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第16巻:如月令嬢は『蒸気の密室を誤認しない』  作者: アリス・リゼル


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第3話『結合』(5)

 僕と如月さんは、床に座り込んでいた姿勢からゆっくりと立ち上がり、足音のする方向へと視線を向けた。僕の火傷でズルズルに皮が剥けた両手には、ハンカチが不格好に巻きつけられており、ズキズキと脈打つような痛みが絶え間なく脳髄を刺激している。だが、今はその痛みに蹲っている場合ではない。

 やがて、まだ微かに白煙が漂う通路の奥から、懐中電灯の鋭い光の束が何本も突き刺すように現れた。


「そこだ! 動くなッ!!」


凄まじい怒声と共に、数人の男たちが通路に躍り出てきた。彼らは皆、汗だくになりながらも、黒い警棒や、黒光りする警察官用の回転式拳銃(ニューナンブ)を構え、銃口を真っ直ぐに僕たちへと向けている。

 その先頭に立っていたのは、季節外れのくたびれたトレンチコートを汗でぐっしょりと濡らした、月見坂市警の瀬田警部補だった。そしてその後ろには、いつものようにノートを片手に持ちながらも、極度の緊張で顔を強張らせている若い刑事――神宮寺巡査部長の姿があった。

 彼らは、この地下の異常警報を聞きつけ、『連続殺人鬼が何か破壊工作を行っている』と完全に勘違いして、血眼になって突入してきたのだ。


「……お前らは……!」


 瀬田警部補は、銃口を向けた先に立っていたのが、血に飢えた猟奇殺人鬼などではなく、月見坂の指定校のブレザーを着た平凡な男子高校生と、煤と油でドロドロに汚れた紫の矢絣の着物を着た小柄な少女であることに気づき、驚愕に目を見開いた。

 だが、その驚きは一瞬にして、腹の底からの激しい怒りへと変わった。


「如月のお嬢ちゃん……ッ! あの時計塔の踊り場で、大人しく広場へ戻ってクレープを食いに行くって言ったのは、俺たちをやり過ごすための大嘘だったってわけかッ!」


 瀬田警部補は銃を下ろしはしたものの、ズカズカと荒々しい足取りで僕たちに歩み寄り、胸ぐらを掴まんばかりの剣幕で怒鳴りつけてきた。


「連続神隠し事件の犯人がこの奥に潜んでいる可能性があるんだぞ! お前さんがいくら賢かろうが、遊び半分で探偵ごっこをしに来るような場所じゃねえって言ったはずだ! 今すぐ地上へ退避しろ!」


 その横で、懐中電灯の光で如月さんの顔をはっきりと確認した神宮寺巡査部長が、まるで宗教画の奇跡でも目撃したかのような、ひどく熱狂的でパニックじみた声を上げた。


「る、瑠璃様!? おお……まさか、我々警察が地上の幻影に惑わされている間に、身を挺してこの灼熱の奈落へと悪を追ってこられるとは! なんという慈愛、なんという正義の御心! しかし、その美しいお召し物が煤と油でひどく汚れておられる……! さ、朔くん! 貴様、瑠璃様の助手でありながら、このような不衛生な地下迷宮に瑠璃様をお通しするとは何事だ!」


 神宮寺は完全に狂信的な妄想の世界に突入し、僕に向かって見当違いの怒りをぶつけてくる。

 僕は思わず天を仰ぎたくなる衝動に駆られた。探偵ごっこ? 正義の御心? 冗談じゃない。僕たちはつい数分前まで、二百度の過熱蒸気の中でリアルな地獄を見て、命がけでこの事件の物理的真相を解き明かしてきたんだ。それに、この天上天下唯我独尊の怪物を、僕ごときが誘導できるわけがないだろう。


(やかま)しいぞ」


 通路の熱気すらも凍りつかせるような、絶対零度の声が響いた。

 如月瑠璃は、油と煤で汚れた純白のレースの手袋を忌々しそうに見つめていた視線をゆっくりと上げ、自分よりも頭二つは背の高い瀬田警部補と神宮寺巡査部長を、文字通り『見下ろす』ような冷酷なアメジストの瞳で射抜いた。


「わしの神聖な解体作業の場に、相変わらず無価値なノイズを撒き散らすな。……瀬田とやら。わしは時計塔で忠告してやったはずじゃぞ。お主らの脳髄は、三文小説の読みすぎで腐り落ちておるとな」


「な、なんだと……!」


「お前たちが血眼になって探し回り、怯え、存在しない足跡を追いかけていた『広域を狙う異常な快楽殺人鬼』などという森の幻影は、とうの昔に枯れ果てた。この期に及んで、まだ己の無能な見立てに縋り付いておるのか」


「くっ……我々警察の必死の捜査を愚弄する気か!」


 瀬田警部補が顔を真っ赤にして怒鳴り返すが、如月さんは微塵も動じない。彼女は、背後にある巨大な鉄格子と、その奥へと続く真っ暗なダストシュートの穴を顎でしゃくった。


「あの鉄格子の手前にある真鍮のバルブを回し、この区画の蒸気を緊急停止させたのは、そこにいるわしの下僕じゃ。……なぜそんなことをする必要があったか、お主らには想像もつくまいな」


 如月さんは、薄暗い赤色灯の光の中で、極めて傲慢に、そして残酷なまでに理路整然と、事象の解体結果を突きつけた。


「連続男女神隠し事件の正体。それは、天井のレールに懸架された巨大な滑車と、この地下を走る超高圧蒸気を動力源とする『自動巻き上げ式ウインチ』を用いた、純粋な物理的牽引トリックじゃ。犯人は自らの腕力など一切使わず、被害者を奇襲してワイヤーを掛け、バルブをひねるだけで、百キロを超える質量をこの地下へと強制的に吸い込ませていた。魔法でも猟奇殺人の怪力でもない。ただの工場作業じゃ」


「蒸気の、ウインチ……? そんな馬鹿な、それでは……」


「そう、犯人がいかなる体格であろうと実行可能なからくりじゃ。そして、犯人の真の目的は、無関係なカップルを殺すことではない。第二から第四の事件はすべて、警察の目を『第一の事件の真実』から逸らすために用意された、無価値で使い捨てのカモフラージュに過ぎぬ。お主らは見事にその偽装に引っかかり、広域捜査などという無駄なリソースを割かされていたわけじゃな」


 瀬田警部補も、神宮寺巡査部長も、背後に控えていた他の刑事たちも、全員が完全に言葉を失い、凍りついていた。

 自分たちが何日も徹夜して追いかけていた『異常な殺人鬼』という大前提が、眼の前にいる小柄な少女の、あまりにも冷徹で論理的な言葉によって、根底から木端微塵に粉砕されてしまったのだ。彼らの顔には、怒りよりも、圧倒的な知性の暴力に屈服したような困惑と動揺が広がっていた。


「犯人は、この一般立ち入り禁止の地下インフラに精通し、蒸気ウインチを自在に操れる者。そして、連続殺人という偽装をすることで最も恩恵を受ける者。……すなわち、第一の事件の被害者である山崎雄一と由美子の周辺に身を潜めている『身内』じゃ。犯人は、外部の異常者などではない」


 如月さんはそこまで一息に言い切ると、ふと、氷のような瞳の奥に、獲物を狙う肉食獣のような鋭い光を宿した。


「……さて。わしが己の論理(ハウダニット)によって解体できたのは、ここまでじゃ。犯人が身内であることは確定した。しかし、その身内がなぜ、わざわざ偽装をしてまで『由美子を生かして隠す』必要があったのか。その下世話な法的動機(ホワイダニット)と、具体的な個人名を引き出すためには、どうしても外的な『データ』が必要になる」


 如月さんの言葉の意図を察し、僕は痛む両手をハンカチ越しにギュッと握り締めた。

 そうだ。僕のスマートフォンもタブレットも、この電波障害のせいで完全に沈黙している。

 だが、今、僕たちの目の前には、最高の『アナログな検索エンジン』が立っている。足を使って泥臭く情報を集め、公権力を使って一般人にはアクセスできない戸籍や企業の内部情報にまで手を伸ばすことができる存在。

 如月さんは、この無能な番犬どもをただ馬鹿にするためだけに足止めしたわけではない。彼女は、パズルの最後のピースを彼らから強引に引きずり出そうとしているのだ。


「瀬田とやら」


 如月さんは、純白の手袋をはめた指先を、瀬田警部補の胸元へと真っ直ぐに突きつけた。


「お前たち警察は、無能なりにも足を使って情報を集めることだけはできるはずじゃな。第一の被害者である山崎雄一の『親族の構成』と、山崎家が抱えているであろう『遺産相続に関する特記事項』のデータを。お前たちの捜査資料の中に、必ずその答えがあるはずじゃ」


「な、何を言っている! 捜査の機密情報を、民間人の小娘になど……!」


「教えるのではない。わしの完璧な事象の解体図(パズル)の、最後の余白を埋めるために提出せよと言っておるのじゃ」


 如月さんの一歩踏み出したその圧倒的な気迫と、深淵を覗き込むような紫の瞳に射抜かれ、屈強な瀬田警部補が思わず一歩、後ろへと後ずさった。


「連続殺人の偽装を看破し、トリックを解明したのはわしじゃ。お前たちがこのまま無能な捜査を続ければ、奥に監禁されているであろう山崎由美子の命はないぞ。……それとも、警察のメンツを守るために、この期に及んでまだ真実から目を逸らすつもりか?」


 その言葉は、警察官としての矜持の急所を的確に突き刺した。

 瀬田警部補はギリッと奥歯を噛み締め、悔しそうに顔を歪めたが、やがて観念したように、トレンチコートの内ポケットから汗で湿った黒い捜査メモを取り出した。


「……山崎雄一には、弟がいる」


 瀬田警部補は、まるで絞り出すような低い声で、僕たちが欲していた『データ』を語り始めた。


「名前は、山崎(やまさき)昭一(あきかず)。山崎工業の関連子会社の社長を任されているが、実権を握る兄の雄一とは昔から折り合いが悪く、経営方針を巡って深い対立関係にあった。……我々も当然、第一の事件の直後に身内である彼を真っ先に疑い、身辺を洗った」


「ほう。で、結果は?」


「動機が弱すぎたんだ。というのも、山崎雄一の遺言書には、極めて特殊で厳格な条項が組み込まれていたからだ」


 瀬田警部補は、メモをめくりながら忌々しそうに説明を続けた。


「雄一の莫大な遺産と企業の全実権は、第一の正当な相続人である娘の由美子にすべて譲渡される。ここまでは普通だ。だが、もし由美子が『不慮の事故や事件によって死亡』し、その死体が警察等の公的機関によって確認された場合……全財産は、弟の昭一には一円も渡らず、すべて山崎家が支援している『外部の慈善財団に自動的に寄付される』という強固な法的ロックが掛けられていたんだ」


 神宮寺巡査部長が、横から口を挟む。


「つまり、もし昭一が兄の雄一だけでなく、娘の由美子さんまで殺害してしまえば、彼には一円の遺産も入ってこないことになります。殺すメリットがない。だから我々は、昭一を容疑者のリストから外し、広域の連続殺人鬼の線を追っていたのです……」


 その言葉を聞いた瞬間。

 僕の脳内で、バラバラに散らばっていた無数の点が、一本の強烈な線となって結びついた。


「……逆ですよ」


 僕は、思わず声を上げていた。

 瀬田警部補と神宮寺巡査部長が、一斉に僕の方を向く。


「逆なんです。殺すメリットがないからじゃない。……『殺せないからこそ』、由美子さんをこんな地下深くに監禁しているんですよ!」


 僕は、自分の脳内で組み上がった残酷な論理を、震える声で言語化していった。


「昭一が遺産と会社の実権をすべて奪うためには、正当な相続人である由美子さんの『自筆の委任状』と『実印による署名』が絶対に必要になります。でも、もし彼女を殺して死体が発見されれば、遺言状のフェイルセーフが作動して財産は財団に行ってしまう。だから昭一は、由美子さんを『生きているが行方不明』にしておく必要があった」


 日本の法律では、死体が発見されなければ、すぐには『死亡』とは扱われない。


「昭一は、第一の事件で由美子さんを誘拐し、誰にも見つからないこの地下の最深部に監禁した。そして、警察の捜査を『異常な快楽殺人鬼の仕業』にすり替えるために、無関係なカップルを狩り、連続神隠し事件を偽装したんです。すべては……地下で拷問してでも、由美子さんに遺産譲渡の書類に署名をさせるための『時間稼ぎ』として」


 警察の足が稼ぎ出した、遺産と法律という人間の業にまみれた『動機のピース』。

 そして、如月瑠璃という天才が解き明かした、蒸気ウインチによる不可能犯罪という『物理のピース』。

 二つの全く異なるアプローチから導き出された事実が、僕という助手の演算を介して、この熱気と白煙が淀む地下通路の中で、ガチンッ、と完璧な音を立てて結合した。

 パズルは完全に完成したのだ。

 瀬田警部補の顔面から、スッと血の気が引いていくのがわかった。彼ら警察は、犯人が仕掛けた目くらましに完全に騙され、由美子さんが生きている可能性を放棄し、無関係な犠牲者が増え続けるのを見過ごしていたという恐ろしい失態を悟ったのだ。


 如月さんは、僕の推理を最後まで聞き終えると、ふん、と小さく鼻を鳴らした。


「金銭への執着と、法的なフェイルセーフを回避するための偽装工作か。実にどろどろとした醜悪なルーツじゃな」


 彼女はそう毒づきながらも、その形の良い唇には、絶対的な自信と知的な歓喜に満ちた笑みが刻まれていた。


「だが……アナログな番犬どもが足で稼いだデータと、わしの下僕の演算能力も、たまにはパズルの最後の隙間を埋める役に立つようじゃな」


 それは、照れ隠しでひねくれてはいるが、彼女なりの最大限の『称賛』の言葉だった。

 僕は火傷の痛みを堪えながら、少しだけ得意げに笑い返した。


 もはや、犯人に逃げ道はない。隠蔽工作のからくりも、醜悪な動機も、すべてが僕たちの手の中にある。

 如月瑠璃は、純白の手袋で自身の袴の裾を優雅に払い、まるでオーケストラの指揮者のような堂々たる態度で、警察官たちに向かって振り返った。


「……さて、事件の全貌はすべて明らかになった。吠えるのは終わりじゃ、番犬ども。わしが今から、真実のルーツへ案内してやる。余計な口を叩かず、黙ってついてくるのじゃ」


 その圧倒的な気迫と論理の重みに、武装した瀬田警部補たち刑事は完全に言葉を失い、誰一人として反論することなく、文字通り彼女の従順な下僕となって頷いた。

 僕たちは、如月さんを先頭にして、メンテナンス通路のさらに奥へと歩みを進めた。

 紫の着物の少女の背中を、制服姿の高校生と、拳銃を構えた刑事たちがぞろぞろとついていくという異様な一行。だが、その足取りに迷いは一切なかった。


 やがて、通路の最深部。

 そこには、巨大なリベットが何十個も打ち込まれた、異常なほど重厚な『鋼鉄の扉』が立ち塞がっていた。

 間違いない。この奥が、咲浜市の地下インフラの心臓部である『巨大機関室』。そして、卑劣な犯人、山崎昭一が由美子さんを監禁している最終決戦の舞台だ。


「開けよ、サクタロウ」


 暗闇の中で、主の冷徹な声が響いた。

 僕は無言で頷き、ハンカチに血が滲んでいる両手を、その冷たく重い鋼鉄の扉へと掛けた。

 激痛が走る。だが、もう逃げる気はない。

 僕は全身の体重を乗せて、その重厚な扉をゆっくりと、そして力強く押し開けた。

 ギギギィッ……という重々しい金属音と共に、目も眩むような強烈な光と巨大な機械の駆動音が、僕たちを包み込むように押し寄せてきた。

 さあ、完全犯罪のパズルを、最後の最後まで解体し尽くしてやろう。

 解決編となる、最後の幕が開いた。



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