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第16巻:如月令嬢は『蒸気の密室を誤認しない』  作者: アリス・リゼル


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第3話『結合』(3)

 時計塔の裏手に隠された錆びついた鉄格子のドアを抜け、薄暗いコンクリートの階段を駆け下りた瞬間、僕の全身を暴力的なまでの熱気と悪臭が容赦なく打ち据えた。


「うわっ……なんだよ、ここ……っ」


 思わず声に出して咽び返る。それは、太陽光がもたらす夏の暑さなどという生易しいものではなかった。咲浜市の華やかな大正ロマンの表層を根底から支え、莫大な動力を生み出し続けている巨大な旧式ボイラー群。そこから漏れ出す物理的な熱エネルギーが、地下の閉鎖空間に逃げ場なく充満し、空気そのものを重く凶悪な凶器へと変質させているのだ。

 気温は優に四十度を超えているだろう。そして何より僕の現代的な感覚を激しく拒絶したのは、空気にねっとりと絡みついている高粘度防錆油の強烈な酸化臭と、長年蓄積された石炭の煤の匂いだった。一呼吸するたびに、肺の奥底に直接コールタールを塗りつけられているような強烈な吐き気が込み上げてくる。

 月見坂市のスマートシティという、空調と空気清浄機によって完璧に管理された快適な環境で生まれ育ち、休日は涼しい自室でポテトチップスとコーラをお供に動画を見るのが至福の時である僕にとって、この地下迷宮は文字通りの地獄だった。制服のブレザーは数秒で汗を吸って重くなり、肌着が背中にべったりと張り付く。極度の乾燥と異常な熱気のせいで、喉はすでに干からび、視界の端が熱中症の初期症状によってチカチカと点滅を始めていた。


「……はぁっ、はぁっ……マジで、冗談じゃないぞ……」


 僕はコンクリートの壁に手をつき、込み上げてくる胃液を必死に飲み込みながら、薄暗い通路をよろめくように進んだ。

 頭上には太さ数十センチにも及ぶ真鍮と鋼鉄のパイプが、まるで巨大な機械生命体の血管のように複雑に絡み合いながら、不気味な脈動を打っている。至る所から高圧の蒸気がシューッという音を立てて漏れ出し、空間全体がうっすらとした白煙に包まれていた。どこまで進んでも同じような配管の森と壁が続くばかりで、方向感覚が急速に失われていくのがわかる。

 普段の僕であれば、GPSの信号を受信し、スマートフォンの画面に表示されるデジタルマップの青い現在地マーカーだけを頼りに歩く。空間の三次元的な構造を自らの脳内でマッピングするなどというアナログな作業は、すべてクラウド上の演算処理にアウトソーシングして生きてきたのだ。

 だが、今の僕の肩に掛かっているショルダーバッグの中のガジェットたちは、この分厚いコンクリートと強烈な電磁ノイズに阻まれ、ただの重たい鉄の塊に成り下がっている。

 自分の足と、平衡感覚と、先ほど観光案内所で頭に叩き込んだ一枚の紙の地図の記憶。それだけを頼りに、僕は広大な地下のボイラー区画を、如月さんの異常な思考回路をトレースしながら進んでいかなければならない。閉所恐怖症で悲鳴を上げそうになるのを必死に堪え、僕は編み上げブーツの足跡がないか、あるいは彼女が通った痕跡がないかと、懐中電灯のアプリすら使えない暗がりの中で涙目で目を凝らした。


 その時だった。

 迷宮のさらに奥深く、僕が今向かっている進行方向の暗闇から、鼓膜を暴力的に叩き割るような、狂乱した高圧蒸気の噴出音が炸裂した。


 ――シィィィィィィィィィィィィッ!!


「うわぁっ!?」


 僕は思わず頭を抱えてしゃがみ込んだ。それは、配管から漏れ出すような音ではなかった。巨大なパイプが物理的に破断し、内部の致死的な圧力が一気に解放された時の、物理法則が悲鳴を上げているような轟音だ。

 直後、通路の奥から信じられないほどの熱波が、目に見えるほどの陽炎となって押し寄せてきた。ただの熱気ではない。肌を刺すような、明確な殺意を持った過熱蒸気の濁流だ。


「な、なんだよ今の音……っ!」


 僕の脳裏に、最悪のビジョンがフラッシュバックした。

 如月瑠璃という人は、自らの命の危険よりも、事象の解体と真理への到達を優先する異常な精神構造の持ち主だ。もし彼女が、この地下に潜む事件のルーツに単独で辿り着き、犯人が仕掛けた何らかの致命的な物理トラップに足を踏み入れてしまったのだとしたら。


「如月さん……!」


 僕の足は、疲労も吐き気も熱さもすべて忘れ、轟音の発生源へと向かって無我夢中でコンクリートの床を蹴り出していた。

 配管の森を抜け、ボイラーの貯蔵サイロの脇を通り過ぎた先。僕の視界に飛び込んできたのは、完全な物理的断絶の光景だった。


 メンテナンス用の狭い並行通路の入り口。そこには、数分前までは存在しなかったはずの、太さ数センチはある無垢の鋼鉄で組まれた巨大な鉄格子が、天井から床を深く抉るようにして落下し、完全に退路を塞いでいた。

 そして、その分厚い鉄格子の向こう側は、破壊された主蒸気パイプの安全弁から猛烈な勢いで噴き出し続ける高圧の白煙によって、完全に純白の世界へと染め上げられていた。

 そこは、温度二百度に迫る過熱蒸気が充満する、逃げ場のない『灼熱の密室』だった。

 鉄格子の手前に立っている僕の顔面でさえ、格子越しに吹き付けてくる熱風によって皮膚が焼け爛れそうになるほどの異常な温度だ。もし人間があの中に閉じ込められているのだとしたら、呼吸をするだけで気道が完全に焼失し、数分と持たずに絶命するに違いない。


「嘘だろ……。如月さん! 如月さんッ、いますか!?」


 僕は蒸気の轟音に負けじと、喉が裂けるほどの声で叫びながら、落下した鉄格子に取りすがった。


「あつっ!」


 熱せられた鋼鉄の格子は、触れただけで掌の皮膚がジュワッと焼けるような熱を持っていた。僕は痛みに涙目を浮かべながらも、鉄格子の隙間から純白の蒸気の奥へと必死に目を凝らした。

 何も見えない。ただ、死の白煙が渦巻いているだけだ。

 僕の推論が間違っていて、彼女は今頃、地上の涼しい日陰で優雅にかためのプリンでも食べているのかもしれない。お願いだから、そうだと言ってくれ。

 そう祈りながら視線を床へと落とした瞬間、僕の心臓はヒュッと音を立てて凍りついた。


 白煙の向こう側。

 蒸気が最も薄く、かろうじて温度が低いであろう床すれすれの最下層。そこに、大正ロマンを象徴する深い紫の矢絣の着物が、身を屈めるようにしてうずくまっていたのだ。


「如月さん……!」


 間違いない。あの華奢なシルエットは、僕が探していた如月瑠璃その人だった。

 しかし、その姿は僕の想像していたパニック状態の被害者とは、決定的に異なっていた。

 彼女は、狂乱して鉄格子を叩くでもなく、熱さにのたうち回るでもなく、最高級の絹でできた着物の袖を幾重にも折り畳んで口と鼻をしっかりと覆い隠し、極めて静かな呼吸を保ちながら、床の網目に頬を擦りつけるようにして伏せていた。

 そして、自身の指紋というノイズを残さないために常にはめている純白のレースの手袋で、純銀製の懐中時計をしっかりと握りしめ、曇るガラス面を指で拭いながら、その規則正しく動く秒針を、ただ静かに、氷のように冷たい瞳で見つめ続けていたのだ。


 僕は、その姿を見た瞬間、全身の産毛が逆立つような戦慄と、どうしようもない安堵を同時に覚えた。

 彼女は、自分が文字通り茹で上げられて死ぬという絶対的な危機的状況にあっても、恐怖という情動のノイズを完全にシャットアウトしているのだ。パニックを起こせば酸素の消費量が跳ね上がり、高温の蒸気を吸い込んで致命傷を負うことを理解している。

 彼女は今、自らの肉体に迫る死の恐怖すらも『他人の事象』のように切り離し、自分が完全に絶命するまでのタイムリミットを、ただ冷酷な熱力学の計算として観測し続けているのだ。

 なんて異常で、傲慢で、そして、どうしようもなく彼女らしい姿なんだろうか。

 普通の人間なら恐怖で狂い死んでいる空間で、彼女は最後の瞬間まで知性を手放そうとしていない。だが、それは逆に言えば、彼女の計算上、もはや自力脱出は不可能であり、ただ死という結果を静かに待つしかない状態であることを意味していた。


「……冗談じゃないですよ。こんな所で茹でダコになって死ぬなんて、天才のやることじゃないでしょ……っ!」


 僕はショルダーバッグを乱暴に床に放り投げると、鉄格子から手を離し、周囲の壁面を血眼になって見回した。

 スマートシティの月見坂市であれば、こういうインフラの緊急停止は、管理センターのデジタルパネルをタップするだけで一瞬で完了する。僕の得意分野であるネットワークの介入があれば、三秒でシステムを掌握できる。

 だが、ここはデジタルが完全に死滅した大正ロマンの地下迷宮だ。物理的な蒸気の噴出を止めるには、物理的な力学の介入機構が必ず手前側に存在しているはずだ。

 あった。

 鉄格子から三メートルほど離れたコンクリートの壁面。そこには、大人が両手で抱え込むほどの大きさを持つ、巨大な真鍮製の『手動式緊急圧力停止バルブ』が設置されていた。表面は長年の埃と高粘度防錆油にまみれ、赤黒い錆がびっしりと浮き上がっている。何十年も使われていない、化石のような物理機構だ。


「これだ……これを閉めれば……!」


 僕はバルブに飛びつき、巨大な円形のハンドルに両手を掛けた。

 しかし、そのハンドルは、まるでコンクリートの壁と一体化しているかのように、ビクともしなかった。長年の錆と、内部の超高圧の蒸気が生み出す物理的な反発力が、僕みたいな文化系オタクの腕力など完全に嘲笑っていた。


「くっ、うぅぅ……動け、動けよぉっ!」


 僕は奥歯が砕けるほど食い縛り、全身の体重を腕に掛けてハンドルを押し込んだ。

 回らない。

 鉄格子越しの密室からは、二百度の熱風が間断なく吹き付け、僕の顔の皮膚をヒリヒリと焼き焦がしていく。肺が酸素を求めて悲鳴を上げ、視界が熱で赤く染まり始める。

 ふと、鉄格子の向こうでうずくまる紫の影が、限界を迎えつつあるように僅かに揺らいだのが見えた。彼女の絶対的なタイムリミットが、すぐそこまで迫っている。

 理性が『これ以上は無理だ、火傷する、逃げよう』と激しい警告を発していた。僕の手に負えるような力仕事じゃない。帰りたい。涼しい部屋で推しのライブ映像を見たい。

 でも。

 ここで僕が逃げたら、あの傲慢で、理屈っぽくて、他人の感情なんて一切理解しない、けれど誰よりも事象の真理に真摯な人は、あの純白の地獄の中で一人ぼっちで死んでしまう。

 そんなの、絶対に嫌だ。


「う、あぁぁぁぁぁぁぁぁっ!!」


 僕は、自分の喉から出ているとは思えないような、情けない絶叫を上げた。

 スマートフォンの画面しかタップしてこなかった柔らかい手のひらが、錆びついた真鍮のハンドルと強烈に摩擦し、皮がベロリと剥け、生々しい血が滲み出す。高熱を帯びたバルブの鉄が、剥き出しになった肉を直接焼き焦がす。


「痛い痛い痛いっ! でも、動けぇぇぇぇッ!!」


 僕の両腕の筋肉がちぎれんばかりに悲鳴を上げた瞬間。

 バキィッ、という長年の錆の層が物理的に砕け散る乾いた音と共に、巨大な真鍮のハンドルが、数ミリだけ左へと回転した。

 一度動けば、あとは惰性だ。僕は剥けた手のひらの激痛にボロボロと涙をこぼしながら、狂ったようにハンドルを回し続けた。重い歯車が噛み合う音が壁の奥で響き、一回転、二回転と回すたびに、通路の奥から聞こえていた蒸気の狂乱した咆哮が、徐々に弱まっていく。

 そして、ハンドルが完全に回りきり、ガチンッと重い音を立ててロックされた瞬間。

 鼓膜を破らんばかりのシィィィィという排気音が完全に停止し、地下迷宮に不気味なほどの静寂が舞い降りた。


「はぁっ、はぁっ、はぁっ……っ、いってぇ……」


 僕は膝から崩れ落ち、剥き出しのコンクリートの床に両手をついた。

 両手のひらは血と錆と油でドロドロになり、火傷の激痛が脈打つように全身を駆け巡っている。だが、休んでいる暇はない。

 僕は荒い息を吐きながらフラフラと立ち上がり、再び鉄格子の前へと向かった。

 蒸気の噴出が止まったことで、密室内の白煙はゆっくりと上部の排気口へと吸い込まれ、視界が徐々に開けていく。しかし、落下した巨大な鉄格子は依然として道を塞いだままだ。

 僕は周囲を見回し、ボイラーのメンテナンス用と思われる工具の山の中から、長さ一メートルほどの分厚い鋼鉄の鉄パイプを見つけ出した。それをつかみ取り、鉄格子の最下部と床のコンクリートのわずかな隙間に、斜めの角度で強引にねじ込む。


「物理の法則とかてこの原理とか、如月さんがいつも言ってるやつだ……! 上がれっ!」


 僕は鉄パイプの先端を床に固定し、反対側の端に自分の全体重を乗せて思い切り押し下げた。

 ギギギギィッ……という嫌な金属音を立てながら、数百キロの質量を持つ鉄格子が、床からわずか三十センチほど、強引に持ち上がった。

 人間一人が、地面を這いつくばってようやく通れるだけの狭い隙間。

 僕はそこに鉄パイプを噛ませて固定すると、火傷で水ぶくれになった両腕をその隙間から限界まで差し伸ばした。

 白煙の奥、床の網目の上で動かなくなっている紫の着物の肩口を、両手でしっかりと掴む。


「如月さん、手、手貸しますから……っ、早く!」


 僕は歯を食いしばり、背筋の力を総動員して、彼女の身体を鉄格子の下から強引に引きずり出した。

 大正ロマンの着物がコンクリートの床で擦れ、油と煤で黒く汚れていく。普段の彼女なら『ノイズがつく』と絶対に許さないような乱暴な扱いだが、今は文句を言われている場合じゃない。

 鉄格子の外側、比較的温度の低い通路の床まで彼女を引きずり出すと、僕はたまらず仰向けに倒れ込み、天井の暗がりを見上げながら激しくむせた。


「ゲホッ、ゴホッ……はぁ、はぁ……」


 隣に寝かせた如月さんの身体は、異常なほどの熱を帯びていた。

 まさか、遅かったのか。

 恐る恐る横を向くと、如月さんは口元を覆っていた絹の袖をゆっくりと外し、苦しそうに、だが確かな生命力を伴って咳き込んでいた。


「……コホッ、ゲホッ……」


 美しい黒髪は熱気と汗で額に張り付き、純白のレースの手袋は煤で汚れ、海老茶色の袴は油と僕の手の血で無惨に汚れている。孤高の天才鑑定士の優雅な姿は見る影もなく崩れていた。

 彼女はゆっくりと身を起こし、手袋の汚れを嫌悪するように見つめた後、深く息を吐き出しながら、隣で倒れ込んでいる僕の方を見下ろした。

 その氷のように冷たいアメジストの瞳には、感謝の光も、安堵の涙も一切浮かんでいない。ただ、計算外のノイズに対する極めて事務的な苛立ちだけが宿っていた。


「……遅いぞ、サクタロウ」


 熱で掠れた、しかし微塵も傲慢さを失っていない平坦な声が、僕の鼓膜を打った。


「わしのタンパク質が熱変性を起こし、完全に不可逆的なダメージを負うまでの臨界点まで、残り四十六秒であった。……これほど単純な事象のルーツをトレースし、物理的な障害を取り除くまでに、どれだけの時間を浪費しておる。まったく……救いようのない、愚鈍な下僕じゃな」


 その憎まれ口を聞いた瞬間。

 僕の両手の火傷の激痛も、肺が焼けるような苦しさも、すべてが嘘のようにスーッと引いていくのを感じた。

 なんて理不尽で、感謝の欠片もない、最高に最悪な主だろうか。

 でも、その変わらない不遜な態度こそが、彼女の脳髄が無事であり、一切の情動のノイズに汚染されずに生還したという何よりの証明だった。


「……ははっ」


 僕は煤だらけの天井を見上げたまま、火傷でただれた両手を力なく広げ、涙目になりながら心底ホッとしたように笑い返した。


「すみません……。ちょっと、広場で道草を食ってました」


 デジタルガジェットという現代の杖を奪われた僕と、物理的な死の淵に立たされた孤高の名探偵。

 このアナログで泥臭い旧式ボイラー区画の片隅で、血と油と煤にまみれながら、僕たち主従は再び、再会を果たしたのだった。



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