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第16巻:如月令嬢は『蒸気の密室を誤認しない』  作者: アリス・リゼル


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第4話『証明』(5)

 如月瑠璃の冷徹な物理的証明と、僕が代弁した俗物的な動機。

 二つの全く異なるアプローチから放たれた完璧な論理の刃は、巨大機関室の五十度を超える熱波の中で、山崎昭一という男の退路を完全に断ち切った。

 彼が莫大な遺産を独占し、山崎コンツェルンの実権を握るために書き上げた『連続殺人鬼による神隠し』というシナリオ。それは、一人の女子高生が置き忘れたヘアアイロンという日常の些細なノイズと、熱力学という絶対的な物理法則の前に、あまりにも無残に、そして滑稽なほどあっけなく木端微塵に粉砕された。

 もはや、彼を擁護する要素は物理空間のどこにも存在しない。瀬田警部補はトレンチコートのポケットから冷たい銀色の手錠を取り出し、神宮寺巡査部長と共に、プラットフォームの上に座り込む昭一へとゆっくりと歩み寄っていく。


 事象の解体は完了した。論理(ミステリー)の時間は、これで終わるはずだった。

 しかし。

 孤高の天才鑑定士である如月さんは、モノのルーツを探り、そこに介在する物理法則を解き明かすことに関しては絶対的な神に等しいが、そのプロセスによって暴かれた『人間の醜悪な情動』がどのような暴走を引き起こすかという点については、常に無関心すぎるきらいがあった。


「……ふざ、けるな」


 巨大なメインボイラーが立てる地鳴りのような轟音の底から、地を這うような、ひどく掠れた声が響いた。

 手錠を手にした瀬田警部補の足が止まる。

 床に崩れ落ち、両手で頭を抱え込んでいた昭一の肩が、小刻みに、いや、痙攣するように激しく震え始めていた。


「ふざけるな……ふざけるなふざけるなふざけるなッ!」


 突如として、昭一は獣のような咆哮を上げ、両手で自らの顔面を掻きむしりながら顔を上げた。

 その顔を見て、僕は背筋に強烈な悪寒が走るのを感じた。機関室の暴力的な熱気のせいではない。眼の前にいる男の顔から、人間としての理性や知性が完全に削ぎ落とされ、どす黒く、粘り気のある『狂気』だけが眼球の奥で剥き出しになっていたからだ。

 完璧だったはずの計画。自分を見下してきた兄への復讐と、莫大な富の独占。それが、自分の娘ほどの年齢しかない、わずか十六歳の小柄な少女に足元からすべて解体され、鼻で笑われ、ただの『卑小で怠惰な小悪党』へと完全に格下げされたのだ。

 五十路を過ぎ、プライドだけを肥大化させてきた凡庸な男の脆弱な自我は、その圧倒的な屈辱と敗北感に耐えきれず、完全に焼き切れてしまったのである。


「私を……私を誰だと思っている! 私は山崎工業の社長の弟だぞ! あの無能な兄貴の影で、何十年も泥水をすすって会社の裏仕事を片付けてきたのは私だ! 遺産も、権力も、すべて私が正当に受け取る権利があるんだ!」


 昭一は、口の端から泡を飛ばし、完全に焦点の定まらない目で空虚な空間を睨みつけながら絶叫した。


「それを、どこから湧いてきたかもわからないガキ共が……警察の犬共が! 私の、私のすべてを……見下しやがってェェェェッ!!」


「動くなッ!! 大人しく両手を出せ、山崎!」


 瀬田警部補がニューナンブを再び両手で構え直し、鋭く威嚇する。

 しかし、理性のタガが完全に外れた昭一の耳に、公権力の警告など一切届いてはいなかった。

 彼は、自らの足元に転がっていた凶器――長さ五十センチ、重さ数キロはあろうかという巨大な鋼鉄のモンキーレンチを再び拾い上げ、狂乱したように頭上で振り回したのだ。


「ひっ……!」


 ブンッ! という恐ろしい風切り音がプラットフォームに響き、瀬田警部補と神宮寺巡査部長が咄嗟に後ずさる。


「撃ちますよ! 凶器を捨てなさい!」


 神宮寺が叫ぶが、昭一はそのままレンチを振り回しながら、縛られている由美子さんではなく、その背後――プラットフォームのさらに奥へと向かって、猪のように猛然と突進を始めた。


 彼が向かった先。

 そこには、数階建てのビルほどもある巨大なメインボイラーの、複雑な計器類が密集した『中枢制御盤』が壁面にへばりつくように設置されていた。

 そしてその中央には、幾重もの太い真鍮のパイプが接続された、ひときわ巨大で禍々しい赤いバルブが存在している。その横の壁には、熱で変色した古いペンキで、こう警告が書かれていた。


『警告・緊急圧力解放弁(メインバルブ)

『炉心圧力臨界時のみ使用のこと。手動開放時、区画内に致死量の過熱蒸気逆流の危険あり』


 それは、ボイラーが爆発寸前になった際、内部の超高圧蒸気を一気に外部へと放出するための、文字通りの最終安全装置(フェイルセーフ)だった。

 昭一の狂気に満ちた目が、その赤いバルブを捉えているのを視認した瞬間、僕の全身の血液が完全に凍りついた。

 あのバルブを全開にすればどうなるか。

 先ほど僕が通路で必死に閉じたバルブなど比較にならない、文字通り『桁違い』の致死的な超高圧蒸気が、この閉鎖された巨大機関室の内部に直接、津波のように逆流してくるのだ。


「お前らも、全部道連れだッ! 私の邪魔をする奴らは、この施設ごと全員蒸発させてやる!!」


「やめろォォォォッ!!」


 瀬田警部補が引き金を引き絞る。

 パァンッ!! という乾いた銃声が、機関室の轟音を切り裂いて響き渡った。

 しかし、五十度を超える熱気による空気の揺らぎと、極度の緊張が、ベテラン刑事の照準をわずかに狂わせた。放たれた鉛の弾丸は昭一の肩をかすめ、奥の壁のタイルを火花と共に砕き散らすにとどまった。

 昭一は肩から血を流しながらも、その痛みにすら気づいていないかのように、中枢制御盤の前に到達した。

 緊急圧力解放弁(メインバルブ)には、誤作動を防ぐための分厚いアクリル製のカバーと、頑丈な南京錠による物理的な安全装置が施されている。

 だが、狂乱した男の蛮力と、その手にある鋼鉄のレンチの前では、それはあまりにも無力だった。


「死ね! 死ね! みんな死んじまえェェェッ!」


 ガシャンッ! ガィィィィンッ!!

 昭一が振り下ろした巨大なレンチが、アクリルカバーを粉々に打ち砕き、火花を散らして南京錠を強引に破壊する。

 そして彼は、血塗れの右手でその禍々しい赤いメインバルブを力任せに掴み、絶叫と共に、限界まで一気に回し切った。


 その瞬間。

 巨大機関室の空間そのものが、絶望的な悲鳴を上げた。


 ゴアァァァァァァァァァァァァァァッ!!


 鼓膜が破れるかと思うほどの、次元の違う爆発的な轟音。

 メインボイラーの炉心に封じ込められていた数千気圧の超高圧蒸気が、行き場を失った狂れる龍のように、解放されたメインバルブの排気口から機関室内へと直接、猛烈な勢いで逆流・噴出を始めたのだ。

 真っ白な、いや、高熱すぎて青白くすら見える超高熱の蒸気の柱が、機関室の天井に激突し、爆発的な勢いで周囲の空間へと拡散していく。


「うわあああぁぁぁっ!」


 神宮寺巡査部長が悲鳴を上げ、瀬田警部補と共に床に伏せる。

 一瞬にして、機関室の温度が五十度から、六十度、七十度へと、致死的な領域に向かって異常な速度で跳ね上がった。肌を刺すような熱気というレベルではない。空気を吸い込んだ瞬間に気道が焼け焦げ、目を開けていれば眼球の水分が沸騰してしまいそうな、純粋な『暴力としての熱』が空間を支配し始めた。


 視界が、一瞬にして濃密な蒸気によって完全に奪われていく。


 カン、カンカンカンッ! キィィィィィィィィッ!


 急激な温度と圧力の変化に耐えきれず、機関室内の至る所に張り巡らされた真鍮のパイプや継ぎ目が、異常な金属膨張を起こして悲鳴を上げ始めた。あちこちのバルブからプシューッ! と二次的な蒸気が噴き出し、空間は完全にコントロールを失った灼熱の地獄へと変貌していく。


「けほっ、ゲホォッ! 息が……!」


 僕は火傷の痛む手で口元を覆い、しゃがみ込んだ。息を吸うだけで肺が焼かれるように痛い。

 このままここにいれば、数分と経たずに全身の皮膚がただれ、茹で上がって死ぬ。論理の戦いは終わった。ここから先は、理不尽な物理現象からいかに生き延びるかという、極限の生存競争(サスペンス)だ。


「如月さん! 早く、ここから出ないと! 焼け死にます!」


 僕は白煙の中で、すぐ隣に立っていた紫の着物の少女に向かって必死に叫んだ。

 しかし。

 如月瑠璃は、この致死的な熱波と轟音、そして視界を奪う白煙のど真ん中にあってなお、一切のパニックを起こすことなく、ただ静かに、大正ロマンの着物の袖で口元を覆いながら立ち尽くしていた。

 その冷ややかなアメジストの瞳は、自らの命の危機ではなく、白煙の奥――パイプ椅子にぐるぐる巻きに縛り付けられたままの、由美子さんの姿を真っ直ぐに捉えていた。


「サクタロウ」


 地獄の轟音の中で、如月さんの声だけが、なぜか氷のように澄み切って僕の鼓膜に届いた。


「メインバルブから噴出した過熱蒸気の気流は、天井を這い、およそ一分後にはあそこのプラットフォーム全体を完全に包み込む。……あのままでは、あの女は生きたまま蒸し焼きじゃ」


 僕は弾かれたように顔を上げた。

 白煙の向こう側。昭一が破壊したメインバルブの排気口は、由美子さんが縛られているプラットフォームのすぐ後方に位置している。今はまだ蒸気が天井に向かって噴き出しているが、空間が飽和すれば、真っ先に超高熱の直撃を受けるのは、身動き一つとれない由美子さんだ。


「瀬田警部補! 神宮寺さん! 人質を!」


 僕が叫ぶが、二人の刑事は突如として噴き出した熱波に完全に視界と方向感覚を奪われ、床に這いつくばって咳き込むことしかできていない。

 狂乱した昭一は、自らが引き起こした地獄の中で「死ね! ぜんぶ死ね!」と喚き散らしながら、蒸気の向こう側でレンチを振り回している。


 助けられるのは、動けるのは、僕しかいない。

 僕は、ズルズルに皮が剥けた自分の両手を見た。痛い。激痛だ。だが、あそこにいる女性は、二週間もこの地獄で拷問に耐え、そして今、叔父の狂気によって本当に殺されようとしているのだ。

 如月瑠璃の論理が暴き出した真実を、ただの机上の空論で終わらせないために。

 助手の役目は、いつだって泥臭い物理的なノイズの排除だ。


「……ッ、行ってきます!!」


 僕は決死の覚悟で息を止め、視界を白く染め上げる二百度の過熱蒸気の嵐と、狂人が待ち受けるプラットフォームへと向かって、灼熱の機関室の床を蹴り出した。

 論理と知性の法廷は完全に崩壊し、圧倒的な熱力学の暴力が支配する臨界点。

 連続神隠し事件の最終幕が、今、最悪の形で口を開けた。



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