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和らぎ水と、酒祭りの夜  作者: 藤崎雅也
3章: 美酒鍋
5/8

偶然の出会い

二週間ほどが、何事もなく過ぎた。

何事もなく、というのは、僕の生活を社会的に俯瞰した場合の感想であって、内側から見れば何かはあった。あったというより、何かが残っていた。残っているのに、それを言葉に直す手続きを、僕は、ずっとサボっていた。サボっているうちに、二週間が経った。二週間で言葉に直さなかったものは、たぶん、そのうち言葉に直せなくなる。直せなくなったものは、内側で勝手に発酵するか、あるいは腐るか、どちらかになる。発酵する種類のものであることを、その時点の僕は、まだ知らなかった。

千秋には、七蔵巡りの報告を、翌日の昼に一通り済ませていた。「で、どっちが好きなん? 蔵? 先輩?」という千秋の問いに対しては、結局、「蔵も先輩も、まだよく分からん」と答えて逃げた。千秋は「うん、よろしい」とだけ言って、それ以上は突っ込んでこなかった。突っ込まないでいてくれる優しさが、千秋の優しさの本体である。

五月が終わって、六月の最初の週が来た。

梅雨の入りは例年より早いらしい、と気象庁の発表が出ていた。週間予報の画面には傘のマークが横に七つ並んでいて、画面が傘でいっぱいだった。傘は六月の正規の制服である、と画面が言いたいのは分かるが、こちらとしては、月曜から日曜まで全部傘というのは、メンタルの方にも傘を一本持たないと耐えられない種類の予報であった。

ところが、六月の最初の日曜だけが、空白だった。

予報の画面の、一週間分の傘の列の中に、その一日だけ、太陽のマークが、ぽつんと一つ立っていた。梅雨の合間の晴れ、というやつである。気象庁の側から見れば、ただ前線がちょっと南に下がっただけの、業務上の空白の一日。だが、利用者の側から見ると、それは、一週間分の傘の列に対する、唯一の救援物資であった。

救援物資が届いた日曜の朝、目を覚ますと、本当に、空が青かった。

久しぶりの青であった。

久しぶりの青を窓越しに確認して、僕は、しばらく布団の中で、その青を見ていた。見ながら、ぼんやり、いろんなことを考えていた。考えていたのか、考えていなかったのか、判別がつかない。判別がつかない時間というのは、実は人生でいちばん、何かが動いているらしい。動いているのに、観測者が観測を諦めているから、後から見ても、何が動いていたのかは思い出せない。要するに、無駄である。だが、こういう種類の無駄が、たまに、必要らしい。

起きて、顔を洗って、適当にトーストを焼いて、適当に食べた。

食べ終わって、財布とスマホをポケットに突っ込んで、アパートを出た。

出た瞬間、自分でも、ちょっと驚いた。

出ようと、決めた覚えがなかった。

玄関で靴を履いて、ドアを開けて、廊下に出ていた。気がついたら、屋外にいた。屋外にいる以上、どこかへ行くしかない。アパートの前に三十分立ち尽くす二十歳というのは、近所の防犯上もよろしくない。

西条のアパートの近所には、コンビニと、ファミレスと、スーパーが、ほどよい三角形を作って配置されている。普段の僕の日曜の動線は、この三角形の中で完結する。コンビニで雑誌を立ち読みして、ファミレスで千秋とドリンクバーをすすって、スーパーで翌週の食料を補充する。それで一日が終わる。終わるのが、僕の標準的な日曜の仕様であった。

ところが、その日の僕の足は、三角形のどの頂点にも向かわなかった。

三角形を一旦、無視した。

駅の方角に、歩き始めていた。

二週間前のフィールドワークが、たぶん、足のどこかに残っていたのだと思う。七蔵を一日で歩いた疲労は、その夜のうちに抜けたはずだったが、歩いたという感触の方は、抜けていなかった。歩いたら歩けるじゃないか、と足が言っている。足の発言を、脳が、ちょっと遅れて翻訳している。翻訳の出力が、歩く、になった。

駅の手前まで来たところで、足が、また勝手に進路を変えた。

駅前の広場を抜けて、左に曲がった。

左に曲がった先には、酒蔵通りが、まっすぐ伸びていた。

二十歳の僕の足は、なんとなく、酒蔵通りに向かっていた。なんとなく、というのが正確で、目的地は決めていなかった。決めていなかったのに、駅前で左に曲がる足は、迷わなかった。足の方が、僕より先に、行き先を知っていた。

酒蔵通りに入ったのは、二週間ぶりであった。

二週間前の土曜は、雨が降っていなかった。今日も降っていない。同じ条件のはずなのに、街の空気は、二週間前と、まったく別のものに感じられた。二週間前は、月野さんの隣を歩いていた。今日は、一人で歩いていた。一人で歩いていることと、二人で歩いていたことの間には、たぶん、街の空気が一段二段違うくらいの差があるらしい。同じ街でも、隣に誰がいるかで、空気の成分が変わる。これは中学校の理科の教科書には載っていない種類の化学反応である。

七蔵の煙突は、晴れた六月の空の下で、相変わらず立っていた。

煙突は休憩中、と僕は四月の夜に言った。あれから二か月が経って、煙突はまだ休憩を続けていた。長期休暇である。冬の本番に向けて、しっかり充電しているのだろう。

賀茂鶴の前を通って、西條鶴の前を通った。

二週間前と、同じ順路を、ゆっくり、一人で、辿った。

何かを探して歩いているわけでは、なかった。

ただ、二週間前に歩いた道を、もう一度、自分の足だけで歩いてみたかった。歩いてみたかった、ということに、歩き始めてから、ようやく気がついた。

賀茂鶴の脇に、小さな小路があった。

二週間前は、通り過ぎていた小路であった。 賀茂鶴の脇の小路は、人ひとりが通れる程度の幅しかなかった。

二週間前のフィールドワークでは、目もくれていなかった小路であった。月野さんが順路の中でこの小路を選ばなかったのは、たぶん、観光客に見せるべき道ではなかったからである。観光客に見せるべき道、と、地元の人間が日常で使う道の間には、明確な差がある。観光客に見せる道は写真映えがして、舗装が新しく、両脇の蔵がよく手入れされている。地元の人間が日常で使う道は、舗装にちょっとひびが入っていて、両脇は塀だったり、業務用の搬入口だったり、要するに撮るに値しない景色で構成されている。

小路を、五十メートルほど歩いた。

両脇は、最初は他の蔵元の塀が続いていたが、途中から雰囲気が変わった。塀が低くなって、生垣に変わって、生垣の向こうに、瓦屋根の母屋が見えるようになった。観光地の蔵元というよりは、普通の民家に近い佇まいである。違うのは、母屋の隣に、白壁の小さな建物が一棟、くっついていることであった。屋根の高さは母屋より一段高く、壁にはなまこ壁のような格子模様が入っていない、ただの白壁。窓は小さく、入り口は引き戸。一見、ただの倉庫にしか見えない。

その建物の脇に、立て看板があった。

木の板を、何かの軸に固定しただけの、簡素な看板であった。観光地の蔵元の看板はもっと大きくて、もっと装飾的で、もっと文字数が多い。それに対してこの看板は、文字が四つ、書いてあるだけだった。

月野酒造、と。

……あ。

立ち止まった。

立ち止まってから、自分が、なぜ、立ち止まったのか、ようやく、理解した。

月野酒造、というのは、月野七緒の実家である。月野さんは四月の最後の土曜日、七蔵巡りの帰り道で「酒蔵通りからちょっと外れた小路にある蔵」と説明してくれた。「私が継ぐかどうか、まだ決めてない」と、そう言った。それ以上のことは、月野さんは口にしなかった。口にしないまま話題を変えた。だから僕も、それ以上は聞かなかった。蔵を継ぐかどうかを二十二歳の女性が口にする以上、その「継ぐ対象」を継いでいる人物が家のどこかにいるはずである。年齢と立場から考えれば、たぶん、祖父の世代。それくらいの推測が、僕の中でぼんやり立ち上がっていた。

その、月野七緒が継ぐかどうかを迷っている蔵が、いま、僕の目の前に、立っていた。

偶然である。

偶然、ということになる。

偶然と言い切るには、僕の足が、ちょっと、能動的すぎたのではないか、という疑念が、頭の隅に立ち上がりかけた。立ち上がりかけたが、その疑念をきちんと検証する前に、別のことが、僕の意識の前面に出てきた。

蔵の入り口、引き戸が少し開いた状態の、その上がり框のあたりに、人がいた。

老人であった。

しゃがみ込んでいた。しゃがみ込んで、片手に湯呑みを持ち、もう片手は、上がり框の縁に、軽く乗せていた。背筋は丸く、頭はやや前に出ている。白髪混じりの、というより、もうほぼ全部白い、短く刈り込まれた頭髪。痩せていて、顔の輪郭がくっきりしていて、頬が少しこけている。年の頃は、たぶん、七十をだいぶ越えている。八十手前くらい、というのが、僕の見立てであった。

……月野さんの、祖父だ。

と、即座に思った。

即座に思ったが、即座に出てきたのは結論だけで、根拠はその後ろから、息切れしながら、ついてきていた。月野酒造の敷地内に、八十手前くらいの男性が湯呑み片手にしゃがんでいる。月野酒造を継いでいる人物が家にいるはずだ、と僕は推測していた。これだけ条件が揃って別人だったら、その方が、世の中の確率を疑う事態になる。

老人は、しゃがんだまま、湯呑みを口に運んでいた。

湯呑みの中身は、こちら側からは見えなかった。だが、湯呑みを傾ける角度と、口に含んでから飲み下すまでの間の取り方と、飲み下した後にちょっとだけ目を閉じる、その動作の組み合わせから、中身が水でないことは、見て取れた。お茶でもなさそうであった。お茶ならもっと熱そうに飲む。

……酒だ。

と、僕は思った。

酒蔵の主人が、自宅の上がり框で、昼前から酒を飲んでいる。

図としては、まあ、自然である。酒蔵の主人が酒を飲まないほうがおかしい。むしろ、これくらい昼間から飲んでいる方が、酒蔵の主人らしい、と言われればその通りである。だが、僕がぼんやり想像していた「月野さんの祖父」は、もう少し、別の図であった。背筋がしゃんとしていて、白い作務衣を着ていて、蔵の中で何やら厳粛そうに作業をしている、あの種類の図である。テレビの紀行番組で見るような、絵に描いたような蔵元の図。それに対して、目の前の老人は、紀行番組には絶対に出てこないタイプの、上がり框で湯呑みを傾けている、生活感の塊のような姿であった。

想像と現実の間には、たぶん、湯呑み一杯ぶんくらいの距離があった。

距離をどう詰めるか、僕には、よく分からなかった。

立ち去ることは、できた。

老人は、まだ、こちらに気づいていない。湯呑みを口に運ぶことに、意識のほぼ全てが向いている。今のうちに踵を返して、小路を引き返して、酒蔵通りに戻れば、何事もなかったことにできる。何事もなかったことにすれば、月野さんに対しても、僕に対しても、後々の話がややこしくならない。

立ち去る選択肢を、頭の中で、ちょっと検討した。

検討しているあいだに、老人の方が、ふと、顔を上げた。

顔を上げて、湯呑みを口元から離して、僕の方を、しばらく、見た。

目の焦点が、微妙に合っていなかった。

合っていない、というのが正確である。完全に合っていないわけではなく、こちらの輪郭はちゃんと見えているが、輪郭の中身に対する関心が、ちょっと、ずれている。視線は僕の顔に向いているのに、僕という個人に対しては、まだ、特に何も思っていない。そういう種類の、ぼんやりとした視線であった。

「お前、誰や」

と、老人が言った。

声は、思っていたよりはっきりしていた。年齢の割に、声に張りがある。

「あ、すみません、ちょっと、見てただけで」

と、僕は反射的に答えた。

答えてから、何を見ていたんだ、と自分に問い返した。看板を見ていたのか、母屋を見ていたのか、蔵を見ていたのか、自分でも整理できないうちに「見てただけ」と回答していた。律儀さは、引き続き、僕の発言を不正確なまま外に出していた。

老人は、僕の答えに、特に怒った様子はなかった。

怒った様子はなかったが、納得した様子もなかった。納得していない目で、しばらく、僕の顔を見ていた。じっと見ていた、というのが近い。湯呑みは、そのあいだ、片手にぶら下がったままであった。湯呑みの中身が、こぼれそうでこぼれない、絶妙な角度を保っていた。手元が安定しているのか、不安定なのか、判別がつかなかった。

「お前」

「はい」

「見たことがある気がする」

……見たことがある、と言われた。

言われた瞬間、僕は、ちょっと、戸惑った。

月野さんの祖父であろうこの老人と、僕は、過去に接点を持った覚えがない。月野さんから、僕の話を聞いている可能性はある。だが、見たことがある、というのは、写真か何かで見ていない限り、成立しない発言である。月野さんが、家で、僕の写真を、家族に見せた、という事態は、客観的に考えて、ほぼ、ありえない。月野さんは、僕の写真を、たぶん、一枚も、持っていない。

「すみません、僕、たぶん、初めてです」

と、僕は答えた。

「ほうか」

老人は、少し首をかしげて、そのままの姿勢で、また考え込むように僕を見た。記憶のどこかを探している、という顔ではあった。だがその記憶のフォルダ自体が、酒のせいで、いまいち開かないらしい。

しばらく沈黙が続いた。

沈黙のあいだに、老人は、もう一口、湯呑みを傾けた。傾けてから、ふと、何かを思い出したような顔になった。

「七緒の友達か」

来た、と思った。

月野酒造の敷地内で、月野さんの祖父と思われる老人から「七緒の友達か」と聞かれる。これは、流れとしては、完全に予想された問いであった。予想された問いに対する答えも、僕の中では、おおむね、用意できていた。

用意できていたのに、答えるまでに、ワンクッション置いた。

友達、というのが、月野さんと僕の関係を正確に表す単語であるかどうか、僕には、まだ、自信がなかった。月野さんは、僕にとって、何にあたるのか。先輩でもない、同級生でもない、家族でも親戚でもない。LINEのトークルームに名前が登録されていて、二か月前から計三回会っていて、レポートに合格判定をくれて、七蔵巡りの順路を決めてくれた人。これを「友達」と呼ぶには、僕の方の認識が、ちょっと、追いついていない気がした。追いついていない気がしたが、ここで「友達ではないですが」と返すと、話がこじれる。話をこじらせない、というのは、初対面の老人と話す時の、最低限のマナーであった。

「あの、はい。そんな、感じです」

と、曖昧に答えた。

「そんな、感じ」というのは、肯定とも否定ともつかない、極めて卑怯な答え方であった。だが、卑怯であってもこの場をしのぐためには仕方がない。

老人は、僕の卑怯な答えを、特に追及しなかった。

「ほうか」

と、もう一度、言った。

「ほうか」が、二回続いた。

二回の「ほうか」のあいだに、老人の中で、何かが、ゆっくり、繋がりかけていた。繋がりかけているのに、酒のせいで、繋がる速度が遅い。脳の中で、何本かの線が、酒の海を渡って、ゆっくり、出会いに行く途中であった。

二回の「ほうか」のあと、老人の中で、線が、ようやく、繋がったらしかった。

繋がった瞬間、老人の表情が、変わった。

変わった、というのは、それまでぼんやりしていた焦点が、急に、こちら側に対して、はっきり結ばれたということである。視線の温度が、ゼロ度から、急に、二十度くらいまで上がった。にやり、と笑った。

笑い方が、こちらが想像していた老人の笑い方と、ちょっと、違っていた。

もっと、上機嫌で、もっと、歯が出ていて、もっと、目尻のしわが深かった。八十年ぶんの社会的経験が、酒のせいで、その夜だけ、別の引き出しにしまわれていた。引き出しから取り出されているのは、もっと若い頃の、社会的経験を積む前の、生の表情の方であった。

「お前、七緒のことが、気になっとるんか」

……来た、と思った。

さっきの「七緒の友達か」とは、別の角度から、来た。

「七緒の友達か」は、紹介状を要求する種類の質問であった。今度の「気になっとるんか」は、紹介状ではなく、台帳の上から下まで全部開示しろ、という種類の質問であった。質問の重さが、湯呑み一杯ぶん、増えていた。

「あ、いえ、その」

と、僕は答えた。

答えになっていない答えを、老人は、別段、気にしなかった。

「ええよなあ、若いのは」

老人は、上がり框の縁に手をついて、しゃがんだ姿勢のまま、ちょっと身を乗り出した。湯呑みは反対の手にぶら下がったままで、依然、絶妙な角度を保っていた。

「七緒もな、もう二十二じゃ。二十二で、まだ毎日、家から大学通いよる。電車で一駅二駅の大学なんじゃけど、まあ普通、二十二の女が家から通うか? 通わんじゃろ。だいたいそれくらいの年頃の女は、男のひとつでも作って、男の方に転がり込むもんよ。それを平気な顔して、家から通って、母さん手伝いよる」

言われた内容に、僕の脳が、即座に追いつかなかった。

七緒さんが二十二歳であること。家に帰ってきていること。「ええ年して」のニュアンス。「男のひとつでも作って」の表現の古さ。これら全部が、いっぺんに、僕の方に押し寄せてきていた。脳の処理は、追いついていない。追いつかないまま、口だけが、なんとか、応答した。

「あの、月野さんは、お母様を、よく手伝われていて」

「手伝ってくれるんは、ありがたいよ。ありがたいけえ、よけいに、心配なんよ」

老人の口調が、ちょっと、変わった。

さっきまでのからかい混じりの軽さから、ほんの一瞬、別の温度が混ざった。混ざったが、すぐに、また、軽い方へ戻った。

「お前、ええ子じゃのう」

「いえ、別に」

「謙遜すなや。わしの目はな、酔うとっても、誤魔化されんけえ」

誤魔化されんけえ、と言いながら、老人は、湯呑みを、ぐいと、口に運んだ。一口、ぐびっと飲んだ。飲んでから、目を、もう一度、僕の方に戻した。

「お前、酒は、飲めるんか」

「あ、はい。先月、二十歳になったので」

「ほうか、ほうか。新二十歳か。ええ時期じゃのう」

ええ時期、の意味は、僕には、よく分からなかった。

分からないうちに、老人は、湯呑みを、こちら側に、差し出してきた。

「いっこ、飲んでみい」

湯呑みが、しゃがんだ老人の腕の先で、僕の方に向かって、突き出されていた。

距離にして、僕と老人の間は、たぶん、二メートルくらいあった。湯呑みは、その二メートルの中間点くらいに、ぴょこんと、突き出されていた。突き出された湯呑みは、ぐらぐらしているわけではなかった。が、安定しているとも言えなかった。手首から先だけが、酒の重力に対して、独立した法律を持っているような、そういう揺れ方であった。

湯呑みの中の液体が、ゆらゆら、揺れていた。

中身は、こちらからは、なお、よく見えなかった。見えなかったが、中身に対する興味が、僕の中で、ちょっと、立ち上がってきていた。

二週間前の七蔵巡りで、僕は、七つの蔵の七種類の酒を、飲んだ。だがその中に、月野酒造の酒は、入っていなかった。月野酒造の酒は、地元の酒屋にもほとんど卸されておらず、蔵の直売所で、ごく少量だけ売られている、というのが、月野さんの説明であった。月野酒造の酒というのは、僕にとって、まだ、口に入れたことのない、未知の液体であった。

その未知の液体が、いま、僕に向かって、突き出されていた。

突き出されているのを、僕は、しばらく、見ていた。

見ているうちに、僕の足が、ちょっと、前に出かけた。

母屋の方の、引き戸が、勢いよく開いた。

ガラガラ、という音が、想定よりだいぶ大きかった。引き戸というものは、普通、もう少し穏やかに開けるものである。穏やかに開けないということは、開けた人が、穏やかでない事情を抱えている、ということであった。

「お父さん!!」

高い、女性の声が、母屋から飛んできた。

「何しよるん!! 初対面の子に、何させようとしとるん!!」

飛んできた声の主が、勢いそのまま、母屋から庭に降りてきた。エプロン姿の、五十前後の女性であった。中肉中背、黒い髪を後ろで一つに束ねている。月野さんと、目元が、似ていた。月野さんの母親、玲子さんである。

玲子さんは、サンダルのまま、ぱたぱた、と老人のところまで歩いて、しゃがんで、老人の手から湯呑みを、ひょいと取り上げた。

取り上げる動作が、完全に、慣れていた。

老人の方は、湯呑みを取られても、特に抵抗しなかった。抵抗しないけれども、ちょっと、不満そうな顔はした。子どもがおもちゃを取り上げられた時の顔に、近かった。

「玲子、お前、ええとこじゃったのに」

「ええとこも何も、お父さん、初対面の若い子に、酒、飲ませようとしとったじゃろ」

「ええ子なんよ、この子は」

「ええ子かどうかは、お父さんが酒勧めて判断することじゃないけえ! まったく、もう」

玲子さんは、老人を、もう一回、軽く睨んでから、こっちを向いた。

こちらを向いた瞬間、玲子さんの表情が、ぱっと、変わった。

さっきまで老人を叱っていた顔から、急に、客人を迎える顔に、切り替わった。表情の切り替え速度が、ものすごく、速かった。スイッチが、明らかに、独立して動いていた。

「ごめんなさいねえ、本当に、本当に。うちの父が、酔うと、こうなって」

玲子さんは、こちらに向かって、ぺこぺこ、と何度も頭を下げた。

「いえ、こちらこそ、勝手に、立ち寄ってしまって」

と、僕は、慌てて、頭を下げ返した。

「お名前、聞いてもよろしいかしら」

「あ、柏木です。柏木蓮、と言います」

名前を言った瞬間、玲子さんの表情が、また、変わった。

……ああ、と、声に出さずに、玲子さんが言った。

「ああ」というよりは、「あら」に近い、小さな反応であった。完全に独り言として漏れた、その種類の反応であった。だが、漏れた以上、こっちの耳には、ちゃんと届いていた。

届いた瞬間、僕は、一つ、気がついた。

玲子さんは、僕の名前を、もう、知っていた。

知っているのに、わざわざ「お名前、聞いてもよろしいかしら」と聞いてきた。聞いてきた理由は、たぶん、確認のためである。月野さんから何かの拍子に「柏木」という名前を聞いていて、そのうえで、目の前の若い男が、その柏木かどうか、確認したかった。確認したら、当たりだった。それで、ぱっと、表情が変わった。

月野さんは、僕の話を、母親にしている。

その事実が、玲子さんの「ああ」の二音の中に、完全に、入っていた。

玲子さんは、すぐに、表情を整え直した。

整え直したが、整え直す前のものを僕に見られたことは、たぶん、玲子さん自身は、把握していた。把握したうえで、それ以上の追加情報は、何も、出してこなかった。「あら、柏木さん、ご存知でしたわ」とも言わなかったし、「七緒からよく聞いとります」とも言わなかった。整え直した顔のまま、最初の客人迎えのモードに、戻った。

「柏木さん、お茶でも、と言いたいところやけど、今日は、父がこの調子じゃけ。せっかく来ていただいたのに、申し訳ないけど、また、改めて」

「いえ、本当に、こちらこそ、突然立ち寄ってしまって」

「ちゃんと、改めて、お招きしますけえね。今日のところは、堪忍してください」

玲子さんは、もう一回、頭を下げた。

僕も、頭を下げた。

頭を下げ合っているうちに、上がり框の老人が、ぼそっと、何か、呟いた。

「七緒に」

「お父さん、もう、ええけえ」

「七緒に、伝えとけ」

「だから、もう、ええって」

「お前が、来たと」

お前、というのが、僕を指していることは、すぐに分かった。湯呑みは、もう、玲子さんが取り上げてしまっていたので、老人の手は、空であった。空の手で、ちょっとだけ、僕の方を指した。指した手が、ふらふらと揺れた。

「もう、お父さん!」

玲子さんが、もう一度、声を上げた。

老人は、それ以上は、何も言わなかった。

言わなかったが、にやり、と、もう一回、笑った。さっきの小学生の笑顔と、同じ笑顔であった。

僕は、もう一回、玲子さんに向かって、頭を下げて、きびすを返した。

小路の方へ歩き出してから、一回だけ、振り返った。

玲子さんは、まだ、上がり框の老人のそばに、しゃがんでいた。老人は、空になった手を、しょんぼり、膝の上に置いていた。

小路を抜けて、酒蔵通りに戻った。

戻った瞬間、世界が、急に、観光地に戻った。なまこ壁、煙突、写真を撮る観光客、地図アプリを開いている若いグループ、片手に缶ビールを持って歩いている明らかに先発隊の人。先週も先々週も先々々週も、たぶん同じ顔ぶれが、同じ時間帯に、同じ場所で、同じことをしている。観光地というのは、利用者が入れ替わっているのに、構図だけは恒久的に同じ、という不思議な空間であった。

その恒久の構図の中を、僕は、駅の方向に、ゆっくり歩いた。

歩きながら、頭の中は、忙しかった。

いま、何が起きたのか、整理しないといけなかった。月野さんの祖父に会った。祖父は酔っていた。酔った祖父に、湯呑みを差し出された。玲子さんが止めに来た。玲子さんは、僕の名前を、知っていた。祖父が、最後に「七緒に伝えとけ」と言った。

整理した結果、たぶん、こうである。

玲子さんは、僕が訪ねたことを、月野さんに、話す。

当たり前の論理として、母親が娘に「今日、こんな子が訪ねてきたよ」と伝えるのは、自然な流れである。だが、玲子さんはそれをすることに対して、特に積極的な感じではなかった。整え直した顔のまま、最初の客人迎えのモードに戻ったあと、特に「七緒に伝えておきますね」とも言わなかった。あの言わなさは、伝えない、という意思表示にも、伝える、という意思表示にも、どちらにも取れた。

取れたが、僕は、伝えない側に、賭けた。

賭けた、というほど確信があったわけではない。ただ、こちらの希望としては、伝えないでほしかった。月野さんに、勝手に押しかけたことが、伝わるのは、なんとなく、気まずかった。気まずさの内訳を分析すると、たぶん、僕が月野さんの実家を「いつか見たい」と言われていない段階で勝手に見に行った、という事実が、自意識の隅に引っかかっていた。引っかかっているのを、なるべく、伝えないでほしかった。

祖父の「七緒に伝えとけ」については、考慮の対象から、外した。

あれだけ酔っていれば、酔いから覚めた頃には、僕のことなど、忘れている。覚えていたとしても、玲子さんが「お父さん、酔って絡んだのは恥ずかしいけえ、七緒には黙っときましょう」と判断する可能性も、ある。可能性に賭ける、というのは、自分に都合のいい想像をする、という意味での、賭けであった。賭ける根拠は、薄い。薄いが、薄い根拠でも、一旦、賭けることにしないと、僕の精神衛生は持たなかった。

アパートに戻ったのは、午後の二時くらいだった。

戻ってから、千秋にLINEを送るかどうか、迷った。

千秋に話したら、たぶん、面白がられた。面白がられたあと、十中八九、「で、どう思ったんや」と聞かれるはずであった。「で、どう思ったんや」に答えられる単語を、僕は、まだ、自分の中に持っていなかった。持っていない単語で会話をすると、相手にも自分にも、嘘をつくことになる。

だから、話さなかった。


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