八つめの蔵には、いつか行く
翌週の土曜日、四月の二十七日、僕はちゃんと朝の九時に、西条駅前の広場に立っていた。
春の終わりの土曜の朝の駅前は、平日の朝とは別の街のようであった。通勤通学の人々が消えて、代わりに観光客が増えていて、みんな酒蔵通りの方角を向いて歩いていく。リュックを背負った中高年のカップル、地図アプリを開いている若いグループ、片手に缶ビールを持って歩いている明らかに先発隊の人。九時から缶ビールを開けるのは観光客の特権である。彼らは今日一日のために前の晩から飛行機なり新幹線なりで移動してきていて、正午までに七蔵を制覇し、午後には新幹線で帰る計画を立てているのだろう。土曜の朝九時の缶ビールは、彼らにとっての朝のコーヒーである。文化の多様性は、駅前でいちばんよく観察できる。
そういう、勝手な人間観察を駅前のベンチで五分ほど続けていたら、横から声がかかった。
「ちゃんと九時に来てる。えらい」
月野さんが、立っていた。
すぐには、気がつかなかった。
この日の月野さんは、薄手のグレーのカーディガンに、紺色のデニムで、肩からは小さなトートバッグを一つ下げていた。前の週のような、利き酒のお猪口を持ち上げる慣れた動作も、文庫本を抱えて歩いていく潔い去り際もない、ただの普通の大学生の格好だった。普通であるはずなのに、なぜかこちらの目に妙に引っかかる。普通であることが、こちらの目に引っかかる現象を、何と呼べばいいのか、僕にはまだ語彙がなかった。
「おはようございます」
「おはよ。じゃあ行こか」
行こか、で会話は終了であった。最低限の構成要素しかない言葉でやり取りを完成させるのが、月野さんの基本仕様らしい。前の週の「水。飲み」と同じ系統の合理性であった。
一蔵目は、賀茂鶴酒造であった。
西条の蔵の中では最大手で、駅から歩いて数分の距離にある。なまこ壁の蔵が連なる敷地の入口に、「酒造ガイダンス」と書かれた看板が出ていた。観光客向けに開放されている見学施設で、月野さんは慣れた足取りで僕を引き連れ、ガラス扉をくぐった。
室内に入って驚いた。
思っていたよりもずっと、本格的な見学設備であった。櫂棒の実物が壁に立てかけられ、酒造りの工程を説明する映像が大きなモニターで流れ、ガラス越しに古い醸造道具が並べてある。観光地の蔵というのは、もっと簡素な土産物屋を兼ねた何かを想像していたのだが、ここは、博物館に近い空気を持っていた。
月野さんは、映像が流れているモニターの前で、しばらく腕を組んで立っていた。その横顔が、観光客のものではなく、同業者のものに切り替わっていることに、僕は気がついた。
「これ、何回見ても飽きん?」
と僕が聞くと、
「飽きん」
と即答だった。
「米を蒸して、麹を作って、酒母を立てて、もろみを仕込んで、絞る。たった五段階なんだよ。でも、その五段階で蔵ごとに全部味が違うのは、毎回見ても不思議でしょ」
「五段階で全部違うですか」
「料理と一緒。同じ材料で作っても人が変われば味が変わる。酒は、人なんよ」
月野さんは、最後の一文だけ、なぜか少しゆっくり言った。「酒は、人なんよ」。それは月野さんの言葉というより、月野さんが普段、誰かから聞いている言葉をそのまま借りてきたように、僕には聞こえた。
後で分かったことだが、それは月野さんの祖父、月野源造さんの口癖の半分であった。残り半分は、もっと長い、もっと別の話に繋がる言葉だった。だがその夜の僕はそこまで知らなかった。後から知った。だから今こうやって書いている。
試飲コーナーで、月野さんは僕に「ゴールド賀茂鶴」を勧めた。賀茂鶴の代表銘柄で金箔が浮かんでいる、見た目から派手な大吟醸である。
「派手でしょ。でも、味も派手なの。蓮くん、最初の感想言ってみ」
僕は素直に一口含んでみた。
前の週の純米吟醸とは、まるで違う種類の液体であった。香りの強さがまず違う。鼻に届くところがまず違う。喉を通る時の、丸い感じの強さが違う。前の週の山吹色が「軽さの中の華やかさ」だったとすれば、これは「重さの中の華やかさ」だった。同じ華やかさという言葉でも、軽い華やかさと重い華やかさがあって、それらは別の楽器が同じ旋律を弾いているくらいの差であった。
……ということを、僕は月野さんの前で、なぜかうまく言葉にできなかった。
「えっと、香りが、強いです」
「はい、それから?」
「丸い、です」
「はい、それから?」
「派手、です」
「それ、さっき私が言った」
確かに、月野さんが今しがた使った言葉である。剽窃である。レポートでは四千字書けたのに、月野さんの目の前では三語しか出てこない。ペンと口は別の臓器らしい、と僕は今日、新しい発見をした。
月野さんは少し笑って、
「まあ、いいよ。書ける言葉と話せる言葉は別だから。蓮くん、書く方は得意だね、レポート読んだ感じ」
……レポート、と聞いて、頬が少し熱くなった。これはアルコールではない。たぶんアルコールではない。アルコールではないと信じたい。
「書ける方は、まあ、はい」
「それでいいよ。書ける方が、たぶん蓮くんの仕事になるから」
僕の、仕事になる。月野さんは時々、こういう、未来の話を、現在形で言う。それを言う時の月野さんの口調は、占い師の予言とは違い、もっと工事現場の現場監督の指示に近い。「これがこうなる」と決まっていることに対する、確認のような言い方であった。
二蔵目は、亀齢酒造。
「鶴は千年、亀は万年」と言われている、辛口の代表格らしい。月野さんの説明を聞きながら、僕は試飲を一口飲んで、また咳き込みかけた。前の週の純米吟醸と比べて、舌に刺さる感じがまったく違う。
「げほっ、これ、辛いですね」
「うん、辛い。但馬杜氏の伝統だから」
「タジマ、トウジ?」
「兵庫の但馬地方の杜氏。日本三大杜氏のひとつ。ここの蔵は昔ながらのスタイル続けてるの。冬になったら但馬から職人さんが出稼ぎで来て、春になったら帰る。季節労働」
「それ、現代でも、続いてるんですか」
「続いてる蔵は続いてる。続けるのが大変な蔵もあるけど」
月野さんは、最後の一言を、ほんの少し、声を落として言った。けれども、僕がそれに引っかかる前に、月野さんはもう次の話に切り替わっていて、僕は引っかかる暇を逃した。何か引っかかった、という感覚だけが、胃の底に小さく残った。
三蔵目、福美人酒造。
高さ二十五メートルの煙突が、四月の青空に向かって立っていた。
「ここ、昔は『西條酒造学校』って呼ばれてたの」
と、月野さんが言った。
「学校?」
「全国から若い杜氏志望が集まって、ここで修行して地元に帰ってから蔵を立てた。日本中の蔵元の何人かは、ここの卒業生」
僕は反射的に、ポケットのスマホを取り出して、メモアプリを開いた。これはレポートのためでも、千秋への報告のためでも、サークル広報誌のためでもない。ただ、なぜか、忘れないように書いておきたい、という反射であった。「西條酒造学校」「卒業生」「全国に散る」。三つの単語を、メモした。
月野さんが、横からそれを見ていた。
「ちゃんとメモ取るんだね、蓮くん」
「あ、すいません、つい」
「謝らなくていいよ。私、メモ取る人、好きだから」
……。
僕は、メモアプリの画面のまま、五秒ほど固まった。月野さんは、もう次の蔵の方を向いていて、僕の固まり加減には気づいていないようだった。気づいていないことにしておいてくれた、のかもしれなかった。後者だとしたら、それは結構な気遣いである。優しさの種類は人によるらしい、というのは、千秋以外にも当てはまる定理であった。
四蔵目、白牡丹酒造。
三百年を超える歴史がある、西条最古の蔵のひとつだった。なまこ壁が他の蔵より少しくすんでいて、それが古さの証明になっていた。
「ここね、夏目漱石が好きだったの」
と、月野さんが言った。
「あの『坊っちゃん』の、夏目漱石ですか」
「うん。先々代の社長と漱石が文通する仲だったらしくて。その縁で、漱石は白牡丹を取り寄せて飲んでた。胃が弱くて他のお酒はそんなに飲めなかったんだけど、白牡丹だけは別格って、句まで残してる」
これは、僕の中の文章好きの部分を、深く突き刺した。
「漱石が、これ、飲んでたんですか」
「飲んでた。同じ蔵の、同じ流派の酒を、今、私たちも飲んでる。百年以上前の人と、同じ味を共有してる、ってこと」
同じ味を、共有している。
それは、酒というものに対する、僕がそれまで持っていなかった視点であった。酒は、その場で消費されて、その場で消えていく液体だと思っていた。けれども、蔵が同じ場所で同じ作り方を続けている限り、味は時間を超えて持続している。漱石が飲んだ白牡丹と、二十歳の僕が今ここで飲んでいる白牡丹は、厳密には同じではないにせよ、蔵が記憶している味として、繋がっている。
……ということを、僕はまた、月野さんの前ではうまく言葉にできなかった。
「なんか、すごいですね」
「うん、すごい」
「百年って、すごいですね」
「うん、すごい」
月野さんは僕の三語を、また三語で、丁寧に受け止めてくれていた。三語に三語で返すのは、たぶん、優しさである。月野さんは僕の語彙が今しがた家出していることを察していて、それに合わせて自分の語彙も家出させてくれていた。気がする。気がするだけで、確証はない。
ただ、僕は、白牡丹の蔵の前で、月野さんと並んで、漱石の話をした、ということを、覚えておこうと思った。覚えておくつもりがあれば、たぶん、覚えていられる。
覚えていられるはずだった。
五蔵目、西條鶴醸造。
江戸時代の天保年間に掘られた井戸が、今でも仕込み水として使われているという。月野さんの説明は短かった。「天保井水。今も現役」。それだけだった。蔵の建物が登録有形文化財に指定されていて、看板に丁寧な解説が書いてあった。月野さんはそれを指で示して、「これ読んだら、私が説明するより早い」と言って笑った。手抜きと呼ぶには、あまりに合理的な手抜きであった。
六蔵目、山陽鶴酒造。
「黒松山陽鶴」の試飲を一口。
「甘酸辛苦渋、五味が一体になってるの」
と月野さんが説明した。
五味、と聞いて、僕は理科の授業の周期表のような幾何学を頭に思い浮かべた。甘・酸・辛・苦・渋。星形に並んだ五つの点。それぞれの点が均等に主張すると、味は乱れる。けれども、五つの点が中央で一つに溶け合うと、それは「美味しい」になる。
飲んでみると、確かに、五つの点が中央で会議を開いていた。
「会議?」
月野さんが、僕の独り言を拾った。
「あ、いや、独り言です。五つの点が中央で会議を開いている感じです」
「……何それ、おもしろ」
月野さんは、声を出して笑った。今日いちばん、声を出していた。それまでの上品な微笑みではなく、口を開けて、ちゃんと笑っていた。
笑った後、月野さんは僕の顔をしばらく見て、それからもう一度独り言のように呟いた。
「蓮くん、文章書く人だね」
「はい、書きます。サークルの広報誌、一人で書いてます」
「うん。なんか、そんな気がした」
月野さんは、それ以上、何も言わなかった。けれども、その沈黙は、嫌な沈黙ではなく、むしろ、何かが伝わったことを確認する種類の沈黙であった。
一日が、思っていたより、早く進んでいた。
移動時間と試飲時間と説明と独り言と、それらを律儀に積み上げていったら、気がつけば午後の四時を過ぎていた。日差しが少し低くなって、酒蔵通りの煙突たちが、長い影を路上に伸ばし始めていた。煙突の影は、地面の上で寝そべっていて、煙突本体よりずっと長い。本体は二十メートル前後でも、影は地面に対する角度のせいで五十メートル近くあった。煙突は影の中で、自分が大きいと勘違いしているかもしれない。
七蔵目は、賀茂泉酒造、再訪であった。
月野さんは、酒泉館の入り口の前で、立ち止まって僕の顔を見た。
「最後、ここに戻るって、最初から決めてた」
「最初から?」
「うん。蓮くんの最初の一杯がここだから。最後にもう一回、同じ酒を飲んでみて、二週間前と比べてどう感じるか、それを見たかった」
……見たかった、と言われた。
見たかった、という日本語を、こちらに向けて、月野さんは確かに発音した。これは「比較研究のサンプル」に対する「見たい」なのか、僕という人間に対する「見たい」なのか、判別する根拠は手元にない。判別する気力もなかった。とりあえず、酒泉館に入った。
一階のお酒喫茶は、土曜の夕方ということで、観光客で半分ほど埋まっていた。空いていた窓際の小さなテーブル席に、二人で向かい合って座った。カウンターで、月野さんが、二週間前と同じ、賀茂泉の純米吟醸を二杯、注文した。
山吹色の液体が、テーブルに並んだ。
「乾杯、しよっか」
と月野さんが言った。
「何に対して乾杯するんですか」
「七蔵、無事完走に対して」
七蔵無事完走、というのは、マラソンの完走証明書のような響きであった。事務的なくせに、ちゃんと達成感がある、絶妙な乾杯の理由であった。お猪口を軽く合わせると、こん、と硬い音がした。
そして、僕は、二週間前と同じ酒を、口に含んだ。
違っていた。
はっきり、違っていた。
二週間前と、同じ酒なのに、違って感じられた。
二週間前の僕は、咳き込んだ。喉のどこかで、液体の正体を発見できなくて、ただ熱いものとして処理して、慌てて押し戻した。今日の僕は、咳き込まなかった。山吹色の液体は、入ってきた時から、軽く、華やかで、果物のような、花のような、しかし果物でも花でもない香りを連れていた。それを、ちゃんと、香りとして、認識した。
そして、嫌味がなかった。
月野さんが二週間前に「初めての人にも分かりやすい」と言ったその「分かりやすさ」が、今、僕にも分かった。分かるとは、こういうことか、と思った。
「どう、二週間前と」
「全然、違います」
僕は、即答した。即答した自分に、自分で、驚いた。即答するという動作は、ふだんの僕の動作目録の中にない。それなのに、今、僕は即答した。意思決定が、頭で起きる前に、口で起きていた。
「全然、違うって、どう違うの」
「あの時は、敵でした。今は、敵じゃないです」
「敵?」
「はい、敵」
「……敵」
月野さんは、敵、という言葉を、自分の口でもう一度発音してから、何度か頷いた。
「うん、いい表現。レポートに書いて」
「レポート、まだ書くんですか」
「書く。今日のフィールドワークの感想文、来週の土曜までに、四千字くらいで」
……。
日研の伝統じゃけ、と言いそうになった月野さんを、僕は手で軽く制止した。月野さんは、僕の制止に対して、楽しそうに笑った。今日、月野さんが声を出して笑ったのは、これで二回目であった。回数を数えている自分に、内心、苦笑した。
酒泉館を出た時には、夕陽がもう、酒蔵通りの西の煙突の真上にあった。
煙突は、夕陽を背負って、シルエットだけになっていた。昼間の煙突は観光地の風景で、夜の煙突は内省的な誰かで、そして夕方の煙突は、その間の、移行期間の煙突であった。煙突にも一日の時間帯ごとに別の人格があるらしい。煙突の二十四時間、と書いたら、誰かが本にしてくれないだろうか。書かなくていい。
月野さんは、駅まで歩く途中で、ふと、立ち止まって、僕の方を振り返った。
「蓮くん、私の実家、見たい?」
……。
唐突であった。一日の流れの中で、唯一、唐突なタイミングで来た言葉であった。
「実家、ですか」
「うん。さっきの七蔵には入ってない、八つめの蔵。酒蔵通りからちょっと外れた小路にある、小さい蔵。月野酒造、っていうの」
月野、と聞いて、僕は今日初めて、月野さんの「月野」が何を意味する月野なのかを、理解した。前の週から薄々予感はしていた。本人が酒蔵の何かであることは、酒泉館での仕草と、今日のフィールドワークの精度から、もう確定していた。けれども、それが「月野酒造」という具体的な名詞の形で僕に提示されたのは、今が初めてであった。
「月野酒造」
「うん。私が継ぐかどうか、まだ決めてない」
月野さんは、決めてない、と言った。決めていない、ではなく、決めてない。その四文字の省略が、なぜか、僕の喉のあたりに、重みを残した。
……見たい、と僕は言った。
言ったあとで、僕の口が「見たい」と言ったことを、僕は耳で聞いていた。自分の口が自分の耳より先に動くのは、二週間前の「敵」以来、二度目であった。今日は、口の方が、僕本体より優秀な日らしかった。
「じゃあ、いつか連れてく」
「いつか?」
「うん、いつか。今日はもう、疲れたから。蓮くんも疲れたよね。月野酒造は、別の日に」
月野さんは「いつか」を、未来の予定として、こちらに置いた。「いつか」は曖昧だが、「いつか」と口にした以上、その日は来る。来ない場合は、「いつか」は嘘になる。月野さんが嘘をつくタイプの人間に見えなかったので、僕はその「いつか」を、たぶん、本気で信じた。
西条駅の前で、月野さんと別れた。
駅前のロータリーのところで、月野さんは「じゃあね、また」と片手を上げて、駅とは反対の、酒蔵通りの方角へ歩いていった。考えてみれば当然である。月野さんの実家の月野酒造は、酒蔵通りの外れにあるのだから、月野さんが帰る方向は、駅ではなく、街の中であった。家から大学に通っている人は、家から大学に通う。それが普通である。普通のことを、僕は今、改めて確認した。
後で聞いたが、月野さんは近大広島キャンパスにも、月野酒造の実家から通っていた。西条駅から山陽本線で西高屋駅まで二駅、そこから近大の無料スクールバスに乗れば、キャンパスに着く。電車六分とバス、合計しても二十分かそこら。一人暮らしをする理由が地理的にも経済的にも見当たらない、というのが月野さんの言い分だった。「家業の蔵があるんに、家を出てアパート借りるって、二重コストじゃん」と、後日、月野さんは事もなげに言った。事もなげすぎる、と思ったが、確かに、そうである。
……ということを、僕は、その時の僕は、まだ知らなかった。
知らないまま、僕は、駅前で、月野さんの背中が酒蔵通りの方向に消えていくのを、しばらく見送った。
見送ったあと、家まで歩いた。
アパートまでは、駅から十分ほどである。歩きながら、僕は今日一日のことを、頭の中でなんとなく振り返ってみた。賀茂鶴のゴールド、亀齢の辛口、福美人の二十五メートルの煙突、白牡丹の漱石、西條鶴の天保井水、山陽鶴の五味の会議、賀茂泉の二度目の山吹色。それから、月野酒造の名前と、「いつか」の四文字。
一日に詰め込みすぎである。
これを四千字のレポートにまとめろ、というのが、月野七緒からの宿題であった。書ける気はしなかった。書ける気はしないが、書かないと、月野さんから二度目の「合格」は出ないことになっている。「合格」が欲しい、と気づいてしまった以上、僕は四千字書く以外の選択肢を、もう持っていなかった。
アパートに着いて、ベッドに倒れ込んだ。
倒れ込んでから、千秋にLINEを送った。
『七蔵、無事完走した。報告は明日』
と一行送ると、千秋からは三秒で返信が来た。
『で? どっちが好きなん? 蔵? 先輩?』
……。
千秋の問いは、二週間前のファミレスで聞いた問いと、同じ問いだった。同じ問いを、二週間後に、もう一度、同じ単語で投げてくる律儀さが千秋らしかった。
僕は、しばらく、画面を見ていた。
答えなければならない、と思った。
思っているうちに、千秋から、次のLINEが来てしまった。
『まあ、いいよ。今日は寝な。明日聞くから』
千秋は、僕が答えに詰まっていることを、画面の向こうで、ちゃんと察してくれていた。察したうえで、明日に持ち越してくれた。優しさの種類は人によるが、千秋の優しさは、相手の答えを引き出す前に、答えを保留する余地を作る種類だった。
僕は、スマホを枕の脇に置いた。
天井を見上げると、シミはいつもと同じ場所にあった。シミは、二十歳の僕が二日酔いになっても、月野さんからLINEをもらっても、七蔵を一日で歩き終えても、変わらず同じ場所にあった。シミだけは、僕の人生に対して、引き続き、完全に無関心であった。
シミは安定している。
安定したシミに見守られて、僕は、その夜、思っていたより早く眠った。
一日のフィールドワークの疲れと、七蔵ぶんの試飲のアルコールと、月野さんが「敵」を発音した時の表情と、「いつか」の四文字と、それらが全部混ざった脳が、勝手にシャットダウン処理に入った。
シャットダウンの直前、僕の頭の中に、月野酒造の蔵が、まだ見たこともないのに、勝手に立ち上がっていた。
立ち上がっていた蔵の前で、まだ会っていない誰かが、僕に向かって、何か言いかけて、口を閉じた。そこで、世界が暗転した。




