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和らぎ水と、酒祭りの夜  作者: 藤崎雅也
6章:あかりの散歩道
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13/17

伝えたい気持ち

九月の西条は、夏の名残と秋の入口が、酒蔵通りのなまこ壁を境に何となく分かれているような顔をしていた。

昼間はまだ汗ばむ。けれど夕方になると風が一段冷える。そういう中途半端な季節を、僕は今でも九月と聞いただけで思い出してしまう。

あの月、僕は手紙を一通自分の鞄の内ポケットに入れて毎日大学に通っていた。

源造さんから預かった手紙のことは、章を改めて書く必要があるほど、僕の中で重いものになっていた。

八月の終わりにかかってきたあの電話のあと、土曜日に、僕は月野酒造の母屋を訪ねた。源造さんは奥の間で、一通の古い封筒を膝の上に置いて待っていた。封筒の四隅は擦り切れていて、紙の色は時間と一緒に少しずつ煮詰まったような、薄い茶色に変わっていた。表書きは万年筆で書かれていた。「七緒へ」とだけ書いてあった。

源造さんは、その封筒を、両手で僕に手渡した。

「酒祭りの前までに頼むぞ」

「はい」

七十八歳の元杜氏が「頼むぞ」とだけ言って黙るのは、頼みごとの内容よりも、頼みごと自体の重さを伝えるためだと後から思った。源造さんの口数が多かったところを、僕は半年通って一度も見ていない。

電話のとき、源造さんは「いつ渡すかは、お前に任せる。タイミングはお前が見極めてくれ」と確かにそう言っていた。

タイミングを、見極める。源造さんの言葉を僕なりに翻訳すると、それは「ここぞ、と思うた時に、渡せ」という意味だった。

……普段の僕にとっては、これほど扱いに困る指示もなかった。「タイミングを見極める」というのは、自分の人生で能動的に判断したことのない種類の概念である。そもそも、ここぞ、と思える瞬間が来たら、それは「ここぞ」ではなくて「もう過ぎ去った場所」になっている、というのが、僕の人生哲学であった。

とにかく、僕は手紙を、自分の鞄の内ポケットに入れた。

入れて、二週間が過ぎた。

内ポケットに入れた手紙というものは、最初の三日くらいは、その存在を意識していた。鞄を開けるたびに、ああ、ある、と確認していた。一週間が過ぎた頃から、確認の頻度が減った。十日を過ぎた頃には、手紙そのものを忘れている時間が増えた。

それでも、夜、布団に入って天井を見上げているときに、ふっと思い出した。

思い出すたびに、心臓のあたりが、軽く湿った。

七緒さんは八月のお盆明けから、また東京のインターン先と連絡を取り続けているらしかった。LINEは時々来ていた。来ていたが、内容はだんだん業務報告のようになっていた。「今日は分析機械の研修受けた」「東京の水で米を炊いたら、固かった」「同期の子が地方銘柄を持ってきてくれて、鳥取の酒、おいしかった」。八月の中盤に交わした、あのぎこちない会話の余韻は、九月の前半にもまだ薄く残っていた。

ぎこちなさというのは、台風みたいに通り過ぎてくれればいいのに、九月の長雨みたいに居座ることがある。

僕は、その長雨の中で内ポケットの手紙の重みを時々確かめていた。

九月十三日の朝、僕の枕元のスマホが太陽より先に騒ぎ始めた。

通知の主は千秋であった。

『起きとるか? 今日、吟醸街道まつりじゃけえ、行くよ』

『七時四十分に駅前集合、よろしく』

……七時四十分。

まず時間を抗議したい。九月の土曜日の朝七時四十分というのは、二十歳の大学生にとって、ほぼ夜である。少なくとも、僕の体内時計は、その時刻を「夜の延長戦」として処理していた。延長戦に呼び出された選手の気持ちで、僕は枕に顔を埋めたまま千秋に返信した。

『十時集合じゃダメ?』

『ダメ。午前のうちに七蔵まわらんと、午後は人多すぎるけえ』

『……はい』

はい、しか言えなかった。千秋は飯島千秋といって、広島大学経済学部の僕の同期で、日本酒研究会の女子であり、僕の人生において最も強気な存在の一人である。彼女に逆らったところで、結局のところ、僕は出かけることになるのだ。それは過去の経験から学習済みであった。学習能力という意味では、僕の脳もそれなりに進化しているらしい。進化した結果、抵抗を諦めるという方向に最適化されている。

もう一通、千秋からメッセージが来ていた。

『七緒先輩、来るらしいよ。日研の方にも連絡来とった』

……。

これだ、と僕は思った。これが、千秋が今朝七時四十分集合を強制してきた理由である。彼女は僕に何かを察して、何かを察したまま、何も言わずに、ただ集合時間だけを早めて圧をかけてくる。そういう人間である。

あいつ、と僕は布団の中で呟いた。

呟きながら、しかし、僕は起き上がっていた。

起き上がっていたことに、自分で気づくのは、洗面所で鏡を見たときだった。気がついたら、僕の身体はもう歯ブラシを口にくわえていた。脳の指令を待たずに、手足が先に動いていた。指令を出していない経営者と、勝手に営業に出かけている営業部、という構図は、もはや僕の身体の標準仕様らしかった。

西条駅前で千秋と合流したのは、八時前であった。

駅前広場には、もう人が集まり始めていた。吟醸街道まつりは今年が初開催で、十三蔵の飲み比べイベントということで、SNSではそれなりに事前盛り上がりをしていたらしい。前売りチケットは完売だったとも聞いていた。広場に立っているのは、二十代から五十代くらいまでの、いかにも酒好きそうな顔をした人たちと、観光客と、少し離れたところで朝の体操をしている地元のお年寄りの集団であった。

「おはよ。寝起きの顔しとるね」

と、千秋が言った。

「寝起きじゃけえ」

「正論。はい、これチケット」

僕の手のひらに、首掛け式の試飲チケットが渡された。十三蔵を巡って、各蔵で一杯ずつ飲める仕組みらしい。仕組みらしい、と言ったのは、僕は事前に情報を全く入れていなかったからである。千秋がエントリーから当日の動線まで、全部を勝手に組んでくれていた。彼女がいなかったら、僕の二十歳の九月は、たぶん下宿の天井のシミと向き合うだけで終わっていた。

「七緒先輩、何時に来るって?」

と、僕は聞いた。聞いてしまってから、聞かなければよかった、と思った。僕の口は、肝心なところで僕の都合を完全に無視する。

「九時くらいに会場で合流って言うとった」

「……そう」

「『そう』じゃないやろ」

千秋がこちらを見て、にやりと笑った。

「あんた、内ポケットに何持っとるん?」

「……は?」

「鞄の前、何回も触っとるけえ。さっきから」

……気がついたら、僕の右手は、鞄の内ポケットのあたりを、シャツの上から確認していた。それが何回目の確認なのか、僕は数えていない。

「人に渡すもんがあって」

「先輩に?」

「うん」

「ふうん」

千秋は、それ以上は聞かなかった。聞かないかわりに、その「ふうん」の中に、いろんな観察の結果を全部畳み込んでいた。日本酒研究会の女子というのは、なぜか皆、こういう情報処理能力が高い。利き酒の訓練が、人間関係の機微の利き分けにも応用されているのかもしれなかった。

八時半、駅前の特設受付で当日の入場手続きを済ませて、僕たちは酒蔵通りの方へ歩き始めた。

九月のなまこ壁は、昼の光の中で、四月に見たときより少しだけ黄ばんで見えた。半年で壁が黄ばむわけはないので、これは僕の目の方の変化である。一年半住んでいる街の壁を、僕はようやく、季節ごとに違う色で見ることができるようになり始めていた。これも、進化と言えば進化である。

一つ目の蔵、賀茂鶴のブースに着いたとき、千秋が缶バッジ収集の話を始めた。各蔵で限定バッジが配られているらしく、千秋はそれを全部集めるつもりらしかった。コレクター気質である。僕はそれを聞きながら、賀茂鶴の試飲を一杯もらった。「ゴールド賀茂鶴」の小ぶりなお猪口を、半年前の自分が見たら腰を抜かしただろう。半年前の僕は、賀茂鶴を「金色の文字が書いてある瓶」としか認識していなかった。今の僕は、ゴールドが大吟醸の通称であることを知っている。半年で人間はこれだけ進化する。

進化の速度はあるくせに、肝心な事柄では半拍遅れる。それが僕の進化の偏った特徴であった。

二つ目、亀齢の辛口を口に含んで、千秋が「これじゃこれ、辛口の見本じゃ」と頷いている横で、僕は内ポケットに右手をやって、また手紙の存在を確認していた。

確認している自分を、千秋に見られないように、ちょっとだけ角度を変えて。

子供みたいな仕草だった。我ながら情けない。

九時を少し過ぎた頃、僕たちは三つ目の蔵、福美人のブースの前にいた。

ちょうど、千秋が缶バッジを受け取って「やった、可愛い」と歓声を上げた瞬間、視界の端で、白いブラウスが横切った。

横切ったのが見えてから、それが横切ったのではなく、立ち止まった、という事実に気がついたのは、二秒くらい後のことだった。

顔を上げた。

七緒さんが、立っていた。

福美人の煙突を背景に、僕の三メートルくらい先で。

季節の入口にちょうど合わせたような、薄手の白いブラウスに、デニム。髪はいつもより少しだけ整えてあった。日傘は持っていなかった。手には、千秋と同じ首掛け式の試飲チケット。

僕の方を、まっすぐ見ていた。

視線が合ってから、七緒さんは少しだけ笑った。

笑った、というより、笑おうとしてから、それが少し遅れて顔の上に現れた、という感じの笑い方だった。

……それは、たぶん、僕のいつもの顔の動き方であった。

僕は、自分の表情の動き方を、目の前の人の顔の上で初めて見た。

「来たんや」

と、七緒さんが言った。

「呼ばれてないけど、来た」

と、僕は答えた。

答えてから、なぜこんな返事を口にしたのか、自分でもよく分からなかった。たぶん、二週間ぶりに直接会った人にかける言葉として、もう少し他に選択肢があったはずだった。あったはずだが、僕の口は、僕の都合より千秋の脚本を優先したらしい。千秋の脚本があったわけではないのだが、そういうことにしておく。

七緒さんは、ふっと吹き出した。

「それ、何のセリフ」

「何のセリフでしょうね」

「変なやつ」

「すいません」

二週間あったぎこちなさの何分の一かが、その一往復で、何となく溶けた。完全には溶けなかった。表面の薄い氷だけが溶けて、底にはまだ冷たい水が残っていた。それでも、表面が溶けたぶんだけ、息ができるようになった。

「千秋ちゃん、おはよ」

「おはようございます〜。先輩、私らもう三蔵目です」

「早いな」

「蓮を朝七時四十分に叩き起こしたんで」

「……それは、ご苦労さん」

七緒さんが、僕の方をちらりと見た。「叩き起こされた」事実をどう受け取るか迷っているような顔だった。気づかってくれているのか、面白がっているのか、半々くらいの表情だった。半々の表情のまま、彼女は四蔵目の方向を指さした。

「次、どこ行くん?」

「賀茂泉です」

「ええなあ。最初の蔵じゃね」

……最初の蔵。

七緒さんが、それを覚えていた、という事実が、僕の頭の真ん中で、小さな音を立てた。覚えていた、というか、忘れるはずもないのだが、口に出して言った、ということが、何かの確認のように響いた。

確認のように響いた、と、思ったその瞬間、僕は鞄の内ポケットを、シャツの上からもう一度押さえていた。

押さえてから、気がついた。

……ここぞ、というのは、こういう瞬間のことを言うのかもしれなかった。

三人で、福美人のブースを離れて、賀茂泉の方角へ歩き始めた。

千秋が先頭で、七緒さんと僕が、半歩遅れて、隣り合わせで歩いた。隣り合わせ、と書いたが、肩の距離は微妙だった。八月の終わりに駅前の居酒屋で「ありがとう」と言われたときの距離より、ほんの十五センチくらい、近かった。十五センチというのは、誤差の範囲なのか、誤差ではない有意な距離なのか、僕の物差しでは判別がつかなかった。

福美人と賀茂泉のあいだの通りには、まつりの来場者がぽつぽつと集まっていた。出店前の屋台の準備や、案内係のスタッフが立て札を出しているのを、僕は半分の意識で見ながら歩いていた。残りの半分は、隣の十五センチに使っていた。

道の途中、酒蔵通りの少し広くなったところで、七緒さんが、急に立ち止まった。

「あ」

短い「あ」だった。

短い「あ」が出てから、彼女の目線は、通りの向こう、賀茂鶴の入口の方角に、向いた。

賀茂鶴の入口の前に、男の人が、立っていた。

シャツとスラックスで、現場と事務所のあいだを行き来する人の服装だった。年齢は、二十代の半ばくらい、たぶん。背丈は、僕より少し低かった。

見覚えがあった。

八月の昼下がり、賀茂鶴の一号蔵の角を曲がったところで、僕が見たのと、同じ人だった。

同じ人の、隣に、女の人が立っていた。

女の人は、男の人より、背が低くて、明るい色のワンピースを着ていた。胸の前に、ベージュの抱っこ紐が、固定されていた。抱っこ紐の中で、ぐにゃぐにゃと小さな手が動いていた。

動いていたのは、乳児の手だった。

七緒さんが、駆け出した。

駆け出した、というほどの速度ではなかった。早歩きの、少し早い版の、駆け出しに近い動きだった。三人のあいだの十メートルくらいを、ほんの数秒で詰めて、彼女は男の人と女の人の前に立った。

立って、声を出した。

「えー、しゅん兄、奥さん来てくれたん!」

七緒さんの声が、九月の朝の通りで、跳ねた。

「子ども、大きくなったやん」

千秋と僕は、十メートル後ろで、立ち止まったまま、その光景を見ていた。

千秋は、振り返って、僕の方を、見なかった。見なかったのが、千秋の判断として正しいのか、間違っているのか、僕には判別できなかった。判別できなかったが、見なかった、という事実は、たぶん、千秋なりの礼儀だった。

僕は、十メートル先で起きていることを、頭の中で、要素ごとに、分解して受け取った。

一つ。男の人がいた。八月に酒蔵通りで七緒さんと立ち話をしていた、あの人だった。

二つ。女の人がいた。男の人の隣に、明らかに連れの距離で立っていた。抱っこ紐をしていた。

三つ。乳児がいた。抱っこ紐の中で、手だけが動いていた。

四つ。七緒さんが、男の人を「しゅん兄」と呼んだ。「奥さん」と呼んだ。「子ども」と呼んだ。

四つの情報が、ほぼ同時に、僕の中に届いた。

届いたあとで、僕の中で、何かが、静かに、崩れた。

崩れた音は、立っていない。崩れた振動も、外には出ていない。崩れたものの形状は、おそらく、誰にも見えなかった。誰にも見えないところで、僕の中の何かが、たぶん、勝手に、崩れた。崩れて、跡形もなく、再構築された。再構築されたものは、もう、八月の昼下がりに賀茂鶴の角で僕が見たものとは、別の意味になっていた。

七緒さんは、抱っこ紐の乳児に、片手の指を一本、差し出していた。

乳児が、その指を、握った。

握った、と書いたが、乳児の握る力は、たぶん、握るほどでもない。指を発見した、という程度の握り方だった。それでも、握った、という事実は、家族と七緒さんのあいだの関係を、目の前で、はっきりと固定していた。

「お父さんも元気そうやんね」

「うん。蔵元さんとこ、最近どう?」

「ぼちぼち。お祖父ちゃんは、相変わらず」

「お祖父さんに、よろしく」

「うん。伝えとく」

三人の会話は、近所の人と立ち話、というテンポだった。

八月に賀茂鶴の角で、僕が「夜の街灯の下の立ち話」だと思って勝手に解釈していた光景は、本当は、こういうテンポの、近所の人との立ち話だった。それを十年前から続けている、という関係性の積み重ねが、テンポの中に、自然に入っていた。

僕は、それを、十メートル後ろで、初めて、ちゃんと、見た。

七緒さんは、一分ほどで、こちらに戻ってきた。

戻ってきた七緒さんの表情は、駆け出した時の表情と、特に変わっていなかった。

「ごめん、近所の人」

「あ、はい」

「しゅん兄って人、うちのお父さんと、昔、一緒に仕事しとった大工さんとこの息子で、私が小さい頃から知っとる人」

「……そうですか」

「子ども、まだ生後半年とかちゃうかな。可愛いけえね、抱っこ紐の中で寝とるあいだに、なんかむっちりしとる」

……むっちり。

七緒さんが、乳児を「むっちり」と表現した瞬間、僕の中で、八月の昼下がりに賀茂鶴の角で僕が後ずさりした、あの動作の意味が、完全に、別のものに置き換わった。

置き換わった、と気がついた瞬間、僕は、自分が今、何を確認しているかを、誰にも言わないことに決めた。

言わないことに決めたことすら、誰にも言わないことに決めた。

二重に、誰にも言わないことに決めた。

千秋が、横で、ふーん、と短く言った。

「ふーん」だけだった。

千秋の「ふーん」には、たぶん、いつもの倍くらい、観察結果が畳まれていた。畳まれていたが、千秋は、それを開いて広げる気は、なかった。広げないでくれた千秋には、僕は、午後、千鳥足選手権予選のあとで、缶ビールを一本、追加で奢らないといけない、と心の中で書きつけた。

書きつけた瞬間、僕たちは、賀茂泉のブースに、向かって、歩き出していた。

賀茂泉のブースで一杯ずつ飲み終わった後、僕は千秋に向かって、できる限り自然な調子で言った。

「千秋、ちょっとだけ抜けていい?」

「うん。どこ行くん?」

「ちょっと、月野さんの実家のほう」

「月野酒造?」

「うん。源造さんに、預かりもの返しに」

厳密には、預かりものを「届けに」が正しい。「返しに」は嘘である。嘘というか、千秋に手紙の話をするのを避けるための、薄い言い換えである。千秋は、その言い換えに二秒だけ気がついて、二秒だけ何かを言いそうになって、それから飲み込んだ。

「分かった。私、亀の試飲完走するけえ、また午後の千鳥足のとこで合流しよ」

「うん。ありがと」

「先輩」

千秋が、七緒さんの方に顔を向けた。

「蓮、先輩のとこ連れてっていいですか」

「ええよ。ついでに、おじいちゃんに顔見せてもらうんも、ありがたい」

「蓮、ちゃんと送ってきてや」

「うん」

ちゃんと送ってきてや、という千秋の指示は、文脈の上では、僕が七緒さんを送ることを意味していた。意味していたが、その指示を出した千秋の表情を見るかぎり、彼女が送らせたかったのは、僕の方だった。僕が送ろうとしているのは、手紙であって、七緒さんではないのだが、千秋にはそれが全部見えているらしかった。日本酒研究会の女子の情報処理能力の話を、もう一回、ここで強調しておきたい。

千秋は手を振って、亀齢のブースの方へ消えていった。

残されたのは、酒蔵通りの真ん中の僕と、七緒さんと、九月の柔らかい日差しと、福美人の煙突であった。

月野酒造までは、酒蔵通りから一本路地を入って、五分も歩かなかった。

道々、僕たちはあまり喋らなかった。

七緒さんの方も、何かを察していたのだろう。八月のぎこちなさを、ここで一気に解きほぐそうとはしなかった。彼女は彼女のペースで、ゆっくり歩いていた。サンダルが、九月の乾いたアスファルトの上で、ペタ、ペタ、と音を立てていた。

月野酒造の門は、いつも通り開いていた。

母屋の方は、雨戸が一枚だけ開いていた。中から、ラジオの音が小さく漏れていた。源造さんが朝のニュースを聞いているのだろう。

「ちょっと」

と、僕は門の前で立ち止まった。

「ちょっと、母屋に入る前に、井戸んとこ、いい?」

「井戸?」

「うん」

七緒さんは、首を傾げた。傾げてから、すぐに、ああ、と頷いた。

「分かった」

何が分かったのか、僕にも、たぶん七緒さんにも、まだはっきりはしていなかった。だが、彼女は、僕が選んだその場所を、それでいいと判断してくれた。

月野酒造の井戸は、母屋の裏手の小さな庭の隅にあった。木の蓋に瀬戸物の植木鉢が一つ載っているのも、縁の石組みに苔が薄く張りついているのも、夏に源造さんと一緒に来た時と同じだった。縁の石は二人並んで腰かけられるほどの幅があった。

僕たちは、何となく、二人で並んで腰かけた。

井戸の上の空は、九月の薄い水色に塗られていた。雲が少し出ていたが、どれも軽くて、すぐに流れていった。

鞄の内ポケットに右手を入れた。

二週間入れっぱなしだった封筒は、思っていたより、紙の角が少し丸くなっていた。布越しに鞄の中で揉まれていたのだろう。元々擦り切れていた四隅が、もう一段擦り切れていた。

取り出して、両手で持って、七緒さんの方に差し出した。

「源造さんから、預かってて」

「……これ、何」

「七緒さん宛の、手紙」

七緒さんは、僕の手の中の封筒を見た。

表書きの「七緒へ」の文字を見た。万年筆の、少し太めの、源造さんの字。

見て、それから、視線が、封筒から動かなくなった。

「いつ」

「八月の終わり、源造さんから預かりました。『お前から渡してくれ』って」

「なんで、おじいちゃんが、自分で」

「……『口下手じゃけえ』って」

七緒さんは、ふっと、息を一回、半分だけ吐いた。

半分だけ、というのは、最後まで吐ききらなかった、ということだった。途中で何かに引っかかって止まったような、不完全な呼吸だった。

「……あの人らしい」

と、彼女は言った。

言って、両手で、封筒を受け取った。

受け取ってから、七緒さんはすぐには封を切らなかった。

しばらく、両手の上の封筒を、ただ見ていた。

僕は、横で何も言わなかった。

言うべきことは、何もなかった。手紙を渡しに来た人間の役目は、手紙を渡したところで終わりである。後は、受け取った人の時間である。それを邪魔しないことが、たぶん、源造さんが「お前から渡してくれ」と言った理由の半分だった。残りの半分は、たぶん、僕にこの場面を見せるためだった。源造さんが何を考えていたのか、僕にはまだ全部は分からなかったが、半分くらいは、そういうことだろうと思った。

七緒さんは、ゆっくり、封筒の口を開けた。

中から、便箋が一枚、出てきた。

一枚だけだった。

七緒さんが便箋を広げた。広げた紙の角度が、少し僕の方にもこぼれて、文面の最初の数文字が、横目で読めた。

『七緒、お前にも、いつか言わにゃいけんと思っとった話を、書く』

そこで、僕は目を逸らした。

逸らして、井戸の縁の苔を見た。九月の苔は、八月より少しだけ濃い緑をしていた。

七緒さんは、無言で、便箋を読んだ。

文面は、見ない約束を、僕が一人で勝手に結んでいたので、内容は読まなかった。読まなかったが、彼女が便箋のどの行で止まったか、どの行で息を吸ったか、それは隣にいると、紙の動きで何となく伝わった。

三回、止まった。

二回目に止まったとき、彼女の右手が、便箋の右上の隅を、少し強く握った。

三回目に止まったとき、彼女の左手が、口元のあたりに上がった。

僕は、それでもまだ、井戸の縁の苔を見ていた。

七緒さんが、便箋を膝の上に置いた。

それから、一回、深く息を吐いた。

今度は、最後まで吐ききった呼吸だった。

「読んでええよ」

と、彼女が言った。

「いや、ええです」

「ええの。読んで」

……読んでええよ、と、二回続けて言われた。

僕は、二回目に押されて、便箋を手に取った。

文面は、思っていたより、短かった。

万年筆の字は、源造さんの口数と同じくらい少なかった。

『七緒、お前にも、いつか言わにゃいけんと思っとった話を、書く。

これを書いとるのは、わしの父親が、戦地から家に書いてきた最後の手紙を、わしが今朝、押し入れの奥から見つけたからじゃ。

父親の手紙には、こう書いてあった。

「酒は人と人の間に立つもの。一人で飲む酒はあんまり美味しゅうないんよ。お前の隣で飲める酒を、また造りたい」

父親は、家に帰ってこんかった。隣で酒を飲む、いう約束は、果たされんかった。

わしは、それを読んで、ずっと、父親の代わりに酒を造ってきたつもりじゃった。

けど、ほんまの代わりにはなれんかった。

七緒、お前は、わしや、わしの父親の続きを、無理にやらんでええ。

月野酒造を継ぐかどうかは、お前が、お前の人生の中で決め。

ただし、ちゃんと決め。

中途半端に流されて継ぐんも、中途半端に逃げて継がんのも、両方、酒に失礼じゃ。

酒に失礼なんは、人にも失礼なことじゃ。

そんだけは、爺ちゃんから、お前に言うとく。

源造』

読み終わって、僕は、便箋を、七緒さんの膝の上に戻した。

戻した手が、自分の手じゃないみたいに、少し震えていた。

震える理由は、僕の側にはないはずだった。これは七緒さんへの手紙であって、僕は配達員に過ぎなかった。配達員が中身を読んで震えるというのは、職業倫理に反する行為である。そんなことを、頭の隅で、わざと冗談めかして考えた。考えていないと、自分の手の震えが止まらなかった。

七緒さんは、便箋を膝の上に置いたまま、井戸の縁の苔のあたりを、ぼうっと見ていた。

僕も、苔を見ていた。

二人で、九月の朝の苔を、無言で見ていた。

どれくらい経っただろうか。

たぶん、二、三分だった。けれど、その二、三分は、酒蔵通りの煙突より、一回り長く感じた。

七緒さんが、口を開いた。

「私な」

声は、少し掠れていた。

「ずっと、怖かったんよ」

「うん」

「継ぐか、継がんか、自分で決めるんが」

「うん」

「継いだら、もう、逃げ道がない気がして」

「うん」

「逃げ道がない人生って、なんか、選んだらいけんもんやと思っとった」

そこで、彼女は、一回、長く息を吸った。

「けど、これ読んだら、もう、迷わんでもええような気がする」

そう言った後、彼女は小さく笑った。

笑って、それから目尻に水が一筋伝った。

七緒さんが泣くのを、僕はその時初めて見た。

泣いた、と書くといつもの泣き方と一緒になってしまう。そういう泣き方ではなかった。彼女の身体は、ほとんど揺れなかった。声も出さなかった。ただ、目尻から一本の細い水がゆっくり頬を伝った。一本通って、それから少し時間が空いてもう一本通った。それだけだった。

二十二歳の、酒蔵の娘の、九月の朝の、一本ずつの涙。

僕はそれを横で見ていた。

何もしなかった。

何もしないことが、その時の僕にできる、唯一のまともなことだった。

三本目の涙が来る前に、七緒さんは、便箋を畳んだ。

畳んで、封筒に戻した。封筒を、両手で、自分の鞄に入れた。

入れてから、井戸の縁の苔を、もう一回見た。

それから、こちらを向いて、言った。

「ありがとう。届けてくれて」

「いえ」

「お祖父ちゃんのこと、よろしくな」

「はい」

「あと」

七緒さんは、ちょっとだけ、笑った。

さっきの、便箋の二行目で止まったときの呼吸の、続きのような笑い方だった。

「酒祭りの日に、答えを言うけえ」

「……答え?」

「うん」

「えっと、何の」

「全部」

「……全部?」

「家のことも、自分のことも、あと、蓮くんのことも」

蓮くんのことも。

……気がついたら、僕の心臓は、井戸の縁から少し浮き上がっていた。物理的に浮くわけはないので、これは比喩である。比喩であるが、心臓が普段の位置から少し上にずれた感覚は、間違いなくあった。

何の、と、もう一回聞きたかった。

聞きたかったが、聞いてはいけない、と、鈍い僕でも、その時ばかりは分かった。

「……うん」

と、僕は答えた。

答えになっていない返事だった。「うん」は、了解の合図でもあるし、ただの相槌でもあるし、考える時間を稼ぐための呼吸でもある。その三つを全部混ぜて、僕は短く、うん、と言った。

「酒祭りの日まで、待っとって」

七緒さんは、立ち上がった。

立ち上がってから、井戸の縁の僕の方を、もう一度見下ろした。

「おじいちゃんには、私から礼を言うけえ。蓮くんは、午後の千鳥足、出るんよね」

「あ、はい。千秋に、登録されてて」

「私と二人三脚部門な」

「……二人三脚?」

「言うてなかったっけ」

言われていなかった。言われていたら、僕は今朝七時四十分にもう少し抵抗していた可能性があった。

「飯島ちゃんから昨日連絡来とった。蓮くんとペアで、二人三脚部門に登録した、って」

「……あいつ」

「飯島ちゃん、ええ後輩じゃね」

「……はい」

ええ後輩、というかなり寛容な評価をいただいたが、僕の側の評価では、千秋は今日の朝七時四十分の件と合わせて、絶賛特別表彰中であった。表彰の内容は、複雑であった。

七緒さんは、母屋の方へ、ゆっくり歩いていった。

縁側の方から、源造さんの「お、来たか」というしゃがれた声が、薄く聞こえた。それから、七緒さんが「おじいちゃん」と短く言うのが聞こえた。「おじいちゃん」の二文字に、何か、いつもと違う重みが乗っているのが、井戸の縁の僕にも伝わった。

僕は、立ち上がって、井戸の縁の自分が座っていた場所を、振り返らずに見た。

見るというより、振り返らなかった、という方が正確である。

振り返ったら、たぶん、まだ二人で並んで腰掛けていた残像が、苔の上に残っているような気がした。残像を確かめてしまったら、もう一度、座りたくなる気がした。座りたくなったら、午後の千鳥足選手権予選に間に合わなくなる気がした。

全部「気がした」だけの理由だったが、二十歳の僕には、それで十分だった。

月野酒造の門を出て、酒蔵通りに戻る道で、僕はもう一度、内ポケットを、シャツの上から押さえた。

押さえてから、気がついた。

内ポケットは、もう軽くなっていた。

二週間、毎晩重さを確かめていたものが、なくなっていた。

なくなった重さの代わりに、別の重さが、胸の真ん中に、新しく入っていた。

……酒祭りの日に、答えを言う。

七緒さんの、さっきの声を、僕はその一文だけ、九月の路地の真ん中で、もう一度繰り返した。繰り返してから、「全部」という単語の意味を、頭の中で、ゆっくり広げた。

家のことと、自分のことと、僕のこと。

三つ目の重さが、いちばん、扱いに困った。

福美人のブースに戻る道の途中で、僕の鞄の中で、スマホが小さく震えた。

取り出して画面を見た。

千秋からだった。

『無事届けた?』

『うん』

『蓮、午後の千鳥足、二人三脚で先輩と組んだから、よろしくね』

『お前、覚悟しとけよ』

『なんで』

『お前のおかげで、僕の九月、いろいろ動いた』

『はい、感謝の連絡ですね、了解しました』

『感謝じゃなくて』

『はい、感謝ね、了解』

千秋は、僕の言いたいことを最初の一文字目で察して、わざと別の解釈に変換していた。情報処理能力の話を、もう一度ここで強調する必要があるのだろうか。

強調するのは、もうやめておく。

やめておくが、九月の路地の真ん中で、僕は一人でちょっとだけ笑っていた。

笑ってから、気がついた。

今日、まだ、一回しか僕は本気で笑っていなかった。

一回目は、福美人のブースの前で、七緒さんが「来たんや」と言った時に、肩の力が抜けたあの瞬間だった。

二回目は、今だった。

二回目の今の笑いの中には、午後の千鳥足選手権予選の、まだ来ていない景色が、少しだけ混ざっていた。


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