彼女の選択
木曜の夕方、僕は西条駅前に行く前に、一度、自分のアパートに帰って、シャワーを浴びた。
浴びたのは、汗をかいていたからであるが、それだけが理由ではない、気がする。気がするが、その「気がする」の中身を、自分でわざわざ言語化したくはなかった。言語化すると、自分が何か、特別な準備をしていることになる。特別な準備をしている自分というのは、認めるとちょっと、座りが悪い。座りが悪いまま、シャワーは確かに浴びた。
鏡を見て、髪を直した。
直した、というほどでもない、適当に手で撫でつけただけである。
適当に撫でつけながら、ふと、僕は鏡の中の自分と目が合った。
目が合った瞬間、鏡の中の僕が、僕より先に、少しだけ、笑った。
……笑ったのは、僕のはずである。
僕の顔の筋肉が動いたから、鏡の中の顔の筋肉も動いた。それが順序のはずであった。それなのに、なぜか僕は、鏡の中の僕が先に笑って、それを見た僕が後から笑った、という順序のほうを、強く感じた。半拍遅れの認識である。半拍どころか、論理的にはあり得ない遅れである。あり得ないが、感覚としてはそうだった。
鏡の中の僕は、僕より先に、何かを期待していた。
鏡の外の僕は、その期待を、まだ受け取りかねていた。
二十歳の僕は、自分の顔の筋肉が、自分の知らないところで勝手に動く、という現象に、初めて出会った夏であった。
居酒屋は、夏休み中のためか、いつもより少しだけ空いていた。
月野さんは、店の一番奥のテーブル席に、すでに座っていた。
髪が、少しだけ短くなっていた。
鎖骨の少し下までだったのが、鎖骨くらいの位置になっていた。三センチか、四センチか、それくらいの差である。普通の人なら気がつかない差であった。普通の人ではない僕は、店に入って三歩目で気がついた。三歩目というのは、テーブル席の二メートルくらい手前である。二メートル離れた距離から髪の長さの三センチの違いに気がつくのは、視力の問題ではなく、別の何かの問題である。別の何か、を、僕はあえて言葉にしないことにした。
「あ、来た」
と、月野さんは手を上げた。
「お疲れさま」
「うん、お疲れ」
「髪、切った?」
「あ、分かる? 東京で切った。慣れない美容院」
「似合っとる」
……似合っとる、と僕は言った。
言ったあとで、自分が何を言ったか、確認した。確認して、合っていた。たぶん、「似合っとる」は、合格点の返答である。少なくとも、間違ってはいない。間違ってはいないが、僕としては、もう少し気の利いたことを言うつもりだったのかもしれない。何を言うつもりだったのか、自分でも忘れた。シャワーを浴びている間に、たぶん、何種類か候補を考えていたはずである。考えていたはずなのに、本番になると、候補リストごと、どこかへ消えていた。緊張すると、人間の脳は、自分で勝手に大事なものを片付けてしまうらしい。便利なような、不便なような癖である。
月野さんは少し笑って、「ありがとう」と言った。
笑った月野さんの顔は、二週間前と、同じであった。
同じであったが、何か、少しだけ、違った。
違いの中身は、よく分からなかった。よく分からないので、ビールを頼んだ。ビールが来るまでの間に、その違いの正体が分かるかもしれないと、なぜか思った。
思ったが、ビールが来ても、分からなかった。
違いの正体は、ビールの泡の下には、隠れていなかった。
最初の三十分は、東京の話だった。
月野さんは、東京のインターンの話を、わりと淡々と話した。研究所の設備が立派だったこと。同期のレベルが高かったこと。先輩社員に良くしてもらったこと。寮はワンルームで、夜は意外と静かだったこと。地下鉄の路線図は最後まで覚えられなかったこと。
全部、事実の報告であった。
感情は、入っていなかった。
入っていないというより、入れないように、慎重に選んで話している、という感じだった。LINEのときと、構造が同じであった。LINEを口頭でやっている、という感じである。テキストの通信規格が、対面の会話にまで持ち越されていた。
僕も、それに合わせて、相槌を打った。
「へえ」
「ふーん」
「すごいね」
三種類の相槌を、適当に組み合わせて、回した。回しているうちに、自分が何を聞いていて、月野さんが何を話しているのか、少しずつ、輪郭がぼやけていった。輪郭がぼやけていく感じは、酒のせいではない、と思う。お互いの話が、相手の中で熱を持っていない、ということが、こういう感じなのかもしれない。
こういう感じ、というのは、初めての感覚であった。
僕と月野さんの会話は、これまでずっと、お互いの言葉が相手の中で何かを反応させて、その反応が次の言葉を生んで、という連鎖でできていた。連鎖の途中で笑いが起きたり、沈黙が落ちたり、話題が脇道に逸れたりしながら、生き物のように動く会話だった。それが、この夜は、動いていなかった。動いているように見えるが、よく見ると、机の上を音楽が流れているだけで、僕らの言葉自体は、お互いの中に届いていなかった。届かないボールを投げ合うキャッチボールというのは、運動としては成立しているが、コミュニケーションとしては成立していない。
三十分が、過ぎた。
一杯目のビールが、空になった。
二杯目を頼むかどうか、店員に聞かれて、僕は頷いた。
月野さんも頷いた。
二杯目が来て、それを少し飲んだあとで、月野さんが、ようやく、本題に入った。
「あのな、蓮くん」
と、月野さんは言った。
「うん」
「向こうの会社、内定の話が、出とる」
……内定。
二音節。
二音節の単語が、僕の耳から脳に届くのに、たぶん一秒くらいかかった。一秒というのは、人間の聴覚の処理速度としては、明らかに遅い。遅いが、その日の僕の脳は、その速度しか出なかった。届いた瞬間、脳の処理装置が、その単語を受け入れるかどうかを、しばらく審議していた。審議の結果、受け入れる、という結論が出るまでに、一秒かかった。一秒のあいだ、僕は何の表情もしていなかったはずである。表情というのは、脳の出力結果である。脳が処理中なら、出力は止まる。
「来年の四月から、東京で、技術者として働く道がある」
月野さんは、続けた。
「向いとるかどうかは、まだ分からん。けど、向こうの人事の人は、本気で誘ってくれとる。私みたいな、地方の小さい蔵の娘でも、技術職としてなら、ちゃんと採用枠があるって」
月野さんは、ビールのグラスを、両手で持っていた。
両手で持つ必要のあるグラスではなかった。中ジョッキでもない、普通のグラスである。それを両手で持っていた。両手で持つ、というのは、こぼさないため、というより、持っているということを自分に確認するためのものに見えた。何かを手放さないように、両手で握っている、という感じであった。グラスを手放したら、何かほかのものまで手放してしまいそうな、そういう持ち方であった。
「決めたんですか」
と、僕は聞いた。
聞いた声が、自分でも、思っていたより、平らだった。平らで、抑揚がなくて、まるで店員に「おかわりは?」と聞かれたときのような、業務的な声であった。業務的な声を出した自分に、僕は内心で、軽く驚いた。
「まだ。けど、たぶん、断る理由のほうが、少ない」
……断る理由のほうが少ない。
言い回しが、奇妙であった。
普通の人が東京の大手から内定を貰った場合、「受ける理由のほうが多い」と言うはずである。「断る理由のほうが少ない」というのは、消極的な肯定である。強く望んでいるわけではないが、断るための明確な根拠がないので、結果として受けることになりそうだ、というニュアンスであった。
それは、つまり。
断る理由を、誰かが、提示しさえすれば。
……いや。
……そんなことを、僕が考えるべきではない。
月野さんが、自分の人生を、自分で決める。それが正しい順序である。正しい順序の途中に、僕が割り込む権利は、ない。あるはずがない。あってたまるか。広島大学二年生の柏木蓮という存在は、月野七緒という二十二歳の人間の進路決定に、何の発言権も持っていない。持っていないし、持つべきでもない。彼女の人生は彼女のもので、僕の人生は僕のもので、それぞれが独立した経済主体であるべきなのである。経済学的にもそれが正しい。たぶん。
僕は、二杯目のビールを、半分くらい一気に飲んだ。
飲んでから、口を開いた。
口を開いた瞬間、僕は、自分が次に何を言うか、はっきりとは決めていなかった。決めていないのに、口だけが先に動いた。声帯が振動した。空気が出た。言葉になった。
「いいじゃん」
と、僕の口が、言った。
「向こうのほうが、絶対、おもしろいよ。頑張ってください」
言ったあと、僕は、自分の言葉を、少し離れたところから、聞いていた。
居酒屋の天井のあたりに、もう一人の僕が浮いていて、そこから下のテーブルを見下ろしていた。テーブルには、二十歳の柏木蓮と、二十二歳の月野七緒が、向かい合って座っていた。柏木蓮の口は、たった今、「いいじゃん。頑張ってください」と言ったところであった。月野七緒は、その言葉を、グラスを両手で持ったまま、聞いていた。
月野七緒の表情を、上から見下ろしている、僕は見ていた。
見ていたが、その表情を、ここに書くことが、僕にはできない。
書くと、たぶん、僕が泣く。
一年経った今、こうして書きながらでも、泣く。だからここでは、書かない。書かないことで、その表情は、僕の中だけに、保存される。僕の中だけに保存される表情というのは、たぶん、世界で一つだけのものになる。そういう保存方式を、僕は今、選んでいる。
月野さんは、しばらく、何も言わなかった。
それから、グラスを置いた。
グラスをテーブルに置く音が、思っていたより、大きく響いた。木製のテーブルにガラスが当たる、ことん、という乾いた音である。普通なら気にも留めない音であった。それが、その夜は、店中に響き渡るくらい、大きく聞こえた。実際には大きくなかった。聞いている僕の側が、その音を、必要以上の音量で受け止めていた。
「そっか」
と、月野さんは言った。
「うん、ありがとう」
ありがとう、の四文字に、温度がなかった。
温度がない、というのは、冷たいという意味ではない。冷たさですら、温度の一種である。冷たければ、冷たい、という温度がある。その夜の月野さんの「ありがとう」は、冷たくも温かくもなく、ただ、ありがとう、という形をした音が、空気中に放出された、という感じであった。
その夜の店は、それから一時間ほど、当たり障りのない話をして、解散した。当たり障りのない話の内容は、もう覚えていない。覚えていないのは、酒のせいではなく、たぶん、僕の脳が、覚えることを拒否したからである。脳には、記録の取捨選択をする権利がある。その権利を、その夜の脳は、強く行使した。脳は時々、自衛のために、特定の記憶領域への書き込みをブロックする。健康な機能である。
解散するとき、月野さんは「じゃあ、また」と言った。
また、というのが、いつのことを指しているのか、僕には分からなかった。
分からなかったし、聞かなかった。
聞かなかったことが正解だったのか、間違いだったのか、それも、その夜には、判別がつかなかった。判別は、後日、別の形でつくことになる。なるのだが、そのときの僕は、それを知らない。
駅前から自分のアパートまでの帰り道、僕は、酒蔵通りを通った。
いつもの帰り道である。いつもの帰り道なのだが、その夜は、煙突の高さが、いつもより、ずっと高く感じた。煙突は背を伸ばして、夜空に向かって、何かを探していた。何かを探している煙突に、僕は、何を探しているのかと聞いてみたかった。聞いても、煙突は答えない。煙突は煙突であって、相談相手ではない。相談相手のつもりで擬人化していたのは、僕のほうの一方的な投影である。煙突には煙突の人生があって、僕の都合に付き合う義務はない。
アパートに帰って、シャワーをもう一度浴びて、布団に入った。
入ったが、眠れなかった。
眠れないので、起きた。机に向かって、ノートを開いた。日本酒研究会の広報誌の特集記事を書きかけのままだった。書きかけの記事を、そこから先へ進めようとしたが、一行も進まなかった。机に向かっているのに、ペンを握っているのに、頭が動かない。頭は、まだ、店のテーブルの上にあった。テーブルの上に置き去りにしてきたまま、僕の身体だけが先にアパートに帰ってきていた。
これは、置き引きにあった、と表現しても、たぶん、大きく外れていない。
自分の頭を、自分の身体から、分離して、店のテーブルに置いてきた。
取りに戻る勇気は、その夜、なかった。
翌朝、スマホを確認した。
月野さんからのLINEは、一件もなかった。
それから三日間、なかった。
三日間、僕は、月野酒造に行かなかった。行けなかった、と書くべきかもしれない。何の用事で行けばいいのか、何を話せばいいのか、分からなかった。源造さんに会って、源造さんが「七緒は元気にしとるか」と聞いてきたら、僕は、何と答えればよかったのだろうか。「元気だと思います。駅前の居酒屋で、内定の話を、聞きました。僕は、いいじゃん、頑張ってください、と言いました」。これを、源造さんに、報告できる気がしなかった。
三日目の昼下がり、僕は、近所のコンビニにペットボトルの水を買いに行った帰りに、足が、勝手に、酒蔵通りの方へ曲がった。
月野酒造の方へ向かう道だった。向かう道だった、というだけで、月野酒造まで行くつもりはなかった。月野酒造の二百メートル手前で引き返すか、もっと手前で引き返すか、引き返すタイミングを決めかねたまま、足だけが前に出ていた。勝手に動く足である。勝手に動く足は、上の脳の許可を貰わずに、行きたい場所へ向かう癖がある。許可を取られていない上の脳は、少し遅れて、足の決定を承認する。承認したころには、もう、足は半分くらい目的地に近づいている。
酒蔵通りに入って、賀茂鶴の一号蔵の角を曲がったところで、僕は、足を止めた。
止めた理由は、止まる前には分からなかった。止まったあとで、視界の真ん中を、もう一度、確認しに行った。
視界の真ん中に、月野さんがいた。
通りの十メートルくらい先で、見たことのない男の人と、立ち話をしていた。
男の人は、僕より少し年上に見えた。
社会人だった。それは服装で分かった。シャツとスラックスで、現場と事務所のあいだを行き来する人の服装、というのが、その日の僕の語彙でいちばん近い説明だった。年齢は、二十代の半ばくらい、たぶん。背丈は、僕より少し低かった。
見たことのない人だった。
見たことのない人と、月野さんは、声を出して笑っていた。
三日前の夜、駅前の居酒屋で、月野さんが「いいじゃん、頑張ってください」を聞いたあとで「ありがとう」と返した、あの温度のない声と、目の前の月野さんの笑い声は、同じ人間から出ているとは思えなかった。同じ人間から出ているはずだった。出ているはずなのに、別人の声に聞こえた。声の温度には、相手によってこんなに差が出るらしい。差を作っているのは、相手のほうである。相手のほうが、その人の声の温度を、半分くらい、決めている。今の月野さんの声の温度を、半分、決めているのは、目の前の男の人のほうだった。
男の人が、何か言った。
月野さんが、また笑った。
笑った月野さんに、男の人の手が、ふっと伸びた。伸びた手は、月野さんの肘の少し上を、軽く、触れた。指先で、軽く、表面をなでて、すぐに離した、という程度の動作だった。会話の流れの中で、何かを冗談にしたついでに、ぽん、と触ったのである。それだけの動作であった。
それだけの動作なのに、僕の身体は、勝手に、半歩、後ろに下がった。
下がった足を、僕は、あとから、確認した。
確認したときには、もう、踵が、下がりきった位置で、止まっていた。下がる、という動作は、僕の脳の上のほうの判断で起きたものではなかった。脳の下のほうの、もっと古い部分が、勝手に決定していた。「見ない方がいい」「ここから去るべきだ」「こちらの存在を二人に知らせるべきではない」、その三つの判断を、下の脳は、コンマ何秒で済ませていた。済ませたあとで、上の脳に、決定の通達だけを回してきた。回ってきた通達を、上の脳は、事後に承認した。承認したころには、もう、僕の身体は、賀茂鶴の一号蔵の角を、後戻りに曲がりきっていた。
角を曲がって、僕は、自分のアパートとは反対の方向に、歩き出した。
反対の方向にあるのは、西条駅であった。
駅に着いたのは、午後三時くらいだったと思う。
駅にいた、というのは、行くつもりがあって駅にいたのではなくて、気がついたら駅にいた、という意味である。
目撃シーンから駅まで、自分がどう歩いたのかは、よく覚えていない。覚えていないが、足が、自分のアパートではなく、西条駅のほうへ向かっていた、ということだけは事実であった。アパートに帰ると、たぶん、目撃したものを反芻し続ける夜になる。反芻し続ける夜を、もう三日続けていた。これ以上、反芻したくなかった。反芻するための材料が、午後二時に、追加されたばかりであった。
気がついたら、駅の改札の前に立っていた。立っていて、財布を出して、券売機を見ていた。
券売機の路線図を、しばらく眺めた。
山陽本線の路線が、横に長く伸びていた。広島方面、福山方面、岡山方面。
福山。
福山の文字を、しばらく見ていた。
見ているうちに、指が勝手にボタンを押していた。
半拍遅れで、自分が何のボタンを押したのかを、確認した。
福山行きの切符であった。




