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和らぎ水と、酒祭りの夜  作者: 藤崎雅也
4章:仕込み水
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9/17

僕と山と空がいた

翌週の土曜日、僕は午前四時に目を覚ました。

目を覚ました、というより、目覚ましを止めるために手が動いて、その手の動きで自分が起きていることに気がついた、という方が正確である。早起きというのは、こちらが選んでするものではなく、目覚ましという機械に強制的に引きずり出されてするものだと、二十歳になってから何度か思っているが、この日もそう思った。

外はまだ完全に暗かった。

七月の四時というのは、もう少しで明るくなる、という時間帯ではある。空の東の端に、ほんのわずかに、紺色が薄まり始めている。それ以外はまだ、夜であった。アパートの自転車置き場で自転車を出しながら、僕は、街灯の光が虫の一群を吸い込んでいるのを、ぼんやり見ていた。

月野酒造までは、自転車で十二、三分の距離である。

走り始めると、空気の温度の低さに、まず驚いた。

七月の昼は、もう普通に汗をかく気温である。それなのに、四時過ぎの空気は、別の季節のものだった。半袖のTシャツの上に薄手のパーカーを羽織っていて、ちょうどいいくらいの涼しさである。涼しい、というより、空気がまだ目を覚ましていない、という感じであった。空気にも睡眠時間があるとしたら、今はちょうど、空気のレム睡眠の時間帯である。

ペダルを踏むたびに、暗い住宅街が後ろへ流れていった。コンビニの前で青白い蛍光灯が一台分の駐車スペースだけを照らしていて、その一点だけが昼間の続きみたいに明るかった。あとは全部、夜である。夜の終わりに混じった、僅かな朝のかけら。それを、自転車の僕が薄く割って進んでいる。

月野酒造の勝手口の前に着くと、源造さんはもう外に出ていた。

軽トラックの脇で、煙草を吸っていた。

僕は、源造さんが煙草を吸うのを、初めて見た。普段、母屋の中で煙草の匂いを嗅いだことはなかった。家では吸わないようにしているらしい。家の中で吸わない人が、外でだけ吸う煙草には、たぶん、家の中で吸う煙草とは別の意味がある。

「来たか」

「おはようございます」

「乗れ」

僕は助手席に乗った。

軽トラックの助手席というのは、思っていたよりずっと狭い。膝が前のダッシュボードにつきそうになる。源造さんが運転席に乗り込むと、車内はそれだけで満員になった。シートに古い藁の匂いが染みついていた。藁、というよりは、米と藁と水と汗と、それらが何十年か経ってお互いの境界を失った、独特の匂いである。月野酒造の蔵の中の匂いと、半分くらい同じであった。

出発の前に、源造さんは一度、エンジンを切って車を降りた。

裏庭に回って、源造さんは、井戸の蓋を、両手で持ち上げた。植木鉢を脇に下ろしてから、木の蓋を半分だけずらして、中を覗き込む。

僕も、後ろからついていった。

井戸の中は、暗かった。

暗い、というより、深い、という方が正しい。深さがあるから暗いのか、暗いから深く見えるのか、判別がつかない。僕の頭が、井戸の縁から下に入った瞬間、ひやり、と冷たい空気が顔に当たった。地下から上がってくる空気は、地上の七月とは違う温度を持っている。

源造さんは、井戸の脇に立てかけてあった、古いバケツを手に取った。ステンレスではあるが、もう何十年も使い込まれて、底のあたりが鈍く曇っている。取っ手には、長い紐が結びつけてあった。柄杓ではなく、バケツである。

すっと、バケツを下ろした。

紐がするすると伸びていって、たぶん十メートルくらい下で、ぽちゃ、と小さな水音がした。

源造さんは、ゆっくりと紐を引き上げた。

上がってきたバケツの底には、水が、二、三センチほど溜まっていた。十メートル下からこれだけの水を汲み上げるのに、源造さんは、力みのようなものを一切見せなかった。

源造さんは、その水を、手元の小さな桝に移した。一合枡である。桝の底に水がたまり、水面が、ふっと静まる。

静まった水面を、源造さんは、しばらく見ていた。

見ているだけだった。

飲まなかった。匂いを嗅ぐ動作もしなかった。ただ、桝の中の水面を、上から覗き込んでいた。

見ているだけの源造さんの横顔を、僕は、見ていた。

八十手前の人が、夜明け前の井戸の水を、ただ見ている。それだけの絵である。それだけの絵なのに、何故かこちらまで息を止めていた。息を止めているうちに、源造さんが何を見ているのかが、なんとなく分かるような気がしてきた。分かる、というのは、たぶん錯覚である。錯覚であるが、錯覚にも、ときどき意味はある。

源造さんは、人差し指の先だけ、桝の水に浸けた。

ほんの一瞬だった。指先を浸けて、すぐに引き上げて、自分の手のひらの上で、その指先を、もう片方の親指の腹で挟むように動かした。水の感触を、指の間で確かめている。

「冷たい。十四度ちょいか」

と、源造さんが言った。

「測ってないのに、分かるんですか」

「わしの指が体温計よりは正確じゃ」

これは、たぶん、本当である。

源造さんは、桝の水を、井戸の中に戻した。

戻した、というのが、変な表現だと自分でも思った。普通は「捨てた」と書くべきところである。ところが源造さんの動作は、捨てた、ではなかった。明らかに、戻した、であった。借りていたものを、元の場所に返す動作であった。

「飲まんのですか」

「飲まん。今は飲まん」

「昔は、飲んだんですよね」

「飲んだ。せえじゃけど、もうやらん。井戸の水を生で口にするんはな、わしらの世代の最後よ。佐伯先生もな、絶対に飲ませてくれん。『親方、今はそういう時代じゃないですよ』言うての、笑われるんよ。検査も通しとらん水を口にしてどうする、いう話じゃ。先生の言う通りじゃ」

「でも、見るだけでも、分かることがある、って」

「見るだけで分かるんは、味じゃない。水の機嫌よ。今年のこの井戸は、機嫌がええか、悪いかは、見たら分かる。今年は、ええ。たぶん、上の山が、ええ年なんじゃ」

上の山が、ええ年。

と、源造さんは言った。

そう言ってから、源造さんは、井戸の蓋を元に戻して、植木鉢も元の位置に置き直した。

「行くで」

軽トラックは、月野酒造の小路を出て、酒蔵通りを北の方に抜けた。

西条駅前を通り過ぎ、線路を越え、住宅街を抜け、田んぼの脇を走り、それから少しずつ、坂道になった。

道の両側の家が、だんだん少なくなっていった。

少なくなって、最後はもう、田んぼと、雑木林と、たまに一軒だけぽつんと建っている古い民家、というぐらいの密度になった。空はまだ暗かったが、東の方の山の端が、薄い橙色に染まり始めていた。

源造さんは、運転中、ほとんど何も話さなかった。

僕も、話さなかった。

話さない時間というのは、二人で同じ風景を見ているとき、案外、長く感じない。窓の外をぼうっと見ているうちに、軽トラックは、憩いの森公園の駐車場に入っていた。

駐車場には、車が一台もなかった。

当たり前である。朝の五時前に、こんなところに来る物好きは、僕たちぐらいのものである。

源造さんは、駐車場の隅に車を停めて、エンジンを切った。

エンジンが切れた瞬間、世界が、急に静かになった。

静かになった、というよりは、別の音が、急に聞こえるようになった、と言うほうが正しい。鳥の声。それも、一種類ではない、何種類もの鳥の声。木の葉が、僅かな風に擦れる音。どこか奥の方で、水が流れているらしい、低い音。それから、自分の耳の中で鳴っている、自分の心臓の音。

山道を、源造さんが先に立って歩いた。

僕は、そのすぐ後ろを歩いた。

道は、思っていたよりずっと整備されていた。木の階段が要所要所に作られていて、急なところには手すりもある。観光地の山だから、当然と言えば当然なのだが、夜明け前にここを歩いている人間は、実質的にゼロである。整備されている道を、誰も歩いていない時間帯に、二人だけで歩いている。それは、観光ではなく、別の何かであった。

源造さんの背中は、思っていたより、ずっと丈夫であった。

七十八歳の背中である。背中、というから、もっと曲がっているものだと、僕は勝手に思い込んでいた。それなのに、源造さんの背中は、ほとんど真っ直ぐであった。ゆっくり、しかし一定の速度で、登山道を登っていく。僕の方が、息が上がりかけていた。

「若えのに、もう息切れか」

と、源造さんが、振り向かずに言った。

「すみません、運動不足で」

「最近の若いもんは、足腰が弱い」

これは、年寄りの常套句である。僕は反論しなかった。反論できる体力が、まずなかった。

三十分ほど登ったところで、源造さんが、足を止めた。

道の脇に、木の標識が一つ、立っていた。

『西条龍王の名水・西条の酒作りに必要な龍王山の水』

と、達筆ではない、しかし丁寧な字で、書いてあった。

標識の下から、細い、しかしはっきりとした流れが、岩の間を伝って下りてきていた。岩肌から、水が、ゆっくりと滲み出している。滲み出している、というよりも、岩そのものが、水を出している、と表現したくなる出方であった。岩が水を出すのではなく、岩を通して、何かもっと深いところが、水を出している。地球の奥から、地表まで、長い時間をかけて、水を一筋、押し上げている。それが、ここで、空気に触れる。

源造さんは、岩の前にしゃがみ込んだ。

帆布のショルダーバッグから、家で使っていたのと同じ、小さな木の桝を一つ、取り出した。一合枡である。

桝を、岩の下に差し入れて、ゆっくりと水を受けた。

桝の底に水が溜まっていく音が、しゃらしゃらと聞こえた。

一合分が溜まると、源造さんは、桝を持ち上げた。持ち上げて、しばらく、水の表面を見ていた。

それから、桝の水を、湧水の元のあたりに、ゆっくりと、戻した。

戻した。

そう、戻した。これも、捨てた、ではなかった。受けて、見て、返す。それだけの動作だった。

「お前も、やってみい」

と、源造さんが、桝を僕の方に差し出した。

「飲むんじゃないですよ、ね」

「飲まん。お前は特に飲むな。山の水はな、慣れた者の身体じゃないと、当たることがある。わしらは長年やっとるけえ、ちょっとぐらい大丈夫じゃけど、お前の腸はそんなに頑丈じゃない」

「……はい」

「受けて、見て、返す。それだけじゃ」

僕は、桝を受け取った。

岩の下に差し入れた。岩から滲み出した水が、桝の底に、ゆっくり溜まっていった。一合分が溜まるまで、思っていたより、ずっと時間がかかった。

その間、僕は、桝の中の水面を、じっと見ていた。

水面は、最初は揺れていた。水滴が落ちる衝撃で、波紋が、桝の縁まで伝わって、また戻ってきていた。それが、水滴が落ちなくなって、しばらく経つと、ふっと、静まった。

静まった水面に、僕の顔が映っていた。

こんなに小さな桝の中に、こんなにくっきりと、自分の顔が映るとは、思わなかった。鼻と、顎の輪郭と、目の中の黒い点と、その奥にあるはずの空の色。それらが、桝の中の一合の水に、全部、収まっていた。

そして、自分の顔の後ろに、夜明け前の山の輪郭が、微かに、映っていた。

一合の水の中に、僕と、山と、空の三つが、同時に入っていた。

入っているのを、僕は、上から、覗き込んでいた。

覗き込んでいるのが、僕だった。

僕は、桝の水を、源造さんがやったのと同じように、湧水の元のあたりに、ゆっくりと、戻した。

「ええ手つきじゃ」

と、源造さんが言った。

「初めてなのに、ですか」

「初めてじゃけえ、ええんよ。慣れとる人間は、もう機械みたいに動くけえな。お前のは、初めて、いう動きじゃった」

「褒めてもらってるんですか」

「半分はな」

半分は、ということは、もう半分は何なのか、僕は聞かなかった。聞かないでおいた方がいい褒め言葉というのが、世の中にはある。

源造さんは、岩の前に立ったまま、湧水の方を、しばらく見ていた。

それから、ゆっくりと、こちらに向き直った。

「七緒のことじゃが」

「はい」

「あの子に決めさせちゃるんが、わしの最後の仕事よ」

……。

「継いでほしいわけじゃないんよ。継ぎたいなら継いだらええし、継ぎたくなかったら別の道を選んだらええ。ただし、ちゃんと選ばんとなあ。逃げるんでも、押し付けられるんでもなく、自分の足で立って、選ばんと、酒は造れん。酒造りは、選んだ者じゃないと、できん仕事じゃけえな」

「……はい」

「お前、何も言わんでええよ。聞かせとるだけじゃ。誰かに一回、声に出して言うとかんと、わしも忘れそうじゃけえな」

忘れそうじゃけえな、と源造さんは言ったが、源造さんが忘れる種類の話ではないことは、横顔を見れば分かった。源造さんは、自分が絶対に忘れないと知っているからこそ、誰かにそれを聞かせたかった。聞かせる、ということが、たぶん、もう一つの儀式だった。

僕は、頷いた。

頷いただけだった。それ以上のことは、しなかった。

帰り道、登ってきた登山道を、半分ほど下りたところで、源造さんが、また足を止めた。

道の脇に、ちょっとした見晴らしのある場所があった。

西条盆地が、その下に広がっていた。

空は、もう、ほとんど明るくなっていた。

東の山の端から、太陽が、半分だけ顔を出していた。半分だけの太陽の光が、盆地の底に溜まっていた朝霧を、ゆっくりと持ち上げていた。霧の中から、煙突たちが、一本ずつ、輪郭を現していった。

何本あるのだろう、と僕は数え始めた。

数えているうちに、どこまでが煙突で、どこからが街灯の支柱なのか、分からなくなってきた。盆地の中には、垂直に立っているものが、思っていたよりずっと多かった。煙突、電柱、街灯、信号、マンションの避雷針、そして、数えきれないほどの何か。それらが全部、夜明けの霧の中で、同じように、ぼうっと立っていた。

煙突たちは、休憩中であった。

七月だから、当然である。夏の煙突は、湯気を出さない。湯気を出さない煙突は、ただの縦長の柱である。それなのに、朝霧の中で見ると、湯気を出していない煙突たちが、何かを準備しているように見えた。冬になったら、また働くからな、と、お互いに言い聞かせ合っているように見えた。

ばかげた連想である。煙突は煙突である。柱が話すわけがない。

ばかげた連想だが、そう見えてしまったので、仕方がなかった。

「ええ景色じゃろ」

と、源造さんが言った。

「はい」

「あの煙突の下にな、ぜんぶ、水が流れとるんよ。表に出とらんだけで、龍王山から下りてきた水が、地面の下を、何本もの川になって、煙突の下を通って、最後は瀬戸内海まで行く。その途中で、何本かは、酒蔵の井戸に汲み上げられる。残りは、地面の下を流れ続けて、海に出る」

「……」

「酒造りの水は、たまたま、その何本かの川のうちの、ほんのちょっとを使うとるだけよ。酒造りは、水を借りとるだけで、水のものじゃない。水は、街全体のもんじゃ」

「街全体」

「そう、街全体。せえじゃけえな、水を守るんは、酒蔵だけの仕事じゃないんよ。街の上の山が荒れたら、水は終わる。せえでも、街の人らが山を大事にしてくれるんは、なんでじゃと思う?」

「……分からないです」

「西条は酒の街じゃ、いう看板があるけえよ。酒の街じゃ思うとるけえ、上の山を大事にする。酒が忘れられたらな、誰も山を大事にせんようになる。酒のことが、街と山と水を、全部繋いどるんよ」

「……」

「酒蔵が酒を造る。街が酒の街じゃと知られる。そのおかげで、山が守られて、水が守られて、また酒が造れる。順番は、ぐるっと回っとる。どれが先で、どれが後か、決められん。決められんけえこそ、誰かが、ぐるっと回しとる輪っかの全体を、見とらんといけん」

「全体を、見とる」

「そう。それは、酒蔵の仕事じゃ、ない。街の仕事じゃ」

僕は、煙突たちを、もう一度、見直した。

軽トラックで月野酒造まで戻る間、僕は、ほとんど何も話さなかった。

源造さんも話さなかった。

助手席の窓の外を、夜明けの西条が流れていった。コンビニの前の蛍光灯は、もう消えていた。代わりに、新聞配達のバイクが一台、住宅街の角を曲がっていくのが見えた。世界は、ゆっくりと、起き始めていた。

月野酒造の前で軽トラックが停まった時、僕の頭の中で、何かが回り始めていた。

何が回っているのかは、自分でも、まだ分からなかった。

たぶん、源造さんの「ぐるっと回しとる輪っかの全体を、見とらんといけん」と、「酒蔵の仕事じゃ、ない。街の仕事じゃ」という二つが、僕の頭の中で、別々の方向から、何かを呼び始めていた。呼ばれた何かは、まだ言葉になっていなかった。言葉になる前の何か、というのが、いちばん厄介である。形になっていないから、扱えない。扱えないが、確かに、そこにある。

「ありがとうございました」

と、僕は車を降りる前に言った。

「ええよ。来年また連れてっちゃるけえ、来年も来い」

「はい」

「来い、いう言葉は、軽う使うちゃいけんのじゃけどな」

と、源造さんは小さく笑って、運転席に座ったまま、手だけ振った。

僕が助手席のドアを閉めた、その時。

母屋の引き戸が、からりと開く音がした。

玲子さんが、サンダルで小走りに出てきた。手に、紙コップを二つ持っていた。

「お父さん、また、こんな時間から呼びつけて」

「呼んだんは、わしが先や。文句あるか」

「文句はないけえ、コーヒーくらい家で飲ませちゃってよ」

玲子さんは、運転席の源造さんに紙コップを一つ渡し、車を降りたばかりの僕にも、もう一つ渡した。コーヒーは熱かった。淹れたてだった。たぶん、軽トラックが小路に入ってきた音で、僕たちが帰ってきたのが、母屋の中まで聞こえていたのだと思う。

「蓮くん、ありがとうね、こんな時間に。父が、変な趣味に付き合わせてばっかりで」

「いえ」

「あのね、父がね、蓮くんのこと、こないだ、『合格や』って」

玲子さんは、運転席の方を、ちらりと見た。

源造さんは、フロントガラスの先を見たまま、聞こえていない、という顔をしていた。聞こえていない顔を、あれだけ完璧に作れるのは、たぶん、八十年近い熟練がいる。

「合格、ですか」

「何の合格なんかは、私も聞いてないんよ。ただ、合格や、とだけ。父がそういう言い方するの、珍しいけえね、私も、覚えとった」

玲子さんは、それだけ言って、にこっと笑った。

源造さんは、紙コップのコーヒーを、無言で一口、すすった。

その日の夕方、僕は、近大広島キャンパスの正門前のベンチに座っていた。

月野さんが、研究室から出てくるのを、待っていた。

月野さんから「終わったらちょっと顔出すけえ、そのへんで待っとって」とLINEが来たのが、午後三時。それから二時間が経っていた。研究室、というところは、こちらの想定する時間で動いてくれない場所らしい。これは、文系の僕には、まだピンとこない世界であった。

七月の近大のキャンパスは、人が少なかった。

試験期間でもなく、夏休みでもない、中途半端な時期である。構内の道を、自転車に乗った学生らしき人がたまに通り過ぎていく。それ以外は、蝉と、鳩と、僕と、ベンチだけだった。

ベンチに座って、僕は、朝のことを考えていた。

朝の、桝の中に映った自分の顔と、夜明けの煙突たちの輪郭と、源造さんの「ぐるっと回しとる輪っかの全体を、見とらんといけん」と「あの子に決めさせちゃるんが、わしの最後の仕事よ」を、頭の中で、繰り返し回していた。

回しているうちに、何かが、形になり始めていた。

形になる前の何か、というのが、いちばん厄介である、と朝の僕は思っていた。それなのに、夕方になって、その何かが、自分から、ゆっくりと言葉に近づいてきていた。形を要求しているのが、僕ではなく、何かのほうだった。

……困ったな、と思った。

こういう時、たいてい、人は何か言いたくなる。言いたくなって、それを誰かに聞いてもらいたくなる。聞いてもらいたい相手が、近くに、ちょうど現れてしまう。そういう順番で、人生は進む。

そして、その通りのことが、起きた。

「ごめん、遅くなった」

と、声がした。

顔を上げると、月野さんが、白衣を脱いだばかりらしい格好で、立っていた。半袖のTシャツに、デニム。髪が、いつもより少しだけ、湿っていた。実験室の中は、夏でも寒いぐらい空調が効いているが、外に出ると、髪に汗が上から重なる。そういう種類の湿り方だった。

「いえ。まだ来たばっかりです」

「嘘ばっかり。二時間待っとったじゃろ」

「……一時間五十分くらいです」

「同じじゃ」

月野さんは、僕の隣に座った。

ベンチの座る側を、僕が右、月野さんが左、と勝手に決めていたのだが、今日は逆だった。それだけのことが、なぜか、気になった。

月野さんは、しばらく、何も話さなかった。

疲れていた。明らかに、疲れていた。実験というものが、どれくらい体力を使うのか、僕は知らない。知らないが、目の下にうっすら隈ができているのを見れば、想像はつく。

「今朝な、龍王山に登ったんですよ」

と、僕は、何の脈絡もなく、言った。

「ええ?」

「源造さんに連れてかれて。西条龍王の名水、っていうところまで」

「あー、おじいちゃんと行ったんじゃ。あれな、毎年夏に一回行くんよ。私も、子供の頃、何回か連れてかれた」

「桝で、水を受けて、戻すやつ」

「そう、それ」

「あれ、なんでやるんですか」

「知らん。おじいちゃんも、たぶん知らん。先代から教わったから、続けとるだけ」

月野さんは、笑った。

笑ってから、少しだけ、目を伏せた。

「うちのおじいちゃん、ああいうの、ようけ持っとるんよ。意味は分からんけど、続けとるやつ。そういうの、たぶん、酒蔵の家の宿命みたいなもんで」

「宿命」

「うん。意味があるか分からん儀式を、毎年、ちゃんとやる人。それを継ぐ人。そういう連鎖の中に、私は、生まれとる」

月野さんは、自分の膝の上で、両手の指を組んだ。組んだ指の関節を、もう片方の手で、ぽきぽきと鳴らした。鳴らしてから、その音に、自分で少しだけ顔をしかめた。

僕は、空を見ていた。

七月の夕方の空は、青と橙が混ざる時間帯であった。ベンチの正面に、近大の校舎の白い壁が見えていた。その向こうに、煙突は見えなかった。煙突は、酒蔵通りまで降りないと見えない。けれど、見えなくても、確かに、街の中にいくつも立っているのを、僕は知っていた。

朝、見た。

朝、見た煙突たちの下を、源造さんは「水が流れとる」と言った。

街全体に、水が流れている。

街全体を、誰かが、ぐるっと回っとる輪っかの全体として見ていないといけない。

酒蔵だけでは、それはできない。

……。

……ああ、これか、と思った。

朝から頭の中で回り始めていた何かが、ようやく、形になった瞬間だった。形になった瞬間、それは、もう僕の意思とは関係なく、口に出ようとしていた。

口に出ようとしているのを、僕は、止めなかった。

止めても良かった。今日でなくてもよかった。もう少し考えてからでも、よかった。それなのに、僕は止めなかった。なぜ止めなかったのかは、自分でもよく分からない。たぶん、形になった何かを、目の前の月野さんに、最初に聞いてほしかったからだと思う。

「僕、市役所、受けようと思ってます」

と、僕の口が、勝手に言った。

言ってから、僕は、自分の口が、自分よりも先に走り出していたことに気がついた。気がついた時には、もう、言ってしまっていた。

「市役所で、水のことを、仕事にしたい」

言葉は、それだけだった。それだけだったが、それを言うために、朝の井戸の水と、龍王山の苔の隙間から染みていた水と、煙突の下を流れていると源造さんが言ったあの水と、その三つが、僕の中で一本の線になっていた。一本になった線の先に、何があるのかは、まだはっきりとは見えていない。市役所のどこの部署で何をするのか、それは、まだ何も決まっていない。決まっていないけれど、線の出発点だけは、たぶん、間違っていない気がした。

そこで、口が止まった。

止まってから、僕は、自分が一気に話したことに、自分で驚いていた。普段、僕はこんなに一気に話す人間ではない。普段はもっと、観察が長くて、結論が短い。それなのに、今は、結論の手前までしか出ていないのに、もう口が動いていた。

……気がついたら、口が動いていた。

それを聞いていた自分が、自分の言葉を、もう一度、頭の中でなぞった。

月野さんは、しばらく、こちらを見ていた。

見てから、目線を、ベンチの足元に落とした。

落としてから、ふっと、笑った。

「市役所か」

「はい」

「水」

「はい」

「蓮くん、ちゃんと地に足つけて考えとるんじゃね」

ちゃんと地に足つけて、と月野さんは言った。

言葉は、それだけだった。それなのに、その七文字が、僕の中で、なんだか、必要以上に長く反響した。地に足つけて、地に足つけて、と何度か頭の中で反芻している間に、僕は、月野さんが、その言葉を、僕に対してではなく、自分自身に対しても言ったような気がしていた。

たぶん、そうなのだと思った。

月野さんは、自分が地に足をつけられているか、いられていないかを、たぶん、毎日、自分に問うている。問うているけれど、答えはまだ出ていない。出ていない人が、目の前で答えを出しかけている人を見ると、ちょっとだけ、まぶしい顔をする。

月野さんの顔は、その時、ちょっとだけ、まぶしそうな顔をしていた。

まぶしそうな顔の月野さんが、僕の方に、半分だけ向き直った。

「私な、来週から、東京行ってくるわ」

と、月野さんが言った。

「東京」

「大手の酒造メーカー。インターン、二週間。化学生命工学の研究室経由で、声かかったんよ。もし向いとったら、来年、就活でそこ受ける流れになるかも」

「……来年」

「卒業したら、東京で技術者として働く道、いう感じ」

月野さんは、それだけ言って、また、目線をベンチの足元に落とした。

落とした目線を、もう、上げなかった。

僕は、何も言えなかった。

言うべき言葉は、たぶん、いくつかあった。

「いいじゃないですか、頑張ってきてください」も、その一つだった。

「行かないでください」も、その一つだった。

「月野さんは、家を継ぐんじゃないんですか」も、その一つだった。

全部、頭の中に浮かんだ。浮かんだ瞬間に、全部、口の手前で止まった。

止まってしまったので、僕は、何も言わなかった。

月野さんも、何も言わなかった。

二人とも、ベンチの足元の、コンクリートの継ぎ目を見ていた。継ぎ目には、夏草が一本だけ、生えていた。アスファルトとコンクリートの隙間から、わずかな土に根を下ろして、生えていた。

その夏草が、夕方の風で、少しだけ揺れた。

揺れた草の影が、地面で、左右に、ほんの数センチ、動いた。

……ということを、僕は今、思い出している。

朝の桝の中の水と、煙突の下を流れる水と、夕方のベンチの足元の夏草。それらが、その日の僕の中に、同時にあった。

同時にあった三つの水と一つの草を、僕の脳は、その日、整理することを諦めた。整理することを諦めて、そのまま、引き出しにしまった。

引き出しの奥で、それらは、夏のあいだ中、勝手に発酵していた。


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