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第16巻:如月令嬢は『蒸気の密室を誤認しない』  作者: アリス・リゼル


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第5話『観測』(3)

 ゴオォォォォォォッ!!


 僕が由美子さんの身体をパイプ椅子から力任せに引きずり下ろした直後、彼女の頭部があった数十センチ上空の空間を、二百度の過熱蒸気の層が暴力的なうねりを上げて通過していった。

 もし僕のフックを外す作業がもう一秒でも遅れていれば、あるいは彼女を床に引き倒す腕力がほんの少しでも弱ければ。由美子さんの顔面は高熱の気体によって一瞬にして煮沸され、原型を留めないほどに焼け爛れていたはずだ。パイプ椅子の背もたれに塗られていた古い緑色のペンキが、蒸気の熱線に触れた瞬間にジュワッと音を立てて沸騰し、刺激臭を放つ有毒なガスとなって気化していく様が、その恐るべき熱力学の威力を何よりも雄弁に物語っていた。

 僕たちは今、鉄格子の床からわずか数十センチという、極めて限定された『生存可能な空間の薄皮』一枚の中に這いつくばることで、辛うじて命を繋いでいるに過ぎない。


「はぁっ、はぁっ、はぁっ……! 由美子さん、大丈夫ですか! 息、できますか!」


 僕は、火傷で水ぶくれが破れ、ハンカチ越しに赤黒い血を滲ませた両手で由美子さんの肩を抱きかかえ、耳元で必死に叫んだ。

 だが、事態は僕が安堵の息を吐くことなど一ミリも許してはくれなかった。

 メインワイヤーのフックを外し、彼女を床に引きずり下ろすことには成功したものの、彼女の胴体や両腕、両足には、まだ何重にも複雑に巻き付けられた鋼鉄の細いワイヤーが食い込んだままになっている。これをすべて解き、彼女を自力で歩ける状態――少なくとも僕が背負って走れる状態――にまで回復させなければ、この巨大機関室の扉の向こうへと脱出することなど到底不可能だ。

 僕は急いでその細いワイヤーの結び目に手を掛けようとした。しかし、その瞬間である。


「ひっ……! 嫌ァァァァァァァッ!!」


 由美子さんの渇ききった喉から、空気が引き裂かれるような凄惨な悲鳴が上がった。

 二週間に及ぶ灼熱の地下空間での監禁。ろくに水も与えられず、睡眠を奪われ、遺産譲渡の書類に署名させるための執拗な拷問。そして今、狂乱した叔父によって引き起こされた、空間そのものが崩壊するような圧倒的な爆音と、肌を直接焼く二百度の過熱蒸気の恐怖。

 それらすべての極限のストレスが、彼女の精神の許容量(キャパシティ)を完全にオーバーフローさせたのだ。気を失っていた彼女は、僕に引き倒された衝撃と痛覚によって中途半端に意識を覚醒させてしまい、現状の絶望的な状況を『理解』するよりも先に、生存本能によるパニック状態へと完全に陥ってしまったのである。


「嫌ぁっ! 来ないで! 殺さないでぇぇぇっ!」


「由美子さん! 落ち着いて! 助けに来たんです! 警察もいます!」


「ああっ、ああっ、熱い、熱いっ! 嫌ァァッ!」


 由美子さんは、僕の言葉など全く耳に入っていないかのように、縛られたままの身体をエビのように激しく反らせ、鉄格子の床の上で滅茶苦茶に暴れ始めた。

 衰弱しきっているはずなのに、人間が死の恐怖に直面した時に発揮する火事場の馬鹿力は凄まじかった。彼女の抵抗は、ただの暴れ方ではない。無意識のうちに、迫り来る熱波から少しでも逃れようと、這いつくばった姿勢から起き上がろうとしてしまうのだ。


「駄目です! 起き上がっちゃ駄目だ! 上は二百度の蒸気だ、顔が焼かれますよ!!」


 僕は慌てて彼女の肩を上から力任せに押さえつけた。もし彼女がここで立ち上がってしまえば、その瞬間に上層を覆う過熱蒸気の層に頭部を突っ込むことになり、即死してしまう。

 しかし、極限のパニック状態にある人間を、火傷で満足に力が入らない僕の両手だけで完全に押さえつけ、さらに複雑に絡み合った高温のワイヤーを解くことなど、物理的に不可能だった。


「げほっ、ごほぉぉぉっ! ひゅーっ、ひゅーっ……!」


 暴れる由美子さんの呼吸が、瞬く間に異常なリズムへと変貌していく。

 過呼吸だ。極度の恐怖とパニックによって自律神経が完全に暴走し、酸素を取り込もうと浅く速い呼吸を繰り返すあまり、逆に血中の二酸化炭素濃度が急低下し、手足の痙攣や意識の混濁を引き起こす危険な状態。

 ただでさえ機関室内の酸素濃度は下がり、有毒なガスや油の焼ける匂いが充満している。このまま過呼吸が続けば、彼女はワイヤーを解く前にショック死するか、あるいは暴れて蒸気の層に顔を突っ込んで死ぬかの二択しかない。

 僕の全身から、熱波とは全く質の違う、氷のように冷たい絶望の汗が噴き出した。


「どうしよう……! 落ち着いてください、お願いだから暴れないで! このままじゃ拘束が解けない!」


 僕が悲痛な声で叫んだ、まさにその時だった。


「サクタロウ、退いておれ。お主のその無能な対処療法では、事象の悪化を招くだけじゃ」


 熱波の轟音を切り裂くように、絶対零度の冷徹な声が僕の耳元に落ちた。

 振り返ると、そこには床に這いつくばる極端な前傾姿勢のまま、滑るように僕たちの真横へと移動してきた、紫の矢絣の着物の少女――如月瑠璃の姿があった。

 彼女の着物は煤と油で汚れ、誇り高き純白のレースの手袋は僕の血で赤黒く染まっている。しかし、そのボロボロの肉体とは対照的に、彼女のアメジストの瞳だけは、この絶望的な状況下にあっても、一切の感情や恐怖の揺らぎを見せず、ただ眼の前で痙攣し暴れる由美子さんを、極めて客観的な『故障した物体』を見るような冷酷な視線で観測していた。


「き、如月さん! でも、由美子さんがパニックを起こして、これ以上ワイヤーが……!」


「黙れ。対象物の過度なノイズは、わしの観測と解体の邪魔じゃ。……お主は少し黙って、そこでわしの調律を見ておれ」


 如月さんは、僕の制止を冷たく遮ると、這いつくばった姿勢のまま、暴れる由美子さんの顔のすぐ横――耳元数センチの距離にまで、自身の顔を近づけた。

 人間が極限の恐怖と痛みによって引き起こすパニック。それは、一般的な人間から見れば『可哀想な被害者の悲痛な叫び』であり、なんとかして励まし、安心させなければならない情動の表露である。

 しかし、純粋な論理と物理法則のみを愛する孤高の天才鑑定士・如月瑠璃の脳髄においては、その認識は全く異なっていた。彼女の持つ『情動の視座』からすれば、由美子さんのパニックは『極度のストレス信号が脳の扁桃体を過剰に刺激し、自律神経系にエラーを引き起こして発生した、ただの不規則な物理的出力(バグ)』に過ぎなかった。

 バグを起こして暴走している機械を直すために必要なのは、同情や慰めの言葉などではない。

 暴走するエラー信号を完全に上書きし、強制的に初期化するための、より強力で、より正確な『絶対的な一定の周波数』を入力することだ。


 如月さんは、赤黒く汚れたレースの手袋をはめた右手を、静かに自身の帯の間へと差し込んだ。

 そして、その大正ロマンの美しい帯の中から、一つの小さな物体を取り出した。

 それは、周囲の機関室の油と煤にまみれた汚悪な空間とは完全に異質な、曇り一つない純銀製の『懐中時計』だった。

 彼女が常に持ち歩き、複雑な事象のルーツを解き明かすための演算を開始する際、自らの脳髄にこびりついた不要な情動のノイズを完全にシャットアウトし、思考の波長を極限まで研ぎ澄ますために使用する、彼女にとっての神聖な『調律』の道具。

 それを今、彼女は自分自身のためではなく、眼の前で暴走している他者の精神というバグを強制終了させるための、物理的なデバイスとして使用しようとしていたのである。


「聴くのじゃ、山崎由美子」


 如月瑠璃の、一切の感情を含まない、氷のように冷たく、しかし恐ろしいほどの絶対的な命令の響きを持った声が、由美子さんの耳元に落とされた。

 由美子さんが恐怖に目を剥き、再び悲鳴を上げようとしたその瞬間。

 カチッ。

 如月さんは、由美子さんの耳の穴からわずか数センチという至近距離で、純銀製の懐中時計の蓋を弾き開けた。


チク、タク、チク、タク、チク、タク。


 機関室を支配する、数千気圧の過熱蒸気が噴出する爆発的な轟音。鉄のパイプが熱膨張によって歪み、悲鳴を上げる金属音。そして、数メートル先で狂乱した昭一がモンキーレンチで鉄格子を叩き壊している破壊音。

 この空間は、ありとあらゆる不規則で暴力的な低周波の騒音に満ち溢れていた。

 しかし、不思議なことに。如月さんの手の中にある純銀製の懐中時計が刻む、その極めて微小な秒針の駆動音だけが、高周波の澄み切った音色となって、すべての騒音を切り裂くようにして、はっきりと僕の鼓膜に――そして、由美子さんの鼓膜に到達してきたのだ。

 銀という金属が持つ特殊な音響特性と、如月瑠璃の計算し尽くされた空間配置──アコースティック・ポジショニング──。彼女は、周囲の轟音が最も相殺される音の死角を正確に見極め、由美子さんの聴覚神経へと直接、秒針の音を『物理的振動』として撃ち込んでいたのである。


「ひっ、あ……ぁ……?」


 突然、耳元で響き始めた規則正しい金属音に、由美子さんの暴れていた身体がビクッと硬直した。


「お主の脳髄を支配している恐怖など、ただの不確かな生化学的反応に過ぎぬ。そのような無価値なエラー信号に振り回され、自ら命を縮めるなど愚の骨頂じゃ」


 如月さんは、懐中時計の盤面を由美子さんの瞳の前に固定し、その冷徹なアメジストの瞳で、パニックに陥った対象の精神の奥底を真っ直ぐに射抜いた。


「生存したいのであれば、今すぐお主のその乱れきった浅はかな呼吸を、この秒針が刻む物理的なリズムと強制的に同調させよ。……他のノイズは一切、認識する必要はない」


 チク、タク、チク、タク。


 一秒に一回、寸分の狂いもなく刻まれる機械式の時計の音。

 そして、『呼吸をしろ』『落ち着け』といった情動的な慰めではなく、『物理的な振動に脳髄を同調させよ』という、如月瑠璃の絶対零度の一定したトーンの音声。

 それらは、極限のパニック状態にあって処理能力がオーバーフローしていた由美子さんの脳にとって、唯一の『明瞭で単純な外部入力(ガイド)』として機能し始めた。

 催眠術や魔法といったオカルトの類ではない。これは、一定のリズムを外部から強制的に与え続けることで、対象者の自律神経や脳波の周波数をそのリズムに引っ張って同調させるという、極めて科学的で生理学的な『引き込み現象(エントレインメント)』の純粋な応用だった。


「ひゅーっ……はぁっ……ひゅーっ……」


 由美子さんの過呼吸が、秒針の音に合わせるように、徐々に、しかし確実にその速度を落とし始めていく。


「そうだ。もっと深く、この音の周期に合わせて酸素を肺の底まで送り込むのじゃ。お主の心拍数という変数を、この時計の定数で上書きしろ」


 如月さんの声には、同情や優しさは微塵も含まれていない。ただの作業工程を指示する機械のような冷たさだ。しかし、その絶対的に揺るぎない冷徹さこそが、今の由美子さんにとっては、溺れている人間にとっての強固な浮き輪となっていた。


 チク、タク、チク、タク。


 およそ三十秒後。

 先ほどまでエビのように身体を反らせ、悲鳴を上げて暴れ狂っていた由美子さんの肉体から、不自然な強張りがスッと抜け落ちた。

 彼女の目は虚ろに開かれたままではあったが、その呼吸は完全に秒針のテンポと一致した、深く、静かなものへと移行していた。過呼吸による死の危険は完全に去り、パニックという脳内のエラー状態は、如月瑠璃の持ち込んだ『物理的な定数』によって完全に強制終了させられたのである。


「……バグの修正は完了した。サクタロウ、作業を再開せよ」


 如月さんは、由美子さんが大人しくなったことを確認すると、懐中時計の蓋をパチンと冷たく閉じて帯にしまい、何事もなかったかのように僕に指示を出した。彼女にとって、命の危機に瀕した人間を救ったという感慨など一切ない。ただ『自分の推理の邪魔になるうるさいノイズを消した』という、事務的な結果処理でしかなかった。


「は、はいッ!」


 僕は、如月さんの作り出してくれたその完璧な静寂を無駄にするわけにはいかなかった。

 由美子さんが暴れなくなったことで、複雑に絡み合っていた細いワイヤーの結び目や、テンションが掛かっていた部分が明確に視認できるようになった。

 僕は、火傷の激痛で感覚が麻痺し始めている両手を使い、血を滲ませながらも、彼女の胴体や両腕に食い込んでいた鋼鉄のワイヤーを、次々と、そして素早く解いていった。五十度を超える熱された鉄格子の上で、指先の皮膚が削れ、爪の間から血が流れるのも構わなかった。

 ガチャリ、と。

 最後に両足首を拘束していたワイヤーを外し終えた瞬間、由美子さんの身体はパイプ椅子から完全に解放され、自由の身となった。


「解けました! 完全に拘束を解きました!」


 僕はぜぇぜぇと肩で息をしながら、由美子さんの肩を抱き起こした。彼女はまだ朦朧としてはいたが、暴れることはなく、僕の腕の中で静かに呼吸を繰り返している。

 僕は、泥だらけの着物姿で床に這いつくばったままの如月さんに向かって、深い安堵と畏敬の念を込めて言った。


「如月さん……ありがとうございます。あなたがパニックを止めてくれなかったら、由美子さんは本当に……」


「勘違いをするな、サクタロウ」


 僕の感謝の言葉を、如月さんはピシャリと、そして極めて冷酷に遮った。


「わしは、この女を救済するために時計を取り出したわけではない。この女が発する過度な悲鳴や、無秩序に暴れる力学的なノイズが、わしの思考と観測の邪魔になったから、ただ物理的に黙らせただけじゃ」


 彼女は、血と油にまみれた手袋の先で、熱気に揺らぐ白煙の向こう側――未だに狂乱してレンチを振り回している昭一の方を、アメジストの瞳で氷のように睨みつけた。


「他人の情動に共感し、それに振り回されるなど愚の骨頂。……他者を救うことなど、わしが事象のルーツを解き明かし、ノイズを排除する過程で生じる、ただの『副産物』に過ぎぬよ」


 それが、孤高の天才鑑定士・如月瑠璃の絶対に揺らぐことのない美学であり、真理だった。

 彼女は魔法使いでもなければ、正義の味方でもない。ただ、世界の物理法則と論理を純粋に愛し、そこに介在するバグ──犯罪やパニック──を容赦なく切り捨てるだけの存在。

 だが、その冷徹極まりない論理の刃が、結果として、絶体絶命の危機にあった一人の女性の命を、最も確実な物理的手段によって繋ぎ止めたのである。


「……ッ、はい。わかってます、如月さん」


 僕は、火傷の痛む手で由美子さんの身体をしっかりと背負い込むように抱え上げながら、短く頷いた。

 パニックの鎮静化という最大の障害はクリアした。由美子さんの拘束もすべて解き放った。

 残るは、この完全に崩壊し、限界を超えて温度を上げ続けている灼熱の巨大機関室から、狂乱する犯人の死の結界を突破して、外部への鋼鉄の扉へと生還するだけだ。

 だが、事態は僕たちが背中を向け、逃げ去ることすら容易には許してくれなかった。

 由美子さんが解放されたことを、白煙の向こう側で暴れ狂っていた山崎昭一が、その血走った眼球で完全に視認してしまったのである。



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