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第16巻:如月令嬢は『蒸気の密室を誤認しない』  作者: アリス・リゼル


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エピローグ『不変』

 咲浜市の空を重く覆っていた分厚い鉛色の雲と、街の至る所から噴き出していた過剰な水蒸気の白煙は、スマートシティである月見坂市の境界線を越えた瞬間に、まるで古いフィルム映画の幕が下ろされたかのように唐突に途切れた。

 僕たちの住むこの街は、今日も極めて静謐で、論理的で、そして無機質なほどに整然としたデジタル・インフラの恩恵に包まれている。空を見上げれば、大正ロマンを象徴する煤けたガス燈の代わりに、うららかな春の太陽光を効率的に反射するスマートビルの巨大なガラス壁がそびえ立っている。空を焦がすような有害な黒煙の代わりに、環境ノイズを完全にカットされた無音の小型警備ドローンが、あらかじめプログラムされた座標と軌道を寸分の狂いもなく巡回し、街の平穏を監視していた。

 すべてが計算され、すべてが予測可能で、人間の突発的な情動や狂気が入り込む余地など一ミリも存在しないようにデザインされた、完璧な情報都市。

 ほんの数日前に、あの地獄のような咲浜市の地下機関室で、二百度を超える致死的な過熱蒸気と、人間の嫉妬や劣等感というドロドロとした『情動の濁流』に生きたまま焼き尽くされそうになった記憶が、まるで質の悪い悪夢であったかのように錯覚してしまうほど、春を迎えた月見坂市の日常はあまりにも平穏で、安全だった。


 だが、僕の両手に何重にも巻かれた真新しい純白の包帯と、その下で今もチリチリと脈打つように痛みを主張し続ける火傷の痕だけが、あの咲浜市での『連続神隠し事件』が決して悪夢などではなく、明確な質量と熱量を持った『物理的な現実』であったことを、僕の脳髄に冷酷に証明し続けている。

 そして何より、瀬田警部補から電話で知らされた、第二から第四の無関係な被害者たちの残酷すぎる結末――二千度の予備焼却炉で焼かれ、完全に炭化した骨の欠片となって発見されたというその凄惨な事実が、僕の精神に重く、冷たい鉛となって沈み込んでいた。


 放課後。

 最新鋭のデジタル設備が整う月見坂学園の本校舎から遠く離れた、立ち入り禁止エリアの森の奥深く。

 ツタの絡まる旧校舎の、ホコリ臭い空気が静かに沈殿する図書室には、今日も変わることのない、極めて奇妙で、そして決定的に交わることのない二つの平行線のような日常の風景が広がっていた。


「……痛っ、と」


 僕は、図書室の片隅に放置されていた傷だらけの古い木製デスクの前にパイプ椅子を引き寄せて座り、火傷の痛む指先を庇いながら、ジャンクフードの代名詞とも言えるコンソメ味のポテトチップスの袋を、不器用な動作でバリバリと開けた。

 同時に、傍らに置いてあったペットボトルのコーラの赤いキャップをひねる。プシュッ、という気の抜けた炭酸の音が、静まり返った図書室の空間に安っぽく響き渡った。

 窓から差し込む春の穏やかな陽光が、ホコリの舞う図書室の空気を斜めに切り裂き、僕の手元にあるチープなスナック菓子を照らし出している。

 ジャンクフードの強烈な化学調味料と油の匂い。そして、過剰な糖分と炭酸を含んだ黒い液体。

 どれもこれも、健康や品格とは程遠い、極めて俗物的で怠惰な物質ばかりだ。だが、今の僕の心と身体は、こうした『安っぽく、計算通りに大量消費されるだけの安全なノイズ』を強烈に求めていた。

 数千気圧で暴れ狂うボイラーの咆哮。肌を直接焼き焦がし、呼吸器を破壊しようと迫り来る過熱蒸気の暴力。そして何より、山崎昭一という一人の男が数十年間溜め込み、ついに臨界点を突破して暴発させた、兄に対する強烈な劣等感と理不尽な殺意。無関係な人々を焼却炉へと放り込んだ、人間の持つ底知れぬ悪意の熱量。

 そうした『致死的なまでの圧倒的な熱力学』と『制御不能な人間の情動』という二つの暴力的な濁流に呑まれかけた後では、こうした手のひらサイズの、絶対に自分を傷つけることのないチープで人工的な物質の存在が、たまらなく愛おしく、そして精神の安定剤として機能してくれたのである。


 僕は、気の抜けてただ甘ったるいだけの砂糖水になりつつあるコーラを喉に流し込み、大きく、深い息を吐き出した。

 そして、傷だらけのデスクの向こう側――僕とは完全に対極の物理空間を構築している『主』の姿へと、静かに視線を向けた。


 孤高の天才鑑定士、如月瑠璃。

 彼女は、あの灼熱の地下インフラを泥と血にまみれて這いずり回っていた無残な姿が幻であったかのように、今日はシワ一つない完璧に仕立てられた制服を身に纏っている。

 彼女が勝手に図書室へと持ち込み、陣取っているアンティークの豪奢なマホガニー製のデスクの上には、今日もまた、僕が食べているジャンクフードとは次元の違う、歴史と品格に彩られた『モノのルーツ』が展開されている。

 十九世紀の英国で作られたという、光を透かすほど薄く、精緻な青い薔薇の意匠が手描きで施された最高級のボーンチャイナのティーカップ。

 その中には、紅茶のシャンパンと称されるダージリンのセカンドフラッシュから、正確な温度と秒単位の抽出時間によって完璧に引き出された、澄み切った琥珀色の液体が満たされている。カップの表面からは、あの地獄の機関室で僕たちを殺そうとした暴力的な白煙とは似ても似つかない、極めて繊細で、気品のある細い湯気が、春の陽だまりの中へと一条の絹糸のように立ち上っていた。


 カチャリ、カチャリ。


 如月さんが、白く細い素手の指先で純銀の匙を優雅に操り、ティーカップの琥珀色の水面を規則正しくかき混ぜる。

 銀と磁器が触れ合うその微小で透明な金属音は、彼女が対象物のルーツを解き明かす際に銀の懐中時計の秒針で見せる『調律』の儀式と全く同じように、この空間に存在する一切の無駄なノイズを打ち消し、思考の波長を限りなく透明な絶対零度へと近づけていくような、不思議な静謐さを持っていた。


「……というわけで、咲浜市警からの長時間の事後聴取と、膨大な調書作成の手伝いも、昨日でようやく全部終わりましたよ。瀬田警部補も神宮寺巡査部長も、今回は完全に如月さんの物理的証明の前に頭が上がらないみたいで、最後の方はただの言われるがままの書記係みたいになってましたね」


 僕は、コンソメ味のポテトチップスを一枚齧りながら、沈黙を破るように事後報告を口にした。


「番犬どもの評価や、アナログな紙の束など、わしには一ミリの価値もない無駄なノイズじゃ」


 如月さんは、純銀の匙をソーサーに静かに置くと、ティーカップを優雅に口元へと運びながら、心底退屈そうに、そして極めて冷淡に鼻を鳴らした。


「わしの目的は常に、ありえない場所にあるモノの隠されたルーツを解き明かし、そこに介在する純粋な物理法則と真理を観測することのみ。事件の解決も、無能な警察の面子を保つことも、ましてや人質の命の救済すらも、すべてはわしの演算と解体の過程で生じた、ただの『副産物』に過ぎぬよ」


「相変わらずですね……」


 僕は、渇いた笑いを一つこぼした。

 彼女は、自分が数十秒の絶望的なタイムリミットの中で、熱力学の計算と絶対的な論理によって由美子さんの命を救い、山崎昭一の自己陶酔による死への逃避を完全に塞ぎ切ったという事実に対して、一切の誇りも、ヒロイズムも持ち合わせていない。ただ純粋に『バグを修正し、ノイズを消した』という、極めて事務的で機械的な結果処理としてしか認識していないのだ。


 だが、僕は如月さんのような天才ではない。

 事象を純粋なデータとしてのみ観測し、人間の情動を完全に切り離して俯瞰するような、そんな冷徹な回路は持ち合わせていない、ただの凡庸な高校生だ。

 僕の脳裏には、数日前に瀬田警部補から電話で聞かされた、あの凄惨な事後報告の言葉が、今も消えないノイズとしてべったりとこびりついていた。

 第一の事件で、弟の憎悪の暴走によって数十箇所を滅多刺しにされた山崎雄一の遺体。

 そして、第二から第四の事件で、警察の目くらましというただの偽装工作を造り上げるためだけに、無関係なカップルたちが地下のダストシュートへと引きずり込まれ、二千度の予備焼却炉で跡形もなく焼き尽くされたという、あまりにもむごたらしい炭化した骨の欠片の光景。

 すべては、山崎昭一という一人の男が抱え込んだ、遺産への執着と劣等感という下世話な情動が引き起こした悲劇だった。


「……如月さん」


 僕は、手元のポテトチップスの袋を見つめながら、自らの中にある重苦しい実感を吐き出すように、ぽつりと口を開いた。


「もし……僕が瀬田警部補から、あの無関係な被害者たちの本当の結末――焼却炉で骨の欠片になっていたという凄惨な事実を、電話で聞かされていなかったら。……僕は今でも、あの灼熱の機関室で山崎昭一が流した涙にすっかり騙されて、彼もまた歪んだ社会構造の哀れな被害者だったのかもしれないなんて、浅はかで甘ったるい同情を抱き続けていたかもしれません」


 僕は言葉を区切り、気の抜けたコーラを一口飲んで、カラカラに渇いた喉を潤した。


「人間の情動って、本当に恐ろしいですね。自分の私欲のために、無関係な人たちをただの燃料として焼き尽くしておきながら、それでもなお、自分自身を世界で一番の悲劇の主人公だと哀れんで、あんなに血を吐くような、本物の悲痛な涙を流すことができる。……そして、その涙を目の前で見せられると、僕みたいな凡人は、ついその『悪意の濁流』に絆されてしまって、罪の本当の重さを見失いそうになるんです」


 僕がこぼした、自らの愚かさを戒めるような重い言葉。

 それを聞いた瞬間。

 如月さんは、カップをソーサーに戻す手をピタリと止め、深い紫のアメジストの瞳で、パイプ椅子に座る僕の顔を真っ直ぐに、そして氷の刃のように鋭く射抜いた。


「サクタロウ。……それが、人間の脳髄に組み込まれた、極めて厄介で致命的な同調作用(バグ)じゃ」


 彼女の唇から紡がれた声には、うららかな春の図書室の室温すらも一瞬にして低下させるような、絶対的な真理の冷たさが宿っていた。


「人間は、他者の流す涙や悲痛な叫びといった『表面的な出力(ノイズ)』を受信すると、自らの内にあるミラーニューロンが過剰に反応し、その根底にある物理的な事実から目を背けてしまうようにできている。……だからこそ、わしは自らの情動を完全にシャットアウトし、一切の共感を拒絶するのじゃ」


 如月瑠璃は、亡き親友・皐月優奈から受け継いだ『情動の視座』を用いて、他者の感情のルーツを完璧に理解し、分析することはできる。だが、彼女はその感情に共感し、自らの心を揺らすことを、探求者としての絶対的な禁忌として自らに課している。

 彼女は、指先でアンティークのデスクの縁を静かに叩きながら、僕の言葉をさらに深く、徹底的に解体し始めた。


「お主が痛感した通りじゃ。罪のルーツは、どこまでいっても純粋な『罪』に過ぎぬ。そこに文学的な悲劇性や、同情すべき感傷の入り込む余地など、この物理空間には一ミリも存在せぬ」


 彼女の言葉は、反論の余地など一ミリも残さない、絶対的な真理だった。


「自らの劣等感や環境の不条理を言い訳にし、他者の命や尊厳を、自らのエゴを満たすための単なる偽装工作の道具として消費した時点で、その者は知的生命体としての演算を完全に放棄した、ただの致命的なバグに過ぎぬ。……世の中には、あの男と同じように日陰の泥水をすすり、誰にも評価されずとも、決して他者を害することなく、己の論理と尊厳を保って生きている人間が山ほどおる」


「……はい」


「人間がどれほど悲痛な涙を流し、もっともらしい絶望を語ろうとも、その人間が他者の命を身勝手に奪ったという『物理的なルーツ』は、決して相殺されることはない。……理不尽に焼却炉へ放り込まれ、炭化した骨の欠片へと変えられた無関係な被害者たちの命の質量を思えば、あの小悪党の安っぽい涙に一瞬でも同情を寄せるということは、極めて残酷な冒涜であり、明確な論理の放棄じゃ」


 一切の共感を拒絶する、孤高の天才鑑定士の冷徹極まりない宣告。

 人間が他者に抱く優しさや同情すらも、演算能力の低下、論理の放棄と切り捨てる彼女の言葉は、一般の倫理観からすれば、あまりにも冷たく、残酷すぎるように聞こえるかもしれない。

 だが、僕には今なら痛いほどにわかっていた。

 人間の情動は、時に暴走し、狂気を生み、周囲のすべてを巻き込んで焼き尽くす恐ろしい濁流となる。その濁流の中で溺れずに、隠された真実だけを見極めるためには、如月瑠璃のように、いかなる悲痛な涙にも揺らぐことのない絶対零度の客観性という、強固な錨が必要不可欠なのだ。

 あの地獄の機関室で、僕が一瞬でも抱いてしまった甘い同情心。それがどれほど浅はかで、被害者たちへの冒涜であったかを真っ向から突きつけられた今、彼女のその『いかなる理由があろうとも、罪のルーツは罪である』という一切ブレのない冷徹な哲学こそが、この不条理で理不尽な世界において最も信用できる、たった一つの美しい物理法則のように思えた。


「他人の汚悪な情動の濁流に呑まれ、犯罪者に対して中途半端な同情や共感を寄せるなど、思考を停止した愚か者の骨頂よ。……お主も、あの男と同じように処理能力の低いポンコツに成り下がりたいのか?」


 如月さんの厳しい問いかけに、僕は両手に巻かれた包帯をそっと撫でながら、小さく、しかし明確に首を横に振った。


「……いえ。如月さんが常に言っていた『中途半端な同情は愚の骨頂』だという言葉の真意が、今回の一件で、骨の髄までわかりました。……僕は如月さんの助手ですから。事象のノイズを排除する人間が、情動のバグに呑まれてポンコツになるわけにはいきませんよ」


 僕が自戒を込めてそう答えて笑うと、如月さんは氷のような表情をわずかに緩めることもなく、ただ短く息を吐いた。


「ふん。己の立ち位置と、事象の重さを正しく自覚しているならよろしい。……お主はただ、わしが提示する真理の証明を邪魔する物理的ノイズを、その火傷だらけの無様な手で、泥臭く排除し続ければよいのじゃ」


「手厳しいですね。まあ、それが助手の仕事ですから、これからは文句は言わずに働きますよ」


 僕は残っていたポテトチップスを口に放り込み、再び気の抜けたコーラで流し込んだ。

 図書室の空間には、僕の食べているジャンクフードの安っぽくて下世話な油と化学調味料の匂いと、如月さんが淹れた気品ある最高級のダージリンの芳醇な香りが漂っている。

 それら二つの空気は、数メートルという極めて近い物理的距離を共有しながらも、決して混ざり合うことはなく、完全に見えない境界線を保ったまま、それぞれのテリトリーで独立して共存していた。

 人間の醜い情動を理解しながらも、一切の共感を拒絶し、純粋な論理と物理的観察眼のみで世界を切り裂く、孤高の天才鑑定士。

 その圧倒的な知性の光に振り回されながらも、彼女が拾いこぼす泥臭い物理的ノイズを片付け、時に自らの凡庸な感傷のバグを修正しながら歩む助手。

 決して交わることのない二本の平行線。

 だが、交わらないからこそ、お互いの存在が絶対的な定数となり、この理不尽な世界において最も強固で、奇妙なほどに居心地の良い主従関係(システム)を構築しているのだ。


 窓の外では、月見坂市の穏やかな春の風が、旧校舎のガタつく窓ガラスを小さく揺らしている。

 咲浜市のアナログな街角に潜んでいた、人間の情動が作り出した古い蒸気の事件は、如月瑠璃の論理によって完全に解体され、焼却炉の灰と共に消え去った。

 僕たちの前には再び、ありえない場所に置かれたありえないモノのルーツを探る、静かで、そして決して交わることのない不変の日常が、新たな秒針の音と共に流れ始めていた。



~如月令嬢は『蒸気の密室を誤認しない』 fin~



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