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和らぎ水と、酒祭りの夜  作者: 藤崎雅也
6章:あかりの散歩道
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16/17

単純な理由

西条の煙突が、いっせいに金色になる時間帯がある。

一年で最も長く、最も賑やかに、その色が街を染めるのが、十月第二土曜日の夕方である。酒祭りの初日、ということになる。約二十万人が西条にやってくる、と聞いた時、僕は冗談だと思った。冗談ではなかった。広島県の市町の一つに、人口の半分くらいに相当する数の他人が、たった二日で押し寄せてくる。それを、街は毎年、何事もなかったように受け止めてきている。受け止めてきていることが信じられない。

受け止めてきていることが信じられないので、僕は朝七時の段階で、すでに少し疲れていた。

早朝の西条は、まだ静かだった。

月野酒造の母屋の前で、僕は折りたたみのテーブルを一つ、源造さんと一緒に組み立てていた。木のテーブルで、足のところがガタついていて、平らに置くのに苦労した。源造さんは「これな、わしの父親の代から使うとるんよ」と笑いながら言った。父親の代から、というのは少なく見積もっても半世紀以上前である。半世紀以上前の家具を、二十一世紀の酒祭りに引っ張り出してくる神経が、僕にはまだ完全には理解できなかった。

「テーブル、新しいの買わないんですか」

「あほじゃのう。買うたら、これに塗ってある何十年分の酒の染みが、無うなるじゃろ」

「染み、必要なんですか」

「必要じゃ。これがあるけえ、酒の味が落ち着くんよ」

木のテーブルが酒の味に影響を与えるという仮説の妥当性は、僕の科学的常識ではうまく扱えなかった。しかし、源造さんが「染みは資産だ」と言い切る時の顔は、何かを説明しようとしているのではなく、ただ事実を述べている時の顔だった。事実を述べる人間の顔に、こちらの仮説をぶつけていくのは、無作法に近い。だから僕は黙ってテーブルの足を抑えた。

月野酒造は、その年初めて、酒蔵会場の小ブースに出店していた。

西条酒祭りの酒蔵会場というのは、要するに、街じゅうの酒蔵が一斉に自社の酒を持ち寄って、客に飲んでもらうイベントである。賀茂鶴・西條鶴・賀茂泉・白牡丹・亀齢・福美人・山陽鶴の七蔵に加えて、東広島市内の他の蔵、それから今年からは月野酒造、のような小さな蔵にも声がかかった。声がかかっただけで源造さんは三日くらい黙って小さく頷き続けていたらしい、と七緒さんが言っていた。三日も小さく頷いている老人の図、というのは、想像すると少し笑ってしまう。笑ってしまうのだが、そう簡単には笑い飛ばせない、何か硬いものが、その図の中心には入っていた。

月野酒造のブースは、メイン会場から少し外れた、酒蔵通りの裏手の一角に割り当てられていた。一番奥に近い場所で、目立つ位置ではなかった。

「どうですか、この場所」

と、僕がテーブルを並べ終わったところで源造さんに聞くと、

「ええ場所じゃ」

と、源造さんは言った。

「奥の方ですけど」

「奥じゃけ、ええんよ。表の蔵に並ぶ気は最初からないけえ。うちのは、わざわざ歩いて来てくれた人にだけ、飲んでもらえたらええ」

これは負け惜しみではなくて、本気でそう言っていた。本気でそう言っているのが伝わってきたので、僕はそれ以上、ブースの位置については何も言わなかった。

七時半、七緒さんが母屋から出てきた。

紺色の作務衣に、白い前掛けを締めていた。髪は後ろで一つにまとめてある。普段の七緒さんと比べると、明らかに「働く人」の格好をしていた。普段の七緒さんがパーカーとデニムで「学生をやっている人」の格好をしていたのに対して、今日の七緒さんは「これからこの服で何かを売る人」の格好をしていた。服装一つで、人間というものはこんなに別人に見えるのだろうかと、少し驚いた。驚いたのを顔に出さないようにしたが、たぶん出ていた。

「どうしたん、固まって」

「いや、なんか、似合うなと思って」

「これ、母さんのお下がり。私が初めて出店手伝うけえって、わざわざ出してきてくれた」

「お下がりとは思えない、貫禄がある」

「貫禄て、二十二歳に言う言葉ちゃうやろ」

そう言いながら、七緒さんは笑って、僕にもう一枚、白い前掛けを投げてよこした。

「蓮くんも、ほら。今日は手伝ってくれるんやろ」

「投げる前に確認しよう、あなた」

「もう確認しとる。ほぼ強制連行みたいなもんやけど」

強制連行という単語が会話の中で出てくると、つい少し笑ってしまう。前掛けを首にかけて、後ろで紐を結ぼうとしたが、僕は前掛けの紐の結び方をたぶん人生で初めて試みた人間で、後ろ手で蝶々結びという動作の難易度を完全に見誤っていた。指が三本くらい絡んだ。背後から七緒さんが「不器用やね」と言いながら、手早く結び直してくれた。

結び終わった七緒さんが、僕の正面に回ってきて、前掛けの位置を整えた。

至近距離で、目が合った。

七緒さんが何か言いそうだったので、僕は反射的に、視線を逸らした。逸らした先に、ちょうど源造さんがいた。源造さんは折りたたみ椅子に座って、テーブルの上に並べる徳利を一つずつ手で拭いていて、こちらを完全に見ていなかった。見ていない演技をしている、という方が正確かもしれなかった。年配の男というのは、必要な時に見ない技術を持っている、と僕は今日、生まれて初めて知った。

開会は午前十時であった。

オープニングセレモニーは中央公園のメインステージで、市長挨拶、来賓挨拶、それから鏡開き。我々の小ブースからは、太鼓の音だけが遠くで響いていた。「大酒林」という和太鼓グループが入場すると、空気がぐっと太く震える。地面のほうから振動が来て、テーブルに並べた徳利の中の酒が、ほんの少しだけ、表面で揺れた。

「すごいね、太鼓」

と、僕が言うと、源造さんは目を細めた。

「酒は音にも反応するけえな。今頃、メインステージの周りの蔵の酒は、みんな、ちょっとずつ目を覚ましとる」

「酒が目を覚ます、って」

「酒は生きとるんよ。さっき、わしのテーブルの染みのことを言うたじゃろ。あれと同じよ。酒は、まだ瓶ん中で、少し動いとる」

瓶の中で酒が動いている、と本気で信じている七十八歳と、まだ完全には信じられない二十歳が、同じテーブルに並んでいた。並んでいるが、僕の方は、源造さんの説を全面的には否定する気がなくなりかけていた。半年前なら、ありえないと一蹴していたはずである。それが今は「まあ、そうかもしれない」と思いかけている。これを成長と呼ぶのか、宗旨替えと呼ぶのか、判別はつかない。判別はつかなくても、徳利の表面で揺れた酒のかすかな波だけは、確かにこの目で見た。

客が、ぽつぽつ、ブースに来始めた。

月野酒造の限定酒、その名を『うつしよ・新酒』と言う。

これが、その年の酒祭りに合わせて源造さんが仕込んだ、源造さんの今シーズンの最後の作品であった。源造さんはあと数年で完全に蔵から退く予定で、これが「現役の杜氏として全工程に関わった、たぶん最後の仕込み」になる、と七緒さんから聞いていた。本人はあっさりした顔で「まだもう一回くらいやれるかも分からんよ」と言うのだが、本人があっさりしていればしているほど、こちらは余計に重いものを感じる。これも、年配の男の技術の一つかもしれない。

試飲のお猪口を持って、初老の男性客が一人、ブースの前に来た。

「すまんけど、これ、どこの蔵?」

「月野酒造です。酒蔵通りの、ちょっと裏手の」

「あー、月野さんとこ。出してたんじゃ、知らんかった。源さん、元気かいの」

「元気じゃ」

と、テーブルの奥に座っていた源造さんが、片手だけ上げた。客の方は「うわっ、源さん」と少し笑って、お猪口を差し出した。

「じゃあ、その、新酒っちゅうの、もろうて」

「はい、ありがとうございます」

七緒さんが、徳利を傾けて、お猪口に酒を注いだ。澄んだ、少しだけ青みのある、まだ若い酒の色だった。

客が一口、含んだ。

含んで、しばらく、黙った。

客が黙っている時間というのは、二種類ある。

一つは、口に合わなくて、どう言って断ろうか考えている時間。もう一つは、口に合いすぎて、何と言ったらいいか言葉を探している時間。前者と後者を、二十歳の僕は見分けられる自信がなかった。経験が足りない。経験が足りないので、ただ祈るような気持ちで客の顔を見ていた。

客は、五秒ほど黙ってから、ふう、と息を吐いた。

「これ、ええのう」

そう言って、空になったお猪口を、もう一度差し出した。

「もう一杯、もろうてええ?」

「あ、はい。試飲は一杯までなんですけど、ちょっとだけ」

「ちょっとだけでええ。これ、ちょっとだけが、ええんじゃ」

七緒さんがちらりと源造さんを見た。源造さんは、すでに、ものすごく真面目な顔で、自分の手元の徳利の口を布で拭いていた。布で拭く必要のない徳利を、わざわざ拭いている。表情を、布越しに、隠している。

七緒さんが、もう半杯ぶん注いだ。

客は、もう半杯を、また、ゆっくり飲んだ。

「源さん、これ、ほんまにお前さんが仕込んだんか」

「そうじゃ」

「お前さんも、年いってから、丸う、なったのう」

「そりゃ、年いってきとるけえな」

「いやいや、酒の話よ」

「酒の話でも、同じよ」

客は声を上げて笑って、七緒さんに小銭を渡して、四合瓶を一本買って、ブースを離れていった。

残された僕たちは、しばらく、口を開かなかった。

開かない、というよりは、開く必要がなかった。源造さんは布を畳んで、テーブルの隅に置いた。七緒さんは、空になった客のお猪口を、ゆっくりと拭いた。僕は、自分の手のひらに、何の意味もなく汗が滲んでいることに気がついた。何故汗が滲んだのか分からないので、前掛けの内側でこっそり拭いた。

売れ始めると、早かった。

一人の客が「ええ酒があるよ」と次の客を連れてきて、その次の客がさらに次の客を連れてきた。月野酒造の小ブースの前に、いつの間にか、人がほぼ途切れない列のようなものができていた。源造さんは座ったまま、徳利を一本、また一本と、後ろの棚から出してきた。いくつ用意してあったのかは知らないが、たぶん、現実的に必要と見積もった本数の、二倍くらいは用意してあったのだろう、それが時間に応じて、減っていった。

七緒さんが、僕に小声で言った。

「蓮くん、これ、想像以上やわ」

「ですね」

「祖父ちゃん、ほんまは、出店するの嫌がっとった」

「そうなんですか」

「『どうせ売れんけえ、恥かくだけじゃ』って。母さんと私が、説得した」

源造さんは、列に並んだ客の一人に、何かを説明していた。たぶん、米のこと、水のこと、仕込みの時期のこと、そういうことを説明しているのだろう。声は届かなかったが、客が三回、深く頷いていた。深く頷く客の頭の動きは、結構遠くからでも、よく分かる。

昼になると、僕も七緒さんも、声がかすれ始めた。

ありがとうございます、を百回くらい、はい、を二百回くらい、ぜひまたお越しください、を五十回くらい、口にした計算になる。回数は適当だが、感覚としてはそんな具合である。喉の奥に砂が入っているような感じがして、僕は朝から五本目のペットボトルを開けた。

七緒さんが、ふう、と前掛けの裾で額を拭いた。額に汗の粒が並んでいるのが、近くで見ると分かった。汗の粒の並び方が、何となく、酒の表面の波に似ていた。これは脳の不調かもしれない。汗と酒を結びつける比喩は、たぶん、健康な脳のすることではない。

「ちょっと、僕、休憩時間にします」

と、七緒さんが言った。

「うん、行ってき」

「蓮くんも、後で交代してな」

「分かった」

七緒さんは、ブースの裏手で、ペットボトルの水をごくごく飲んで、少しだけ目を閉じた。目を閉じている時間は、たぶん十秒くらいだった。十秒くらいで、もう次の客が来ていた。七緒さんは目を開けて、笑顔を作って、また前に出た。

笑顔を作る、という動作をこんなに短時間で完了できる人間が、近くにいる、と僕は思った。

思って、それから、その人がどこかに行ってしまわないように、ちゃんと言葉にしないといけない、ということを、頭の片隅で、もう一度確認した。確認したが、客の列はまだ続いていて、確認したことを実行する時間は、午前中にはどこにも見当たらなかった。

午後二時、二人三脚千鳥足選手権の予選が、酒蔵通りで始まる時間になった。

七緒さんが、源造さんと交代に出てきた母親の玲子さんに、僕の方を顎で示して言った。

「母さん、ちょっと、蓮くん借りる」

「行っておいで。源造はうちが見とるけえ」

玲子さんは、五十代前半の、しっかりした顔の女性であった。七緒さんに似ているのは目元だけで、口元は源造さんに似ていた。夏に何度か会ってはいたのだが、ちゃんと話したのは、たぶん、一度だけだった。それでも、僕はこの人にだけは、最初から、丁寧語で話すことを身体が決めていた。そういうタイプの人だった。

七緒さんに引っ張られて、僕はブースを出た。

千鳥足選手権というのは、酒蔵通りの名物競技である。一分間で、いかにヨロヨロと歩けるかを競う、ただそれだけの大会である。最初に話を聞いた時、僕は冗談だと思った。冗談ではなかった。広島県の市町の一つが、毎年公式に開催している、ヨロヨロ歩きの大会である。

二人三脚部門に申し込んだのは、この前の九月、あかりの散歩道の夜であった。

「いいよ。出るよ、二人三脚」

と、僕は言った。言ってから、自分の口から「出るよ」が出てきたことに、半拍遅れて気がついた。出るつもりはなかった、というほど明確な意思もなかったが、出るつもりだった、というほどの覚悟もなかった。あったのは、たぶん、七緒さんに誘われたから乗っかった、という、それだけの単純な理由であった。単純だが、二十歳の青年の行動の九割は、たぶんそういう単純な理由で動いている。


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