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和らぎ水と、酒祭りの夜  作者: 藤崎雅也
6章:あかりの散歩道
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14/17

二十歳の青春

千鳥足選手権予選というイベントの存在を、僕は西条に来て一年半、完全に黙殺していた。

黙殺、というのは正しい言い方ではない。黙殺するためには、まず認識していなければならない。僕の場合、認識する手前で意識が滑り落ちていた。酒蔵通りで毎年やっている地元イベントの一つ、酔っ払いがヨロヨロ歩く競技、くらいの解像度で、視界の隅に存在を許容していたのが、僕とこのイベントの過去一年半の関係性であった。

関係性は、その日の午後一時、強制的に更新されることになった。

会場は、酒蔵通りの中央寄り、白牡丹の蔵の前の路上であった。アスファルトに白いラインで仮設のレーンが引かれている。1分間でどれだけ歩けるかを競う本選とは別に、二人三脚部門という派生種目があって、これが今日の予選の目玉らしかった。スタートからゴールまでが約二十メートル、一組ずつ走り、転んでもよし、ゴールまでに笑いを取ったほうの勝ち、という、競技というより演芸の側に半身を寄せたルールであった。

僕がそれを知ったのは、会場に着いてから三分後である。事前にルールを確認しておかなかったのは、千秋に登録された側の人間として、確認する権利を行使する元気がなかったからである。

「人数おるなあ」

と、千秋が言った。会場の周囲には、見物客が二、三十人、輪になって取り囲んでいた。ペアで参加するエントリーは八組。組み合わせは事前に決まっていた。僕と七緒さんは、第三組であった。

第一組は、地元のおじさん二人組であった。二人とも顔がもう赤い。十時にここに着いた時点でビールを飲み始めていたらしい。スタートの号砲が鳴ると、二人は息をぴったり合わせて、整然と歩き出した。歩き出して、観客が拍手しかけた、その三秒後に、二人とも、何の前触れもなく真横に倒れた。

観客が爆笑した。倒れた二人は、地面に座り込んだまま手を上げて、満足そうに笑っていた。

「……あれが正解の動きなん?」

と、僕は隣の千秋に聞いた。

「そうじゃろね」

「正解じゃないやつはどんなんなんよ」

「真面目にゴールまで歩いた組」

「……そっちが減点なん」

「減点というか、笑いが取れんと、たぶん負け」

……。

僕がこの一年半、黙殺してきたのは、競技ではなく、地元の人々のサービス精神そのものだったらしい。サービス精神を競技化する街、東広島市西条町。観光資源として千鳥足を制度化している自治体は、たぶん日本でもそう多くない。多くないことを誇るべきか、誇らないべきか、判断に迷うところである。

第二組が進んでいる間に、僕は隣の七緒さんの方を、横目で見た。

七緒さんは、白いブラウスにデニム、というさっきと同じ格好のまま、足首だけ少し曲げ伸ばしをしていた。準備運動のような動きであった。本気の気配がした。

「あの、七緒さん」

「ん?」

「これ、本気でやるやつなんですか」

「うん。本気で笑い取りに行くやつ」

「……笑い、ですか」

「本気で笑いに行かんと、観客に失礼やけえ」

真面目な顔で「観客に失礼やけえ」と言われた。

真面目な顔で言われたぶんだけ、僕の身体の力が、二割くらい抜けた。緊張の方向が分からなくなったからである。本気のスポーツでもなく、本気の演芸でもなく、本気で笑いを取りに行く本気、という、二回ねじれた本気を、二十歳の僕の身体はまだ処理しきれていなかった。

すぐ脇で、千秋が、にやにや笑っていた。

「先輩、蓮、けっこうリズム感ないですよ」

「……飯島ちゃん、それ、出る前に言うか普通」

「先輩なら何とかしてくれると信じてます」

「えらい無責任じゃのう」

七緒さんが、千秋に向かって笑った。笑った後、僕の足元のスニーカーを、ちらりと見下ろした。

「靴紐、緩んどる」

「あ」

「結び直し」

……はい、と僕は屈んで、靴紐を結んだ。

結んでいる間、七緒さんは、僕の頭のすぐ斜め上に立っていた。九月の昼の日差しが、彼女の影を僕の手元に落としていた。影の中で結ぶ靴紐というのは、なぜか、いつもより丁寧に結びたくなる代物であった。丁寧に結んだ靴紐が、その日の午後の僕の運命を変えるとは思っていなかったが、結んだことを後悔するような展開には少なくともならなかった。

第二組が終わって、係の人が「第三組、月野・柏木ペア!」と呼んだ。

……月野・柏木。

苗字を二つ並べただけなのに、その並びは、僕の中で、初めて聞く順番であった。月野・柏木、月野・柏木、と頭の中で二回繰り返した。二回繰り返したぶん、僕の足は二歩遅れた。

「行くよ、蓮くん」

「あ、はい」

「足、結ぶで」

七緒さんは、係の人から布のベルトを受け取って、僕の右足首と自分の左足首を、慣れた手つきで結んだ。結んでいる間、彼女は黙っていた。黙ったまま、ぐっ、と一回ベルトを締めて、それから、僕の方を見上げた。

「歩幅合わせよ。私の方に、ちょっとだけ寄せて」

「はい」

「最初の三歩、ゆっくり。慣れたら笑い取りに行こう」

「……あの、笑い、取り方知らないんですけど」

「あんたら大学生は、普段の喋りが既に笑い取りに行っとるけえ、大丈夫」

「いや、それ千秋が言うやつで、僕じゃないです」

「ええから」

ええから、で押し切られた。今日の七緒さんは、押し切る側の七緒さんだった。普段は引き気味の人なのに、午後一時の路上では、彼女のスイッチは別の方向に倒れていた。手紙のあとの一時間で、彼女の中の何かが、少しだけ位相を変えていたのかもしれなかった。

号砲が鳴った。

鳴ったのは認識した。

認識したが、僕の右足は最初の一歩を出すまでに、半拍遅れた。

半拍遅れた、というのは、いつもの僕の脳の話ではなく、今回は本当に物理的に半拍遅れた。七緒さんの左足はもう前に出ていて、僕の右足はまだ地面にあった。結果、ベルトでつながった僕たちは、スタート地点から五十センチで、いきなりつんのめった。

観客が、わっ、と笑った。

笑い声が耳に届いてから、ようやく、僕は自分が前のめりになっていることを認識した。認識して、慌てて足を前に出した。出した足の角度が悪くて、もう一度つんのめった。

「蓮くん、最初に言うたやろ、ゆっくり!」

「すいません、すいません」

「謝らんでええから歩いて!」

そこから、十メートルほど、僕たちはひたすらヨロヨロ歩いた。歩幅は揃わない。リズムも合わない。七緒さんが「いち、に、いち、に」と声を出してくれているのに、僕の右足はその「に」のたびに、コンマ三秒遅れていた。

観客の笑いが、どんどん大きくなった。

……あれは、たぶん、僕の動きに対して笑っていた。

七緒さんは、ちゃんと歩こうとしていた。ちゃんと歩こうとしている彼女に、僕がリズムを乱すたびに、彼女もつられて崩れた。観客から見れば、年上の女性が、年下の男に律儀に付き合って、二人で揃って崩れていく、という構図に見えていたはずである。それは構図として、たぶん、面白かった。

七緒さんが、途中で、笑い始めた。

「蓮くん、あんた、ほんま、リズム感ないなあ」

「すいません、千秋に言われた通りでした」

「飯島ちゃん、正しいわ」

「すいません」

「謝るんやめ」

笑いながら歩いていた。歩きながら笑っていた。どっちが先か、もう分からなくなっていた。

ゴール手前、二メートル。

僕の右足と七緒さんの左足が、最後にもう一回、致命的にずれた。

ずれた、と認識する間もなく、二人で同時に、前に倒れた。

倒れる瞬間、七緒さんの左手が、僕の右腕を、ぐっと掴んだ。掴んだまま、二人で、地面に膝をついた。

僕の膝はアスファルトに着いた。

七緒さんの左膝は、僕の右足首のすぐ脇に着いた。

ベルトの位置が悪くて、二人で同じ向きにもつれて、結局、ゴールラインの五十センチ手前で、二人並んで地面に座り込む形になった。座り込むというより、地面に放り出された形に近かった。

観客が爆笑していた。手前のおじさんは「ええぞー!」と叫んでいた。何が「ええ」のかは、ここでも判定できなかったが、たぶん全部「ええ」のだろう。

七緒さんは、座り込んだまま、僕の方を向いて、笑っていた。

笑い方が、いつもの笑い方と少し違った。普段の彼女は、笑ってもどこか半分が冷静で、もう半分の自分を観察しているような、二段構造の笑い方をする人だった。今の笑いは、二段構造になっていなかった。彼女の身体の真ん中から、ストレートに出てきた笑いだった。

僕の口は、その時、勝手に動いた。

「七緒さん」

そう、呼んでいた。

呼んでから、自分が呼んだことに、気がついた。

……「七緒さん」。

半年前から、僕はずっと、彼女のことを「先輩」と呼んでいた。「月野先輩」「先輩」「七緒先輩」のどれかだった。「七緒さん」と呼んだことは、一度もなかった。一度もなかったのに、地面に座り込んで、観客に囲まれて、ベルトで足をつながれた状態で、僕の口は、その三文字を、初めて、ほぼ無意識に出していた。

七緒さんは、笑ったまま、こちらを見ていた。

視線が合った。

合った瞬間、彼女の笑いは、続いていた。続いていたが、笑いの中の質が、コンマ二秒、変わった。コンマ二秒は短い時間だが、二人の足首がベルトで結ばれている状態で、お互いの顔が三十センチの距離にあると、コンマ二秒の変化はくっきり見えた。

……今のは、聞こえた、ということだった。

七緒さんは、僕の「七緒さん」を、ちゃんと聞いていた。

係の人が「はーい、月野・柏木ペア、ゴールまで惜しい!」と呼んで、ベルトの結び目を解きに来た。

解いている間、七緒さんはまだ笑っていた。笑いながら、僕の方を一回も見なかった。「七緒さん」と呼ばれたことに対して、彼女は何も言わなかった。何も言わないことで、たぶん、受け取ったよ、と返事をしていた。

ベルトが解かれて、僕たちは立ち上がった。膝に砂がついていた。七緒さんの白いブラウスの肘のあたりにも、少し汚れがついていた。

「ごめんなさい、僕のせいで」

「ええよ、楽しかったけえ」

「肘、汚れた」

「うちで洗うけえ大丈夫」

七緒さんは、それから、何でもないことのように、付け加えた。

「これ、私らの時代の青春やね」

「……青春ですかね」

「うん。青春や」

青春、と、彼女ははっきり言った。

二十二歳の七緒さんに、青春や、と認定された二十歳の午後一時十分の僕は、何と返していいか分からなくて、結局「はい」とだけ言った。

はい、ばかり言っている、と、ふと気がついた。

二十歳の四月の酒泉館の二階で、初めて会った日の僕も、彼女に「はい、はい、はい」しか言えなかった。半年経って、状況は色々変わったはずなのに、僕の語彙の貧弱さは、ほとんど進化していなかった。半年で進化していたのは、酒蔵の知識と、街の見え方と、彼女の呼び方だけだった。三つしかないが、三つも、ある。

そういうことにしておく。

結果発表は午後の終わりということで、僕たちは一旦、千鳥足の会場を離れた。

七緒さんは、午後の用事があると言って、夕方まで月野酒造に戻ることになった。「日が落ちたら、あかりの散歩道、一緒に回ろ」と、別れ際に言われた。「了解です」と僕は答えた。答えてから、了解、というのは妙に事務的な返事だったかもしれない、と一瞬反省したが、反省しても言葉は戻ってこないので、反省はその場に置いて歩き出した。

千秋とは、夕方まで別行動になった。彼女は同じ日研の同期と、残りの十蔵を制覇する計画らしかった。「蓮、夜は先輩と二人で行ってきね。私は邪魔せんけえ」と、千秋は妙に保護者ぶった調子で言って、ひらひら手を振って消えていった。今日の千秋は、朝七時四十分の召集令から、保護者面の見送りまで、全部、用意周到であった。彼女が将来何の仕事に就くにせよ、人を動かすほうの側に回るのだろうな、と僕は思った。本人にこの観察を言うと十倍にしてやり返してきそうなので、心の中だけにしまっておくことにした。

一人になった僕は、しばらく、酒蔵通りを歩いた。

午後の通りは、午前より人が増えていた。家族連れが煙突を見上げている。年配の夫婦が試飲のお猪口を手に「これは辛いね」「いや甘い」と話している。観光バスから降りてきた団体客が、ガイドさんの旗の周りに集まっている。

通りの真ん中で、僕は、なまこ壁に手を当てた。

壁の白い漆喰は、午後の日差しで、少し温かくなっていた。九月の昼の白壁は、夏の白壁より温度が低い。低いが、ちゃんとまだ、温かい。九月の中旬の壁は、夏と秋のあいだの、平均値の温度をしていた。

こういうことを観察している自分を、僕は、観察していた。

観察している自分を観察するのは、僕の癖である。癖だから直らない。直らないので、二重の観察が、僕の地の文の動力源として、ずっと回り続けていた。

一つだけ、いつもと違うことがあった。

二重に観察している僕の、その奥のほうに、もう一つ、別の何かが、入っていた。

七緒さんが、今日、僕のことを「青春」と呼んだ、という事実。

その事実を抱えた状態で、なまこ壁を触っている自分を、僕は、観察の三段目から、少しだけ眩しく見ていた。

夕方、五時半。

酒蔵通りの街灯と、各蔵の煙突を照らすライトが、ぱっ、ぱっ、と順番に灯った。

灯った瞬間、通りの色が、ぐにゃっ、と変わった。

さっきまで、白い漆喰と赤レンガと薄い茶色の木の格子戸で構成されていた通りが、オレンジと黄色と白のライトの混合に塗り直された。煙突は、下から順番に光に持ち上げられて、夜空に向かって伸び上がった。観光客の手には、いつの間にか、手さげ提灯が一つずつ握られていた。受付で配っていたらしい。提灯の中の電球は、ぼうっとオレンジ色だった。

これが、「あかりの散歩道」であった。

何度か写真でしか見たことのなかった景色を、僕はその日初めて、自分の目で、しかも七緒さんの隣で見た。

七緒さんは、駅前広場の集合場所で、五時三十五分に現れた。白いブラウスは、千鳥足で汚れたものから、薄手のニットに着替わっていた。色は、九月の夕焼けに少し近い、淡いオレンジだった。

「これ、蓮くんの分」

と、彼女は手さげ提灯を一つ、僕の方に差し出した。提灯の柄には、薄いオレンジ色の細長いチラシが、紐で括りつけてあった。

「あ、ありがとう」

受け取った提灯は、思っていたより軽かった。竹の骨と紙でできているのに、中の電球の熱で、紙の表面が、ほんの少しだけ温かかった。チラシには「あかりの散歩道 2026」と印刷されていた。

「よし、行こ」

「はい」

はい、はい、はい、で僕の今日の語彙の半分は使い切られていた。残りの半分で、僕はこの夜を乗り切らなければいけなかった。

酒蔵通りに足を踏み入れた瞬間、僕は、声を出すのを、いったん止めた。

止めたかった、というのが正確かもしれない。

七つの煙突が、それぞれ違う色で、空に向かって立っていた。下からのライトが、煙突の表面のレンガの目地を浮き上がらせていた。なまこ壁の白い漆喰は、ライトの下で青白く光っていた。通りの両側に、観光客が手さげ提灯を持って歩いていて、提灯のオレンジが、通りの真ん中を、ゆっくり流れる小さな川のように見えた。

煙突たちは、夜になって急に化粧を始めたような顔をしていた。

昼の煙突は、観光地の構造物だった。夜のあかりの散歩道の煙突は、観光地の構造物ではなくて、煙突自身の人格を持った何かだった。化粧をしているとはっきり言える顔つきをしていた。化粧の色は、どの蔵も似たような暖色系のオレンジで、煉瓦の赤と灯りの黄色が混ざった、提灯と同じ系統の色だった。煙突ごとに微妙に違う赤の濃さを、僕は心の中で順番に確認していった。確認しながら、ふと、自分が七つの煙突それぞれの、形と高さの違いを、いつのまにか覚えていることに気がついた。

一年半前の僕は、この通りを、視界に入れることすら、ほぼしていなかった。

……進化、と、また呼びそうになった。

進化、と呼ぶには大袈裟である。順応、くらいが、正確な単語だろう。

どっちでもいい。

七緒さんは、僕の半歩前を、ゆっくり歩いていた。

提灯を持つ手が、薄手のニットの袖から少し出ていた。九月の夜の風は、昼よりはっきり冷たかった。袖から出た手首が、提灯の光を反射して、ぼうっと淡いオレンジになっていた。

僕は、その手首を、半歩後ろから、見ていた。

見ていることを、見ていた。

見ていることを見ていることを、その奥でもう一回、見ていた。

三段の観察を畳んで、僕は、何でもないふりをして、半歩後ろを歩いていた。

福美人の煙突の下を通った時、七緒さんが、立ち止まった。

「ここの煙突な」

と、彼女が言った。

「二十五メートルあるんよ」

「……でかいですね」

「うん。私が小学生の頃、ここの真下に来ると、絶対に上を見上げよった」

「上から、何か降ってくるんじゃないかと思って?」

「いや。降ってこんかどうかを確かめるためじゃなくて、降ってこんことを、確認するために」

「……同じじゃないですか」

「ちょっと違う」

違う、と七緒さんは断言した。断言したきり、彼女は説明を続けなかった。説明しないことで、たぶん、僕に考えさせていた。

二十五メートルの煙突を、僕も真下から見上げた。

見上げて、確かに、何か微妙に違う、ということが、ぼんやり分かった。

上から何かが降ってくるかもしれない、と思って見上げる人は、たぶん、不安と一緒に見上げている。降ってこないことを確認するために見上げる人は、不安をすでに済ませた後で、ただ、確認の作業として見上げている。同じ動作のように見えて、心の前提が違う。

七緒さんは、子供の頃から、たぶん、後者の見方ができる子だったのだ。

……なんとなく、分かった気がする、とは、口にしなかった。口にしたら、たぶん、半分しか分かってないのを見抜かれる。だから、僕は、煙突を見上げたまま、軽く頷いた。

「降ってこんかった?」

「ん?」

「煙突から、何か」

「降ってこんかったよ。一回も」

「よかったですね」

「うん」

七緒さんが、ふっと笑った。

「蓮くん、ええ相槌打つようになったね」

「……はい」

「『はい』ばっかりやけど」

「すいません」

「謝るんも、ようやるね」

「すいません」

「……それ、わざとやろ」

ばれていた。

賀茂鶴の前を通り過ぎる時、七緒さんは何も言わなかった。一号蔵の白漆喰の壁が、何本もの低い投光器で下から照らされて、夜空に向かって淡く浮かび上がっていた。彼女は、その白漆喰を、横目で一回だけ見て、それから、また前を向いた。横目の一回が、何を見ていたのか、僕には分からなかった。

分からないことを、分からないまま、半歩後ろから歩いた。

月野酒造の蔵の白漆喰も、たぶん、ライトアップしたら、こういうふうに浮き上がるのだろうと、ふと思った。思ってから、月野酒造には祭りのライトアップが入っていない、ということを、思い出した。

思い出さない方がよかった。

思い出した分だけ、半歩後ろの距離が、ほんの少しだけ、伸びた気がした。実際には伸びていなかったのだろうが、僕の中の距離計は、伸びた、と表示していた。距離計の精度のことは、今は考えないことにした。

賀茂泉の前を通り過ぎた時、七緒さんが、急に立ち止まらずに、歩く速度だけを少し落とした。

「ここ、最初の蔵」

「うん」

「四月の蓮くん、おもろかったわ」

「……今もおもろいですか」

「うん。もうちょっと、別の意味で」

「……」

「あの時の蓮くんと、今の蓮くんは、別人やと思う」

……別人。

僕の頭の中で、四月の僕と九月の僕が、並んだ。並んでみると、確かに、二人は別人だった。共通点は名前と苗字くらいで、見ている景色も、知っている煙突の色も、隣を歩く人との距離も、全部違っていた。同じ二十歳のくせに、四月の僕と九月の僕は、別の生き物だった。

「七緒さんも、別人ですか」

「ん?」

「四月の七緒さんと」

「……うん。そうかも」

七緒さんは、提灯の灯りを、自分の顔の少し下に持ち上げた。光が下から顎を照らした。

「今日、井戸んとこで、おじいちゃんの手紙読んでから、何かが、はっきり別人になった気がする」

「そうですか」

「うん」

別人、と、二人で確認した。

確認した後、七緒さんは、また、提灯を腰のあたりまで下げて、歩き出した。

西條鶴の前を過ぎた頃、酒蔵通りの先のほうから、太鼓の音が薄く聞こえてきた。

メインステージの方で、地元の太鼓のサークルが演奏を始めたらしい。低い音が、なまこ壁に少しだけ反響して、酒蔵通り全体を、ぼうん、ぼうん、と振動させた。提灯の中の電球が、太鼓の振動で、揺れているように見えた。実際には電球は揺れていないので、これは僕の目の錯覚である。錯覚と分かっていても、揺れて見えるものは、揺れて見える。

太鼓の音の間隔に合わせて、僕の歩幅は、自然と七緒さんの歩幅に揃った。

千鳥足選手権の予選では、あれほどずれていた歩幅が、夜のあかりの散歩道では、最初から揃っていた。アスファルトの感触も、地面の傾きも、昼間と同じはずだった。揃ったり揃わなかったりするのは、地面の方ではなく、僕たちの方の問題だった。

並んで歩く、ということを、僕は、その夜、初めてちゃんと自覚した。

自覚しながら、僕は、まだ、半歩後ろを歩いていた。

半歩前ではなく、半歩横でもなく、半歩後ろ。

そこが、その日の僕に許された、唯一の正しい位置だった。

月野酒造の門の前まで戻ってきたのは、夜の八時を少し回った頃だった。

太鼓の音は、もう聞こえなくなっていた。酒蔵通りのライトアップは、まだ続いていた。提灯の電球は、行きより少しだけ、温度が下がっていた。

七緒さんが、門の前で、立ち止まった。

「ここで」

「あ、はい」

「送ってくれて、ありがとう」

「いえ」

そこで、彼女は、提灯を、自分の腰の前で、両手で持ち直した。

直した、というより、何かを置く準備のために、両手の位置を整えた、という動きだった。

……「ここぞ」、と、僕の頭の中で、源造さんの声が響いた。

源造さんに「ここぞ」を教わった僕は、相手のほうの「ここぞ」も、なんとなく、分かるようになっていたらしい。一回でも教わると、人間はその種類の瞬間を、検出できるようになる。

「あのな、蓮くん」

「はい」

「酒祭りの日に、答えを言うけえ」

「……はい」

「家のことも、自分のことも、それから」

そこで、彼女は、ちょっと、笑った。

千鳥足のあとの笑いと同じ種類の笑いだった。二段構造ではない、まっすぐの笑いだった。

「蓮くんのことも」

「……はい」

「答え、ちゃんと言うけえ」

「……はい」

はい、しか言えなかった。

はい、しか言えない自分に、その時ばかりは、ちょっと、腹が立った。腹が立ったが、ここで気の利いた返事を絞り出すことは、僕の今日の許容量を超えていた。許容量を超えていることを、自分でちゃんと知っていることだけが、辛うじて、僕の今日の収穫だった。

「待っとっていい?」

「待っとって」

待っとっていい、と僕が聞いて、待っとって、と七緒さんが返した。

短い往復だった。

短い往復の中に、いろんなものが、畳まれていた。

七緒さんは、提灯を片手に持ち替えて、もう片方の手で、軽く僕の方に手を振った。

「じゃあね」

「はい」

「気をつけて帰り」

「はい」

そう言って、彼女は、月野酒造の門を、潜って、入っていった。

入る瞬間、振り向かなかった。

振り向かないのが、ちゃんと、彼女らしかった。

一人になった僕は、月野酒造の門の前で、しばらく、立っていた。

立っていた、というより、立ち去る指令が、脳から足に届くのに、いつもの倍くらい時間がかかっていた。脳の経営者は、夜の八時の門の前で、いったん業務を休止していた。

……「酒祭りの日に、答えを言う」。

……「家のことも、自分のことも、蓮くんのことも」。

……「待っとって」。

三行のセリフを、頭の中で、もう一回、順番に再生した。

再生してから、気がついた。

七緒さんは、僕に、二つの宿題を出していた。

一つ目。酒祭りの日まで、待っていること。

二つ目。彼女が「答え」を言うときに、僕も、自分の「答え」を、ちゃんと持っていること。

二つ目は、彼女が口にしたわけではなかった。だが、彼女の「蓮くんのことも」の三文字には、明確に、こちらの返答を要求する重さが乗っていた。「全部」とさっき言った七緒さんは、こちらにも「全部」を要求していた。

僕の側の「全部」とは、何か。

月野酒造の門の前で、夜の九月の風に当たりながら、僕は、自分の「全部」を、頭の中で、初めて、ちゃんと並べてみた。

一つ目。市役所で、水のことを仕事にしたい。これは七月の龍王山の帰り道に、総合科学棟前のベンチで、すでに口に出していた。八月の鞆の浦の常夜燈の前で、もう少しだけ、その輪郭が、はっきりした。水を、街ごと守る仕事。それが、二つ目の輪郭だった。けれど、市役所のどこの部署で、それが具体的にどう仕事になるのか、その時点の僕は、まだ、自分の答えを持っていなかった。答えを探す必要があることだけは、はっきりしていた。

二つ目。七緒さんに、自分が彼女のことをどう思っているかを、言葉にして、伝えること。これは、まだ、口に出していなかった。何度も口元まで来ていた。来ていたが、告白未遂の僕の口は、最後の一歩を、毎回、引き返していた。

二つを並べた瞬間、二つは、別々のものではない、ということが、夜の九月の風の中で、なんとなく、見えた。

西条の水を仕事にすることと、七緒さんに言葉を渡すことは、僕の中では、たぶん、同じ一つの動作の、別々の側面だった。水と酒は、源造さんがいつも言うように、人と人の間に立つ。立つ位置が、僕の場合は、市役所のどこか、になる、というだけの話だった。どこか、というのが、まだ自分の中ではっきりしないのは、自分でも、少し気持ち悪かった。気持ち悪さを、その夜の僕は、明日の自分への宿題として、ひとまず、棚の上に、置いた。

……理屈が綺麗すぎる、と、自分で気がついた。

理屈が綺麗にまとまる時というのは、たいてい、本当の感情を、理屈で押し込めている時である。そういう時は、理屈の方を疑った方がいい、と、いつだったか、誰かに教わった気がした。誰だったかは、思い出せなかった。

けれど、その夜の僕は、その理屈を、疑わないことにした。

疑わないと決めた。

決めて、月野酒造の門の前を、ようやく、立ち去った。

アパートに戻る道で、僕は、一回も振り返らなかった。

振り返らなかった、というのが、その夜、僕が初めて獲得した、新しい身体の動きだった。

半年前の僕なら、たぶん、二回くらい振り返っていた。振り返って、月野酒造の門の灯りが、もう消えていることを確認して、安心したり、寂しくなったりしていた。

その夜の僕は、振り返らなかった。

振り返らないことの方が、彼女の「待っとって」に、ちゃんと応えていた。


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