一番美味い飲み方
当日、酒蔵通りの一画には、簡易のスタートラインとゴールラインが引いてあった。距離は二十メートル、所要時間は本選で四十秒以内、というのが本選のルールらしいが、予選はとにかく転ばずに歩ければよかった。僕と七緒さんは、運営の人に渡された白い帯を、互いの足首に巻きつけた。僕の左足と、七緒さんの右足が、白い帯で繋がった。
帯の感触は、思っていたより、しっかりしていた。
しっかりしすぎていて、むしろ少し、息が浅くなった。
「準備、ええ?」
と、運営の人が言った。
「一応、ええです」
と、七緒さんが言った。
「一応、というのは、よくない方の返事ではないか」と僕は思ったが、ピストルの音がもう鳴っていた。
結論から言うと、僕たちは予選で、三回転んだ。
三回も転ぶ二人三脚というのは、ほぼ歩いていないに等しい。最後の一回は、僕が転びかけて七緒さんが支えようとして、二人で同時に倒れる方式の、極めて美しいフォームの転倒であった。観客の半分が爆笑して、もう半分は心配そうにこちらを見ていた。爆笑と心配が同居した観客の顔というのは、構図としてあまり見ない。あまり見ないが、その顔を見せた当事者として、僕には責任がない、と言いたい。同時転倒の責任は、二人三脚という競技形式の本質にある、と主張したい。
転んだ膝が、舗装の石で少し擦れて、ジーンズの上から白い擦り跡がついていた。擦り跡を見て、七緒さんが「あらら」と言った。「あらら」で済むのかこれは、と僕は思ったが、七緒さん本人が「あらら」で済ませているのなら、僕がそれ以上騒ぐのは無作法であった。
予選はもちろん落選した。
「来年、リベンジしよう」
と、七緒さんが、ゴールラインの脇のベンチに座って、ペットボトルを開けながら言った。
「来年もこれに出るんですか」
「出るよ。来年も、再来年も」
来年も、再来年も。
来年も、再来年も、と七緒さんが言った時、僕は、まだ告白をしていなかった。
告白をするつもりはあった。少なくとも、漠然とは。漠然とした「するつもり」を、今日の何時何分にどの場所で実行に移すかは、まだ決まっていなかった。決まっていないまま、酒蔵会場のブースで朝から汗をかき、千鳥足選手権の予選で転び、ベンチでペットボトルを飲んでいる。決まっていないまま物事が進んでいくのは、僕の人生の常であったから、別に焦りはしなかった。焦りはしないが、七緒さんが「来年も、再来年も」と言うのを聞いた瞬間、自分の中の何かが、今日の夕方までに、何かを言うことを決めていた、ということは、たぶん、その時、知った。
知ったが、まだ言わなかった。
三時を過ぎると、酒祭りの会場は、少し空気が変わる。
「酒ひろば」のチケット完全入替時間に合わせて、一回、人の流れが整理されるからである。この時間帯、メイン会場の入場は止まり、客は街に散る。酒蔵通りに、急に、ちょっとした空白ができる。
七緒さんが、ベンチから立ち上がって、僕の手を引いた。
引いた、と言っても、軽く指先を握っただけだった。引かれた僕は、引かれるままに立ち上がった。
「歩こう」
と、七緒さんが言った。
「どこに」
「煙突、見ながら。ぐるっと一周」
ぐるっと一周、というのは、酒蔵通りのことである。1キロくらいの直線で、両側に七つの酒蔵が並んでいる。歩けば往復で二十分強の道のりであった。
歩き始めると、夕方の光が、だんだん赤くなってきた。
西条の煙突は、夕方の光に当たると、まず一段、橙色になる。そこからもう一段下がって金色になり、それが赤に変わる頃には、もう影の方が長くなっている。煙突は煙突のくせに、時間ごとに色を変えるという、本来の煙突業務の枠を超えた働きをしていた。煙突業務の正式な範囲がどこまでなのかは知らないが、たぶん「色を変える」は、本業ではなく、副業に該当する。煙突は副業に勤勉だった。
七緒さんは、しばらく、何も言わなかった。
何も言わない時間というのは、不思議なものである。話していない時間は、本来、何も発生していないはずなのに、ふたりで歩いていると、その「何も発生していない」中に、確かに、何かが、起きていた。歩幅が合ったり、合わなかったり、合わせようとしたり、合わせるのを諦めたり、そういう小さなやり取りが、足元で交わされていた。会話より、たぶん、足元の方が正直であった。
賀茂鶴の一号蔵の前を通り、亀齢の前を通り、福美人の煙突の下を通った。
福美人の煙突は、二十五メートルあるという。下から見上げると、煙突の先っぽが、夕日に当たって、ちょうど赤と金の境目あたりの色をしていた。
七緒さんが、そこで足を止めた。
「ちょっと、ここで」
「うん」
七緒さんは、煙突を見上げたまま、しばらく、口を開かなかった。
開かなかったが、開く前に息を吸う気配は、こちらにも伝わってきた。何か、決めて言うことを決めた人の、最後の準備の動作だった。
そして、七緒さんは、こう言った。
「東京の内定、断った」
短かった。
短かったが、その短さの中に、夏の二週間と、東京の硬い水と、お盆明けのぎこちない再会と、僕が思わず口にしてしまった「いいじゃん、頑張ってください」の責任と、源造さんの父の手紙と、九月の朝、井戸の縁の苔の前で、彼女がこぼした一本ずつの涙と、この半年のすべてが入っていた。
「家業、継ぐ。自分の意思で」
二行目も、短かった。
七緒さんは、煙突を見上げたまま、こちらを見なかった。たぶん、こちらを見ると、また泣いてしまうから、見なかったのだと思う。九月の朝、井戸の縁で泣いた七緒さんは、あれが今年の分の涙の予算を、たぶん、一気に使い切るつもりだったのだろう。今日の分は今日の分で、別に取ってあるはずなのに、それを使うのを、まだ少し、もったいながっていた。
僕は、
「うん」
と、言った。
「うん」と言った瞬間、自分の番が来たのが分かった。
七緒さんが「東京の内定、断った」と言った時、その横で僕が「うん」と言うだけでは、釣り合わない、ということが、二十歳の僕にもさすがに分かった。
七緒さんは、自分の進路を、自分の口で、表明した。それは、家業を継ぐということと、東京を捨てるということと、母親の経営を引き受けるということと、源造さんから何かを引き継ぐということと、そういう複数の選択を、たった二行に圧縮した表明だった。
だから、僕も、自分のを、出さないといけなかった。
僕は、迂回の癖がある。
これは半年いっしょに過ごした七緒さんも、たぶん、もう知っていることだった。僕が大事なことを言おうとすると、必ずその前に、関係のない比喩を一つか二つ並べてから本題に入る。煙突を擬人化したり、自分の胃と脳の関係を経営者と社員に例えたり、そういう迂回が、僕の語りの基本構造であった。基本構造であるので、放っておくと、今もまた、迂回しそうになっていた。
この煙突は副業に勤勉である、というところまで、すでに迂回していた。
ここで、もう一段、迂回することはできた。たぶん、七緒さんも、僕がいつもの調子で迂回するのを、待ってくれていた。待ってくれていたが、待ってくれていたからこそ、僕は、迂回しなかった。
迂回しないことを、今日のために、たぶん半年かけて、用意してきた。
僕は、煙突から目を逸らして、七緒さんの方を見た。
「俺は、卒業したら、東広島市役所を受ける」
七緒さんが、煙突から目を逸らして、僕の方を見た。
「ブランド推進課で、水のことを仕事にしたい。酒造りに必要な、軟水を、街ごと守る。そういう仕事」
七緒さんは、何も言わずに、僕の目を見ていた。
「合格、難しいんやろ」
「うん。難しい」
「それでも」
「それでも、ここでしかできないことだから」
言い終わって、夕方の風が、酒蔵通りを通り抜けていった。
福美人の煙突の上の方で、赤と金の境目が、もう少しだけ、下に降りてきていた。煙突の中腹あたりまで、影が登ってきていた。あと十分か二十分で、煙突は完全に夜の側に入る。
二人とも、しばらく、黙っていた。
黙っていたが、どちらも、もう、言うべきことの順番だけは、頭の中で、共有できていた。
僕は、もう一回、息を吸った。
ここからが、本当の本題だった。半年かけて、二十歳と二十二歳の二人が、それぞれの進路を口に出すところまでは、たぶん、たどり着いた。あとは、その進路の上で、互いの位置を、もう一度、決め直す必要があった。
僕は、迂回をやめた。
普段の饒舌な観察を、頭の中で、全部、脇に置いた。煙突の擬人化も、副業がどうとか、夕日の比喩も、全部、脇に置いた。
そして、こう言った。
「七緒さん」
七緒さんが、はい、と、目だけで答えた。
「この街で、あなたの酒を、一生飲みたいです」
言葉は、思っていたより、簡単に、口から出た。
半年間ずっと用意してきた言葉のはずなのに、いざ出してみると、十秒もかからなかった。十秒もかからない言葉のために、半年かかった。これが多いのか少ないのかは、判別がつかなかった。判別はつかなかったが、たぶん、言葉というのは、出すまでに時間がかかって、出した瞬間に短くなる、そういう構造をしている。それでいいのだと思った。
七緒さんは、笑った。
それから、少しだけ、泣いた。
笑いと涙が、ほぼ同時に来る顔というのを、僕はその時、初めて見た。初めて見たが、これは、初めて見た顔として、間違いなく、僕の人生の上位に登録された。
「うん」
と、七緒さんは、言った。
「来年も、ここで、会おう。再来年も」
「うん」
「十年後も」
「うん」
二人とも、それ以上の言葉は、いらなかった。
福美人の煙突は、僕たちの会話には全く関与せず、その間も律儀に、赤から濃い影へと、自分の色を一段ずつ落としていった。煙突は煙突の仕事をして、僕たちは僕たちの仕事をした。互いに干渉しなかった。互いに干渉しなかったが、煙突がそこに立っていてくれたおかげで、僕たちは、自分たちが今、どの街のどの場所に立っているのかを、ずっと忘れずにいられた。
煙突は、たぶん、明日もそこに立っている。明後日も立っている。一年後も、十年後も、たぶん立っている。
慌てて全部今夜のうちに眺めておく必要は、ない。
ブースに戻ると、源造さんが、徳利を片付け始めていた。
一日目の販売は、もう終了の時間に近かった。テーブルの上に並んでいた徳利は、ほとんどが空になっていた。空になった徳利を、源造さんは、一本ずつ、別のテーブルに移していた。何をしているのですか、と聞こうとしたら、源造さんが先に言った。
「ええ顔しとるの、二人とも」
「……あ」
「ええ顔しとるけえ、わしは何も聞かんでええわい」
源造さんは、徳利を片付ける手を止めなかった。止めなかったが、その口元は、布で拭いていた朝の徳利よりも、よっぽど、染みが深そうな顔をしていた。年配の男というのは、こういう時、絶対にこちらを見ない技術を持っている、ということを、僕は今日、二度目に確認した。
玲子さんが、ブースの奥から出てきた。
「七緒、今日、何時に上がる?」
「あー、もう、店じまいしたら、ちょっと蓮くんと、井戸のとこで休んでていい?」
「ええよ。後片付けは、わしと父さんでやっとくけえ」
七緒さんが「ありがとう」と短く言って、玲子さんがちらりと僕の方を見た。
ちらりと、というよりは、はっきりと、見た。
はっきり見たが、何も言わなかった。何も言わずに、きびすを返して、ブースの奥に戻っていった。何も言われない、というのは、たぶん、言われるよりも、ずっと重い。少なくとも、二十歳の僕には、その重さは、まだ完全には背負いきれない種類の重さだった。背負いきれない、と分かったうえで、僕は、玲子さんが消えたブースの奥に向かって、心の中だけで、頭を下げた。
月野酒造の母屋の奥に、井戸があった。
古い、円形の石の枠が地面から五十センチほど立ち上がっていて、上に木の蓋がしてある。美酒鍋の夜、僕が初めて月野酒造に来た時にも、この井戸を見た。あの夜は、ただの石の構造物に見えていた。今夜は、違って見えた。
七緒さんが、井戸の縁に腰を下ろした。
僕も、隣に座った。
縁の石は、思ったより冷たかった。日中ずっと日陰にあったのか、十月の夕方の空気よりも、もう一段冷たい温度を持っていた。冷たいのに、嫌な冷たさではなかった。むしろ、一日中ブースの前で立ちっぱなしだった足にとっては、その冷たさが、地面のほうから疲れを引き取ってくれているような感じがした。
メインステージの方角から、ライブの音が、遠く聞こえていた。
何の曲かは分からなかった。分からないが、低音だけが、街の地面を伝わって、井戸の石の縁にも、かすかに届いていた。地面というのは、案外、いろんなものを伝える媒体らしい。
「これ、持ってきたで」
と、後ろから声がした。
振り返ると、源造さんが、湯呑みを二つ、両手に一つずつ、持って立っていた。湯呑みの中には、まだ少し青みのある、若い酒の色をした液体が入っていた。
「『うつしよ・新酒』。今日売っとった、ええとこのを、二つ、残しといた」
「あ、僕に、いいんですか」
「ええんよ。お前さんも、今日、一日、立ちっぱなしじゃったろうが」
源造さんは、僕と七緒さんに、湯呑みを一つずつ手渡した。手渡してから、自分は持っていなかった。三つ目はなかった。
「源造さんは」
「わしは、今日はもう、十分飲んだ」
「いつ飲んだんですか、十分飲むほど」
「ブースの裏で、客が見とらんとこで、ちまちまと」
七緒さんが「祖父ちゃん!」と少し大きな声を出して、源造さんが「あほ、声、大きい」と笑った。笑った源造さんの顔は、朝、テーブルの足を直していた時の顔と、ほとんど同じ顔だった。
源造さんが、井戸の縁の、僕たちのちょうど反対側に、回り込んだ。
円形の井戸の、こちら側に二人、向こう側に源造さんが一人。三人で、井戸を挟んでいた。挟んでいると、井戸の真上に、ちょうど夕方の最後の光が落ちていて、井戸の蓋の木目に、薄い金色の線が走っていた。
源造さんは、こう言った。
「初めての一杯はの」
短く、息を継いで、
「誰かと飲んだ方が、美味い」
もう一度、息を継いで、
「それだけは、わしが一生かけて、学んだことよ」
僕と七緒さんは、湯呑みに口をつけた。
同時にではなかった。先に七緒さんが、それから少し遅れて、僕が口をつけた。いつもの僕の癖だった。癖だったが、今日のこの遅れは、たぶん、これからも、ずっと、この通りで、いいのだろうと思った。七緒さんが先に飲んで、僕が後から飲む。それでいい。
半年前、僕は山吹色の液体に咳き込んだ。
半年経って、僕は、青みのある若い酒に、咳き込まなかった。
咳き込まなかった、ということ以外に、特に、感想はなかった。感想がない、ということが、たぶん、一番正しい感想だった。最初の一杯と違って、今夜の一杯は、僕が「美味しい」と言葉にする必要のない種類の一杯だった。隣で七緒さんが、もう一度小さく目を細めて、湯呑みを傾けていた。それで、十分だった。
源造さんは、井戸の向こう側で、すでに、目を半分閉じていた。
七十八歳の杜氏が、今シーズンの最後の仕込みを、知らない街の知らない客と、孫娘と、孫娘の隣に座っている二十歳の青年とに、少しずつ飲ませていく一日を、終えようとしていた。終えようとしていたが、彼の顔に、終わるという感じは、不思議となかった。これから何かが、もう一回、始まる。そういう人の顔をしていた。
メインステージのライブが、遠くで、最後の曲に入ったらしかった。低音の振動が、地面を伝って、井戸の石の縁の、僕の手のひらの下まで、届いた。
振動の中で、湯呑みの中の若い酒が、ほんの少しだけ、表面で揺れた。




