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第16巻:如月令嬢は『蒸気の密室を誤認しない』  作者: アリス・リゼル


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第5話『観測』(4)

 ガチャァンッ、と。

 極限の緊張と過熱蒸気の轟音が支配する巨大機関室のプラットフォームに、ひどく間の抜けた、しかし事件の終焉を告げる決定的な金属音が響き渡った。

 狂乱し、自暴自棄となって僕たちを近づけまいと鋼鉄の巨大なモンキーレンチを振り上げていた山崎昭一の手から、その凶器が力なく滑り落ち、五十度以上に熱された鉄格子の床に打ち付けられた音だった。


 僕が火傷の手に鞭打って由美子さんの拘束ワイヤーを解き放った直後。

 熱波の轟音を突いて、後方から猛然と駆け込んできた神宮寺巡査部長が、意識の混濁している由美子さんの身体をその逞しい背中へと一気に、そして確実に背負い上げたのだ。


「人質、確保しましたッ! 由美子さん、もう大丈夫ですよ! すぐに病院へ連れて行きますからね!」


 神宮寺巡査部長の制服は熱で焦げ、顔面は煤と火傷でひどい有様だったが、その声には、市民の命を何としても守り抜くという警察官としての絶対的な使命感が宿っていた。

 その光景を、白煙の向こう側で視認した瞬間。

 山崎昭一という男の内に渦巻いていた、世界を道連れにしてやろうという暴力的な破壊衝動は、まるで針を刺された風船のように唐突に、そして完全に霧散してしまった。

 彼が莫大な遺産を独占し、自らを日陰に追いやった山崎工業という組織そのものを合法的に支配するための、唯一にして絶対の切り札であった『山崎由美子』という存在。彼女が警察の手に渡り、物理的に自らの手から奪還されたという事実は、彼の数十年に及ぶルサンチマンと、この連続殺人という壮大な偽装工作のすべてが『完全に無に帰した』ということを意味していた。

 もはや、彼には何も残されていない。

 遺産も、権力も、兄への復讐も、そして自らの身の安全すらも。


「……あ、ああ。あははははっ」


 数千気圧の過熱蒸気が噴出し、周囲のパイプが熱膨張によって悲鳴を上げ続ける地獄の坩堝の中で。

 昭一は、完全に焦点の定まらない虚ろな目を宙に泳がせながら、突如として乾いた狂笑を漏らし始めた。


「終わった。……全部、終わったんだ。私の完璧だった計画も、私の人生も。結局、私は最後まで……何一つ、自分の思い通りにはできなかったというわけだ」


 彼はゆっくりと、まるで能芝居の演者のように大げさな動作でその場に膝をつき、そのまま鉄格子の床に力なくあぐらをかいて座り込んだ。

 頭上からは、彼自身が緊急圧力解放弁(メインバルブ)を破壊したことによって溢れ出した二百度の過熱蒸気の層が、まるで死神の純白のケープのように、じりじりとその高度を下げて迫ってきている。しかし、昭一は逃げようとするそぶりすら見せなかった。

 それどころか、彼は自ら顔を上げ、迫り来る超高熱の蒸気の天井に向かって、両手を広げてみせたのだ。


「立てッ! 山崎昭一!」


 瀬田警部補が、トレンチコートの裾を焦がしながら猛然と昭一に歩み寄り、その胸ぐらを力任せに掴み上げた。


「いい加減にしろ! 貴様のくだらねえ計画は全部終わったんだ! 早く立て、このままじゃ焼け死ぬぞ!」


 市民を巻き込んだ身勝手な連続殺人犯に対し、瀬田警部補の腹の底は煮えくり返るような怒りで満ちているはずだ。だが、それでも彼は一人の警察官だった。どれほど憎むべき外道であろうと、容疑者をこの灼熱の地獄に見捨てて焼け死なせるような真似は、彼の正義と職務が絶対に許さなかったのだ。

 しかし、昭一は瀬田警部補の強い腕力で引き上げられそうになっても、全身の力を完全に抜いて自らを『ただの重い肉の塊』と化し、その場から一歩も動こうとしなかった。五十度を超える熱波の中、酸素の薄い機関室で、抵抗する大人の男一人を無理やり引きずって運ぶことは、屈強な刑事であっても極めて困難だ。


「放せ……。もう、どうでもいいんだ」


 昭一の顔には、先ほどまでの狂気や怒りは消え失せ、代わりに、ある種の『陶酔』のような薄気味悪い笑みが浮かんでいた。


「遺産も、会社も、警察も、すべてどうでもいい。……お前たちは逃げろ。私はここから一歩も動かない。私はこの機関室の蒸気と一緒に、この街の地下深くで、跡形もなく消え去ってやる。誰の記憶にも残らず、何もかもを道連れにして、一瞬で蒸発してやるんだ。……それが、山崎工業の影として生きてきた私にふさわしい、最後の幕引きだ」


 それは、彼の肥大化したプライドが最後に編み出した、あまりにも滑稽で、しかし彼にとっては唯一の精神的逃避だった。

 自分は醜く捕まり、手錠をかけられて裁判で裁かれるような凡庸な小悪党ではない。すべてを焼き尽くす灼熱の蒸気の中で、自らの野望と共に潔く、そしてドラマチックに消滅する『悲劇の悪役(ヴィラン)』なのだと。そうやって自らの死を美化し、物語化することで、現実の圧倒的な敗北と、これから直面するであろう法的な現実から完全に目を逸らそうとしているのである。


「ふざけるなッ! 自分の罪から死んで逃げる気か!」


 瀬田警部補が怒号を飛ばし、昭一の頬を平手で力強く張り飛ばした。

 パァンッ! という乾いた音が響くが、昭一の虚ろな陶酔の笑みは崩れない。


「馬鹿野郎、早く立て! お前がここで死んだら、襲われた被害者たちはどうなる! お前には、生きて罪を償う義務があるんだ!」


 必死の説得。警察官としての熱い情動のぶつかり合い。

 だが、すでに現実から精神を乖離させてしまった昭一の耳には、瀬田警部補のその真っ当で熱い言葉は、ただの無意味なノイズとしてしか届いていなかった。彼は目を閉じ、まるで神の光でも浴びるかのように、天井から迫る致死的な熱波をうっとりと待ち構えている。

 このままでは、駄目だ。瀬田警部補が彼を無理に連れ出そうと格闘を続ければ、数秒後には降り注ぐ過熱蒸気に二人とも飲み込まれて死んでしまう。


 ――しかし。

 この空間には、人間の安っぽい感傷や、身勝手でドラマチックな自己陶酔を世界で最も嫌悪し、そして世界で最も残酷な論理によって徹底的に叩き潰す『孤高の天才』が存在していた。


「阿呆なことを言うな、愚物。そして番犬も、無駄な説得で体力を消耗するのはやめるのじゃ」


 熱波の轟音すらも一瞬にして凍りつかせるような、絶対零度の冷徹な声。

 床スレスレの姿勢を保っていた紫の着物の少女――如月瑠璃が、ゆっくりと立ち上がり、極めて無慈悲な足取りで、座り込む昭一の眼の前へと進み出た。

 彼女の着物は煤と泥で汚れきっていたが、そのアメジストの瞳だけは、人間の醜いエゴすらも物理的に解体するような、鋭利な知性の光を放っていた。


「一瞬で蒸発するじゃと? 跡形もなく消え去るじゃと? ……己の罪の重さから逃避するためだけに、物理法則すらも己の都合の良いようにねじ曲げ、三文芝居の悲劇の主人公を気取るか。本当に、どこまでも演算能力の低い、救いようのない男じゃな」


「な……にを……」


 昭一が、陶酔を邪魔されたことに苛立ち、薄く目を開ける。

 瑠璃は、そんな男の顔面を、ゴミ以下の無価値な汚物を見るような目で見下ろした。


「教えてやろう、山崎昭一。お主が今、その空っぽの脳髄の中で夢想しているような『一瞬の美しい死』など、この物理空間のどこにも存在せぬ。……お主は一瞬で蒸発などできぬ。ただひたすらに、醜く、無様に、凄絶な苦痛にのたうち回りながら生き恥を晒すだけじゃ」


 それは、警察の熱い説得とは対極にある、死刑宣告よりも残酷な『生存宣告』だった。

 瑠璃は、血と油に汚れた純白のレースの手袋の指先を立て、氷のように冷たい声で、極めて正確な熱力学の数値を突きつけ始めた。


「確かに、お主が破壊したメインバルブから噴出している過熱蒸気の中心温度は、摂氏二百度を超えておる。しかし、この巨大機関室の全体の体積──およそ二万立方メートルと、換気ダクトから逃げる熱量、そして分厚いコンクリートの壁面が吸収する熱伝導率を計算式に代入すれば……あの天井の蒸気の層が、このプラットフォームの床面付近まで完全に降下し、空間全体が人間の有機細胞を炭化させるほどの致死温度に達するまでには、まだおよそ『四分三十秒』の物理的な猶予が存在する」


「よ、四分、三十秒……?」


 昭一の顔から、陶酔の笑みがスッと消え去り、代わりに明確な困惑の色が浮かんだ。


「そうじゃ。つまり、お主が今ここで両手を広げて座り込んでいたとしても、映画のように一瞬で骨まで灰になることなど絶対にあり得ぬ。……これからお主の肉体に起こる物理現象を、順を追って正確に予測してやろう」


 瑠璃の言葉は、いかなる拷問器具よりも鋭利なメスとなって、昭一の精神の最も脆い部分を的確に解剖していく。


「まず、下降してきた数十度から百度前後の高熱の気流が、お主の露出した顔面と気道を襲う。その瞬間、お主の眼球を覆う角膜のタンパク質が熱変性を起こして白濁し、お主の視力は完全に奪われる。外界の光を永遠に失うのじゃ」


「ひっ……!」


「次に、熱湯のようになった空気を肺に吸い込むことで、気管支から肺胞に至るまでの粘膜組織がすべてズルズルに焼け爛れる。呼吸をするたびに、自身の血と肺水腫による体液で肺が満たされ、陸に上がりながら溺れるような凄絶な激痛と窒息感に襲われる。だが、まだ死ねぬ。脳への酸素供給が絶たれるまでの数分間、お主の意識は完全に覚醒したまま、その地獄の苦痛を正確にモニタリングし続けるのじゃ」


「や、やめろ……」


 昭一の身体が、ガタガタと震え始めた。彼が夢想していた『一瞬の死』という美しい幻想が、如月瑠璃の容赦なき医学的・物理学的な解説によって、あまりにも凄惨で生々しい『圧倒的な苦痛の持続』という現実へと書き換えられていく。


「視力を失い、呼吸器を焼かれたお主は、そのあまりの激痛に耐えきれず、もはや悲劇の主人公を気取る余裕など一ミリも残されておらぬことに気づくじゃろう。お主は必ず、その鉄格子の床をのたうち回り、鼻水と涎と血の入り混じった体液を撒き散らしながら、カエルのように無様に泣き叫ぶ。……『熱い、助けてくれ、死にたくない』とな」


 瑠璃のアメジストの瞳が、完全に怯えきった昭一の瞳を真っ直ぐに射抜く。


「皮膚の表面組織(エピデルミス)が熱によって完全に壊死し、剥がれ落ち、真皮の痛覚神経が直接空気に触れる地獄の苦しみ。それを四分間、数百秒という、永遠とも思える主観時間の中で味わい尽くすのじゃ。……それが、お主が自ら選んだ『ドラマチックな死』の、極めてリアルで物理的な結末じゃよ」


「あ、あああ……嫌だ……嫌だァァッ!」


 昭一の口から、もはや言葉にならない凄惨な悲鳴が漏れた。

 彼の脳裏に、瑠璃の言葉によって完全に映像化された『自らの無様な死に様』が、あまりにも鮮明にフラッシュバックしたのだ。

 彼は一瞬の痛みのない死を望んでいた。自分は特別であり、最後まで美しく消え去ることができると信じていた。だが、如月瑠璃という絶対的な論理の神は、そのちっぽけな自己陶酔の逃げ道を、熱力学と生理学という反論不可能な事実によって、完全に、そして無残に塞ぎ切ったのである。

 死ぬのが怖い。痛いのが怖い。

 咲浜市を震え上がらせ、五十路を過ぎた凶悪な連続殺人鬼の正体は、死の恐怖に直面して子供のように泣き喚く、ただの矮小で哀れな一人の人間に過ぎなかった。


「お主の執着はひどく歪み、反吐が出るほどの腐臭を放っておるがな」


 完全に心を折られ、床に這いつくばってガタガタと震える昭一を見下ろし、瑠璃は最終的な宣告を下した。


「残念ながら、お主がその醜悪な罪のルーツを背負って生きる時間は、まだこの物理空間に数分間だけ残されておる。……ここで無様に焼け死ぬことは許さぬ。お主は生きて外界へ戻り、己の犯した罪の重さに潰されながら、人間の作った『法の裁き』という無価値なシステムの元で、一生檻の中で生き恥を晒し続けるのじゃ」


 それは、死という最も安易な逃げ道を許容しない、生きて罪を償うことの強制だった。

 瑠璃には、彼を許す気も、哀れむ気も一ミリもない。ただ、事象のルーツを解き明かした以上、その原因を作った犯人が、責任という物理的な質量を背負うことなく安易に消滅することなど、彼女の美学が許さなかっただけなのだ。

 だが、その一切の情動を排した論理の刃こそが、警察の熱い説得すら届かなかった一人の大罪人の心を完全にへし折り、死の淵から現実の世界へと強制的に引き戻す結果となったのである。


「た、助けて……熱い、死にたくない……助けてくれぇぇっ!」


 もはや完全に自我が崩壊し、ただ生き延びることだけを本能で求める獣のように泣き叫ぶ昭一。彼は先ほどまでのプライドなど完全に投げ捨て、這いつくばりながら少しでも熱波から遠い方向へと、みっともなく逃げようと手足をバタつかせた。


「よく言った。その無様な言葉を、法廷でも繰り返すんだな」


 瀬田警部補が、深く息を吐き出しながら、這い逃げようとする昭一の腕をガッチリと掴み上げた。

 もはや昭一に抵抗する意志も力も残されていない。瀬田警部補は、昭一の腕を背中に強引に捻り上げると、その手首に冷たい銀色の手錠をガシャンッ! と叩き込んだ。

 カチリ、と。

 手錠の歯車が噛み合う小さな金属音が、機関室の轟音の中で、確かな事件解決のピリオドとして響き渡った。


「神宮寺! 人質をしっかり背負え! 全員でここから脱出するぞ!」


「はいッ! 朔くんも、遅れないようについてきてください!」


 由美子さんを背負った神宮寺巡査部長が立ち上がり、瀬田警部補が泣き喚く昭一の胸ぐらを掴んで強引に引きずり起こす。

 僕も、火傷の痛みに悲鳴を上げる両足の筋肉に、無理やり気合いを入れて立ち上がった。

 助けを必要とする人質は、頼もしい警察官の背中にいる。僕が背負うべき物理的な重圧はもうない。

 如月さんが、事象のルーツをすべて解明してくれた。物理的なからくりも、醜い動機も、すべてが白日の下に晒された。あとは、この真理の証明を外界に持ち帰るだけなのだ。助手の役目は、名探偵が指し示した道を、最後まで泥臭く、しかし身軽に歩き通すことだ。


「如月さん! 出口へ!」


 僕が叫ぶと、瑠璃は血と油に汚れた純白の手袋で袴の裾を優雅に持ち上げ、コクリと小さく頷いた。


「ついて来るのじゃ、番犬ども、そしてサクタロウ。空間の気流は秒単位で悪化しておる。わしの歩いた座標から一センチでも外れれば、その無能な身体は一瞬で炭化するぞ」


 ゴアァァァァァァァァァッ!!


 僕たちがプラットフォームを駆け下りようとしたその瞬間、巨大機関室のメインボイラーが、ついには限界点を超えたような、恐ろしい断末魔の咆哮を上げた。

 破壊されたメインバルブからだけでなく、周囲の無数の配管の継ぎ目が次々と破裂し、高圧蒸気が機関室のありとあらゆる方向から狂ったように噴出し始めたのだ。空間の温度が、一気に百度の大台を突破しようとしている。

 もはや、安全な熱力学的なルートなど存在しない。空間全体が、完全なる致死領域へと変貌するまでのカウントダウンが、最終段階に入っていた。


「走れェェェェッ!!」


 瀬田警部補の絶叫と共に、僕たちは狂乱の機関室を後にした。

 先頭を走るのは、過熱蒸気の気流をコンマ数秒で演算し、最も温度の低い一筋の獣道(ルート)を正確に見切りながら駆け抜ける紫の着物の少女、如月瑠璃。

 その後ろを、由美子さんを背負った神宮寺巡査部長と、泣き喚く昭一を引きずる瀬田警部補。

 そして最後尾を、彼らをサポートするように僕が走る。

 四方八方から噴き出す二百度の蒸気の柱を間一髪で躱し、熱膨張でひしゃげた鉄のパイプを飛び越え、僕たちはただひたすらに、数十メートル先にある、重厚な鋼鉄の扉――外界への唯一の脱出口を目指して、無我夢中で駆け続けた。

 靴底が熱で溶けかけ、吸い込む空気が肺を焼き、意識が何度も遠のきそうになる。

 だが、僕たちの前には、常に一切のブレもなく、冷徹な物理法則の支配者として空間を切り裂く、孤高の天才の背中があった。その小さな背中だけが、僕たちを現世へと繋ぐ唯一の道標だった。


「扉だ! 扉が見えたぞ!」


 神宮寺巡査部長の枯れた叫び声。

 白煙の向こう側に、僕たちが突入の際に開け放った、あの赤錆びた分厚い鋼鉄の扉の輪郭が浮かび上がった。

 あと少し。あと十メートル。五メートル。

 しかし、僕たちがその扉に手を掛けようとした、まさにその時。

 背後の巨大なメインボイラーの炉心が、ついに完全なる臨界点に達し、膨大な光と熱を伴った大爆発を起こそうと、その巨大な鉄の腹を不気味に膨張させ始めたのである。

 論理の戦いは終わった。だが、物理空間の崩壊という圧倒的な暴力が、僕たちの背後にピタリと張り付いていた。



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