第5話『観測』(2)
六十度、七十度、八十度――。
体感温度などという生易しい表現が許される次元は、とうの昔に過ぎ去っていた。狂乱した山崎昭一の手によって緊急圧力解放弁が物理的に破壊された巨大機関室は、秒単位で異常な速度で温度を跳ね上げ、完全なる熱力学的な『処刑室』へと変貌を遂げていた。
数千気圧という途方もない圧力から解放された二百度の過熱蒸気は、すさまじい轟音と共に機関室のコンクリートの天井に激突し、そこから濃密な白煙となって下方へ、下方へと、空間の体積を暴力的に押し潰すように層を成して広がってくる。
超高熱の気体は、空気より軽く上部に滞留する。つまり、立ったままでいれば一瞬にして気道を焼かれ、肺胞を直接煮沸されて即死する環境だ。
僕は火傷の水ぶくれが破れた激痛に耐えながら、プラットフォームの鉄格子の床に完全に這いつくばった。五十度以上に熱された鉄の格子が服越しに皮膚を焼くが、それでも少しでも温度の低い床面付近のわずかな空気を求め、泥水をすする虫のように喘ぐしかない。
だが、僕のすぐ前方――プラットフォームの中央で、太い鋼鉄のワイヤーでパイプ椅子にぐるぐる巻きに縛り付けられている由美子さんは、椅子に座らされている分、僕よりも高い位置に頭部がある。
天井から降り注ぐ致死的な蒸気の層が、彼女の顔面を完全に飲み込むまで、残された猶予は数十秒もないだろう。
「由美子さんッ……!」
僕は喉の奥を焼き焦がしながら叫び、這いずって進もうとした。だが、その頭上では、完全に理性のタガが外れた昭一が、鋼鉄の巨大なモンキーレンチを滅茶苦茶に振り回し、パイプや鉄格子を力任せに叩き壊している。オレンジ色の火花と、鼓膜を劈く金属の悲鳴。それは、僕たちを寄せ付けないための、狂人による見えない死の結界だった。
助手がこの物理的ノイズを排除できなければ、由美子さんは死ぬ。僕たちも死ぬ。
絶望的なタイムリミットが刻一刻と迫り、僕が顔を歪めた、まさにその刹那である。
僕の目の前を覆っていた、暴力的なまでに濃密な白い蒸気の壁の下層部が。
まるで、目に見えない鋭利な刃が空間そのものを水平に切り裂いたかのように、不自然な形でスッと左右に割れたのだ。
「サクタロウ。地を這う虫のように蹲り、無様に酸素を浪費するのはやめるのじゃ。ここはまだ、お主が死を受け入れるべき終着点ではない」
地獄のような轟音の底を這うように、氷のように澄み切った声が響いた。
信じられない思いで目を向けると、そこには――僕と同じように、鉄格子の床に這いつくばるような極端な前傾姿勢のまま、滑るようにプラットフォームの結界内へと侵入してくる、紫の矢絣の着物の少女の姿があった。
孤高の天才鑑定士、如月瑠璃だった。
過熱蒸気の中から這い出てきた彼女の姿は、決して普段のような無傷で優雅なものではなかった。先ほどまで僕と共に死線を潜り抜け、灼熱の地下通路を這いずり回ってきたのだ。大正ロマンの美しい着物は、地下の煤と防錆油で無残に汚れ、あちこちに真っ黒な染みがこびりついている。常に汚れを嫌う彼女が誇りとしていた純白のレースの手袋には、高圧バルブを閉じた際に火傷をした『僕の血』が、赤黒くべったりと染み込んでいた。
額には滝のような汗が滲み、過熱蒸気から逃れるために、文字通り泥を這うような不格好な姿勢を強いられている。彼女の華奢な肉体が、すでに限界に近い過酷な状況にあることは誰の目にも明らかだった。
だが――それにもかかわらず。
彼女の深く澄んだアメジストの瞳だけは、一切の恐怖も乱れもなく、氷点下の論理を保ったまま、この極限空間の熱分布を正確に演算し続けていたのだ。
魔法ではない。如月瑠璃という天才の脳髄は、昭一がバルブを破壊したその瞬間に、この巨大機関室の容積、主蒸気パイプから噴出する気体の膨張率、そして室内の気圧差によって生じる『複雑な対流のベクトル』を、コンマ数秒で計算し尽くしていた。彼女は自らの卓越した物理的観察眼を用いて、床面スレスレにわずかに残された温度の低い気流の『死角』だけを正確に見切り、火傷一つ負うことなくこの中心部へと到達したのである。
「き、如月さん……! 駄目です、危ないッ!」
僕の叫び声で、狂乱状態の昭一が、這うように近づいてくる小柄な少女の姿を視認した。
「死ねェェェェッ!!」
昭一が獣のように咆哮し、両手で握りしめた巨大な鋼鉄のレンチを、床スレスレに身を低くしている瑠璃の頭蓋骨に向けて、全体重を乗せて全力で振り下ろしてくる。
ブォォォンッ!!
重い質量を持った鋼鉄が空気を切り裂く。
しかし、瑠璃は避けるそぶりすら見せなかった。恐怖に顔を歪めることもなく、彼女は床スレスレの極端な前傾姿勢のまま、ピタリと動きを止めた。
ガァァァァァンッ!!
昭一の振り下ろした凶器は、瑠璃の鼻先わずか数センチの空間を通過し、鉄格子の床を無残に叩き割ってオレンジ色の激しい火花を散らした。鋼鉄の質量が生み出した衝撃波が、煤に汚れた着物の裾を激しく揺らす。
偶然ではない。彼女は昭一の筋肉の収縮具合、腕の長さと凶器のリーチ、そして過熱蒸気による空気抵抗までをも瞬時に逆算し、『絶対に自分の身体には到達しない境界線』をミリ単位の精度で見切っていたのだ。
「野蛮で、不格好で、非効率の極みじゃな」
瑠璃は、鼻先で火花を散らすレンチを一瞥すらせず、這い蹲った泥臭い姿勢のまま、氷のように冷酷な視線を昭一に向けた。
「その大振りな運動力学では、わしの演算座標には一ミリも干渉できぬ。……サクタロウ、今じゃ! ワイヤーのフックを外せ!」
主からの鋭い命令。
昭一が全体重を乗せてレンチを振り下ろした反動で大きく体勢を崩した、その数秒の死角。
僕は痛みに悲鳴を上げる筋肉に鞭を打ち、最後の力を振り絞って這い進み、由美子さんの座るパイプ椅子の足元にすがりついた。彼女を縛り上げている太い鋼鉄のワイヤーは、周囲の熱を吸ってすでに素手では触れないほどの高温になっている。
僕は火傷でズルズルになった両手に無理やりハンカチを巻きつけ、拘束の要となっているメインフックを力任せに掴んだ。
「お主の魂の奥底で数十年間腐臭を放っていたそのドロドロとした『情動のルーツ』、しかと観測させてもらったぞ」
背後で、瑠璃が昭一の意識を完全に自分へと縫い留めるため、言葉の刃を的確に急所へと突き立てる。
「優秀な兄の影で泥水をすすってきたというルサンチマン。それが、遺言書のフェイルセーフという引き金によって暴発した。お主が姪を監禁し、無関係な市民を殺害して連続殺人鬼を演じた凄惨な偽装工作のルーツは……悪魔への信仰でも、猟奇的な美学でもない。ただの、お主自身のあまりにも惨めな承認欲求と劣等感の裏返しじゃ」
残り時間、十数秒。
天井から降り注ぐ二百度の過熱蒸気の層が、もう由美子さんの頭の数センチ上にまで迫っている。彼女は熱さと恐怖で声も出せず、ただヒューヒューと喉を鳴らして痙攣していた。
「くそっ、外れろッ! 動けッ!」
僕は奥歯を噛み砕くほどの力で、高熱のワイヤーを引き剥がそうと格闘する。
「そ、そうだ……!」
僕の頭上で、昭一の顔が泣き笑いのように醜く歪んだ。
誰も評価してくれなかった自分の数十年の絶望を、目の前の少女が寸分違わず完璧に『理解』し、言語化してくれた。その事実が、狂乱していた彼の精神に、すがりつくような哀れな光を宿させたのだ。
「お前には……お前にはわかるのか! 誰も私を見なかった! 誰も私を褒めてくれなかった! 私がこの会社で、どれだけの泥水を飲んで、裏の汚れ仕事をしてきたか! だから私は……こうするしかなかったんだ! 会社を私の手で握るための手段が、これしかなかった! 私のこの絶望が……苦しみが、お前にはわかるだろう!?」
彼は、自らの罪を正当化し、誰かに許しを乞うような、あまりにも悲痛な魂の叫びを、地を這う小柄な少女に向かって叩きつけた。
僕でさえ、その血を吐くような涙声を聞いて、胸の奥がチクリと締め付けられるような、ある種の同情を覚えた。彼もまた、歪んだ社会と優秀な兄の被害者だったのかもしれない、と。
――だが。
孤高の天才鑑定士は、その大の男の悲痛な涙を見ても、美しい顔の筋肉をピクリとも動かさなかった。
血と油に汚れた彼女の肉体とは対照的に、そのアメジストの瞳には、同情も、哀れみも、共感の光も、ただの一ミリも存在していなかった。あるのは、観察用のシャーレの上で身悶えしながら死んでいく無価値な微生物を見下ろすような、絶対零度の冷徹さだけである。
「勘違いをするな、愚物」
機関室を支配する暴力的な熱波すらも一瞬にして凍りつかせるような、絶対零度の声。
「わしは、お主の感情の構造を完璧に『観測』し、分析したと言ったのじゃ。……お主の下らない境遇に、『共感』したなどとは一言も言っておらぬ」
「な……っ?」
昭一の顔が、絶望と混乱に引きつる。
「劣等感? 嫉妬? 承認欲求? その程度の感情のノイズなど、この世界のどこにでも転がっておるわ。人間の歴史が始まって以来、誰もが抱え、誰もがその処理に苦しみながら生きている、安っぽく大量生産された極めて凡庸なノイズにすぎぬ。お主の絶望など、特別でもなんでもない。ただのありふれた不良品の思考回路じゃ」
「ふ、ふざけるな……!」
必死にすがりつこうと差し出した手を、最も残酷な論理で冷酷に切り落とされた昭一は、再び顔面を怒りでどす黒く染め上げた。
「わかってたまるかッ! どこから湧いてきたかもわからないガキ共に! 底辺を這いずり回ってきた私の絶望が! 人生の痛みが! わかってたまるかァァァッ!!」
彼は血の涙を流さんばかりの形相で絶叫し、再びモンキーレンチを高く振り上げた。自分を理解しないこの理不尽な世界そのものを、目の前の傲慢な少女ごと叩き潰すために。
ガチャァンッ!!
その瞬間、僕の指先で、ついに由美子さんを拘束していたメインワイヤーの強固なフックが外れた。
「外れました!」
「悲劇の主人公を気取るのはやめるのじゃ、山崎昭一」
僕の声と完全に同時。瑠璃が、振り下ろされようとする凶器を前にして、這い蹲った姿勢のまま最終宣告を下す。
「自らの演算能力の低さを他人のせいにし、無力な姪を拷問し、無関係な市民を殺害してまで己の欲を満たそうとした。そこにいかなる情状酌量の余地も、文学的な悲劇性も存在せぬ。……お主はただの、処理能力の低いポンコツじゃ。他人に同情を強要する価値など、一ミリもない」
完全なる、感情的なアイデンティティの否定。
彼が数十年間抱き続け、ついには連続殺人という最悪の犯罪にまで手を染める原動力となった『自分は可哀想な被害者である』という最後の拠り所は、如月瑠璃の共感なき観測によって、塵芥のように冷酷に切り捨てられた。
昭一は、振り上げたレンチを下ろすこともできず、ただ虚空を見つめることしかできなくなっていた。
「サクタロウ! 引けッ!!」
瑠璃の鋭い叫びと同時。僕は、拘束が解けた由美子さんの体を、パイプ椅子から床の鉄格子へと、力任せに引きずり下ろした。
ゴオォォォォォォッ!!
直後、二百度の過熱蒸気の白い層が、先ほどまで由美子さんの頭部があった空間を完全に飲み込み、パイプ椅子の背もたれの錆びた塗料を一瞬にして沸騰・蒸発させた。
間一髪。あと一秒遅ければ、彼女の顔面は熱線で消し飛んでいた。
物理的なタイムリミットと、冷徹な情動の解体。極限の数十秒の攻防は、這いつくばってでも論理を貫き通した鑑定士と、痛みに耐え抜いた助手の泥臭い作業によって、辛うじて最悪の結末を回避したのだった。




