に戻ろうとしたが、階段を上りかけたところで呼び止められた。
「やあ、アッシュ君。もう部屋に戻るのかい?」
萌葱色の髪に同じ色の瞳。眼鏡をかけて人当たりのよい笑顔を向けてくるこの男は、『深紅の騎士団』ナンバー2で、名をミカエル・ラザフォードといった。レグルスの幼なじみで、無二の親友である。『深紅の騎士団』では「参謀」と呼ばれ、レグルスと同じく多くの生徒に慕われていた。
「……特にやることもないんで」
無愛想にそう返す。
「そうなのか。それじゃあ、これから一緒に実習室へ行かないか? ちょうど今、君の友達のイルダス君とブルーノが模擬戦をしているんだ。応援がてら覗きに行かないかい」
「だからどうしたっていうんです。俺はアイツが勝とうが負けようがどっちでもいいし、応援に行くようなガラでもない。なにより俺はアイツとは友達じゃない」
「冷たいなあ」
ミカエルはブレないアッシュの態度に困ったように笑うしかない。
話は終わりとでも言いたげに、アッシュはさっさと階段を上っていこうとした。
「じゃあ言い方を変えようか。君は近いうちに必ずブルーノと対戦する。そのときに備えて、敵の戦い方は見ておいた方がいいんじゃないかな?」
「なんだと?」
思わず足が止まる。
「なぜそう言い切れる」
「僕はブルーノのことをよく知っているからね。そして君が、その対戦を断らないってこともね」
めがね越しに伺える瞳は深く、考えを読みとることはできなかった。
その予言を無視することができず、結局アッシュはミカエルとともに実習室へ行くことにした。
「そういえば、この前ブルーノが失礼な態度をとった件だけど、こっちで注意をしといたから勘弁してやってくれるかな。僕らと違って彼は寮住まいだから、君とも顔を合わせる機会も多いだろうし」
「……ああ」
言われるまですっかり忘れていた。そして思い出した今でも、アッシュにはどうでもいいことだった。なので
「そうですか」
とだけ答えておいた。
「彼も悪い人じゃないんだけどなあ。一年生で同じクラスになって以来、レグルスに心酔しているからちょっと周りが見えてない時があるんだよねぇ。あっ、そういえば君はブルーノと同じ大陸の極東の出身だったね」
「……? 俺はたしかに東の果ての出だが、そのブルーノとかいう男のことは知らないですね」
「あれ。まあ通う学校が違えば接点はないか。ハミルタの街は広いしねえ。ブルーノは、ハミルタの街長の一人息子なんだよ」
「……へえ」
アッシュの声には幾分かの驚きが含まれていた。
ハミルタは、アッシュの故郷の町を管轄する一大地方都市だ。管轄する町の数は十を越え、面積だけで見れば大陸でも一、二を争う巨大さだ。ただし、観光になるような名所もなく、他都市に売り出せるような鉱物資源もないため、よく言えば長閑な、悪く言えば寂れた農業中心の街である。
街長はアッシュも見たことがある。暢気なおっさんというイメージだ。年に数回ハミルタで大々的に開催される祭に、幼い頃のアッシュは幼なじみたちとともに足繁く行っていたからだ。だが、その息子というのは見た記憶がなかった。
「そういえば、そっちの大将はどうしたんですか。いつも一緒にいるのに」
「おや、レグのことが気になるのかい?」
ミカエルの声が嬉しそうに跳ねる。ミカエルも例に漏れず、アッシュを『深紅の騎士団』に引き入れたい派の人間だった。
ちなみに、レグルスを「レグ」という愛称で呼ぶことを許されているのは同学年の幹部数人だけである。
「チッ……。なんでもない、忘れろ」
「そんな怖い顔しないでくれよ、せっかくのいい男が台無しじゃないか。……レグはいま実家に帰ってるんだよ」
「実家?」
「そう。なんでも、近いうちにお父さんのマーカイック議員と懇意にしている議員さんやそのご家族を招いてのホームパーティーをするらしくて、その準備をしにね」
(二世議員たちを今のうちに自分の手下にしようってか? ホームパーティーなんてかわいいもんかよ)
心の中でアッシュがそう吐き捨てたときには、二人は第一実習室前の廊下に足を踏み入れていた。
足音が聞こえたのか、何人かが窓から顔を離してこちらを見る。そしてミカエルの姿を認めたとたん、悲鳴にも近い歓声が上がった。
「ちなみに、そのホームパーティーにはイルダス君も招待されるらしいよ。本人は今日の昼食を食べているときに聞いて、とても驚いていたみたいだけどね」
「アイツも親が議員だって言ってたし、それにマーカイック先輩はグランツェの親を知っていたようだし。当然なんじゃないですか」
「おお、よく覚えてたね」
軽い拍手をアッシュに贈ると、ミカエルはさっと観戦している別の深紅の騎士団の幹部のもとへ向かった。
「やあ、ジークフリート。勝負はどんな感じだい」
「おせーぞ、ミカエル。もうすぐ決着つくぜ、これは」
「おや、それはちょっと読み間違えたかな」
アッシュは、以前見たイルダスのアニマを思い出す。
(タロットカード七十八枚を自由に使いこなすアヴァターラだったな。防衛術式の攻撃転化もできる。さらに、王都の学校に通って模擬戦闘経験も豊富とくれば。ブルーノとやらのアニマがどんなやつかは知らないが、まあグランツェの勝ちだろうな)
しかし、ジークフリートの形のいい唇から発せられたのは、アッシュの予想を裏切るものだった。
「ブルーノの勝ちだ」
(……!?)
軽く目を見張ったアッシュは、心なしか早足で窓辺によると中を覗きこんだ。
荒々しい波と太い木の枝が交錯する中、イルダスとブルーノのアニマが対峙していた。
ここで話は十分ほど遡る。
授業が終わったとたん、イルダスは日課となりつつある模擬戦の観戦のために実習室へ走っていった。アッシュやユーウェンがいようがいまいが、イルダスは毎日実習室の窓にはりついて、色んな生徒の色んな戦い方を見学していた。
今日も今日とて手に汗を握りつつ観戦していると、ブルーノが実習室前の廊下に姿を現した。彼と仲のよい『深紅の騎士団』のメンバーも一緒だった。
「あ、ブルーノさん。お疲れさまです」
「ん? ああ。お疲れ、イルダス」
「ブルーノさんも模擬戦ですか? そういえば、オレまだブルーノさんのアニマ見たことねえや」
「お前のアニマもおれは見たことねえよ。聞くところによれば、なかなかのものらしいじゃねえか。中等校時代、メトロポリスの大会で三位までいったって?」
「いやー、そんな。中等校レベルで、しかもメトロポリスに住む奴らだけの規模の狭い大会では、あんま自慢話にはならないですよー」
「十分すげえよ。レグルスさんも期待してるようだし。ホームパーティーにも招かれてるって言うじゃねえか。羨ましいなあ、おい。ルーキー」
ブルーノは馴れ馴れしくイルダスの肩に手を回す。困ったような顔をするも、昔から礼儀というものを叩き込まれていたイルダスは、その手を払いのけようとはしなかった。
「いやいや、オレなんてまだまだですよ。それにホームパーティー云々は家のことだし、オレにはあんまし関係ないですって」
一瞬、ブルーノの目に暗い色が浮かんだ。が、それはあまりに短いことであったため、それをイルダスが不審がることはなかった。
「よーし! じゃあいっちょう試合するか、イルダス!」
ブルーノの大きな手がイルダスの背中を思いきり叩く。
「げほっ! え、いいんですか?」
「もちろん。相手になるぜ、ルーキー」
「うわっ、マジですか。やったぜ! じゃあ、今やってる人たちが終わったら……」
「はあ? なんでそんなことしなきゃいけねえんだよ」
「え?」
ぽかんと口を開けるイルダスを後目に、ブルーノと他のメンバーは実習室のドアを荒々しく開けると、中にいた数人の生徒にむかって怒鳴りだした。
「おらおら! 退けよ、てめえら! 今からおれたち『深紅の騎士団』が使うんだからな!」
颯爽と胸章を掲げる。正式に深紅の騎士団のメンバーだと認められれば与えられる胸章だ。金色の五角形の縁取りに、赤地の上で後ろ足立ちした獅子が一頭彫られている。
それを見た生徒たちは、どこか不満げながらすぐに実習室を出ていった。
同時にリビドーの明かりが消えてしまった室内を、ブルーノと一緒に来ていたメンバーの一人が蒸栗色のリビドーで照らす。
「これが『深紅の騎士団』の権力だ。すげえだろ」
「は、はあ。まあ……そうですね……」
「なんだ? ノリ悪ぃな」
「いや、そんな……。ハハッ」
とりあえず乾いた愛想笑いだけ返しておく。
「えーっと、なんでこんなことができるんですかね?」
「そりゃお前、おれらが偉いからに決まってんだろ」
「へ? いや、あの、え?」
「ま、ちゃんと言えば、毎月やってるこの実習室の安全性諸々のチェックを、レグルスさんが企業の仲介やらなんやらまで含めて全部引き受けたからだよ。タダじゃねえ費用も、もちろんレグルスさん持ち。だから学校側は『深紅の騎士団』に実習室の使用優先権をくれたってわけだ」
「そうなんですかー。すごいですねー!」
口ではそう言いつつも、あの横暴ともいえる態度には納得がいかないと内心では思っていた。
それを知ってか知らずか、ブルーノは人差し指を立ててイルダスを実習室の中へ誘う。
「よーし。遠慮なんかせずにかかってこいよ!」
「んじゃまあ、お言葉に甘えまして……。起きろ、ミルサ!」
三角帽子に花柄の衣装、角笛を腰から下げたミルサがイルダスの前に立つ。
「それがお前のアニマか。ずいぶん派手なナリをしてんなあ」
「オレが気に入ってるんですよ、この格好。だって目立つじゃないですか」
「なるほど。……次はおれの番だな。起きろ、サンドラ!」
ブルーノの左手にはめられた腕輪の一部が開き、黄緑色の半透明の物体が飛び出してきて、瞬く間に人の姿となった。
白を基調としたふんわりとしたシルエット。頭の上にはヘッドトレス。ブルーノのアニマは、メイド服を着た短い緑色の髪のたれ目で、一見すると気が弱そうであった。
「メイド服ですか。男の夢ですね」
「なめてかかると火傷するからな?」
ブルーノは心底楽しそうに唇の端を吊り上げる。
「だとよ、ミルサ。気ぃ抜くなよ」
「イエッサー」
久しぶりの模擬戦である。イルダスもミルサも楽しんでいくつもりだった。
「遠慮なく来いって言ってたわよね。だったら、その期待に応えてあげるわ! 金貨のⅨ!」
生成されたカードから手の平大サイズの丸い金貨が顕現し、サンドラを囲むように配置される。
「からの、聖杯のⅢ!」
強靭な植物の蔦や蔓をその口から溢れさせながら、三つの聖杯がサンドラのほうへ飛んでいく。蔦や蔓が九つのコインを結び、サンドラの動きを止めるはずだった。
「甘ぇぞ、イルダス! おい、サンドラ!」
主の声に応えて、サンドラが銀の玉から生成したのは、刀身がない剣の柄だった。
そして、怪訝そうな顔をするイルダスたちの前でサンドラは高らかに叫んだ。
「発動、ファントムソード!」
柄の上の部分……すなわち、本来ならば刀身があるところが乳白色の光を放った。
「うおっ、眩し!」
「くっ!」
とっさに目を細め、手をかざす。
「振り回すんだ!」
サンドラが言われたとおりに柄を振ると、光の刀身はまるで鞭のようにしなり、九つのコインを真っ二つに切り裂いた。さらに、華麗なステップで移動すると聖杯を三つまとめて串刺しにした。
「すごい……!」
「どうだ! まだまだいくぜぇ!? 伸ばせ!」
ブルーノが手を振り下ろすと、またサンドラも剣先をミルサに向けた。光の刀身は伸びに伸びて、ミルサを突き刺そうとする。
「金貨のⅠ!」
ミルサの前に、巨大な金色の丸い金貨が盾のように立ちはだかる。
「そのまま回り込め! 遠慮すんなよ、やれぇ!」
サンドラの光の刀身は、金貨に当たる直前、その軌道を変えて裏に回り込んできた。
「うわっ!」
ミルサは体をひねってそれをかわすも、頬が浅く切れた。ブルーノの声は聞こえても、金貨が前にあっては刀身の動きが見えない。
だがその痛みよりも、
「うおお!?」
体をくの字に折ってなんとか光の刀身を避けたイルダスのほうにミルサは目を見張った。
(ウソでしょ。なんでイルダスがアヴァターラの攻撃にさらされるわけ? アヴァターラは、正当防衛以外で他者に攻撃してはいけない決まり……)
今のは決して偶然などではなかった。ミルサを第一目標にしながら、あわよくばイルダスも、という思惑が感じ取れた。ミルサの直感でしかないかもしれないが、ひしひしと悪意を感じてならない。
「あっぶねえ……。まさか障害物をよけて攻撃できる機能があるとはなー」
イルダスは特に何かを気にした風はない。イルダスがそうなら、ミルサもわざわざ声に出して指摘するつもりはなかった。とはいえ、このままで試合を続けるつもりもない。
「あのさ、イルダス。ちょっとあたしから離れてて」
「へ? あ、ああ、まあいいけど」
変なこと言うなあとでも言いたげな顔だったが、イルダスは信頼する自分の分身に従って、ミルサから少し距離をとった。
(あたしの思い過ごしってんならそれはそれで構わないけど、もしそうじゃないなら)
無表情でファントムソードをかまえるサンドラの後ろで、ニヤニヤと歪んだ笑みを浮かべるブルーノを見れば、ミルサはどうしても自分の直感を否定することができなかった。
(……最っ低ね!)
ミルサはもう一枚カードを生成すると相手の二人に向かって投げはなった。
「聖杯のⅠ!」
巨大な聖杯から水が流れ出て、サンドラを襲う。
水しぶきを浴びたらしいブルーノが、何事か悪態をつく声が微かに聞こえた。
(物質攻撃は無理でも、これなら!)
ミルサはいまだサンドラを巻き込んで波打つ水に向けてカードを投げた。
「教皇!」
バチッという音とともに火花が散るのがブルーノに見えた。
(あれはまさか!)
ブルーノはあわてて叫んだ。
「逃げろ! ひにょろばげて……!」
慌てすぎて呂律が回らなかったようだが、サンドラはちゃんと主人の意図を読み取っていた。
ファントムソードを幅広く、長く巨大に変化させ、サンドラは柄を握ったまま水から飛び出してきた。そのまま手を離し、自分は宙へ逃れる。水を伝ってきていた電流は、ファントムソードへ流れサンドラには当たらなかった。
(!? ウソだろ、なんで〝神の裁き〟……雷撃が避けれる? なんか細工があるってことか。面倒だな……。けど)
イルダスがぐっと肘を引いた。
(よし。剣を手放した!)
サンドラが電流から逃れたときにはすでに、ミルサはイルダスの前に立っていなかった。
カゾール戦で見せたように、杖のカードを力のカードでその成長力を強化し、太く力強く伸び上がる枝に乗り、ミルサはサンドラの頭上をとっていた。
このときちょうど、アッシュが実習室の中をのぞき込んだのである。
「抑圧!」
「きゃああ!」
ミルサの手のひらから圧縮された空気が放たれ、サンドラを床に縫い止める。その余波を食らって、ファントムソードも甲高い音とともに折れ、同じく床にめり込む。
「これで終わり!」
ミルサが剣を一本生成し、片手で重力波をかけながら、サンドラにねらいを定める。
(ほら見ろ。やっぱりグランツェの勝ちじゃねえか)
アッシュがそう思いかけたとき、サンドラが必死で床を這い、折れてもなお光っているファントムソードの刀身に触れる。
(この重圧の中では、その剣を持つことすら叶わない! 無駄な足掻きよ!)
ミルサがさらに剣を振りかぶったとき、ズブッという柔らかい肉に包丁を突き立てたような音がした。
「……み、ミルサーーーっ!!」
イルダスが目を見開いて叫ぶ。
ミルサの背から腹へ、細い光が通り抜けていた。
(う……そ…………。どうやっ、て……どこから…………!)
ミルサの手から力が抜け、剣が滑り落ちた。同時に重力波も消える。
ガランという音がしてすぐ、ドシャッとミルサが床に落下する音が実習室に響いた。
「ミルサ!」
イルダスが急いで駆け寄ろうとする。
「ミルサ! 大丈夫か!」
アヴァターラが死ぬということは、本体の死以外ではほとんどありえない。爆発に巻き込まれるなど、よほどの衝撃を受けない限りは怪我をしてもすぐに癒える。あまりにひどい場合はブレスレットの中に戻り、休養をとることもできる。だが、だからといって痛みを感じないわけではないのだ。
「ミル……」
「こ、な……いで、イル……ダス」
腹部を押さえながら、ミルサは半身を起こした。
「まだ……せめてあと一発……!」
「ミルサ……?」
執念とも言えるその迫力に、イルダスは思わず足を止める。
それを見て、ブルーノは急速に心の中に優越感が広がっていくのを感じた。
「あははは! どうした、そんなもんか? 期待外れだぜ! もっと使えるもんじゃねえと、レグルスさんの役には立てないぞ!」
ブルーノの揶揄する笑いにあわせるように、廊下で見ていたブルーノと仲のよいメンバーたちが声をそろえてヤジを飛ばす。
「そうだそうだ! もっと修行してから出直してこい!」
「身の程知らずって言うんだよ、お前みたいなのを!」
(……マナーってもんを知らねえのか、この山猿どもは。幹部連中も何も言わねえってのはどういうつもりだ。ヒルダが言っていたように、ただの野蛮な奴らが徒党を組んでるだけと思われてもしょうがねえぞ)
アッシュが目をつりあげて『深紅の騎士団』のメンバーを睨む。しかしミカエルをはじめとする幹部たちは、騒いでいる者たちのことなど眼中にないかのように、イルダスとブルーノに視線を注いでいた。
(……?)
その態度の意図が読み取れず、アッシュは内心首を傾げていた。
同じとき、実習室内ではサンドラが光が消えて柄だけになったファントムソードを持って、ようやく立ち上がったところだった。
「これで勝負はつ「いてないってーの!」
ミルサの握りしめられた右拳から再び衝撃波が放たれた。
「っ!?」
とっさに横へ飛んだサンドラは悪くない。むしろ、ミルサにはそれでよかった。
ドガッという音を立ててミルサの衝撃波が突き刺さったのは、ブルーノの顔のすぐ真横だった。
「…………!?」
あれだけイルダスを馬鹿にしていた口も閉じられ、ブルーノの顔中を冷や汗が伝っていった。
「勝負アリなんて……誰も判定してないんだから、この一撃が反則だなんて、絶対言わせないわよ」
そこで力尽きたのか、ミルサはがっくりうなだれるとイルダスのブレスレットの中に戻っていった。
「ミルサ……」
「~~イルダス!」
なんとか恐怖心を押さえ込んだブルーノの頭に次に浮かんだのは怒りだった。
「てめえ、ざけてんじゃねえぞ! 何だ、今のは! なんてことをしやがる! 当たってたらどうするつもりだ!」
「し、知らないですよ! オレはミルサに何も指示を出していません! ていうか、あいつが意味なくあんなことをするはずありません。きっと何か意味が……」
「意味だとぉ……! ウソつくんじゃねえ! おれになんか恨みでもあんのか、ああ!?」
ブルーノがイルダスに大股で近寄り、その首を締め上げようと手を伸ばす。
すると、慌てて外で見ていたメンバーの一人がドアを開け、ストップをかけた。
「ま、待て! ブルーノ!」
「あ!? なんで……」
そちらを見てブルーノは、初めて『深紅の騎士団』の幹部がそこにいることに気がついた。
「チィッ……。今度あんなナメたまねしやがったら許さねえからな」
そう捨て置いて、ブルーノは踵を返すと八つ当たりするかのようにサンドラの頭を殴った。
「いっ……!」
「てめえもだよ、このうすのろが! なんで避けやがるんだ! もう少しで死ぬとこだったんだぞ、このおれが! 体張って止めろよ!」
「は、はい! 申し訳ありません、マスター!」
「ったく、ちゃんと仕事しろよな!」
もう一度頭を殴ると、ブルーノはサンドラをブレスレットに戻した。
そして実習室から出たブルーノはころっと態度を変え、朗らかな笑顔でミカエルたちに声をかけていた。
(底が浅い、器量が狭い、小賢しいクズ野郎……)
アッシュは苦い唾を吐き捨てたい衝動を押さえ込みながら、ミカエルたちに軽くあしらわれているブルーノをきつい眼差しで見た。
そしてもう用は済んだとばかりにミカエルたちに背を向けて立ち去ろうとしたアッシュは一瞬、実習室の中でまだ立ち尽くしたままのイルダスを目に留めた。
(…………)
だがそれは、本当に一瞬のことで、アッシュはすぐにそこを立ち去った。
(……ちくしょう)
イルダスは、強く強く両手を握りしめた。
イルダスは、さっぱりした性分の男だ。勝っても負けても、対戦相手と笑顔で握手を交わせるような人間だった。
だが、今回はどうしてもそれが出来ない。余計に惨めさと情けなさが増すだけだと分かっているからだ。そしてその要因の多くは、ブルーノが初めからイルダスを派手に負かして恥をかかせ、自分の方が上であるとあからさまに見せつけようとしていたことにある。
(勝つつもりだった。勝てると思っていた。あの人がどんな手でこようが……。でも、負けた。ミルサにあんな怪我までさせて)
今回負けたのは、単純な力量不足だろう。そこは反省すべき点だし、後日リベンジをするためにも、気持ちを切り替えて冷静にこの模擬戦を振り返らなくてはならない。
(けど、こんっな後味悪い悔しさなんてのは初めてだ。叫びたいやら泣きたいやら……。ホント、あの人のあの態度はなんなんだよ……)
無言で据わりの悪い悔しさを噛み締めるイルダスを、『深紅の騎士団』幹部はジッと見つめていた。




