ただの儀式
七月に入って、僕は週末になると月野酒造に顔を出すようになった。
顔を出す、というのは正確ではない。月野酒造に行って、何か役に立つことをしているわけではない。見学しているわけでもない。試飲をしているわけでもない。ただ、勝手口から入って、母屋の縁側に座って、源造さんと一緒にお茶を飲んで、そのへんの雑談をして、夕方になったら帰る。それだけのことを、毎週土曜日に繰り返していた。
これを世間では「通っている」と呼ぶのだろうと思う。
思うのだが、自分で「通っている」と認識すると、それはそれで重い言葉になってしまう気がして、僕は意識して「顔を出している」と言い換えていた。言い換えても、やっていることは同じである。同じなのだが、言葉の選び方で自分への言い訳ができるところが、人間の便利なところだと思う。
月野さんは、いたりいなかったりした。
正確には、いない方が多かった。近大の三年生は研究室配属が始まる時期で、月野さんは大学に泊まり込みで実験をしている週もあるらしかった。「化学生命工学の三年は地獄じゃけ」というのが本人の言である。地獄じゃけ、と笑いながら言える人は、たぶん本当の地獄を見ていない人である。あるいは、地獄を見たうえで、それを地獄だと認めない強さを持っている人である。どちらかは、僕にはまだ判断がつかなかった。
七月の第二週の土曜日、僕はいつものように母屋の縁側に座っていた。
午後四時を回ったところで、空はまだ十分に明るい。蝉が遠慮がちに鳴いている。本格的な梅雨明けはまだだが、午後の数時間だけ、夏の前売りチケットのような陽射しが落ちてくる時間帯であった。
源造さんは、僕の隣で麦茶を飲んでいた。湯呑みではなく、ガラスのコップである。源造さんは家では麦茶しか飲まない。
「家で酒は飲まんのよ。家で飲むんは、酒に失礼じゃけ」
というのが本人の説明であった。
「源造さん、初めて会ったとき、湯呑みで飲んでませんでしたか」
僕は、二週間ほど前から喉に引っかかっていた疑問を、ようやく、口に出した。
「あれはな、よそで飲んできて、帰ってきた直後よ。家で飲んだうちに入らん」
「入らないんですか」
「入らん。たぶん」
たぶん、で締めるところが、源造さんである。家で飲んだうちに入るかどうかを判定する基準を聞くのは、たぶん、野暮なのだろうと思った。野暮を察するくらいのことは、二十歳になってから、ぼちぼち、できるようになってきていた。
酒に失礼、という発想を僕は今までしたことがなかった。酒は人間に対しては失礼であったり寛容であったりするものだと思っていたが、こちらが酒に対して失礼な振る舞いをするという発想は、新しかった。新しい発想は、たいてい年寄りから来る。年寄りの方が新しい、というのは矛盾しているようで、二十歳になりたての僕の脳には、なぜか自然に収まる話であった。
縁側からは、母屋の裏庭が見えた。
裏庭の真ん中には、井戸があった。
木の蓋がしてある、古い井戸である。木枠は黒くなっていて、苔がところどころに生えている。蓋の上には、なぜか古い瀬戸物の植木鉢が一つ置かれていて、何が植わっていたのか分からない、枯れた茎が一本だけ立っている。
僕は、その井戸を、もう何度か見ていた。見ていたのに、今日まで一度も、源造さんに井戸のことを聞いていなかった。
聞かなかったのは、聞くと話が長くなりそうだったからである。井戸というのは、たいてい話が長い。家の井戸となると、なお長い。長くなる予感がするものに、二十歳の大学生は、つい先送りで対応してしまう。先送りは、若者の特権というよりは、若者の悪癖である。
「源造さん、あの井戸、今でも使ってるんですか」
と、僕は麦茶を飲み終えたタイミングで、ようやく聞いてみた。
源造さんは、コップを縁側に置いて、しばらく井戸の方を見ていた。
「使うとるよ。年に何回かはな」
「水、出るんですか」
「出る。ようけ出る。せえじゃけど、ようけ出るからって、ようけ使うわけじゃない」
「使わないんですか」
「使うとった時もあったんよ。先代の頃まではな。今はな、あれはもう、飾りに近い」
「飾り」
「うちの蔵の水は、龍王山の伏流水を引いとる。ポンプで汲み上げて、濾過機通して、それでようやく仕込みに使う。井戸の水は、蔵には入れんことになっとる」
「飲めない、ということですか」
「飲めるか飲めんかで言うたら、たぶん飲める。せえじゃけど、今の時代、飲めるかどうかは、わしらが舌で決めるもんじゃない。検査機械が決めるもんじゃ。検査出して、安全じゃ言われんかぎり、飲ませちゃいけん。それが今の世のルールよ」
源造さんは、麦茶のコップを取って、ひと口飲んだ。
「昔はな、井戸の水で味見しよった。蔵の水と、井戸の水と、年によってちょっと違うけえな、その違いを舌で覚えとくんが、わしの仕事じゃった。せえじゃけど、もうやらん。今はな、見るだけにしとる」
「見るだけ」
「見るだけでも、分かることがあるんよ。たぶん、ある」
たぶん、と源造さんが付け加えたところで、僕は少しだけ笑いそうになった。源造さんの「たぶん」は、ほとんどの場合、確信を持って言われている。それなのに、語尾だけは「たぶん」をつける。これは謙譲というより、長い時間をかけて身につけた職人の癖のようなものだと思った。間違えていたらすぐ撤回できるように、語尾を半開きにしておく癖である。
「じゃった、って、過去形ですね」
「もう引退しとるけえな」
源造さんは笑った。
引退しとるけえな、と言いながら、源造さんの目は井戸から離れていなかった。引退、という言葉と、その目つきは、明らかに、別々の方向を向いていた。
源造さんは、月野酒造の先代杜氏である。
十年前に引退して、今は相談役という肩書きで、現役の杜氏は新潟の三条から来る佐伯一郎さんという六十三歳の人らしい。佐伯さんは冬の三ヶ月だけ西条に滞在して、酒を造って、新潟に帰る。それを毎年繰り返している。源造さんは佐伯さんを「先生」と呼ぶ。先生、と呼ばれる方の佐伯さんは、源造さんを「親方」と呼ぶらしい。お互い、相手を上に置く呼び方をしているわけで、これは礼儀の高度な戦争だと僕は思った。
「佐伯先生、今年も来てくれるんよ。ほうじゃけど、あと何年来てくれるか、分からんけえな」
「あと何年、ですか」
「もう六十三じゃけえ。新潟から西条まで、冬の間ずっと泊まり込みでな、家族置いてきての出稼ぎじゃ。そう何年もできる仕事じゃない」
「……」
「七緒もな、それを分かっとる。分かっとるけえ、迷うとるんじゃ」
僕は、麦茶のお代わりを、自分でやかんから注いだ。
注ぎながら、自分の手がやけに丁寧に動いていることに気がついた。普段、僕はもっと雑に注ぐ人間である。それなのに、今この時の僕は、麦茶の表面張力を観察するくらいの慎重さで、ガラスのコップに液体を入れていた。
たぶん、源造さんが今、大事な話を始めているのを、身体の方が先に察知していたのだと思う。脳の処理は遅れていたが、手の方が早かった。手は、脳より先に、丁寧になる時がある。
源造さんは、井戸の方を見たまま、続けた。
「七緒の父親はな、宏言うてな、わしの娘の旦那じゃ。婿に入ってくれた人でな、ええ男じゃった。蔵を継ぐつもりで、勉強もしとった。せえじゃけど、十年前に、心臓でな、急に逝ってしもうた。四十二じゃ。早かった」
「……」
「七緒は、その時十二じゃ。お父さんが急にいなくなって、母さんが経理引き受けて泣きながら走り回って、わしも杜氏を辞めて家のことやり出して、家の中がぐちゃぐちゃになっとった頃よ。あの子はな、その時から、たぶん、決めとるんよ。自分が継ぐって。決めとるくせに、決めたって言うんがな、怖いんじゃ」
「怖い、ですか」
「決めたって言うた瞬間に、決めなあいけんようになるけえな。今はまだ、迷うとるふりができる。迷うとるふりをしとる間は、東京の会社で働く道も、研究者になる道も、結婚して別の街に行く道も、全部残っとる。決めたら、それが消える。あの子は、消すんが怖いんよ」
僕は、しばらく、何も言えなかった。
源造さんの語り方は、早口でも饒舌でもなかった。むしろ、一言一言の間に、長い間が空いた。間が空くたびに、蝉の声と、遠くで鳴っているどこかの家の風鈴の音と、自分の心臓の音が、順番に聞こえてきた。
言うべきことは、たぶん、何もなかった。
言うべきことがあると思って何か言うのは、こういう場面では、たいてい間違いである。二十歳になってまだ三ヶ月の僕でも、それくらいは分かる。分かるが、分かるからといって、沈黙が居心地良くなるわけではない。沈黙には沈黙の重さがある。重さに耐えるのは、それなりの訓練が要る。
源造さんは、井戸を見ていた。
僕は、源造さんの横顔を見ていた。
たぶん十秒か、二十秒か、それくらい、何もない時間が続いた。
「お前、来週な、早起きできるか」
と、源造さんが言った。
「早起き、ですか」
「四時半に、ここに来い。山に連れて行っちゃるけえ」
「山」
「龍王山じゃ。憩いの森公園から登っての、途中に、水場があるんよ。『西条龍王の名水』言うての、酒造りに使う水が湧いとる場所じゃ。年に一度、夜明け前に、見に行くことにしとる」
「見に行く」
「見に行く。汲みはせん。わしらの蔵の水は、ポンプで地下から引いとるけえ、汲む必要がない。せえでも、見に行くんは別じゃ。水の出てくる場所に、年に一度、顔出しに行く。これは、わしが先代から教わった、ただの儀式じゃ。儀式じゃけえ、意味があるんかと聞かれたら、ない、としか答えられん。意味がないからこそ、続けとるんよ」
意味がないからこそ続けている、と源造さんが言うのを、僕はちゃんと聞き取った。聞き取ったが、その言葉の意味の方を理解するのに、何秒かかかった。意味がない、と意味があるは、世間では反対の概念ということになっている。それなのに、源造さんの口から出ると、二つの言葉が、どこか奥の方で繋がっている。理屈の手前で、繋がっている。
「四時半、行きます」
と、僕は言った。
自分の口がそう言うのを、半拍遅れて聞いた。




