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第16巻:如月令嬢は『蒸気の密室を誤認しない』  作者: アリス・リゼル


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第5話『観測』(5)

 内部で暴れ狂う数千気圧の超高圧蒸気が、もはや昭一によって破壊されたメインバルブの排気口だけでは逃げ場を失い、ボイラーの外殻そのものを内側から力任せに引き裂こうと、断末魔のような金属の悲鳴を上げていたのだ。

 パァンッ! パァンッ! と、強烈な圧力に耐えきれなくなった親指ほどの太さがある巨大な鋼鉄のリベットが次々と弾け飛び、機関室のコンクリートの壁面を機関銃のように激しく打ち据える。

 万事休す。どれほど火傷の痛みに耐え、この分厚い鋼鉄の扉の重いハンドルを回し、安全圏であるメンテナンス通路へ逃げ込もうとしても、物理的にあと数秒の時間が足りない。

 大爆発による致死的な衝撃波と、すべてを炭化させる超高熱の炎が、僕たちの背中を完全に飲み込もうとした――その時である。


 ガコンッ!!という、眼の前の機関室の内部からではなく、はるか上層――地上のインフラ施設から響いてきたような、巨大な歯車が強制的に噛み合わされた重厚な金属音が、熱波の轟音を真っ二つに切り裂いて鳴り響いた。

 直後。


 シュゴオォォォォォォォォォォォッ!!


 僕たちの背後で、今まさに大爆発を起こす寸前まで膨張していたメインボイラーの炉心から、突如として圧力が上方向へと『猛烈な勢いで吸い上げられていく』という、奇妙な力学的な逆転現象が発生したのだ。

 機関室内に充満し、僕たちの命を奪おうと迫っていた二百度の過熱蒸気の気流が、まるで巨大な竜巻か掃除機に吸い込まれるようにして、天井付近に設置されていた太い主排気パイプへと一気に殺到していく。

 一瞬にして、機関室の異常な温度上昇がピタリと止まり、限界を超えていた内圧が急速に低下していくのが、肌に突き刺さる空気の重さの変化によって明確に理解できた。


「な、なんだ!? 圧力が抜けていくぞ! 爆発しない!」


 手錠をかけられた昭一の首根っこを掴んで引きずっていた瀬田警部補が、驚愕と安堵の入り混じった声を上げる。


「今じゃ、サクタロウ! 扉を開けいッ!」


 気流のベクトルが上へと向いた、ほんの数秒の熱力学的な死角。如月瑠璃の鋭い号令に弾かれた僕は、火傷の痛みを完全に忘れて全体重を鋼鉄の扉のハンドルに掛け、力任せに押し開いた。

 ギィィィィンッ! と重々しい摩擦音を立てて扉が開き、外界の――いや、地下のメンテナンス通路の、五十度の機関室に比べれば氷のように冷たく心地よい空気が、僕たちの顔面を強く打ち据えた。


「出ろ! 早く出ろォォッ!」


 僕たちは転がるようにして鋼鉄の扉の向こう側へと飛び出し、瀬田警部補と神宮寺巡査部長が扉を力任せに閉め、重いカンヌキを落とした。

 その直後、分厚い扉の向こう側で、残された蒸気と配管の残骸が激しくぶつかり合うくぐもった音が響いたが、もはや致命的な大爆発の危機は完全に去っていた。


「はぁっ……はぁっ……! た、助かった……のか?」


 僕は冷たいコンクリートの床に仰向けに倒れ込み、天井の薄暗い蛍光灯を見つめながら、肺の底から荒い息を吐き出した。神宮寺巡査部長の背中から静かに降ろされた由美子さんも、朦朧としながらも確かな呼吸を繰り返している。

 奇跡が起きたわけではない。神が救ってくれたわけでもない。この徹底的にアナログな地下空間において、超高圧蒸気の暴走を間一髪で食い止める『物理的な事象』が、間違いなく外部で発生したのだ。


「外部の『緊急パージ弁』が手動で開放されたのじゃな」


 僕の隣で、煤と泥に汚れた着物の裾を純白の手袋で優雅に払いながら、如月さんが静かに息をついた。


「緊急パージ弁……?」


「そうじゃ。あの時代遅れの巨大ボイラーには、地下の制御盤が破壊されたような最悪の事態に備えて、地上の施設から直接炉心の圧力を外部へ逃がすための、極めてアナログな手動排気レバーが備わっておるはずじゃ。……地上の誰かがインフラの計器の異常に気づき、とっさにそのフェイルセーフを物理的に起動させたのじゃろう」


 如月さんのその推論は、数十分後、僕たちが警察の応援部隊と共に地上の咲浜市の中央広場へと生還を果たした際に、見事に実証されることとなった。


「朔くん! 如月さん! 無事だったか!」


 広場を埋め尽くす数十台のパトカーと消防車、そして救急車の赤色灯が激しく瞬く光の海の中、大正ロマンのインバネスコートを羽織った長身の青年が、息を切らして僕たちのもとへ駆け寄ってきた。

 僕たちのクラスの副担任であり、理科教師の明宮先生だった。


「明宮先生! もしかして、あのボイラーの蒸気を間一髪で逃がしてくれたのは……」


「ああ。時計塔の周辺で騒ぎになっていた生徒たちを安全な場所へ誘導していた時、広場の端に設置されている『アナログの主圧力計』の針が、異常な速度でレッドゾーンを振り切ろうとしているのに気づいたんだ」


 明宮先生は、安堵の息を吐き出しながら、ズレた丸眼鏡の位置を直した。


「理科教師としての単なる知的好奇心で、このスチームパンク区画のインフラ構造の設計図を事前に頭に入れておいて本当に助かったよ。地下で一体何が起きているかは全くわからなかったが、ボイラーが臨界に達し、街区全体を吹き飛ばしかねない事態になっていることだけは、計器という物理的数値が明確に示していた。だから、広場の隅にある外部緊急パージ弁の分厚いガラスカバーを消火器で叩き割り、手動レバーを全体重を掛けて引いたんだ」


 デジタルなAIによる自動制御でもなければ、ご都合主義でもない。

 一人の教師が持っていた純粋な物理的知識と、この咲浜市という街がどこまでも『アナログな歯車と蒸気』で動いているという構造的ルーツが、結果的に僕たち全員の命を救ったのである。


「私は……私は悪くない……。兄貴が私を見下したから……」


 狂乱の末に自我を完全に崩壊させていた山崎昭一は、もはや抵抗する気力も失い、焦点の合わない目でうわ言のような空虚な呟きを繰り返しながら、瀬田警部補たちの手によってパトカーの後部座席へと押し込まれていった。彼が夢想した悲劇の主人公としての美しい死は与えられず、ただの無様な連続殺人犯として、法の裁きという現実的な檻の中へと収監されていくのだ。

 一方、救急車のストレッチャーに乗せられ、酸素マスクを当てられた由美子さんは、救急隊員の手で車内へと運ばれる直前、力なく僕と如月さんの方へと顔を向けた。そして、言葉を発する力もないその状態のまま、微かに、しかし確かな深い感謝の念を込めて、首を縦に振った。

 こうして、咲浜市全土を恐怖と幻影のどん底に陥れた『連続神隠し事件』は、孤高の鑑定士が突きつけた絶対的な論理と、泥臭い物理法則の証明によって、完全に幕を下ろしたのだった。


**


 だが、物語のルーツは、犯人が逮捕され、事件が解決したという表面上の事実だけでは完全に終わらない。人間の情動が引き起こした凄惨な結果は、取り返しがつかない傷跡として物理空間に残り続けるからだ。


 事件から数日後。僕たちの住むスマートシティ・月見坂市へと帰還し、日常の学校生活が戻り始めた頃。

 僕のスマートフォンに直接もたらされた瀬田警部補からの『事後報告』は、山崎昭一という男が犯した罪の底知れぬ深さと、人間の情動の暴走がいかに醜悪なものであるかを、改めて僕の脳髄に叩き込むこととなった。


『山崎昭一は、咲浜署での厳しい取り調べに対し、自らの犯行をすべて自供したよ。朔光太郎、お前と如月のお嬢ちゃんが地下の機関室で暴き出した推理の通り、一から十まで全部な』


 電話越しの瀬田警部補の声は、警察を揺るがせた難事件が解決したというのに、ひどく重く、冷たい鉛を飲み込んだように沈み切っていた。


『まず、第一の事件。遺体となって発見された兄の山崎雄一社長についてだ。……奴の死因は、第一発見時の報告の通り、鋭利な刃物による数十箇所にも及ぶ滅多刺しだった。俺たち警察は当初、その異常なまでのオーバーキルを、【神出鬼没の狂気的な連続殺人鬼の仕業に見せかけるための、意図的で猟奇的なカモフラージュ】だとプロファイリングしていた』


「カモフラージュじゃ、なかったんですか?」


 僕が自室のベッドに腰掛けたまま問い返すと、瀬田警部補は苦々しい息を吐いた。


『ああ、カモフラージュなんかじゃない。昭一の自供によれば、あの執拗な滅多刺しこそが、奴が数十年間腹の底に溜め込み続けてきた、兄に対する本物の【憎悪の爆発】だったんだ。遺言書の件で兄を問い詰めた際、鼻で笑われ、完全に見下された。その瞬間に奴は突発的に理性を失い、手元にあった刃物で狂ったように兄を刺し続けた。……あの凄惨な遺体は、冷酷な殺人鬼の緻密な計算などではなく、劣等感に塗れた一人の男の、ただの醜い感情の暴走の果てだったんだよ』


 僕は、スマートフォンの冷たい表面を強く握りしめた。

 だからこそ、だ。

 衝動的に兄を惨殺し、遺産譲渡の署名を書かせるために正当な相続人である由美子さんを地下へと拉致した昭一は、自らの『感情的な暴走による身内殺し』という真実から警察の目を完全に逸らすために、その後、本当に『狂気的な広域連続殺人鬼』という設定を捏造し、無関係な人々を次々と巻き込まなければならなくなったのだ。


「……じゃあ、瀬田警部補。第二から第四の事件で神隠しに遭い、警察の目くらましを造り上げるためだけに襲われた、あの三組のカップルたちは。現場の状況が少し不自然でしたよね。第二と第三の事件では、男の人は血を流して倒れているか殺されているかで現場に残され、女の人だけが煙のように消えた。でも、第四の事件では夫婦二人ともが消え失せた。彼らの安否は……」


 僕が震える声で尋ねると、瀬田警部補はひどく重い沈黙を落とした後、絞り出すように答えた。


『……全員、生存は絶望的だ』


「絶望的って……」


『昭一の自供と、現場の物理的痕跡が一致した。奴が密室からの人間消失に使っていたあの『蒸気圧ウインチ』のフックは、もともと重い石炭の袋を一つ引っ張り上げるためのものだ。大人二人を同時に引っ掛けて運搬するには、時間がかかりすぎるし、ワイヤーへの負荷も大きかった』


 瀬田警部補の言葉が、連続殺人鬼の恐るべき手口を、極めて事務的な作業工程へと分解していく。


『だから奴は、第二と第三の事件では、まず男性の方を鈍器で殴り殺すか重傷を負わせてその場に放置し、気絶させた女性の衣服にだけフックを掛けて、ダストシュートの奥へと引きずり込んだんだ。だが、昨夜の第四の事件では、夫婦が固く腕を組んで離れなかったのか、あるいは奴自身が焦ってパニックに陥ったのか……無理やり二人まとめてフックを掛け、乱暴に地下へと引きずり込んだらしい』


「そんな……じゃあ、地下に引きずり込まれた女性たちと、第四の事件の夫婦は……」


『昭一の供述に基づき、あのメインボイラーのすぐ隣に併設されているインフラ用の『予備焼却炉』の内部を、鑑識が数日がかりで徹底的にふるいにかけた。その結果、灰の中から身元不明の溶けた腕時計や、被害者のものと見られるアクセサリーの残骸……そして、二千度近い高温で完全に炭化した『人間の骨の欠片』が、複数人分、大量に発見されたんだ』


 息が、完全に止まった。

 蒸気圧ウインチの圧倒的な力学エネルギーによって、時計塔の壁の向こうのダストシュートへと強制的に引きずり込まれた彼ら。鈍器で殴られ意識を失ったまま、誰にも知られることなく、生きたまま、あるいは死体となって、あの灼熱の巨大焼却炉へとゴミのように放り込まれたのだ。

 自分が遺産を独占するまでの時間稼ぎ。ただ警察の捜査を『身内』から遠ざけるという、あまりにも下世話で、身勝手な目的のためだけに。大正ロマンの美しい街角で、ガス燈の下を歩き、恋人と幸せな日常を生きていた彼らの命は、ただの『燃料』や『偽装工作のノイズ』として無残に消費され、骨の髄まで焼き尽くされた。


 あの地獄の機関室で、昭一が流した悲痛な涙に、僕が一瞬でも抱いてしまった同情心。

 彼もまた社会の被害者なのではないかという、甘く感傷的な痛覚。

 それが、いかに浅はかで、理不尽に焼かれた被害者たちに対する残酷な冒涜であったかという事実を、真っ向から突きつけられた瞬間だった。

 如月さんが常に言い放つ『他人の汚悪な情動の濁流に呑まれ、中途半端な同情を寄せるなど愚の骨頂』という言葉の真意が、これ以上ないほど重く、そして鋭く僕の胸に突き刺さる。

 人間がどれほど悲痛な涙を流そうとも、その人間が他者の命を身勝手に奪ったという『物理的なルーツ』は、決して相殺されることはないのだ。


『……奴は、死刑になるだろう。いや、俺たち警察の威信にかけて、絶対にさせてみせる』


 瀬田警部補の静かな、しかし絶対的な殺意にも似た誓いの言葉を聞き届け、僕は黙って電話を切った。

 自室の窓の外には、咲浜市のアナログな蒸気と歯車の街並みとは対極にある、月見坂市の洗練されたデジタル・インフラが広がり、無音のドローンが青空を規則正しく行き交っている。

 だが、どれほど都市のシステムがデジタルに進化し、社会がスマートになろうとも。

 人間の心の奥底に巣食う、嫉妬、劣等感、金銭欲といった『情動のルーツ』だけは、いつの時代も変わらず極めてアナログで、醜く、そして時にすべてを焼き尽くす恐ろしい暴走を引き起こすのだという真理を、僕は骨の髄まで思い知らされていた。


 物理的なからくりは暴かれ、事件は解決した。

 しかし、失われた命が戻ることはなく、残されたのは炭化した骨の欠片と、人間のエゴがもたらしたあまりにも重い残骸だけだった。

 この救いようのない結末の重さを胸に抱きながら、僕は明日もまた、あの傲慢で冷徹な、しかし誰よりも真理に誠実な名探偵の助手として、旧校舎の図書室の扉を開けるのだろう。



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