四千字を、四文字で評価される
月野七緒からの二通目のLINEは、四月の二十日、土曜の朝に届いた。
『はい、合格』
たった四文字である。句点もない、絵文字もない、スタンプもない。文字数を切り詰めることに人生を懸けている人のような潔さであった。前の週、僕は二日酔いの脳をどうにか叩き起こして、五杯ぶんの利き酒の感想を、四千字ほどのレポートにまとめて送っていた。受け取った側からすれば、あれを読むのは結構な労力のはずである。それに対する評価が「はい、合格」の四文字。割に合わない、と思いつつ、悪い気はしなかった。
こういうとき、僕の中の文章好きの部分が、どうしても余計なことを言い始める。
たぶん、あの文章は、悪くなかったのだろう。
別に、それで何かが変わるわけではない。利き酒のレポートが優秀だからといって、月野さんが僕を急に好きになるはずもないし、酒泉館がレポート優秀者にもう一杯の試飲を奢ってくれるわけでもない。ただ、四千字を書いて「合格」が返ってくるという、そのことだけが、その朝の僕にとって、ささやかに気分の良いことだった。
当然、四文字の後ろには続きがあった。
『じゃあ、来週の土曜日、付き合って。日研の宿題、フィールドワーク編』
……フィールドワーク。
こんなサークル、本当に存在するのだろうかと、再び僕は本気で疑った。「日研の伝統じゃけ」の射程は、僕が思っていたより広いらしい。レポートと並んで、フィールドワークまで設定されている日本酒研究会。これでは普通の研究室と変わらない。むしろ普通の研究室より熱心まである。
詳細は、その下にもう一行、簡潔に添えられていた。
『七蔵巡り。一日で七つ歩く。当日朝、九時に西条駅前』
七蔵を、一日で。
僕は二日酔いではない健康な土曜の朝に、その文字列をしばらく眺めていた。眺めているうちに、頭の中で勝手に算数が始まった。一日で七つの蔵。仮に午前九時から日没の十八時までを稼働時間として、九時間で七蔵。一蔵あたりの持ち時間は約七十七分。移動時間を引いたら、滞在は一蔵あたり五十分ほどか。普通に観光するならちょうどいい配分である。普通でなければ知らない。
これがフィールドワークと呼べるのか、ただのデートと呼ぶべきなのか、判別する根拠は僕の手元になかった。判別する気力もなかった。とりあえず、行かない理由が一つもなかった。
『行きます』
と返した。律儀な返信である。律儀さは、引き続き、僕の人生を進行させていた。
余談になるが、その夜、僕は同期の飯島千秋に、一連の経緯を、時系列に沿って報告した。
千秋は広島大学経済学部の二年で、僕とは新歓が一緒だったわけではないのだが、なぜか入学直後から仲が良かった。同じ学年で、同じ西条で一人暮らしをしていて、同じく親元から離れて来た口で、おまけに二人とも実家がそれぞれの理由で酒を飲まない家庭だった。共通点が多いわりに、性格は正反対である。千秋は明るくて、ものごとを言葉にするのが速くて、迷うということを知らない。僕は明るくはないし、ものごとを言葉にするのが遅いし、迷うことしか知らない。だから多分、ちょうどよく釣り合うのである。
千秋は、僕の話を聞いている間、ずっと自分のメロンソーダのストローを噛んでいた。場所は西条駅前の、僕らがよく行くファミレス。このファミレスにはドリンクバーが付いていて、二百円ぐらいで何時間でも居座れるという、貧乏学生にとっての聖域のような場所である。
一通り聞き終わった千秋が、ストローを口から離して、まず最初に言ったのは、こうである。
「うわ、めっちゃいいじゃん」
僕は何と返事をしたらいいか分からなかった。
「いや、何が」
「いや、何がって、めっちゃいい話じゃん。誕生日に酒蔵の娘さんと出会って、その人が一日中エスコートしてくれるんでしょ?」
「いや、フィールドワークだから」
「フィールドワークぅ?」
千秋は、フィールドワークの「ク」の音を、わざとらしく伸ばした。彼女は時々、こちらの言葉を反復しながら、その言葉に含まれる嘘や見栄を、語尾だけで剥がしてくる癖がある。優しい指摘ではあるのだが、剥がされる側としては、結構効く。
「七蔵を一日で歩くんだろ。学術的だろ」
「学術的ぃ?」
「やめろよ語尾を伸ばすの」
「いやだって、ほんとに学術的なら、まず指導教員がいるはずでしょ。レポート書いて『はい、合格』とかいう謎の人が指導教員なの?」
千秋の指摘は、いちいち正しかった。指導教員は、確かに、僕が知る限り存在しない。レポートの提出先も、月野さん以外の誰でもなかった。日研の宮原会長は新歓のとき以来、僕の知る限り何の連絡もしてきていない。指導体制が完全に月野七緒一名に集約されているサークルなど、研究会と名乗ってよいものか怪しい。
「まあ、いいよ。蓮、気持ちよく騙されな。それも青春」
「騙されてないって」
「うん、騙されてない人ほど、騙されてるって相場が決まってるんだよ」
そう言って、千秋はメロンソーダを一気に飲み干した。グラスの底でストローが、ずるずる、と最後の音を立てた。
千秋には、結局のところ、僕の本音は伝わっていたのだろう。本音、というほどはっきりした形ではないにせよ、少なくとも僕の中で、月野七緒という名前が前の週から少し大きくなっていることくらいは、千秋は察していた。察したうえで、騙されな、と言ってくれていた。優しさの形は人によるらしい。




