第3話『結合』(2)
クラスメイトたちの「どこ行くんだよ!」という制止の声を背中に浴びながら、僕は中央広場の石畳を蹴って走り出した。
肩から斜め掛けにしたショルダーバッグの中で、最新型のスマートフォンとタブレット端末が、ただの重たい文鎮と化して揺れている。僕にとって、デジタルネットワークから切断されるということは、世界を認識するための『神の目』と、情報に触れるための『無数の手』を同時に奪われることに等しい。それは現代の高校生として、いや、朔光太郎という一人のオタクとして、あまりにも絶望的で恐ろしい欠落だった。
普段なら、GPSのログを辿るか、防犯カメラの映像を解析ツールにかけて、如月さんの紫の矢絣の着物を特定し、最適ルートをはじき出せば済む話だ。十秒もあれば完了する。しかし、この分厚い赤煉瓦の建築群と、地下を奔流のように流れる高圧蒸気の電磁的ノイズが、僕の魔法を完全に無効化してしまった。
「……くそっ! デジタルが駄目なら、アナログで動くしかない!」
僕は舌打ちをしながら、広場の外れにある木造の古めかしい建物――『咲浜市観光案内所』へと飛び込んだ。
入り口のベルがカランカランと間の抜けた音を立てる。カウンターの中では、大正時代の女学生のような袴姿の初老の女性スタッフが、暇そうに編み物をしていた。
「いらっしゃいませ。何かお困りですか?」
「ち、地図を! このミュージアム街全体の、一番詳しくて細かい構造図みたいなの、ありませんか!?」
僕が血相を変えてカウンターに身を乗り出すと、スタッフは少し驚いたように目をパチクリとさせた。
「ああ、観光マップならそこのラックに……」
「そうじゃなくて! ただの観光スポットの案内じゃなくて、建物の裏側とか、地下の施設とかまで載ってるような、もっと実用的なやつです! インフラの図面でもいい!」
僕の切羽詰まった剣幕に押され、スタッフは困惑しながらも、カウンターの奥の引き出しから一枚の大きな折り畳まれた紙を取り出してきた。
「そこまで詳しいものとなると……これくらいしか。市が発行している『咲浜市ミュージアム街・全体構造俯瞰図』ですけれど。少し古いので、今の観光ルートとは違う部分もあるかもしれませんよ」
「それでいいです! いくらですか!?」
「いえ、それは無料のパンフレットですので……」
「ありがとうございます!」
僕はその分厚い紙の地図をひったくるように受け取ると、礼もそこそこに案内所を飛び出した。
外の強い日差しと、噴き出す蒸気の熱波が再び僕を包み込む。僕は広場の隅にあるガス燈の柱の陰に身を隠し、焦る手つきでその地図を広げた。
……扱いづらい。
普段、指先でのピンチアウトやスワイプで無段階に拡大縮小できるデジタルマップに慣れきった僕にとって、折り目が無数についたA2サイズの紙の地図は、ひどく不便で情報量を持て余す代物だった。現在地を示す青いドットもなければ、目的地のルート検索もしてくれない。文字は小さく、建物の構造はごちゃごちゃとした線で描かれている。
「落ち着け、僕。情報処理の基本は同じだ。まず現在地を確定して、そこから可能性のある経路を洗い出せ」
僕は自分に言い聞かせるように呟きながら、紙面の上に指を這わせた。
現在地は、中央広場。時計塔のすぐそば。
如月さんが姿を消したのは、自由行動が始まってからの一時間半の間。彼女がただの観光を楽しむはずがない。彼女の足が向くのは、必ず『ありえない場所に、ありえないモノが落ちている』という、物理的な矛盾が生じた特異点だけだ。
地図に目を凝らしていた僕の耳に、ふと、広場の奥――巨大な時計塔の裏手へと続く薄暗い路地の方から、複数の男たちの怒鳴り声が聞こえてきた。
「おい! そこは立ち入り禁止だ! 一般人は下がれ!」
ビクッとして顔を上げると、十メートルほど先の路地の入り口で、見慣れた制服姿の警官たちが数人がかりで、黄色と黒の規制線を張っているところだった。観光客たちが遠巻きに不安げな顔でそれを取り囲んでいる。
その警官たちの中心で、ひときわ周囲を威圧するように立っている、くたびれたトレンチコート姿の男。そして、その横でノートとペンを握りしめながら、やけに深刻ぶった顔をしている若い巡査部長。
月見坂市警の瀬田警部補と、如月瑠璃の狂信的な崇拝者である神宮寺巡査部長だった。
「なんであの二人が……月見坂市の刑事が、管轄外の咲浜市に……」
僕はガス燈の陰から彼らの様子を観察しながら、記憶のデータベースを急速に検索した。
つい先日、月見坂市の旧校舎の図書室で、神宮寺が如月さんに泣きつきながら持ってきた捜査資料。
『咲浜市で起きている、幸せそうな男女のペアを狙う連続神隠し事件』。
第一の事件から第三の事件まで、被害者は現場に大量の血痕と衣服の残骸を残したまま、肉体だけが完全に消失しているという不可解な不可能犯罪。瀬田警部補たちは、それを『異常な快楽殺人鬼の仕業』として、血眼になって犯人を追っていた。
そして昨夜、この時計塔の周辺で、ついに『第四の事件』が発生したというニュースがあったはずだ。
「……そうか。昨夜の第四の事件の現場が、あの時計塔の裏路地なんだ」
僕は確信した。警察がこれほど物々しい警戒態勢を敷き、広域捜査の刑事までが顔を揃えている。あそこが、最新の『連続神隠し事件』の凄惨な舞台であることは間違いない。
ならば、如月さんはあそこにいるのか?
僕は目を凝らして路地の奥を探ろうとした。しかし、規制線の向こうには、青ざめた顔で鑑識作業を行う警官たちの背中が見えるだけで、あの目を引く紫の矢絣の着物姿はどこにも見当たらなかった。
「いや、違う。如月さんがあんな『表のルート』にいるわけがない」
僕は首を横に振った。
如月瑠璃という人間は、警察の捜査というものを『愚鈍な番犬どもの無価値な群れ』と呼び、心の底から見下している。彼女は、警察が現場を荒らし、見当違いな推論で事象を汚染する前に、最も純粋な物理的痕跡に触れようとする。
もし彼女が、あの第四の現場に落ちていた矛盾を見つけたのだとしたら。
彼女は絶対に、瀬田警部補たちと顔を合わせるような真似はしない。警察の規制線など歯牙にも掛けず、あるいは警察すらも気づいていない『裏口』から、事件の深淵へと真っ直ぐにアプローチしているはずだ。
僕は再び手元の紙の地図に視線を落とした。
そして、自分の脳内を、如月瑠璃の異常なまでの『論理的思考回路』と同調させるためのシミュレーションを開始した。
「彼女なら、どう動く……? 被害者の肉体が消失したという不可能犯罪。もし彼女がその現場に立ったなら、オカルトや魔法なんて絶対に信じない。彼女が追うのは、消えた肉体が『物理的にどうやって運ばれたのか』という、極めて現実的な運搬経路だ」
百キログラムを超える大人二人分の肉体。それを、誰にも見られずに、痕跡も残さずに運ぶことなど、人間の腕力では不可能だ。
なら、どうやって?
車か? いや、大正ロマンを謳うこのミュージアム街の路地裏には、自動車が入り込めるような道はない。
だとすれば、残る手段は……。
「……インフラだ」
僕はハッとして、この街の構造そのものに目を向けた。
この咲浜市は、地下に巨大な旧式ボイラーを抱え、そこから生み出される高圧蒸気で街全体の動力を賄っているスチームパンクの街だ。地下には、無数の配管、歯車、そして石炭や灰を運ぶための搬送機構が、人間一人の力では到底及ばないほどの圧倒的な力学エネルギーを持って駆動している。
人間の腕力で運べないのなら、『機械の力』を使えばいい。
如月さんなら、現場のわずかな痕跡──血の引きずり痕や、摩擦係数の違いから、一瞬でその『機械的なからくり』を見抜くはずだ。そして、そのからくりが向かっている先――つまり、事件の物理的なルーツが眠る場所へと、一人で潜行していく。
僕は震える指で、地図上の時計塔の裏路地の部分をなぞった。
そこから、さらに深く、地下へと続く階層の表記。
網目状のグレーの斜線で塗りつぶされた、広大な区画。
そこに記されていた文字は、僕の予想を完全に裏付けるものだった。
『一般立ち入り禁止区画:旧式地下ボイラー動力室および、灰・石炭運搬用ダストシュート』
「ここだ…。絶対、ここだ」
僕の口から、乾いた声が漏れた。
時計塔の真下に広がる、一般の観光客は絶対に入れない、危険で高温の物理的暗部。
瀬田警部補たちは、地上の路地裏に残された血痕の周りで、『異常なシリアルキラーだ』『動機は怨恨か』と頓珍漢なプロファイリングをしているに違いない。彼らはまだ、この事件の本質が、地下インフラを利用した巨大な『物理のからくり』であることに気づいていないのだ。
だが、如月さんは違う。彼女の持つ『物理的観察眼』は、地上の些細な矛盾から、地下で蠢く巨大な機械の悪意をすでに見抜いている。
「彼女なら……行く。間違いなく、行く」
僕は、彼女の孤高で傲慢な横顔を思い浮かべた。
大正ロマンを象徴する紫の矢絣の着物に、編み上げブーツ。純白のレースの手袋。
あの地下ボイラー区画は、四十度を超える熱気と、防錆油の悪臭、そして服を黒く汚す煤と鉄錆にまみれた地獄のような環境に違いない。
普通の女子高生なら、服が汚れるのを嫌がり、暗がりを恐れ、熱気から逃げ出すだろう。
しかし、如月瑠璃という人間は、論理の果てに向かうためなら、美しい海老茶色の袴が油と血でドロドロに汚れることなど、一ミリも意に介さない。彼女にとって、物理的真理に到達すること以上の価値は、この世界に存在しないからだ。
「如月さん…。ガジェットも電波も使えないアナログな街で、一人でそんな深淵に踏み込んだら、何かあった時に誰が助けるんだよ」
僕の胸の奥で、恐怖とは違う、ひどく焦燥感に駆られた感情が沸き上がった。
僕はただの高校生だ。探偵でもなければ、警察でもない。喧嘩だって弱いし、熱いのも暗いのも大嫌いだ。
でも、彼女の考えていること、彼女が向かう先を、この世界で一番正確にトレースできるのは、警察でも明宮先生でもない。彼女の隣で、何度も心をへし折られながらも、その異常な思考プロセスを見続けてきた僕だけなのだ。
「助手の勘ってやつを、信じるしかない」
僕は地図を乱暴に折り畳んでショルダーバッグに突っ込むと、ガス燈の陰から飛び出した。
時計塔の裏手、瀬田警部補たちが封鎖している路地の入り口を、少し離れた位置から迂回する。警察の視線は、地上の血痕と野次馬に集中している。その『死角』を突くようにして、僕は地図に記されていた地下施設への入り口――観光ルートから外れた赤煉瓦の壁の隙間にある、錆びついた鉄格子のドアへと向かった。
ドアには南京錠が掛かっていた形跡があったが、掛け金は外れ、ドアは半開きになっていた。
蝶番のピンが、てこの原理を用いたような力学的な手段で、人為的に引き抜かれている。
これを見た瞬間、僕の仮説は確信へと変わった。
「如月さん。やっぱり、ここを通ったんだな」
ドアの隙間から漏れ出してくるのは、生温かく、ひどく重い空気だった。高濃度の防錆油が熱で焼ける強烈な匂いと、鉄が酸化する無機質で息苦しい匂い。そして、地の底から響いてくるような、ゴォォォン……という歯車が噛み合う不気味な重低音。
僕はゴクリと唾を飲み込み、スマートフォンのライト機能すら使えない状況に悪態をつきながら、覚悟を決めた。
(遅いぞ、サクタロウ。とか言って、呆れた顔で待っててくれよ)
僕は誰に聞かせるわけでもなくそう呟き、軋む鉄扉を押し開けて、熱気と暗闇が支配する旧式地下ボイラーの迷宮へと、一気に駆け下りていった。
自分がこの後、二百度の灼熱の密室という絶望的な状況に直面することなど、この時の僕は想像すらしていなかった。ただ、あの孤高の主の背中を追うことだけが、僕の脳内を占める唯一のプログラムになっていたのだ。




