第3話『結合』(4)
巨大な鉄格子の向こう側で、数分前まで致死的な二百度の過熱蒸気が充満していた純白の密室は、僕が手動の緊急停止バルブを死に物狂いで閉じたことによって、徐々にその狂気じみた熱量を失いつつあった。分厚いコンクリートの壁を挟んだ外側の並行通路へと避難した僕たちは、荒くなった呼吸を整えながら、熱力学の暴力が過ぎ去っていくのをじっと待っていた。
とはいえ、ここは地下深くの旧式ボイラー区画だ。蒸気の直接的な噴出が止まったとはいえ、周囲の空間には依然としてサウナ室の最上段にいるような暴力的なまでの熱気が重く淀んでいる。
僕は床の剥き出しのコンクリートにへたり込むように座り込み、ズボンのポケットから引っ張り出したシワシワのハンカチを、両手のひらに不器用に巻きつけていた。
錆びついた巨大な真鍮のバルブを無理やり回した代償は、想像以上に悲惨だった。両手のひらは広範囲にわたって火傷で水ぶくれになり、皮膚はずるずると無惨に剥け、そこからじわじわと生々しい血と体液が滲み出している。布の繊維が傷口に触れるたびに、脳髄を直接太い焼き鏝で突き刺されるような鋭い激痛が走り、思わず「っ、いっつ……」と情けない呻き声が漏れる。
普段の僕なら、紙で指先を少し切った程度のかすり傷でさえ、大げさに絆創膏を貼って痛がり、一日中不機嫌になるような文化系オタクだ。こんな重症の火傷なんて、すぐにでも救急車を呼んで冷水で徹底的に冷やし、病院のベッドで痛み止めの点滴でも打ってもらわなければ絶対に割に合わない。スマートフォンのタップとコントローラーの操作しかしてこなかった僕の柔らかい手は、今や見る影もないほどボロボロに破壊されていた。
だが、今の僕にはそんな贅沢な泣き言を並べ、痛みに喚き散らしている余裕など一秒たりとも与えられていなかった。
僕の目の前には、つい数十秒前まで、文字通り『蒸し焼き』にされる寸前の死の淵に立たされていたにもかかわらず、すでに完全な平常心を取り戻しつつある孤高の怪物が立っていたからだ。
「それにしても、実に不快な空間じゃ。わしのこの純白のレースの手袋に、長年蓄積されたであろう質の悪い石炭の煤と、劣化した防錆油の醜悪な酸化物が、物理的に付着してしまったではないか」
如月瑠璃という人は、海老茶色の袴の裾や、大正ロマンを象徴する美しい紫の矢絣の着物にこびりついた真っ黒な汚れを、これ以上ないほど嫌悪感に満ちた冷たいアメジストの瞳で見下ろしながら、忌々しそうに吐き捨てた。
彼女の結い上げた艶やかな黒髪は、地下の異常な湿気と熱気でパラパラと乱れ、いつもは透き通るように白い額やうなじには大粒の汗が光っている。その姿は、優雅なお嬢様というよりも、硝煙と泥にまみれた激しい戦場を這いずり回って生き抜いた戦士のように泥臭かった。
だが、如月さんは着物の汚れを数度手でパパンと払うと、ふと動きを止め、床に座り込んで痛みに耐えている僕の姿――正確には、血と油にまみれ、ハンカチをきつく巻きつけた僕の両手へと、その深い紫の視線を静かに落とした。
地下の淀んだ静寂の中、熱気を含んだ重い空気が僕たち二人の間を流れる。
僕は身構えた。また「お前の汚い血と汗がわしの着物についたではないか、この愚鈍が」と、理不尽極まりない文句を言われるのだと思った。
「……わしの観測に、致命的な死角があった」
ふいに、静かで、しかし確かな重みを持った声が薄暗い通路に響いた。
驚いて顔を上げると、如月さんはいつもの傲慢で不遜な態度を僅かに潜め、極めて真摯な、そして痛切な眼差しで僕を見つめていた。
「犯人が己の聖域への侵入者に対し、かくも古典的で狂気じみた『フェイルセーフ』を仕掛けておるとはな。知の探求を優先するあまり、罠の存在という初歩的な変数を計算式から除外してしまったのは、他ならぬわし自身の傲慢が招いたエラーじゃ」
彼女は、自分が罠に掛かり死にかけたという事実を、誰のせいにするでもなく、自らの『論理的敗北』として真っ直ぐに認めた。あのプライドの塊のような如月瑠璃が、自らの非を明確に口にし、敗北を認めるなど、僕が知る限り初めてのことだった。
「そして、その自業自得の窮地を、お主のその不格好な蛮力に救われるとはな」
如月さんは、僕の火傷だらけの手をもう一度見つめ、ゆっくりと、深く息を吐き出した。
「……礼を言うぞ、サクタロウ。お主が自らの肉体を犠牲にしてあのバルブを回さなければ、わしは事象の真理に辿り着く前に、間違いなくこの密室で熱変性を起こして絶命しておった。……よくやってくれた」
その言葉には、人間らしい過剰な感情の揺さぶりや、涙ぐむようなドラマチックな装飾は一切なかった。だが、事象の因果関係を正確に把握し、自分を救ってくれた『助手』の行動に対して正当な評価と感謝の意を示す、彼女なりの最大限の誠意が込められていた。
「如月、さん……」
僕は、あまりの予想外の言葉に一瞬だけ火傷の痛みを忘れ、ぽかんと間抜けに口を開けてしまった。
「なっ、なんですか。急にそんな素直にお礼なんか言われたら、調子狂うじゃないですか……。明日、槍でも降るんじゃないですかね」
「ふん。事実を述べたまでじゃ。わしは論理の破綻と非礼を何よりも嫌う。命を救われたという物理的事象に対して、感謝という出力を返すのは、知的生命体として当然の帰結であろうが」
如月さんはプイッと顔を背け、少しだけ早口になってそう言い放った。横顔越しに見える耳の裏がわずかに赤くなっているように見えるのは、きっとこの地下の異常な熱気のせいだけではないだろう。
「……ははっ。どういたしまして。僕の方こそ、如月さんが無事で本当によかったです。死なれたら、後味悪すぎますからね」
僕は照れ隠しのように笑い、ハンカチを巻いた手で自分の膝をポンと叩いた。不思議なことに、火傷のズキズキとした痛みは、先ほどよりもずっと軽く感じられた。
「さて、無駄な感情のやり取りはここまでじゃ」
如月さんは、わずかな照れを振り払うようにコホンと咳払いを一つすると、瞬時にいつもの『孤高の天才鑑定士』の冷徹な顔へと戻った。彼女の視線が、僕から離れ、暗い通路の奥――被害者たちが運ばれたであろうダストシュートの方向へと鋭く向けられる。
「わしがこの愚かな罠に掛かる直前までに行っていた事象の解体報告を、お主の空っぽな脳髄にも共有しておくぞ。心して聞け」
「はい。……連続神隠し事件のトリック、ですよね。警察は快楽殺人鬼の仕業だって言ってましたけど」
「左様。昨夜、時計塔の裏の路地を歩いていた夫婦が襲われた第四の事件。あの凄惨な血痕の現場において、わしは被害者たちが残した『完璧な一直線の引きずり痕』を観測した。……サクタロウ、考えてもみよ。人間が、意識を失った百キログラムを超える大人二人を自らの腕力で運べば、歩幅の変化や息継ぎによって、必ず力学的なブレが生じ、引きずり痕は不規則に波打つ。しかし、あの痕跡は、長大な定規で引いたように完全に一定の摩擦係数と張力を保っていたのじゃ」
「一定の張力……。それって、つまり……」
「そうじゃ。犯人は、自らの腕力など最初から一ミリも使っておらぬ」
如月さんの細い指先が、天井に這う配管の暗がりを指し示した。
「あの現場の天井には、石炭や灰を運搬するための古いレールと、巨大な滑車が懸架されていた。そして壁面には、この街の地下を網の目のように走る超高圧の蒸気パイプラインから動力を得る、自動巻き上げ式のウインチが備え付けられていたのじゃ。犯人の手口は、極めて古典的で非人道的な工場作業じゃよ。背後からの鈍器による奇襲で被害者の抵抗能力を完全に奪った後、倒れた彼らの衣服に鋼鉄のワイヤーのフックを掛け、壁面のバルブをひねる。……ただそれだけじゃ」
僕は、如月さんの口から紡がれるそのあまりにも機械的で冷酷な密室トリックの全貌に、思わず息を呑んだ。
「バルブを開けば、超高圧蒸気がタービンを猛烈な勢いで回し、人間を遥かに凌駕する圧倒的な力学エネルギーがワイヤーを巻き上げる。被害者の身体は、床を一直線に引きずられながらダストシュートの穴へと吸い込まれ、この並行メンテナンス通路の奥深くへと強制的に『運搬』されたのじゃ」
彼女の言葉が、僕の脳内で恐ろしいほどのリアリティを持って映像化される。
瀬田警部補たちが恐れていた猟奇殺人鬼の異常な怪力でもなければ、密室から人間を消し去る超能力でもない。ただの歯車と蒸気圧という、十九世紀から存在する純粋な物理法則の応用。
「犯人がいかなる体格であろうと、筋力のない老人であろうと、女性であろうと、バルブ一つひねるだけで、大人二人分の質量を密室から完全に消失させることができる。自身が返り血を浴びるリスクすら最小限に抑え、事象を隠蔽する。……実に合理的で、反吐が出るほど無機質なからくりじゃな」
「力学的な牽引……」
僕はひび割れた唇を舐めた。
「じゃあ、警察が言っているような、幸せなカップルを憎悪して狙う、異常な快楽殺人鬼なんかじゃないってことですか?」
「当然じゃ。快楽殺人という見立てそのものが、犯人が造り上げた巨大な『森の偽装』に過ぎぬ」
如月さんの深い紫の瞳が、僕を射抜くように捉えた。
「わしは、現場の血痕に残留していたノイズを観測した。第四の現場のノイズは、ただの『作業』であった。そこに殺意も歓喜も憎悪も存在しない。犯人はただ、男女のペアを手順通りに処理しただけじゃ。……しかし、二週間前に起きた『第一の事件』。観光客の山崎雄一が刺され、娘の由美子が消失したあの現場にだけは、犯人の異様なまでの『執着』と『独占欲』という、どろどろとした殺意のルーツが濃厚にこびりついていたのじゃ」
「第一の事件だけが、特別だった……?」
「そうじゃ。かの有名な『ABC殺人事件』と同じ構造よ。犯人にとって、本当に手に入れたかった『真の標的』は、第一の事件の山崎由美子ただ一人。その後に見ず知らずのカップルを次々と襲ったのは、警察の捜査の目を『由美子への個人的な執着』から『広域の異常なシリアルキラー』へと逸らすための、使い捨てのダミーに過ぎぬ」
如月さんは、この複雑怪奇な連続殺人事件の真相を、まるで簡単な足し算の答えを合わせるように、いともたやすく断言した。
「この一般立ち入り禁止の地下インフラに精通し、蒸気ウインチを自在に操れる者。そして、由美子に異常な執着を持ち、連続殺人という偽装をすることで最も恩恵を受ける者。……すなわち、犯人は外部の人間ではない。第一の事件の周辺に身を潜め、悲劇の当事者を演じている『第一の被害者の身内』あるいは極めて近しい関係者以外には絶対にあり得ぬな」
身内の犯行。
警察の目を完全に欺き、この咲浜市全体を恐怖に陥れていた猟奇殺人鬼の正体が、身近な親族の、陳腐なエゴの持ち主だったなんて。
僕は、彼女の完璧な演繹的推論に圧倒されながらも、僕の中で急速に膨れ上がっていた『ある一つの巨大な論理的矛盾』を口にせざるを得なかった。
「……待ってください、如月さん」
「なんじゃ。わしの完璧な論理に、まだお主の貧弱な演算能力が追いついておらぬのか?」
「いえ、トリックと、犯人が『身内』だっていうプロファイリングは、如月さんの言う通りだと思います。完璧です。でも、それだと『一つだけ』どうしても理屈に合わない部分があるんです」
「ほう?」
如月さんは、怪訝そうに細い眉をひそめた。
「その身内が、由美子さんを『手に入れたかった』から、第一の事件を起こした。そこまではわかります。でも、だったらどうして、由美子さんを殺さずに、わざわざこんな複雑な偽装までして『生かして隠す』必要があったんですか?」
僕は痛む手を庇いながら、彼女に向かって一歩前に出た。
「ただ邪魔な人間を消したいなら、第一の事件で父親と一緒に由美子さんも殺して、どこかの山奥にでも埋めてしまえばよかったはずです。わざわざ連続殺人鬼の仕業に見せかけて、警察を煽って、リスクを犯してまで、由美子さんを『生きたまま神隠し』の状態にする必要なんてない。……その身内には、由美子さんを『殺してはいけない、絶対に必要な理由』があったんじゃないですか?」
僕の問いかけに対し、如月さんは極めて退屈そうに、ふぁぁ、と小さく欠伸をした。
「そんな俗物的な理由、わしが興味を持つとでも思っておるのか?」
「えっ」
「人間の浅ましい愛憎やら、法律やら、金銭の欲得やらといった『情動のルーツ』など、ただのドロドロとしたノイズに過ぎぬ。わしはすでに物理的なからくりを解体し、『身内』という犯人のプロファイリングを完了した。事象はすでに丸裸じゃ。……犯人の具体的な個人名や、なぜ彼女を生かしておく必要があったのかなどという下世話な法的動機は、事件解決後に警察の取り調べで勝手に自供させれば済む話じゃろうが」
彼女は、事件の物理的な謎が解けた瞬間に、それに付随する人間のドロドロとした事情に対する興味を完全にシャットアウトしてしまう。それが、如月瑠璃という天才の最大の欠落であり、論理の美しさだけを追求する彼女の限界でもあった。
「……やっぱり。如月さんは、そういう『人間の泥臭い事情』には、これっぽっちも興味を持たないと思ってましたよ」
僕は苦笑しながら、周囲のコンクリートの壁を見回した。
「でも、如月さん。その『俗物的な動機』こそが、この事件のパズルを完成させる最後のピースなんですよ。由美子さんを生かしておく理由と、その身内の具体的な名前。それが分かれば、犯人の真の目的が完全に暴かれる」
僕は、肩から提げたショルダーバッグに手を伸ばしかけ、すぐにその行為の無意味さを悟って手を下ろした。
「……とはいえ、僕のスマホもタブレットも、この分厚い壁と蒸気ノイズのせいで完全に『圏外』です。山崎家の家族構成や、彼らが抱えているだろう遺産相続のトラブルとか、企業の内情なんていうディープな個人情報を、今ここで僕のガジェットで検索して引き出すことは、物理的に不可能です」
「ふん。やはり現代の杖に頼り切っただけの、張り子の虎よな」
「うっ…。ぼ、僕だって万能じゃないんです」
僕はため息をついた。僕たちだけでは、これ以上先には進めない。物理的な真実は暴けても、社会的な事実が欠落しているのだ。
その時だった。
ウゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥ……ッ!!
突如として、この薄暗い地下施設全体に、腹の底を震わせるような低く不気味なサイレンの音が鳴り響いた。通路の天井に取り付けられていた古びた赤色灯が、一斉に血のような赤い光を点滅させ始める。
「なっ、なんだ!?」
「お主が先ほど、蒸気の緊急停止バルブを強制的に閉鎖したであろう」
如月さんが、赤い光に照らされながら冷静に言った。
「主蒸気パイプの圧力が急激に低下したことによる、インフラ管理システムの異常警報じゃな。……まあ、無理もない。この区画の動力が一つ完全に停止したのじゃからな」
彼女の言葉が終わるか終わらないかのうちに、僕たちの耳に、別の『音』が飛び込んできた。
それは、地下へと続くコンクリートの階段の方角から響いてくる、複数の乱暴な足音だった。
カン、カン、カン、カンッ! と、硬い靴底が急いで階段を駆け下りてくる音。そして、野太い男たちの怒鳴り声。
「おい! 異常はこの下の区画だ! 慎重に行け、犯人が潜んでいるかもしれんぞ!」
「拳銃の安全装置を外しておけ! 相手は連続殺人鬼だ!」
その声には聞き覚えがあった。
つい先ほど、地上の時計塔の裏路地で規制線を張り、血眼になって猟奇殺人鬼の影を追っていた、月見坂市警の面々だ。
どうやら、地下施設の異常警報を聞きつけ、犯人が何かアクションを起こしたと勘違いして、武装したまま突入してきたらしい。
「……番犬どもの嗅覚だけは、無駄に鋭いようじゃな」
如月さんは、呆れたように小さく息を吐いた。
しかし、僕の脳裏には、ある閃きが走っていた。
警察。国家権力。彼らなら、殺人事件の被害者である山崎家の身辺調査くらい、とうの昔に終わらせているはずだ。家族構成、遺産の状況、親族間のトラブル。僕が今一番欲している『個人情報』を、彼らはすでにアナログな捜査資料として持っている。
「……ちょうどいいかも」
僕は、火傷の痛む手をギュッと握り締め、赤い回転灯の光の中でニヤリと笑った。
「如月さん。どうやら、僕たちが欲しかった最後のピースの『配達人』が、向こうからわざわざ届けに来てくれたみたいですよ」
「ほう? 愚鈍な番犬を、情報端末として使うつもりか」
「ええ。警察の公権力と足で稼いだ泥臭い情報。それを、如月さんの完璧な論理に組み込んでやりましょう」
足音はもう、すぐそこまで迫っていた。
僕たちは立ち上がり、通路の奥から現れるであろう武装した刑事たちを迎え撃つべく、身構えた。
連続殺人鬼の偽装という巨大なパズルを完成させるための、最後のピースを奪い取るために。




