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和らぎ水と、酒祭りの夜  作者: 藤崎雅也
1章:ファースト・酒
2/4

月野七緒、登録名が増えた朝

「水。飲み」

と、彼女は言った。

短いセリフであった。二文字と二文字。日本語として最低限の構成要素しか入っていない。それなのに、この二文字と二文字には、不思議な圧があった。逆らえない、というのとも違う。逆らう気が起きない、という感じであった。

僕は素直に、コップを受け取って、水を飲んだ。

飲んだ瞬間、喉のひりひりが嘘みたいに引いていった。鼻の奥の酒の香りも、半分くらい消えた。涙はまだ出ていたが、これはたぶん、涙腺の処理が遅れているだけである。

「……すいません、ありがとうございます」

僕は、なんとか声を出した。

「いいよ。お酒は怖いものじゃないけど、舐めたら一発で持っていかれるから。水と一緒に飲んで」

声には少し低めの落ち着きがあって、喋り方には妙な慣れがあった。

「はい」

「特に最初は、口の中を一回水で洗ってから次の一口を飲むの。そうすると味が分かる」

「はい」

「あと、咳き込んだら無理せずに、息を吐いて」

「はい」

僕は「はい」しか言っていない。律儀さは引き続き、僕の発言を抑制している。

彼女は少し笑って、自分のお猪口を口に運んだ。一口含んで、少し目を閉じて、ゆっくり飲み下した。それから、何かを確認するように、小さく頷いた。

利き酒、というのはこういう動作のことを言うのだろうか、と僕はぼんやり思った。ぼんやり思いながら、僕は彼女から完全に目が離せなくなっていた。咳のせいで、喉がまだ少し痛む。痛むのに、目だけはやたらに冴えてしまっていた。喉と目は別々の臓器なのだから当然と言えば当然なのだが、この時の僕は、なぜかそれを当然と思えなかった。

「君、初めて?」

「あ、はい。今日が二十歳の誕生日で」

「あ、ほんと? おめでとう」

棒読みではない、しかし大袈裟でもない、ちょうどいい温度の「おめでとう」であった。職人芸である。

「ありがとうございます」

「最初の一杯、賀茂泉でよかったね。ここの純米吟醸は、初めての人にも分かりやすいから」

「分かりやすい、というのは」

「華やかで、嫌味がないから。最初に強い酒を飲んだら、もう二度と日本酒飲めなくなる人もいるし」

この人は何者だろう、と僕はようやく思い始めた。利き酒の動作に慣れていて、賀茂泉の純米吟醸の味を「初めての人にも分かりやすい」と評価できて、咳き込んだ僕に水を差し出す手際が完成されている。少なくとも、酒に関しては素人ではない。

「あの、お酒、お詳しいんですね」

「うん、まあ。実家が、こういう感じのところだから」

そう言って、彼女は窓の外を指さした。窓の向こうには、酒蔵通りの煙突が一本、夕焼けの中に立っている。

僕は、その指の先を、しばらく見ていた。

見ていたが、彼女が今「実家がこういう感じのところ」と言ったその意味が、すぐには結ばなかった。咳の余韻と、初めての日本酒のアルコールと、初めて隣に座った見知らぬ女性と、夕焼けの煙突と、いろんなものが一度に押し寄せてきて、僕の脳の処理能力を完全に超えていた。

彼女が、こちらを向き直した。

「私、月野」

と、彼女は言った。

「月野七緒。近大の三年。じゃあね、また」

月野七緒、と名乗った彼女は、お猪口を空にして、文庫本を持って、立ち上がった。

立ち上がってから、ちょっと振り返って、付け加えた。

「LINE、後で送るね。さっきの『日研グループ』、あなたも入っとるでしょ。そこから探す」

そう言って、彼女は階段の方へ歩いていった。

階段を降りる足音が、しばらく聞こえていた。

残されたテーブルには、空のお猪口と、文庫本のしおり代わりの紙ナプキンと、まだ半分くらい残った、僕の人生最初の山吹色の液体があった。

僕は、もう一度、コップの水を飲んだ。

飲んでから、ようやく一つ気がついた。

さっきの女性は、自分の名前と所属だけ言って、僕の名前を聞かなかった。「日研グループから探す」と言っていたから、そっちで確認するつもりなのだろう。それにしても、潔い去り際である。

もう一つ気がついた。

咳き込んだ僕を見ていたのは、たぶん彼女だけではなかった。日本酒研究会の先輩たちは、こちらを見ていないふりをしていただけで、実は全員、ばっちり見ていたのである。

「柏木〜! 今のえらい美人さんじゃん〜!」

と、宮原さんが向こうのテーブルから叫んだ。

「知らない人です」

「いや今、思いっきりLINE交換しとったやん!」

「だから、今知り合ったばっかりなんで」

「それを世間では『知り合った』って言うんじゃ。おめでとう、二十歳!」

何のおめでとうなのか分からなかったが、僕は二度目の「ありがとうございます」を、宮原さんに返した。

返しながら、視線は階段の方を見ていた。

もうそこには、誰もいなかった。

新歓は二時間ほどで解散になった。

解散というよりは、先輩たちがそれぞれ二次会に流れていって、僕だけが取り残された、という方が正確である。「柏木〜、二次会行かんの〜?」と宮原さんがしきりに誘ってきたが、僕は「今日はもう、これで限界です」と答えて辞退した。本音であった。お猪口五杯ぶんの試飲と、その後のおかわり何杯かで、僕の身体はすでに過去最大のアルコール量を経験している。これ以上は内臓のどこかが抗議の意思表示を始める可能性があった。

「ええよええよ、無理せんで。最初はそれでええ」

と宮原さんは僕の肩を叩いて、他の先輩たちと一緒にどこかへ消えていった。

結局、最後に酒泉館の前に残されたのは、僕一人であった。

時計を見ると、夜の七時を少し回ったところであった。

四月の七時というのは、空がちょうど黒くなりきったところの時間帯である。完全に夜だが、街の方はまだ眠っていない。酒蔵通りの店もぽつぽつ明かりがついていて、観光客らしき人影が、なまこ壁の前で写真を撮っていた。スマホのフラッシュが、白壁に一瞬だけ反射して消えた。

西条駅までは、酒蔵通りをまっすぐ歩けば十分ほどで着く。

歩き始めると、頬に冷たい空気が当たった。

四月の夜は、思っていたより冷えるものらしい。昼間は薄手の上着で過ごせる気温だったのが、七時を過ぎるとカーディガンの上にもう一枚欲しくなる温度に下がっている。アルコールで内側から熱くなっている身体には、その冷たさが、むしろ気持ちよかった。

酒蔵通りの両側には、煙突が立っていた。

昼間と同じ煙突である。立っている場所も、本数も、高さも、昼と何も変わらない。それなのに、夜の煙突は昼の煙突と別の生き物に見えた。昼の煙突は、観光地の風景の一部であった。アルバムに貼る写真の構図を整える、ただの縦長の柱であった。

ところが、夜になるとそれが変わる。

街灯のオレンジ色の光が下から煙突の途中まで届いていて、そこから上は完全に黒い。光と闇の境界が、煙突の腹のあたりに、ぐるりと横線を引いている。下半身は明るく、上半身は暗い。煙突は煙突のくせに、急に内省的な顔をして空に向かって立っていた。仕事を終えた後の人間が、家に帰る前にちょっと立ち止まって、ぼうっと夜空を眺めている、あの感じである。

煙突は休憩中、と僕は今日の昼間に言った。

さっきの女性の先輩が、それで笑ったのだった。

思い出すと、まだ少しだけ、耳の奥が熱い。これがアルコールの残響なのか、それとも別の何かなのか、判別する自信がなかった。判別する必要もなかった。

酒蔵通りを半分ほど歩いたところで、僕はふと足を止めた。

止めた、というより、足が勝手に止まった。

赤レンガの煙突が、僕の真上を覆っていた。

すぐ脇のなまこ壁の蔵から伸びた一本で、見上げると、夜空との境目で煙突の輪郭がぼやけている。

……でかい。

当たり前のことを、改めて思った。煙突は、上に行くほど細くなっているはずなのに、下から見上げると、全然細くなっていない。むしろ上のほうが、こちらに向かって覆い被さってきているようにさえ見えた。地面に立って、空に向かって、二十メートル以上の長さで指を一本立てている、巨大な誰かが、そこにいる。

そんな印象を持った。

そして、そう思った瞬間、何かが、おかしいことに気がついた。

おかしい、というのは、煙突がおかしいのではなくて、僕がおかしいのである。

僕は今、東広島市西条町、酒蔵通りの真ん中で、煙突を見上げている。

当たり前である。

当たり前なのだが、よく考えると、当たり前ではなかった。

僕は、東広島市西条町に、住んでいる。一年半、住んでいる。広島大学に進学して、西条に引っ越してきて、アパートを借りて、毎日この街で目を覚まし、毎日この街で眠っている。それが一年半続いている。

続いているのに、僕はこの煙突を、こんな風に見上げたことが、一度もなかった。

一年半、僕は何をしていたのだろう。

大学に通っていた。バイトをしていた。バイトに行く道で、確かにこの煙突の脇を何度も通ったはずだった。一度や二度ではない、何百回も通ったはずだった。それなのに、僕の中には、この煙突を「見た」記憶が一つもなかった。視界には入っていたはずである。網膜には映っていたはずである。だが、僕の脳の方が、それを「煙突」として処理することを、ずっとサボっていた。

西条に住んでいるという事実を、今初めて、僕は身体で認識した。

一年半遅れの、最初の認識であった。

こういう、遅れて来る認識のことを、何と呼べばいいのだろうか。

たぶん、名前はない。名前があったら、もっと有名な現象になっているはずだから。

一般的な人間は、引っ越したらその日のうちに「ここに住んでいる」と認識するものらしい。半年もあれば「この街の住人」になるものらしい。それなのに僕は、一年半もこの街で寝起きしていながら、「住んでいる」という事実そのものを、今夜、煙突を見上げて、初めて獲得した。

二十歳の最初の一杯と、一年半遅れの認識が、同じ一晩のうちに来た。

効率はいい。一日でまとめて二つ、人生の認識が更新された計算になる。レジで二点同時購入した時のような、合理的な気分である。本当にそんな気分なのか、自分でも怪しいのだが、そういうことにしておく。

駅まではあと半分ほどであった。

歩き始めると、煙突は背中に回って、すぐに見えなくなった。前を向くと、酒蔵通りの先に、もう一本、別の煙突が立っていた。それも、夜の中で、ぼうっと立っていた。

僕はもう一度、立ち止まりかけて、結局そのまま歩いた。

立ち止まらなくてもよかった。煙突は、たぶん、明日もそこに立っている。明後日も立っている。一年後も、たぶん立っている。慌てて全部今夜のうちに見上げる必要はない。

そういうことを、二十歳の最初の夜に学んだ。

これも一つの収穫ということにしておく。

西条駅に着いた頃、スマホが小さく震えた。

ポケットから取り出して画面を見た。LINEの通知が一件。日本酒研究会のグループにではなく、個人のトークルームに「友だちに追加されました」と表示されている。

アイコンは、デフォルトの灰色の人型のままであった。

名前のところに、四文字の漢字が並んでいた。

月野七緒、と書いてあった。

メッセージ本文はまだなかった。追加だけして、何も送ってこない。潔い、という去り際を、追加直後にもう一度反復してきた格好である。

翌朝、目を覚まして最初に思ったことは、頭の内側に金属の塊が入っているらしい、ということであった。

鈍くて重い、ずっしりとした塊である。寝返りを打つとそれが頭蓋骨の内側を移動する感覚があった。脳というものはこんなに重かっただろうか、と疑問に思ったが、二日酔いの脳に「お前は普段こんな重さじゃないだろう」と問いかけても、二日酔いの脳が正常に答えてくれるはずがなかった。質問する側もされる側も同じ脳である。共謀しているとも言える。

時計を見ると、午前十一時を回ったところであった。

完全な寝過ごしである。土曜日だから誰にも怒られる予定はないが、それにしても寝過ぎた。ふだん日曜の朝も九時には起きる人間なので、十一時というのはもはや人生の浪費の領域に踏み込んでいる。とはいえ、立ち上がる気力は皆無であった。

喉が、砂漠であった。

ベッドから手を伸ばして、枕元のペットボトルを取った。中身が半分ほど残っていた。昨夜、酔ったまま帰宅した僕が、最後の理性で確保しておいたミネラルウォーターである。よくやった、昨夜の僕。一晩前の自分から労いを受け取って、僕は半分のペットボトルを一気に飲み干した。

飲み干した瞬間、喉から胃にかけて、冷たい線が一本通った。その線が通ったあとから、ようやく身体のあちこちが、自分の身体だと認識できる感覚が戻ってきた。水とはこんなに偉大なものだったのか、と、二十歳の僕は人生で初めて、本気で水に感謝した。

水。飲み。

と、誰かのセリフが、頭の奥で響いた。

……あの人だ。

昨夜の山吹色の液体と、咳と、すっと差し出されたコップと、長い髪の女性の、慣れた感じの表情。一晩経って、酔いが覚めかけているはずなのに、その場面だけが、ほかの場面より一段くっきりと残っていた。記憶というのは均等にできていなくて、特定の場面だけ画素数が高い時があるらしい。脳の編集者が勝手に強調マークを入れたのだろう。

月野七緒、と画面に表示されていた、四文字も思い出した。

思い出して、僕は、慌てた。

慌てた、というのは正確ではない。慌てる、という動作は、もっと体力のある人間がやることである。二日酔いの僕は、慌てるための筋肉が今日は出勤していなかった。だから、内心で慌てている、と表現するのが正確である。内心だけが先に走り出して、身体が後から重そうについてきている。

とにかく、スマホを手繰り寄せた。

画面には、通知が二件、表示されていた。

一件は『日研グループ』のLINEで、宮原さんが朝の七時に「今日も一日お疲れさん」とよく分からないメッセージを投げていた。何のお疲れなのか、まだ朝だが、と僕は思ったが、二日酔いの脳ではツッコミも長続きしなかった。

もう一件が、個人のトークルームからのものであった。

月野七緒、という四文字。

アイコンは昨夜と同じ、デフォルトの灰色の人型のままであった。

メッセージは、午前八時三十二分に送られていた。

つまり僕がまだ完全に死んでいた時間帯である。八時三十二分というのは、起きている人間にとっては普通の朝の時間帯だが、二日酔いの僕にとっては前世のような時刻であった。

内容は、こうであった。

『おはよう。昨日のお会計、私が立て替えてるから、三千円返してね』

……三千円。

思っていたより、具体的な数字が出てきた。日本酒研究会の新歓費用にセット試飲代は含まれていたはずだが、僕は途中から先輩につられて、追加でいろんな銘柄をおかわりしていたらしい。記憶はぼんやりしているが、何かを「これも飲んでみ」と言われて頷いた覚えはある。その追加分の会計を、僕が酔って動けなくなっていた間に、月野さんが代わりに済ませてくれていたのだった。

……あまり覚えがない。

覚えがないが、身に覚えがないとも言い切れない。後半のおかわりは、誰がお金を払っていたのか、ほとんど認識していなかった。月野さんが自分の試飲の合間に、僕の分まで会計を済ませていた可能性は、十分にある。

立て替え三千円、というのは、二十歳の自分への、現実的でドライな一発目の請求書であった。世の中には、夢を見ている暇があったら三千円返せ、という現実が常駐している。それが大人の社会というものなのだろう。

メッセージは、続いていた。

『あと、利き酒の感想ちゃんと書いて送って。日研の慣わしらしいよ。新人は最初に飲んだ五杯分の感想をレポートにして提出するの。レポート締切は来週の土曜まで。よろしくね』

……レポート。

こんなサークル、本当にあるのだろうか、と僕は本気で疑った。新歓の翌朝に、利き酒のレポートを課す日本酒研究会。研究会、というからには研究をするのだろうとは思っていたが、まさか文字通り、レポート提出を伴う研究をしていたとは、想定外であった。

ただ、一つ引っかかる点があった。

「日研の慣わしらしい」、と書かれていた。らしい、である。日研の会員ならば「日研の慣わし」と断定するはずである。「らしい」という伝聞調を選ぶというのは、書き手が自分も外側からその情報を聞いた、というニュアンスを含む。月野さんは日研の人ではないのだろうか。それとも、たまたま謙遜したのか。判別はつかないが、判別する元気もなかった。二日酔いの脳に文法解析をさせるのは、肝臓に物理を解かせるのと同じくらい無理がある。

もう一行、続いていた。

『水、ちゃんと飲んで。二日酔いには水しかないから』

これだけは、押し付けがましくなかった。

僕はもう一本、ペットボトルを開けて、半分ほど飲んだ。

飲んでから、ようやく一つ気がついた。

月野さんは、僕がいま二日酔いになっていることを、完全に予測していた。予測したうえで、三千円の請求と、レポートの依頼と、水を飲めという三段構えのメッセージを、絶妙な順番で送ってきていた。請求は冷たく、依頼は強引で、最後の一行だけが、ほのかに温度を持っていた。これを、計算でやっているのか、無意識でやっているのか、判別がつかない。

計算であってほしい、と、なぜか思った。

計算でやっているなら、それは月野さんという人間の、性格の輪郭である。性格の輪郭が見えるということは、その人が立体的に存在しているということである。立体的に存在している人を、これからもう少しだけ、知っていきたい、と思っている自分が、いた。

……いた、というのも、いま思えば、ということだが。

思っているのは僕のはずなのに、それを発見したのは僕の中の別の僕で、発見した僕は、思っている僕に対して、軽く驚いている。なんだ、お前そんなこと思ってたのか、と。

二十歳というのは、こういう、自分の中の他人を発見する年齢なのかもしれなかった。

そういうことにしておく。

とりあえず、返信をしないといけなかった。

三千円を返す段取りと、レポートの提出方法と、水を飲んだという報告と、それらをどう一つのメッセージにまとめるか、考え始めたところで、また頭の中の金属の塊が動いた。

動いたので、考えるのをやめた。

返信は午後にする、と決めて、僕はスマホを枕の脇に置いた。天井を見上げると、僕のアパートの天井のシミが、いつもと同じ場所にあった。シミは、僕が二十歳になっても、二日酔いになっても、月野さんからLINEをもらっても、変わらず同じ場所にあった。シミだけは僕の人生に対して完全に無関心であった。

シミに無関心でいられるというのは、それはそれで一つの境地である。

シミになりたい、とまでは思わなかったが、シミの安定感だけは、認めざるを得なかった。

二十歳の二日目は、こうして始まった。

結論から言えば、レポートはちゃんと提出したし、三千円もちゃんと返したし、水もちゃんと飲んだ。月野さんからは『はい、合格』とだけ返事が来た。それが、月野さんからの二通目のLINEになる。

そして、そのレポートが、五月の連休明けの、酒蔵通り七つ巡りの、伏線になった。

のだが、その話は、また次の章で書くことにする。

二日酔いの僕には、まだそこまで思考を進める体力がなかった。今日のところは、シミと天井と、半分残ったペットボトルと、枕元のスマホと、それだけで世界を構成しておくことにする。

二十歳の入り口、というのは、こういうものらしい。


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