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和らぎ水と、酒祭りの夜  作者: 藤崎雅也
3章: 美酒鍋
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7/17

うつしよ

「蓮くん」

「はい」

「うちの蔵な、潰れるかもしれんのよ」

一拍、置いた。

置いたが、すぐには、意味が結ばなかった。

言葉として、「うち」と「蔵」と「潰れる」と「かもしれん」が、確かに僕の耳に入ってきていた。文法的にも完全に成立している日本語であった。意味も、辞書を引けば一秒で出てくる単語ばかりであった。それなのに、それらが組み合わさって一つの文として成立していることを、僕の脳は、すぐには処理できなかった。

……潰れる、というのは、潰れる、ということか。

そう、自分に向かって確認した。

月野さんは、湯呑みを両手で持って、テーブルの上に置いた。それから、また、それを少し持ち上げて、また、置いた。手持ち無沙汰にしているのではなく、何かを言うための準備をしている動作であった。

「経営、厳しいんよ。今年に入ってから、かなり」

「……そうなんですか」

「ずっと小さい蔵じゃけ、もともと余裕はないんよ。せえでも、ここ何年かで、本当に厳しくなって。母さんが、一人で経理回しよるんじゃけど、もう、限界のとこまで来とる」

母さんが、一人で経理を、という単語が、ぱらぱらと頭の中に落ちていった。

「季節杜氏さんへの支払いも、毎年、ぎりぎりなんよ。今年の冬に、どうなるか、まだ分からん」

月野さんは、そこまで言って、湯呑みをまた口に運んだ。今度は、さっきよりちょっと多めに飲んだ。飲んでから、ちょっと、笑った。

「あ、ごめんね、こんな話して。せっかくの鍋の夜に」

「いえ」

いえ、と、僕は答えた。

答えたが、それ以上の言葉が、出てこなかった。

こういう時に、何を言うべきなのか、僕は知らなかった。

大丈夫ですよ、と言うのは、無責任な気がした。何が大丈夫なのか、僕には何の根拠もないからである。一緒に頑張りましょう、と言うのは、もっと無責任であった。僕は月野さんの蔵について、まだ何も知らない。場所も知らないし、規模も知らないし、どんな酒を作っているのかも、今夜初めて飲んだばかりであった。

黙って聞く、というのが、たぶん、いちばんマシな選択肢であった。

だが、黙って聞いていると、月野さんの方も、それ以上は話さなかった。話さないまま、二杯目の鍋を、僕の取り皿によそってくれた。

「食べな」

「ありがとうございます」

二杯目をよそってもらって、僕は、ようやく一つ気がついた。

月野さんは、僕に解決を求めて話したわけではなかった。

解決できる、とは思っていない。そんなことは、月野さん自身がいちばん分かっている。月野さんは、ただ、誰かに話したかっただけだった。それも、あまり親しくない、利害関係のない、二十歳になったばかりの、酒のことをほとんど知らない、僕のような相手に。そういう相手にこそ、話せることが、世の中にはあるらしい。

解決を求められていない以上、僕がするべきことは、解決策を考えることではなかった。

することは、二杯目の鍋を、ちゃんと食べることであった。

僕は、二杯目に箸をつけた。豚バラを噛むと、酒のコクと、野菜の汁が、また口の中で挨拶をしてきた。一杯目より、ちょっとだけ、味が分かる気がした。一杯目はただ「美味しい」しか言えなかったが、二杯目は、もう少し、何が美味しいのか、自分の言葉で言える気がした。

月野さんは、鍋から椎茸をひとつ取って、口に運んでいた。

雨は、まだ降っていた。

窓の外の灰色は、もう、夜の灰色になっていた。

結論から言うと、月野さんは、二人前の美酒鍋と、湯呑み三杯ぶんの『うつしよ』を平らげた段階で、こてん、と、僕の畳の上に倒れた。

倒れた、というのは、文字通りの意味である。

ちゃぶ台の前で正座していたかと思うと、急に膝が崩れて、上半身がそのまま左に傾いて、傾いた先に置いてあったクッションの上に、頭からゆっくり着地した。倒れたのか、寝そべったのか、判別が難しい速度であった。物理学的には、たぶん、倒れた、の方が正しい。重力に対して逆らう意思を、月野さんがその瞬間だけ完全に放棄した結果、下方向に向かって自然落下した、と表現するのが、いちばん近い。

「……あれ」

と、僕は呟いた。

倒れた直後、月野さんは目を開けたまま、ちょっとだけ、こっちを見た。見て、にっと笑った。

「蓮くん、私、ちょっと寝るね」

「あ、はい」

「五分だけ。五分したら起きるけえ」

「はい」

月野さんは、そう言って、目を閉じた。

五分後、月野さんは、起きなかった。

十分経っても、起きなかった。

三十分経った頃、寝息が、規則正しく、こっちに聞こえてくるようになった。

寝息というものは、起きている人間が起きるために出す音ではない。寝ている人間が、寝続けるために出す音である。月野さんの寝息は、後者の系統に完全に属していた。これはもう、五分では起きない。たぶん朝までは起きない。少なくとも僕の経験則ではそういう判断になった。経験則と言っても、僕の人生で、女性が酔って僕の部屋で寝てしまった事例というのは過去にゼロ件であった。経験則の標本サイズはゼロである。にもかかわらず判断だけは下っているのだから、これは経験則ではなく、たぶん勘である。

勘で結論を下す二十歳というのも、それはそれで、危ういものである。

とりあえず、僕は立ち上がった。

立ち上がって、押し入れから、薄手のタオルケットを引っ張り出した。冬用の毛布は重すぎるし、夏用のタオルケットはまだ早い。中間の、ちょうど梅雨向きのタオルケットが、一枚だけ、押し入れの奥にあった。それを引き抜いて、月野さんの肩から下に、そっとかけた。

かけた瞬間、月野さんは、寝返りを打った。

寝返りの勢いで、タオルケットが半分ずれた。

ずれたのを、もう一回かけ直した。

かけ直したら、また寝返りを打った。

……これは、しばらくこのループが続くな、と僕は判断した。判断して、三回目のかけ直しは諦めた。月野さんの肩のあたりだけ、タオルケットがちょうどよくかかっていればよし、ということにした。完璧を求めると、世の中はうまく回らない。これは二十歳までに学んだ、数少ない処世術の一つである。

僕は、ちゃぶ台の向こう側、月野さんからいちばん遠い位置の壁にもたれて、座った。

ちゃぶ台の上には、空になりかけた『うつしよ』の一升瓶と、二つの湯呑みと、空になった土鍋と、月野さんが切り残した白ねぎの先っぽ二センチくらいが、置いてあった。白ねぎの先っぽというものは、なぜか、宴会の終わりにどうしても一つ二つ残るものである。料理本に「最後の白ねぎの先っぽは絶対に残ります」とは書いていないが、現実は書いていない方を優先することがしばしばある。

さて、と、僕は一人になった部屋で、考え始めた。

一人になった、というのは正確ではない。月野さんが目の前で寝ているのだから、物理的には二人である。しかし片方が完全に意識を失っている以上、思考の単位としては、一人である。一人になった僕は、考え始めた、というより、考えるしかなくなった。寝るには早すぎる時刻だし、テレビをつけるのは寝ている人間に申し訳ないし、スマホを触るのもなんとなく憚られた。残された選択肢は、考える、しかなかった。

考える、と決めた瞬間、僕の身体の各臓器が、急に騒がしくなった。

まず、胃である。

胃は、二人前の美酒鍋と、湯呑み二杯ぶんの『うつしよ』を、まだ消化の途中であった。胃の言い分はこうである。「事前に予告がなさすぎる。普段カップ麺と冷凍餃子しか入れてこないこの店主が、急に正規の和食を満タンで投入してきた。労働環境の改善を要求する」。労働組合のような口調で、胃が抗議の声明を出してきた。僕は経営者として「気持ちは分かるが、もう食べた後だから、今は処理してくれ」と返答するしかなかった。胃は不満そうに、しかし仕事は続けてくれた。働き者である。

次に、心臓である。

心臓は、さっきから、規則的に、しかし普段より気持ち速く、動いていた。普段の心拍数を計測したことがないので比較対象がないのだが、感覚としては、ちょっと速い。心臓は、口数が少ない。何も言わずに、ただ、いつもよりちょっと速く、動き続けている。心臓というのは僕の身体の中でいちばん寡黙な臓器で、文句を言わないかわりに、調子の変化を、回数の微妙な増減でしか伝えてこない。今夜の心臓は、たぶん、何かを伝えようとしている。だが寡黙なので、それが何なのかは、僕には分からない。

そして、脳である。

脳は、絶賛、稼働中であった。

普段の僕の脳は、昼間の三時くらいまでは半分寝ていて、夕方からのろのろ起きてきて、夜の十時にはまた半分寝る、というシフト勤務をしている。今夜の脳は、そのシフトを完全に無視していた。夜の十一時を回ったところなのに、明らかにフル稼働で、昼間の三時の倍くらい働いていた。寝る前の脳がこれだけ動くのは、たぶん、年に数回しかない。

脳が処理していたのは、当然、月野さんのことであった。

月野さんは、相変わらず、寝ていた。

部屋の蛍光灯を消して、台所の小さな明かりだけ点けておいたので、月野さんの輪郭は、ぼんやりとしか見えなかった。タオルケットの下で、規則正しく、肩が上下している。長い髪が、クッションの上で、ちょっと広がっている。寝顔は、こっち側からは見えない。見えなくてよかった、と思った。見えていたら、僕の脳は、たぶん、もう一段、眠れなくなっていた。

寝ている人を見るというのは、起きている人を見るのと、まったく違う種類の行為であった。

起きている人を見るときは、相手もこっちを見ているか、こっちを見る可能性がある。視線の交換、という現象が成立しうる。だが寝ている人を見るときは、視線の交換は成立しない。完全に、こちら側からの一方通行になる。一方通行になった視線は、行き場を失って、なんとなく、見ている本人に跳ね返ってくる。見ているこっちが、自分の視線の重さを、自分で受け取ることになる。

これは、なかなか、しんどい。

しんどいので、僕は、視線を逸らした。

逸らした先には、ちゃぶ台があった。ちゃぶ台の上の、空の一升瓶があった。一升瓶のラベル、『うつしよ』。手書き風の筆文字。

……うつしよ、というのは、どういう意味だろうか。

たぶん「現世(うつしよ)」だろう、と僕は推測した。古語で、この世、現実世界、という意味の言葉である。蔵元が、自分のところの酒に「うつしよ」と名付けた。そのセンスが、今の僕には、ちょっと、刺さってきていた。

普通、酒の名前は、もっと景気のいい単語を使う。鶴とか、泉とか、福とか、美とか。一文字で、酒を飲む人間の気分を上向きにする系統の単語を選ぶのが、酒造業界の標準仕様であった。実際、西条の七蔵の名前にはそういう景気のいい単語が並んでいる。

ところが月野酒造は、「うつしよ」と名付けた。

「うつしよ」は、景気がいい単語ではない。むしろ、ちょっと、湿度がある。この世、現実、生身の世界、そういう意味の言葉を、酒の名前に置いた。なぜそうしたのか、僕には分からない。分からないが、月野さんが、さっき、「うちの蔵な、潰れるかもしれんのよ」と言った言葉と、なぜか、つながっている気がした。

つながっている、というのは、僕の勝手な印象である。

印象というものは、しばしば、根拠より先に走る。

月野さんが、寝言を言った。

はっきりとした言葉ではなかった。

何かをもごもご呟いて、それから、ちょっとだけ、笑ったような気配があった。寝言で笑う人がいるというのは、知識としては知っていたが、実物を見るのは初めてだった。寝言で笑う人を、現実の世界で観察できる機会というのは、たぶん、人生で何度もない。何度もないことが、今夜、僕の畳の上で起きている。これも、たぶん、人生の収穫の一つに数えていいのだろう。数えておく。

数えながら、僕は、もう一度、月野さんの方を見た。

暗がりの中で、肩が、ゆっくり上下していた。

僕は、自分が、何をすればいいのか、分からなかった。

何かをするべきだ、とは、たぶん、思っていた。

月野さんが、家業のことを話してくれた。話してくれた、ということは、月野さんは、僕に、何かを期待した、というわけではなくても、少なくとも、僕を、話す相手として、選んだ。選ばれた以上、僕は、何かを返さないといけない、ような気がしていた。

でも、何を返せるのか、分からなかった。

僕は、二十歳になったばかりの、広島大学の学生である。専攻は総合科学部の、学際的な何か。実家は両親とも下戸で、酒蔵のことは何も知らない。経営のことも知らない。日本酒のことは、四月から飲み始めて、まだ二か月しか経っていない。

知らないこと、ばかりである。

知らない人間が、知っている人を相手に、何ができるのか。

答えは、たぶん、一つしかなかった。

知る、ということ。

知らないのなら、知ろうとする、ということ。

それくらいしか、できない。

こういう結論に至るまでに、僕は、たぶん、二時間くらいかかっていた。

二時間、ちゃぶ台の向こう側の壁にもたれて、ほとんど動かずに、いろんなことを考えていた。考えていたのに、結論は、上の四行くらいに圧縮できる程度のものであった。圧縮率が高すぎる。二時間考えて、四行。これは時給に換算すると、ものすごく非効率な作業である。

だが、こういう遠回りな考え事の方が、たぶん、人生では大事なのだろう。

効率よく出た結論は、すぐに忘れる。

遠回りに出た結論は、出るのに時間がかかるが、しばらく、覚えている。

たぶん、そういう仕組みになっている。

僕の経験則ではなく、僕の勘である。

時計を見ると、午前一時を回っていた。

雨は、まだ、降っているような、止んでいるような、よく分からない降り方になっていた。完全な雨でも、完全な晴れでもない。梅雨の真夜中というのは、たぶん、雨と晴れの中間に、もう一つくらい状態があって、その状態のことを言うらしい。

月野さんは、まだ、寝ていた。

タオルケットは、もう、半分くらい、ずれ落ちていた。僕は、もう一度、それをかけ直すべきか、迷った。迷って、結局、立ち上がった。

月野さんに近づいて、しゃがんで、タオルケットを持ち上げて、肩のところまで戻した。

戻した瞬間、月野さんが、ちょっとだけ、目を開けた。

開けた、というか、薄く、目を細めた、というほうが近い。完全に開いてはいない。半分くらいの、寝ている側に重心がある目であった。

「……れんくん」

と、月野さんが、小さく言った。

「はい」

「ありがとう」

「いえ」

「水、飲んだ?」

「はい」

僕は、嘘をついた。

厳密に言うと、まだ飲んでいない。だが、ここで「いえ、飲んでません」と答えるのは、なんとなく、月野さんの善意に対して失礼な気がした。月野さんは、半分寝ながらも、僕に水を飲めと言ってくれた。それは、四月の最初の日、酒泉館で、水のコップを差し出してくれたのと、同じ動作であった。同じ動作を、二か月経って、もう一度してくれた。

これに、嘘以外の応答が、僕には思いつかなかった。

「えらい」

月野さんは、そう言って、また目を閉じた。

閉じた目の口元が、ちょっとだけ、笑っていた、ような気がした。気がしただけで、暗いのでよく分からない。よく分からないが、僕は、そういうことにしておく。

月野さんの寝息が、また規則正しく戻った。

僕は、立ち上がって、台所まで歩いた。

流しの上のコップに、水道水を入れた。一口、飲んだ。冷たい線が、喉から胃にかけて、一本通った。二か月前の二十歳の朝に、ペットボトルの水で感じたのと、同じ線であった。同じ線を、もう一度、感じた。

嘘を、本当にした。

これでよし、と僕は、コップを流しに置いた。

ちゃぶ台の前に戻って、もう一度、壁にもたれて、座った。

そのままで、僕は、朝まで、起きていた。

起きていた、と書くと、何か高潔な行為のように聞こえるかもしれない。だが実際は、ただ、寝なかった、というだけのことである。寝るスペースは、月野さんが占有していたし、僕は、起きていることに、特に苦痛も感じなかった。考えることはまだいくつか残っていたし、考えるための材料は、目の前の暗がりに、ちゃんと、揃っていた。

心臓は、相変わらず、ちょっと速かった。

胃は、しぶしぶ、消化を続けていた。

脳は、ようやく、シフトを通常に戻しかけていた。

全臓器、それぞれの仕事を、していた。

舌の上に、まだ、胡椒の刺激と、酒のコクが残っていた。塩気の向こうに、何か別のものの輪郭が、うっすらとあった。輪郭の正体は、その夜の僕には、まだ、名前がつけられなかった。


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