夏の短い通信記録
月野さんが新幹線に乗ったのは、七月の最後の土曜日であった。
僕はその日、見送りには行かなかった。
行かなかった、というより、行かなくていい、と月野さん本人に言われたのである。「広島駅まで来てもらうのも悪いし、いっぺん家族と昼ごはん食べてから行くから」と、前の晩のLINEで一行だけ送られてきた。それに対して僕は『分かりました。気をつけて』とだけ返した。気をつけて、という三文字を打つのに、三分くらいかかった。三分かけて出てきたのが「気をつけて」だけというのは、二十歳の語彙力としていかがなものか、と打ったあとで思った。思ったが、もう送信してしまったあとなので、訂正する勇気もなかった。LINEというのは送信ボタンを押した瞬間に確定する種類の文書であって、後から「やっぱり違う言葉にする」と言える性質のものではない。便利なようでいて、不可逆性が高い。よく考えるとなかなか怖い道具である。
月野さんが東京に行くのは、二週間。
大手酒造メーカーのインターンシップである。本社は東京で、研究開発部門に配属されるらしい。「向こうの会社、技術職の女子採用をかなり積極的にやっとるんよ。化学工学だから、相性はええって面接で言われた」と、出発の数日前、月野酒造の井戸のそばで、月野さんは少し早口に話していた。早口だったのは、たぶん、僕に向けて話していたからではなくて、自分自身に向けて話していたからである。自分の決断を、声に出して、もう一度確認している、という感じの早口であった。声というのは、不思議なもので、自分の口から出ているはずなのに、空気を経由して自分の耳に戻ってくるあいだに、少しだけ他人事のような響きをまとう。その他人事の響きを使って、自分の決断を、自分にもう一度提示し直す。たぶん、そういう作業を、月野さんはしていた。
二週間というのは、客観的には、そう長い期間ではない。
旅行に出たことのある人なら、二週間の旅程はむしろ短いほうだと感じるだろう。世界一周のクルーズ船は三ヶ月かかるという。それに比べたら二週間など、瞬きのうちに過ぎる。シベリア横断鉄道だって片道一週間だ。地球の裏側に行って戻ってきても、二週間あれば充分釣りが来る。
ところが、二十歳の僕にとって、二週間というのは、人類史上前例のない長さであった。
比較対象が間違っているのは自分でも分かっていた。地球の自転周期も公転周期も、僕の都合に合わせて変わってくれるわけではない。一週間は七日、二週間は十四日、それは紀元前から決まっている事実である。それなのに、頭がそう感じるのだから仕方がない。頭は時々、客観性を放棄して、当事者として勝手に主張を始める。今回はそういう週であった。
月野さんが出発した翌日の日曜、僕は朝早く、月野酒造を訪ねた。
訪ねる用事は、特になかった。源造さんに「夏のうちに何回か来い」と言われていたので、その何回かのうちの一回として、来た。それだけのことであった。それだけのことなのだが、月野さんが東京に発った翌日に、わざわざ朝早く月野酒造を訪ねている自分の動線を、客観的に見ると、なかなか分かりやすい。分かりやすすぎて、自分で自分が少し恥ずかしかった。第三者がこの動線を見たら、ものの三秒で結論を出すと思う。三秒の結論をされる側になるというのは、それなりに恥ずかしい体験である。
月野酒造の母屋の引き戸を開けると、玲子さんが、台所のほうから出てきた。
「あ、蓮くん。来てくれたん?」
「すいません、急に」
「ええよええよ。父も喜ぶけえ」
喜ぶけえ、と言いながら、玲子さんは麦茶を入れに台所へ戻っていった。喜ぶ、と他人について語るとき、人はその根拠を述べないものらしい。根拠を聞き返すのも野暮だったので、僕は黙って縁側のほうへ向かった。
源造さんは、縁側で、新聞を読んでいた。
新聞を縁側で読む、というのは、考えてみれば、ずいぶんと贅沢な行為である。電子化された情報を液晶画面でスクロールするのではなく、紙の新聞を、屋外の風に当てながら、半分日陰になった木の縁側で広げる。記事の内容より、所作のほうが情報量が多い。そういう所作を、七十八年かけて獲得してきた人間が、目の前にいた。
「おう、来たか」
老眼鏡を少しずらして、こちらを見上げる。
「すいません、急に」
「ええよ。さっき玲子に同じこと言うとったろ」
「あ、はい」
「謝るんが癖になっとるな、お前は」
そう言って、源造さんは、新聞を畳んだ。畳む音が、紙のしっかりとした音であった。今どきの薄いコピー用紙ではなくて、長年新聞という物体に従事してきた、しっかりした紙の音である。
「七緒は昨日、新幹線乗ったらしいの」
「あ、はい」
「お前、見送り行ったんか」
「いや、行きませんでした。来なくていいって言われたんで」
源造さんは、ふん、と短く笑った。笑った、というより、鼻から空気が一回出た、という感じの音であった。そういう種類の笑いを、僕は普段あまり受け取ったことがない。同年代の友人の笑いは、もっと音が高くて、もっと感情が前に出ている。七十八年生きた人間の笑いは、感情が前に出る前に、たいてい胸の奥で一度濾されているらしい。濾されたあとの澄んだ部分だけが、鼻の穴から、ちょっと出る。
「あの子は、そういう子じゃけえ」
「そういう、って」
「自分が一番不安なときに、人に来られたら困るんよ。そういう子じゃ」
……そういう、子じゃ。
僕は、その一行を、頭の中で何度か反芻した。反芻して、自分の脳が処理できる速度を超えていることに気がついた。人間というのは、新しい情報を貰っても、すぐには血肉にできない。仕入れと加工には別々の時間が要る。倉庫に届いた荷物を、そのままレジに並べる店はない。普通は、検品して、値札をつけて、棚に並べてから売る。情報も同じである。今もらった「月野さんはそういう子」という情報は、検品も値札付けもまだ終わっていない、入荷直後の状態であった。
僕は、何も言えなかった。
何も言えないので、縁側に座った。
縁側に座ると、お尻の下から木の感触が伝わってきた。月野家の縁側は、たぶん、僕が生まれるよりずっと前から、ここで縁側をしている。縁側の専門家である。長年の経験によって、座った人間の体重を、どこにどう分散させればよいかを完璧に把握している。だから腰が痛くならない。物体にも、年季と熟練が宿るらしい。
「お茶でも飲んでけ」
と、源造さんは立ち上がった。
立ち上がる動作が、前に来たときより、少しだけ遅かった。
縁側から立ち上がる、という動作は、人間の身体にとって意外と複雑な作業らしい。
健康な若者なら、ほとんど無意識のうちに、一秒以内に処理が終わる作業である。膝、太もも、腰、背中、それらが一斉に協調して動かないと、人は座った姿勢から立ち上がれないのだが、その協調を意識する必要は普段ない。脳が、僕に内緒で、勝手にやってくれる。だから僕らは、立ち上がるという動作に注意を払うことなく、立ち上がったあとの目的地のことだけを考えていられる。
ところが、源造さんの立ち上がり方は、その内緒の連携が、ところどころ顕在化していた。
膝が先に立って、それから腰が追いついて、最後に背中が伸びる。三段階に分かれていた。一段階ごとに、一拍、間が入った。間というほど露骨ではないが、流れていない、という感じが確かにあった。一秒で終わるはずの動作が、二秒半くらいかかっていた。
前に水汲みに行ったときは、こんなに分かれていなかった、気がする。
気がする、というのは、いま振り返って、の話だが。
認識したが、僕はそれを口にしなかった。口にできるような種類の認識ではなかった。「前より遅くなりましたね」と七十八歳に言うのは、礼儀作法の問題以前に、関係性の問題として、難しい。難しいというより、僕にはまだ無理であった。同じ言葉を、十年後の僕なら、たぶん言える。あるいはもっと冷たい言い方になるかもしれない。今の僕は、ちょうど、言える年齢と言えない年齢のあいだにいた。
源造さんが台所のほうへ歩いていく後ろ姿を見ながら、僕は縁側に座っていた。座っていたが、お尻の下の縁側の木の感触が、なぜかいつもより硬く感じた。木は何も変わっていない。変わったのは、たぶん、僕のほうである。木のせいにするのは、木に失礼な話である。
月野さんからの最初のLINEは、その日の夜に来た。
『東京着いた。研修は明日から』
短い。
短いのは、月野さんのLINEがいつも短いのか、それとも今回だけ特別に短いのか、僕には判別がつかなかった。判別する材料がなかった。これまでの月野さんとのやり取りは、ほとんどが対面か電話で、テキストで長文をもらった記憶がそもそもなかった。母数のないデータからは、有意な傾向は出ない。これは数学の話ではなく、恋愛の話でも同じである。
僕は『おつかれさま』と打って、しばらく画面を見ていた。
しばらく見ていたが、続きの言葉が出てこなかった。
出てこないので、そのまま送信した。
送信してから、自分の『おつかれさま』が、画面上で、ぽつんと一行だけ浮いているのを、しばらく眺めていた。LINEの画面というものは、こちらが何も書かなければ、ずっとさっきの一行が画面の上のほうに残ったままになる。残ったままで、こちらを見返してくる。何か続きを書け、と無言で要求してくる。LINEの画面には目はないはずなのに、なぜか視線を感じた。トーク画面の向こうから、誰かに見られている気がする、というのは、現代人が日常的に発症している軽い病状である。みんな少しずつ病気である。安心する。
何か、続きを書こう。
と、何度か思った。思ったが、書けなかった。「明日から研修頑張ってね」は、先輩や保護者が後輩に送る文面であって、僕の立場ではない。「会えないと寂しい」は、当事者度が強すぎる。本心ではあるが、書いた瞬間に、こちらの感情の手の内を全部開示することになる。手の内を全部開示するのは、ポーカーの戦略としても、人間関係の戦略としても、たぶん下策である。
結局、その夜、僕の側からは、追加のメッセージは送らなかった。
翌日の昼、月野さんから二通目のLINEが来た。
『東京の水、硬い』
一行。
『コーヒーが薄く感じる』
もう一行。
二行で、内容としては独立していた。独立していたが、二つ合わせると、何か言いたいことが背景にあるような気配があった。気配だけで、本体は書かれていない。書かれていないが、僕には少しだけ、伝わった。
西条の水が軟水であることを、僕は四月以降、何度も月野さんから聞かされていた。源造さんから龍王山の伏流水の話を聞いたのも、つい先月である。軟水で淹れたコーヒーは、お湯の温度が低めでも豆の成分がよく抽出される、と何かの本で読んだ覚えがあった。それが硬水になると、抽出のされ方が変わって、味が薄く感じることがあるらしい。あるいは、抽出される成分の種類自体が変わって、結果として「薄い」と感じる風味になるのかもしれない。化学的な機序は僕には分からない。分からないが、現象としては、ある。
月野さんは、東京で、コーヒーを飲んでいた。
そして、薄く感じていた。
薄いのはコーヒーのせいではなくて、水のせいであるということを、月野さんは知っていた。知っていて、それを僕に送ってきていた。
僕に。
送ってきている事実が、僕にとっては、何か少しだけ、息のしやすい情報であった。「嬉しい」と書きたい衝動が一瞬あったが、嬉しい、はやめておく。嬉しいと書いてしまうと、たぶん、その嬉しさが、軽くなる。嬉しさには、書かないほうが大きく残るタイプと、書いたほうが定着するタイプがあって、これは、たぶん前者である。
返信を、何にしようか、考えた。
考えて、結局、『西条の水、また飲めるね』と打った。
打って、送信ボタンを押す前に、消した。消した理由は自分でもよく分からなかった。たぶん、こちらの感情が、文面に乗りすぎていたからである。「また飲めるね」というのは、戻ってくる前提の言葉だった。戻ってくる前提でメッセージを送るというのは、戻ってこない可能性をこちらが排除している、ということを意味する。それを送るのは、二週間後に戻ってくると確信している僕の側の都合であって、もしかしたら向こうでそのまま就職の話が決まる可能性も含めて、月野さん自身は、まだ自分の進路を、確定させていないかもしれなかった。確定させていない人間に対して、確定の前提で語りかけるのは、無神経である。乗りすぎている、と感じた瞬間に、僕の指は勝手に消去ボタンを押していた。ワンテンポ遅れて、自分が消したのだと気がついた。
結局、その日は『大変じゃね』と五文字だけ送った。
五文字。
大変だね、ではなくて、大変じゃね、と書いた理由は、自分でもよく分からない。ただ、標準語よりは、少しだけ、距離が縮まる気がした。距離を縮めたかったのか、縮めたくなかったのか、それも分からなかった。たぶん両方だったのだろう、と思っておく。
月野さんから既読がついたのは、それから三時間後であった。
三時間。
月野さんが研修中で、スマホを見られなかったのか、それとも、見ていたのに既読をつけるのを保留していたのか、その三時間の中身は、僕には分からなかった。分からないので、想像するのをやめた。想像し始めると、たぶん、夜まで止まらない。それは時間の浪費である。
そういうやり取りが、続いた。
月野さんからは、二日に一回くらいの頻度で、短いLINEが来た。
『今日は研究所で、貯蔵タンクの内側の見学』
『同期みんな優秀。私、西条しか知らんかったんやなって思った』
『東京の地下鉄、乗り換えがほんま分からん』
『社員食堂、味は普通』
『先輩社員、酒蔵の娘って言うたら、めっちゃ食いついてきた』
『うちみたいな小さい蔵に興味持ってくれる人、ここにもおるんやね』
全部、一行か二行で、感情語は一切なかった。「楽しい」も「疲れた」も「会いたい」もなかった。事実だけが、点々と、報告されていた。
これは、報告か、それとも何か別のものか。
僕には、分からなかった。
分からないので、僕も同じように、短く返した。『すごいね』『どこ住んどるん?』『水、ちゃんと飲み』というような、こちらも感情語を抜いた、事実だけの返信を、心がけた。心がけた、というより、それしか書けなかった。長文を書こうとすると、必ずどこかに「会いたい」とか「早く帰ってこい」とかいう種類の感情が混じる予感があった。混ざってしまったら、もう取り返しがつかない予感があった。だから、短くした。
短文が、僕と月野さんの、夏の通信規格になった。
通信規格、というのは、お互いに合意した形式のことである。合意したつもりはなかったのだが、結果的に、お互い同じ形式で送り合っていた。これは合意の一種だったのかもしれない。合意というのは、紙に書いて判子を押すものだけを言うのではない。判子を押さないけれども、お互いがそうしてしまっているもの、というのも、合意の一形態である。たぶん、世の中の合意の九割は、こちらの種類である。
月野さんが東京にいる間、僕は週に二回、月野酒造を訪ねた。
二回というのは、僕が勝手に決めたペースである。毎日は流石に多すぎるし、週に一回だと足が遠のく。二回が、ちょうど、不自然でない頻度であった。何が「不自然」の基準なのかは説明できないが、人間には不自然さを感知するセンサーが内蔵されているらしく、二回はそのセンサーに引っかからなかった。
訪ねるたびに、源造さんは縁側にいて、新聞を読んでいた。
訪ねるたびに、玲子さんが台所から出てきて、お茶と、季節の何かを出してくれた。八月の初めはトマトの冷やし鉢、お盆前は冷やし素麺、お盆明けは茄子の煮浸し。月野家の食卓は、夏の進行を、季節の野菜で律儀に教えてくれた。野菜は人間より律儀である。トマトは八月の初めにしか赤くならないし、茄子はお盆前後に山ほど採れる。野菜は地球の都合に従って素直に生きている。人間はそれに比べて、無駄に空回りすることが多い。野菜を見習いたい瞬間が、人生には何度かある。
「七緒、元気にしとる?」
と、玲子さんは毎回聞いた。
「元気だと思います。LINEは来てます」
「そう。あの子、自分から電話してこんでしょ」
「そうですね。来ません」
「不器用なんよね、あれで」
玲子さんは少し笑った。それから、台所に戻っていった。台所に戻る玲子さんの背中が、いつも、少しだけ、丸かった。背中の丸さは、たぶん、台所仕事の長年の蓄積である。三十年も台所に立てば、人間の脊椎はそういう形に最適化される。経営の苦労が背中に乗っているとは、僕は、なるべく考えないようにした。考え始めると、僕にできることが何もないという事実だけが残る。それは僕の今の処理能力を超えていた。二十歳の処理能力には、扱える問題と扱えない問題があって、月野酒造の経営は、後者であった。僕にできるのは、出されたお茶を、ちゃんと飲むことだけである。それすら、ちゃんとできているかどうか、自信はない。
源造さんは、毎回、僕に少しずつ違うことを話してくれた。
ある日は、五年前に亡くなった奥さんの話。「うちの婆さんはなあ、酒よりも甘いもんが好きじゃった。蔵の嫁としては失格じゃ言うて、本人がいつも笑っとった」。ある日は、戦後すぐの西条の話。「酒蔵通りも、あの頃は、いまほど観光客はおらんでの。皆、自分とこの蔵で、自分とこの酒を、自分とこで飲みよった」。ある日は、酒の科学の話。「軟水で仕込むと、酵母がゆっくり働くんよ。ゆっくりということは、丁寧に、ということじゃ。早う仕事するんが偉いみたいな世の中になっとるが、酒造りは、ゆっくり仕事する者のほうが偉いんよ」。
話の途中で、源造さんは、たまに、話を止めた。
止めて、新聞のほうを見た。
見ていたが、新聞を読み始めるわけではなかった。視線を新聞のほうに向けて、固定して、何秒か、そうしていた。それから、何も言わずに、また話の続きに戻った。
何秒間、何を考えていたのか、僕には分からなかった。
分からないが、その何秒間が、回を重ねるごとに、少しずつ長くなっていった。
一回目は、たぶん、二秒。
二回目は、四秒。
五回目あたりから、十秒近くになっていた。
十秒というのは、会話の中の沈黙としては、かなり長い。普通の会話で十秒沈黙が来たら、相手は「えっと、何の話でしたっけ」と話を引き戻す責任を感じる。僕は感じなかった。引き戻すのは、たぶん、僕の役目ではなかった。源造さんの十秒は、源造さんのもので、源造さんが自分で戻ってくるのを、待つのが、僕の仕事であった。仕事、と書くのは大げさだが、ほかに言い方が見つからなかった。
八月の半ば、お盆の時期になった。
お盆になると、月野酒造には、玲子さんの兄夫婦と、その子供たちが帰ってきた。兄夫婦は神戸に住んでいて、子供は二人、小学生と幼稚園児である。源造さんは孫たちに囲まれて、いつもより少しだけ、表情が柔らかくなっていた。柔らかくなっているのは見れば分かったのだが、それでも、立ち上がる動作の遅さは、変わらなかった。表情と身体は別々の系統で動いているらしい。心が幸福であることと、膝の関節が滑らかに動くことは、別の問題である。当たり前の話だが、当たり前のことは、見せつけられて初めて、認識される。
お盆の二日目、僕は実家に帰った。
広島市西区の実家には、両親と弟がいた。両親は変わらず下戸で、弟は変わらず下戸で、家の食卓には変わらず酒瓶がなかった。ノンアルコールビールすら置いてない。我が家の食卓におけるアルコール出現率は、二十年間ゼロパーセントを維持している。これは記録としては、なかなか珍しい部類に入る。ギネスに申請したら通る可能性がある。通って何になるのかは分からないが。
母が「あんた、最近お酒飲むようになったんやって?」と聞いた。
「日本酒研究会、入ったから」と僕が答えると、母は「ふーん」と言った。そのふーんは、興味があるのか、ないのか、判別がつかない種類のふーんであった。たぶん両方だったのだろう、と思っておく。
「下戸の家から、よう日本酒研究会に入ったわね」
「気がついたら入っとった」
「気がついたら入っとった、って」
「そういうこともある」
母は「そういうこともある、で済む話か?」という顔をしたが、それ以上は追及しなかった。母というのは、たいていの場合、追及しないことで愛情を示す。追及されないというのは、信頼の一形態である。
父は新聞を読みながら、「西条の水は柔らかいんよ。だから酒に向いとる」と一言だけ言った。
父は西条の水のことを知っていた。広島市民にとって、西条は隣町である。隣町の水のことを知っているのは、別に驚くべきことではない。それなのに、僕はその一言が、なぜか妙に頭に残った。
父が、それを、誰から聞いて知っていたのだろうか、ということが、気になった。父は下戸で、酒蔵巡りをしたことなど一度もないはずである。それなのに、西条の水が軟水であることを知っていた。知っているということは、いつか、誰かに、それを教わったということである。父の人生のどこかに、西条の水のことを話した誰かがいる。それが誰なのか、僕は知らない。知らないが、その「知らない誰か」のことを、僕は、しばらく、考えた。
父は、僕がそんなことを考えているとは知らずに、新聞をめくった。
弟は受験生で、ずっと部屋にこもっていた。たまに居間に出てきて、麦茶を飲んで、また部屋に戻っていく。麦茶を注ぐ手の動かし方が、僕に似ていた。気がついた。気がついたが、本人には言わなかった。言うと弟は嫌がる気がしたからである。兄に似ていると言われて喜ぶ弟は、たぶん日本にあまりいない。世の中の弟という生き物は、兄から独立した個体でありたいという欲求を、生まれつき装備している。その装備を、兄である僕が踏みにじるのは、申し訳ない。
一晩泊まって、翌日、僕は西条に戻った。
戻る電車の中で、父の言葉を、もう一度、思い出した。
西条の水は柔らかい。だから酒に向いとる。
父は、それを、誰から聞いて知っていたのだろうか。
思いつかなかった。思いつかないまま、電車は西条駅に着いた。
月野さんが西条に戻ってきたのは、お盆明けの月曜日であった。
月曜の午後、『着いた』とだけLINEが来た。
着いた、の二文字。それ以上の情報はなかった。
僕は『お疲れさま』と返した。返したあと、続きを打とうとして、また指が止まった。「いつ会える?」と打とうとして、消した。「ちょっと顔見せてくれん?」と打とうとして、消した。最後に『また連絡ください』と打って、これも消した。これは消した自分のほうが正しい。何の連絡を待っているのか、自分でも分からない。連絡を待っている人間が「連絡ください」と書くのは、責任を相手に丸投げしているだけである。みっともない。みっともないが、その「みっともなさ」を判定する基準は誰が決めたのか、と、消したあとで一応自問してみた。たぶん僕の中の、もう一人の僕が決めている。その、もう一人の僕は、本物の僕より、少しだけ、ずるい。本物の僕の感情を、勝手に削ぎ落として、整った文面だけを残そうとする。そういう、編集者みたいな僕が、僕の中にいる。
結局、『お疲れさま』だけが残った。
月野さんから次のLINEが来たのは、二日後の水曜の夕方であった。
『木曜の夜、空いとる?』
『うん、空いとる』
『じゃあ、西条駅前の、いつもの居酒屋、十九時で』
西条駅前の、いつもの居酒屋。広島大学の学生から会社帰りの人まで、雑多に入る、安くて気楽な小さな店だった。月野酒造の母屋でもなく、酒泉館でもなく、西条駅前。集合場所の選び方として、それは何かの意思表示でもあるのだろうか、と僕は少し考えた。
月野酒造の母屋なら、家族の存在が背景にある。源造さんも玲子さんもいて、二人だけの会話にはならない。酒泉館なら、僕らが最初に会った場所である。象徴的な場所で会うことは、それ自体が、関係性の確認の儀式になる。
駅前の居酒屋は、そのどちらでもなかった。月野家の家族とは無関係で、僕らの記憶の象徴でもなく、ただの大学生の溜まり場である。安くて、ガヤガヤしていて、込み入った話をするには向かない。込み入った話を、しないつもりなのか。それとも、込み入った話を、わざとガヤガヤの中でして、深刻にならないようにしたいのか。
考えたが、答えは出なかった。出ないまま、木曜になった。




