第3話『結合』(1)
咲浜市ミュージアム街という場所は、控えめに言っても僕のような現代の高校生にとっては、ひどく居心地の悪い空間だった。
視界を埋め尽くすのは、重厚な赤煉瓦で造られた西洋建築と、そこかしこからシューッという甲高い排気音と共に噴き出す白い蒸気。石畳の通りにはガス燈を模した街灯が並び、すれ違う観光客の多くは、レンタルした矢絣の着物やインバネスコートに身を包み、大正ロマンという薄っぺらいノスタルジーの幻影に浮かれている。
僕がそんな貸衣装に数千円を払わなかったのは、単純に『推しのグッズ代に回したかったから』という俗物的な理由と、タブレットや大量の予備バッテリーを収納するには、いつものブレザーのポケットが一番機能的だったからだ。
そんな映画のセットのような街並みの中を、指定校のブレザー制服という極めて現代的で無粋な格好で歩いている僕は、どう控えめに客観視しても見事なまでの『異物』であった。
時刻は午後一時五十分。
僕は指定された裏通りの安宿に、着替えと、推しであるアイドルグループ『魚魚ラブ』のライブグッズ、そして予備のバッテリー類が大量に詰め込まれたキャリーケースを預け終え、身軽な状態で集合場所である中央広場へと向かっていた。肩から斜め掛けにしたショルダーバッグの中には、僕の相棒とも言える最新型のスマートフォン、十インチのタブレット端末、そしてノイズキャンセリング機能付きのワイヤレスイヤホンといった、現代の魔法の杖が静かに眠っている。
この街の景観保護条例とやらのせいで、街中にはWi-Fiのフリースポットはおろか、携帯電話の基地局のアンテナすら目立たないように隠されているらしい。まったく、アナログを気取るのもいい加減にしてほしい。情報へのアクセス速度が著しく制限されるこの街は、息をしているだけで僕の精神をじわじわと削っていくようだった。
「……それにしても、暑いな」
僕はブレザーの襟元を少し緩め、額に浮いた汗を手の甲で拭った。
季節はまだ本格的な夏には程遠いというのに、この街の空気は異常なほどに熱気を帯びている。それは太陽の熱ではない。足元の石畳の下、この街の地下全体に張り巡らされた無数の高圧蒸気パイプと、巨大な旧式ボイラーが放つ、物理的で暴力的な『熱』が、地表へと絶え間なく滲み出してきているのだ。
甘ったるいクレープの匂いや、観光客の香水の匂いの奥底に、どうしても隠しきれない鉄錆と高粘度防錆油の強烈な酸化臭が混ざっている。この街は、表向きは大正のロマンチシズムを着飾っているが、その皮を一枚剥げば、血の通わない巨大な機械の臓物が蠢いているのだ。僕にはどうしても、この街が巨大で不気味な生き物のように思えてならなかった。
中央広場に出ると、すでにうちのクラスの連中が数人のグループを作って集まり始めていた。引率の明宮先生が、首から下げたバインダーの出席名簿を神経質そうにボールペンで叩きながら、生徒たちの顔と時計を交互に見比べている。
午後二時。
広場の中心にそびえ立つ、巨大な真鍮の歯車が剥き出しになった時計塔から、腹の底に響くような重厚な鐘の音が鳴り響いた。それを合図にするように、明宮先生がパンパンと手を叩いて声を張り上げる。
「えー、時間だ! 全員揃っているか? 各班の班長は点呼をとって報告しなさい。ここからは団体行動で、隣の区画の産業博物館を見学するからな」
しかし、その点呼はすぐに暗礁に乗り上げた。
僕が所属する第五班の班長である女子生徒が、困り果てたような顔で明宮先生の前に進み出たのだ。
「先生……如月さんが、いません」
「なんだと?」
明宮先生の声が裏返った。無理もない。あの『如月コンツェルン』の令嬢であり、うちの学園の理事長である如月弦十郎を祖父に持つ、如月瑠璃。彼女に万が一のことがあれば、一介の理科教師である明宮先生の首など物理的に一瞬で吹き飛んでしまう。
「探したのか!? トイレは? クレープ屋の列に並んでいるとか!」
「い、いえ、自由行動になってから、誰も如月さんの姿を見ていなくて……。それに、あんな目立つ紫の着物、広場にいれば絶対に見つかるはずなんですけど……」
周囲の生徒たちがざわざわと騒ぎ始める。「またあの如月さんの単独行動かよ」「協調性ゼロだよね」「まあ、天才サマだから私たち凡人とは違うんでしょ」といった、呆れと微かな妬みが混じった囁き声が僕の耳にも届く。
明宮先生は血相を変え、額に冷や汗を浮かべながら周囲を見回している。
「ど、誰か彼女のスマートフォンに連絡を……いや、あの如月さんが現代の通信機器など持ち歩いているはずがない! くそっ、どうすれば……!」
パニックに陥りかけている明宮先生を横目に、僕は無言でショルダーバッグから自身のスマートフォンを取り出した。
如月さんは確かにデジタル機器を毛嫌いしているが、僕と彼女の間には、僕が一方的にGPSの発信機を彼女の荷物に忍ばせようとして物理的に破壊された、という血を洗うような攻防の歴史がある。今の僕は、彼女の居場所を直接トレースすることはできない。
だが、僕には僕のやり方がある。防犯カメラのネットワークにアクセスし、紫の矢絣の着物という極めて特徴的な視覚情報を画像認識AIに拾わせれば、彼女がこの広場からどの方向へ消えたのか、五分もあれば特定できるはずだった。
「……なっ」
スマートフォンのロックを解除し、自作の解析ツールを立ち上げようとした僕の喉から、間の抜けた声が漏れた。
画面の右上。電波の受信状況を示すアンテナのアイコンに、『×』のマークが冷酷に点灯していたのだ。
「圏外……? ばかな、ここは観光地の中央広場だぞ。フリーのWi-Fiが飛んでいないにしても、キャリアの電波まで完全に死んでるなんてありえない……!」
僕は舌打ちをし、すぐさま大容量の十インチタブレットを取り出して電源を入れた。こちらは別の通信回線を契約しているデュアルシム仕様だ。しかし、結果は同じだった。画面には『オフライン』の文字が無機質に表示されているだけだ。
僕は周囲を見回した。クラスメイトの何人かもスマートフォンをいじっているが、「あれ? 電波なくない?」「最悪、写真アップできないじゃん」と不満げに画面を叩いている。
ただの通信障害か? いや、違う。
僕は足元から伝わってくる微かな振動と、鼻を突く鉄の酸化臭から、この『電波障害』の物理的なルーツを即座に演繹した。
ここは咲浜市のミュージアム街。重厚な赤煉瓦と、鉄骨のフレームで組まれた分厚い建築群。そして何より、地下深くに張り巡らされた巨大な高圧蒸気パイプと、それを動かす莫大なメインギアの群れ。
これほどの質量の鉄が地下で絶え間なく運動し、摩擦を起こし、熱を発生させていれば、空間全体に極めて強力な『電磁的ノイズ』が撒き散らされるのは物理学の必然だ。それに加えて、この分厚い煉瓦の壁がファラデーケージのような役割を果たし、外部からの電波を物理的に遮断しているのだ。
「くそっ。この街全体が、巨大なアナログのジャミング装置みたいなものじゃないか」
僕はタブレットを鞄に放り込み、ギリッと奥歯を噛み締めた。
僕にとって、デジタル機器とネットワークに接続できない状態というのは、文字通り『目隠しをされて両腕を縛られている』のと同じだった。世界中のあらゆる情報に秒速でアクセスし、事象を俯瞰する『神の目』を奪われた僕は、ただの無力でひ弱な高校生に成り下がる。
明宮先生はついに「私が探しに行ってくる! 君たちはここで待機!」と叫び、当て当てもなく広場の外へと駆け出していってしまった。残された生徒たちは「なんだよ、せっかくの旅行なのに」と不満を口にしながら、日陰に座り込んでいる。
彼らは、如月さんがただの『道に迷ったお嬢様』か、あるいは『集団行動を嫌ってサボっている我儘な天才』だと本気で思っているのだ。
だが、如月瑠璃の助手であり、そして彼女から『下僕』と呼ばれながらも、彼女の最も近くでその異常なまでの思考プロセスを観察し続けてきた僕には、はっきりとわかっていた。
彼女は、ただの迷子になど絶対にならない。
彼女の脳内には常に完璧な空間座標がマッピングされており、現在地を見失うような凡ミスは絶対に犯さない。そして、彼女は普通の女子高生のように、美味しそうなスイーツの匂いに釣られたり、可愛いアンティークの洋服に目を奪われてフラフラと寄り道をするような人間でもない。
如月瑠璃という孤高の天才鑑定士の足が止まり、その紫のアメジストの瞳が動くのは、この世界にただ一つの条件が満たされた時だけだ。
(『ありえない場所に、ありえないモノがある』。……その物理的な矛盾と、隠されたルーツを発見した時だけだ)
背筋に、氷を滑らせたような強烈な悪寒が走った。
彼女は、僕たち凡人が気づきもしないようなこの街の表面にこびりついた『微細なノイズ』を見つけ出したのだ。そして、それが警察すらも怯えるような連続襲撃事件に繋がる凄惨なルーツであったとしても、彼女は絶対に僕を頼ったり、警察を呼んだりしない。
なぜなら、彼女にとっての最優先事項は『自分の命の安全』ではなく、『事象の解体と観測』だからだ。
危険だと分かっていても、そこに解き明かすべき矛盾のパズルがあるのなら、彼女は一切の躊躇なく、たった一人でその真っ暗な深淵へと足を踏み入れてしまう。
「……如月さん」
僕は、足元の石畳にある無骨な鉄の排水溝の蓋を見下ろした。
そこからは、地下のボイラーから漏れ出した白い蒸気と、むせ返るような鉄と血の匂いが、ゆらゆらと立ち上ってきている。
僕の最大の武器であるデジタルガジェットは、この熱と鉄の街では完全に沈黙し、ただの重たい文鎮に成り果てた。
だが、僕にはもう一つの武器がある。
それは、如月瑠璃という規格外の天才の隣で、ひたすらに罵られ、こき使われながらも、彼女の『異常な思考回路』を誰よりも近くでトレースし続けてきたという、助手としての絶対的な『勘』と『理解』だ。
「ここで待っていても、あの人は絶対に帰ってこない。……連れ戻しに行くしかないじゃないか。この、救いようのないアナログな足を使って」
僕は、クラスメイトたちの「どこ行くんだよ!」という制止の声を完全に無視し、鞄の紐を固く握りしめると、熱気と蒸気が渦巻く大正ロマンの街の裏側――暗く深い物理的なルーツが眠る場所へと向かって、一人で駆け出した。




