第5話『観測』(1)
そこはすでに、人間という脆弱な有機体が足を踏み入れていい領域ではなかった。
狂乱した山崎昭一の血塗られた手によって、巨大なメインボイラーの最終安全装置である『緊急圧力解放弁』が物理的に破壊され、極限まで封じ込められていた数千気圧の超高圧蒸気が機関室内へと解き放たれた瞬間。この閉鎖空間を満たしていた物理法則は、完全に、そして致死的な方向へと書き換えられた。
ゴアァァァァァァァァァァァァァァッ!!
鼓膜を物理的に破らんばかりの、次元の違う爆発的な轟音。巨大な真鍮の排気口から猛烈な勢いで逆流してきた真っ白な、いや、あまりの超高熱ゆえに青白くすら発光して見える過熱蒸気の柱が、機関室の分厚いコンクリートの天井に激突し、爆発的な勢いで四方八方へと拡散していく。
僕は、背後で瀬田警部補と神宮寺巡査部長が、突如として襲いかかってきた熱波に耐えきれず、無様に床の鉄格子に這いつくばって激しく咳き込む気配を背中で感じ取った。
逃げなければならない。本能が、全細胞がそう叫んでいる。
だが、僕の視線の先――白く染まりつつあるプラットフォームの最奥には、分厚い鋼鉄のワイヤーで錆びたパイプ椅子にぐるぐる巻きに縛り付けられ、身動き一つとれない山崎由美子さんの姿があった。彼女は度重なる拷問と地下の劣悪な環境ですでに極限まで衰弱しきっており、自力で逃げることなど到底不可能だ。あのまま放置すれば、わずか数分――いや、数十秒後には、彼女の身体はプラットフォームを覆い尽くす二百度の過熱蒸気によって、生きたまま完全に『蒸し焼き』にされてしまう。
如月瑠璃の論理が暴き出した真実を、ただの机上の空論で終わらせないために。
そして、醜悪な欲望のために無関係な命がすり潰されるのを、この手で食い止めるために。
助手の役目は、いつだって泥臭い物理的なノイズの排除なのだ。
「……ッ、行ってきます!!」
僕は、大きく息を吸い込んで肺を酸素で満たすと、呼吸を完全に止め、猛烈な勢いでプラットフォームを覆い尽くし始めた純白の蒸気の渦の中へと、決死の覚悟で飛び込んだ。
踏み込んだ直後。僕の全身の神経回路が、かつて経験したことのない絶対的な『死の恐怖』を感知して、けたたましい警鐘を鳴らし始めた。
熱い、という生易しい言語で表現できる次元ではない。
二百度の過熱蒸気は、ただの高温の気体などではない。液体である水が、その体積を約千七百倍にまで爆発的に膨張させた、凄まじい運動エネルギーを持った熱力学的な『暴力』そのものだった。
蒸気の壁に衝突した瞬間、僕が着ている月見坂の指定校のブレザーやスラックスは、全く断熱材としての役割を果たさなかった。布地を容易く透過した超高熱の気体が、直接皮膚を焼き払いに来る。顔や首筋に滲んでいた脂汗、そして恐怖で浮かんだ涙といった皮膚表面のわずかな水分が、一瞬にしてジュワッと音を立てて沸騰し、気化していくのがはっきりとわかった。
たまらず息を吐き出そうと口をわずかに開けた瞬間、気道に侵入してきた空気がすでに熱湯のような温度を持っていたため、喉の奥から肺胞の末端に至るまで、太い焼き鏝を力任せに突っ込まれ、内臓から直接焼かれているかのような激烈な痛みが走る。
「がっ、ぁ、ぐぅぅッ……!」
視界は完全にゼロだった。
目を開けていれば、眼球の表面を覆う涙液すら瞬時に沸騰してしまいそうな恐怖に駆られ、僕は目を細めることしかできない。そこにあるのは、ただひたすらに濃密で、視覚情報の一切を遮断する暴力的な白煙の壁だけだ。方向感覚は一瞬にして喪失し、自分が今どこを向いて立っているのかという上下左右の概念すら、轟々と鳴り響く蒸気の噴出音と、膨張して悲鳴を上げるパイプの金属音によってズタズタに引き裂かれていく。
僕は火傷で大きな水ぶくれができ、ハンカチを不格好に巻きつけただけの両手を顔の前に突き出しながら、盲目の状態でプラットフォームの鉄格子の床を這うように進んだ。靴底の厚い編み上げブーツを履いていなければ、足の裏の肉まで五十度以上に熱せられた鉄格子でこんがりと焼かれていたに違いない。ゴムの焦げるひどい悪臭が、蒸気の匂いに混じって鼻腔を突く。
すぐそこだ。ほんの数メートル先に、由美子さんがいるはずだ。早くあの太いワイヤーの結び目を解き、彼女を引きずってでもこの灼熱の地獄から脱出しなければならない。
だが、僕の決死の突入は、白煙の奥から突き出された、もう一つの理不尽な物理的暴力によって、強制的に押し留められることとなった。
ガァァァァァァンッ!! ギィィィィンッ!!
僕の鼻先、わずか数十センチの空間で、耳をつんざくような激しい金属の衝突音が炸裂した。
反射的に身をすくめると、濃密な白い蒸気の渦を鋭く引き裂くようにして、オレンジ色の火花がバチバチと飛び散った。
それは、狂乱した昭一が手にしている、あの長さ五十センチ、重さ数キロはあろうかという巨大な鋼鉄のモンキーレンチだった。彼は、白煙の中で僕が近づいてきていることを明確な視覚で捉えて攻撃しているわけではない。
完璧だった自らの計画を足元から完全に解体され、ただの小悪党へと引きずり下ろされた彼は、すでに完全に理性のタガが外れていた。自暴自棄となり、自分を追い詰めた世界そのものを拒絶するかのように、手当たり次第に周囲の空間の真鍮パイプや手すり、そして足元の鉄格子の床を、全力で叩き壊すように滅茶苦茶に振り回しているのだ。
ブンッ! ブォォォンッ! という、重い質量を持った鋼鉄が空気を切り裂く恐ろしい風切り音が、白煙の中で死神の鎌のように何度も何度も行き交う。
僕は足がすくみ、これ以上一歩も前へ進むことができなくなった。視界が全く効かないこの過熱蒸気の中で、いつ、どの角度からあの鋼鉄の塊が飛び出してきて、自分の頭蓋骨をトマトのように叩き割るかわからないからだ。巨大なレンチが鉄格子を叩きつけるたびに発生する強烈な火花と、骨の髄まで響くような鈍い打撃音が、由美子さんが縛られている中心部を取り囲むように、絶対に越えることのできない不可視の『死の結界』を形成していたのである。
「うおおおぉぉぉぉぉぉッ!!」
そして、耳をつんざくメインボイラーの轟音と、蒸気が噴出する凄まじい排気音すらも完全に凌駕するほどの、獣のような絶叫が白煙の奥から轟いた。
山崎昭一の声だった。
それは、先ほどまで彼が必死に演じていた『異常警報を聞きつけて助けに来た善良な第一発見者』という小市民の言い訳でもなければ、連続神隠し事件の犯人として警察を震え上がらせていた『冷酷無比な猟奇殺人鬼』という怪物の威嚇でもなかった。
如月瑠璃という、わずか十六歳の小柄な少女によって、己の頭脳の結晶であった完全犯罪のシナリオを根底から解体され、物理的な不可能犯罪を『ただの非人道的な工場作業』と鼻で笑われた。さらには、隠し通したかったはずの『遺産目当て』という俗物的な動機すらも、僕によって全員の面前で完全に暴露された。
五十路を過ぎ、山崎工業の日陰者としての屈屈したプライドだけを異常に肥大化させてきた凡庸な男の脆弱な自我は、その圧倒的な屈辱と敗北感に耐えきれず、完全に崩壊し、焼き切れてしまったのだ。
その剥き出しになった魂の奥底から、彼が数十年にわたって誰の目にも触れさせず、腹の底の暗がりに溜め込み続けてきた、どす黒く、腐臭を放つような『情動のルーツ』が、ついに堰を切ったように激しく吐き出され始めたのである。
「ふざけるな……! ふざけるなふざけるなふざけるなッ!!」
ガンッ! ガァァァンッ! と、絶叫に合わせてレンチが手すりを激しく叩き潰す音が響く。
「なぜだ! なぜ、いつもいつも兄貴ばかりが評価されるッ!! 同じ親から生まれ、同じ山崎の血を引いているのに! 幼い頃から、親父の期待も、周囲の人間からの称賛も、会社の重役たちの敬意も、全部、全部あいつだけのモノだった!」
彼の悲痛な叫びには、あまりにも強烈な劣等感と、報われない人生に対するルサンチマンが、濃硫酸のようにねっとりと絡みついていた。彼にとって、優秀な兄である山崎雄一という存在は、絶対に越えられない巨大な壁であり、同時に自らの人生から光を奪い続けた憎悪の対象そのものだったのだ。
「兄貴はいつも光の当たる場所で、綺麗に仕立てられた高級なスーツを着て、涼しい顔で経営者面をしていればよかった! だが、その足元を支えていたのは誰だ!? いつも日陰で、この熱くて油臭くて息も詰まるような地下インフラの管理を押し付けられてきたのは私だ! 会社の裏で生じる面倒な権利トラブルや、ヤクザまがいの連中との裏交渉、手を汚すような汚れ仕事は、全部私が泥水をすすって片付けてきたんだぞ!! 私がこの両手を真っ黒に汚してきたからこそ、あの会社は……咲浜市のこの美しいスチームパンクの街並みは成り立っていたんだ!!」
ガァァンッ!! ギィィィィッ!!
狂乱したレンチが、由美子さんが座らされているパイプ椅子のすぐ横の鉄柱に力任せに叩きつけられ、ひときわ大きな火花が白煙をオレンジ色に染め上げた。
「私こそが、本当の意味で会社を支えてきた正当な支配者だ! それなのに、兄貴は私をただの便利な『歯車の一つ』としてしか見なかった! ……遺言書だってそうだ! 自分が死んだ後、私には一円の権利も残さず、あんな……何も知らない女にすべてを譲るだと!?」
蒸気の向こう側で、昭一の血走った眼球が由美子さんを睨みつけているのが、気配としてありありと伝わってくる。
「許せるか……! そんなこと、絶対に許されてたまるかッ! 由美子、お前は一体何をしたというんだ! 現場の苦労も、インフラの熱気も、裏の泥水も一滴も飲んだことがない分際で! ただ兄貴の娘という血筋に生まれたというだけの理由で、私が人生を削って、血反吐を吐いて守ってきた会社のすべてを横取りするのか! ふざけるな、お前なんかに渡してなるものか! だから私は……私はッ!! お前さえいなくなれば!!」
昭一の絶叫は、やがて言葉としての体裁すら保てなくなり、ただの純粋な憎悪と怨嗟の塊となって、五十度を超える熱波の中にドロドロと溶け込んでいく。
咲浜市を恐怖に陥れた、神出鬼没の連続神隠し事件。
その恐るべき偽装工作のルーツは、決して天才的な犯罪者の美学でもなければ、緻密に計算された悪の思想でもなかった。
ただの、報われない初老の男が長年溜め込んだ、見苦しいほどの嫉妬と劣等感、そして金銭への執着が爆発しただけの、あまりにも凡庸で下世話な情動の吹き溜まりだったのだ。
僕は、火傷の激痛に耐え、喉を焼く蒸気にむせ返りながら、その絶叫を白煙のすぐ向こう側で聞いていた。
僕は、鑑定士である如月さんのように、他人の醜い感情を『無価値なノイズ』として完全に切り捨て、ただのデータとして俯瞰するような冷徹な回路を持ってはいない。良くも悪くも、感受性が豊かで他人の痛みがわかってしまう、ただの現代の高校生だ。
だからこそ、昭一の口からとめどなく吐き出されるその真っ黒な情動の濁流は、物理的な蒸気の熱と同じくらい、あるいはそれ以上に息苦しく、僕の精神を激しく圧迫してきた。
誰かに認めてほしかった。自分のこれまでの苦労と人生を、ほんの少しでも肯定してほしかった。その根源的な欲求自体は、人間として理解できないものではない。だが、彼のその欲求はあまりにも長期間にわたって抑圧されすぎた結果、歪みに歪み、姪を拷問し、無関係な市民を連続殺人の隠れ蓑として殺害するという、最悪の凶行へと変貌してしまった。同情の余地など一ミリもない。一ミリもないのに、彼の絶望的な叫びには、人間の持つ弱さと醜さが極限まで凝縮されており、聞いているだけで精神が汚染されそうなほど生々しく、吐き気がした。
そして、僕は絶望的な白煙の中で気づいてしまった。
今のこの狂気に満ちた空間の状況は、あまりにも恐ろしい形で『同期』しているということに。
数十年間、インフラの地下という日陰に押し込められ、優秀な兄に対する強烈な劣等感と嫉妬という『圧力』を、腹の底の暗がりに限界まで溜め込み続けてきた山崎昭一という人間の精神構造。
それが、兄の死と遺言書のフェイルセーフという引き金によってついに臨界点に達し、連続殺人という形で外部の社会へと暴発した。
それはまさに今、この機関室で起きている物理現象と全く同じではないか。
巨大なメインボイラーの強固な炉心に、何千気圧という凄まじい圧力で封じ込められていた超高圧蒸気が、メインバルブの物理的な破壊という引き金によって限界を超え、この狭い空間へと爆発的に逆流・噴出しているこの『熱力学的な暴走』。
昭一の心の中に渦巻く、醜悪でドロドロとした『情動の熱量』が、現在進行形で僕たちの肉体を焼き殺そうとしている『蒸気の熱量』と、完全なる相似形を描いて見事にリンクしている。
物理的な崩壊と、精神的な崩壊。
その二つの致死的な濁流が、六十度、七十度と異常な速度で温度を上げ続ける密閉された巨大機関室の中で完全に飽和し、いかなる論理の介入も許さない、逃げ場のない死の空間を構築していたのである。
「う、あ、あああっ……! ごほっ、げほぉっ!」
僕は、圧倒的な熱さと息苦しさ、そして空間を満たす狂気にあてられ、ついに鉄格子の床に膝から崩れ落ちてしまった。
視界は白煙に阻まれて全く効かない。無理に前に進めば狂人の振るう鋼鉄のレンチに頭蓋骨を砕かれ、かといってここに留まっていれば、数分と経たずに全身の皮膚が焼け焦げて茹で上がり、死ぬ。
助手の非力な力だけでは、どうすることもできない。物理的にも心理的にも、完全に手詰まりだった。
このままでは、縛られた由美子さんごと、全員がこの情動と蒸気の暴力的な濁流に飲み込まれて全滅する。
僕が死の恐怖に完全に心を折られそうになり、ギュッと目を閉じた、まさにその時だった。
僕の目の前を覆っていた濃密な白い蒸気の壁が。
まるで、モーセが海を割った奇跡のように、あるいは見えない巨大な刃が空間そのものを切り裂いたかのように、不自然に真っ二つに割れたのは。




