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第16巻:如月令嬢は『蒸気の密室を誤認しない』  作者: アリス・リゼル


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第4話『証明』(1)

 巨大なリベットが何十個も等間隔に打ち込まれた、異常なほどに重厚な鋼鉄の扉。

 長年の湿気と高熱に晒され、赤黒い錆が表面をびっしりと覆い尽くしているその冷たい金属の塊に、僕は火傷で水ぶくれになり、皮がズルズルに剥けきった両手を押し当てた。

 ハンカチ越しに伝わってくる硬質な冷たさと、その奥底から脈打つように響いてくる巨大な機械の振動が、すでに悲鳴を上げている僕の痛覚神経をさらに容赦なく蹂躙していく。ただ手を触れているだけでも、脳髄を直接太い焼き鏝でかき回されるような、視界が白く飛ぶほどの激痛が走った。

 だが、ここで立ち止まって弱音を吐くという選択肢は、僕の辞書からはとうの昔に物理的に削除されていた。

 僕の後ろには、瀬田警部補と神宮寺巡査部長という、月見坂市警が誇る本物の警察官たちが、ニューナンブのグリップを固く握りしめ、極度の緊張と共に控えている。

 そして何より、すぐ真横には、この理不尽極まりない世界において唯一、絶対に揺らぐことのない絶対的な真理の象徴――如月瑠璃という孤高の天才鑑定士が、氷のように冷たいアメジストの瞳で、扉の向こう側に潜む事象のルーツを解体すべく静かに待ち構えているのだ。

 助手の役目は、如月瑠璃が歩むべき道を塞ぐ物理的な障害(ノイズ)を、泥臭く排除すること。僕がこの扉を開けなければ、物語は解決編へと一歩も進まない。


「……ッ、うおおおぉぉぉぉッ!」


 僕は奥歯が砕けそうになるほど強く噛み締め、両足の編み上げブーツでコンクリートの床をしっかりと踏みしめると、全身の体重と残された筋力のすべてを、両腕に乗せて真っ直ぐに押し込んだ。


 ギギギ、ギギギギィィィィッ……!


 錆びついた巨大な蝶番が、長年の眠りを妨げられたことを怒るかのように、鼓膜を劈くような極めて不快な金属の摩擦音を立てる。数十キロ、あるいは数百キロの質量を持つであろう鋼鉄の扉が、僕の不格好な蛮力によって、ミリ単位で、しかし確実に内側へと押し開かれていった。

 隙間が十センチ、二十センチと開くにつれ、扉の向こう側から、目も眩むような強烈なオレンジ色の光と、空気を物理的に振動させるほどの重厚な轟音が、津波のように押し寄せてきた。


「はぁっ、はぁっ、開いた……!」


 僕が全体重をかけて扉を半開きにした瞬間、背後に控えていた瀬田警部補と神宮寺巡査部長が、その隙間から一気に内部へと突入の姿勢をとった。僕もまた、よろめく足を必死に踏ん張りながら、如月さんと共にその空間へと足を踏み入れた。

 そこは、咲浜市の地下インフラの心臓部であり、この大正ロマンの街のすべての動力を生み出している巨大な胃袋――『巨大機関室』であった。

 内部のスケール感は、これまで通ってきたメンテナンス通路などとは比較にならないほど常軌を逸していた。数階建てのビルほどもある巨大な円筒形のメインボイラーが、空間の最奥に何基も鎮座し、その炉心部からは、石炭の燃える猛烈な炎の光が、耐熱ガラスの覗き窓越しに周囲を赤々と、そして暴力的に照らし出している。

 ボイラーから生み出された超高圧の蒸気は、太さ一メートルはあろうかという巨大な主蒸気パイプを通って各所へと分配され、至る所に設置された真鍮製の巨大なタービンと歯車群を、狂ったような速度で回転させていた。カシャン、ゴトン、シュゥゥゥゥッという、鉄がぶつかり合う重低音と、高圧気体が噴き出す甲高い排気音が入り混じり、機関室全体がひとつの巨大な機械生命体のように不気味な脈動を打っている。

 室温は優に五十度に達しているだろう。空気中の湿度はほぼ飽和状態であり、息を吸い込むたびに、熱湯のような気体が肺の粘膜を直接撫でるような感覚に襲われる。油と煤、そして石炭の燃えカスが入り混じった独特の悪臭が、空間全体にねっとりとこびりついていた。


 だが、僕たちの視線は、その圧倒的なスチームパンクのインフラ設備ではなく、機関室の中央――計器類と無数のバルブが並ぶ、一段高くなった鉄格子の操作プラットフォームの上へと、完全に釘付けになっていた。

 そこには、警察が血眼になって探し求めていた、すべての事件の起点が、あまりにも悲惨な、そして俗物的な姿で存在していたのである。


「……由美子さん」


 僕の口から、掠れた声が漏れた。

 プラットフォームの中央に無造作に置かれた、錆びたパイプ椅子。そこに、一人の若い女性が、太く頑丈な鋼鉄のワイヤーで、胴体から両腕、両足に至るまで、何重にもぐるぐる巻きに縛り付けられていたのだ。

 彼女こそが、二週間前の『第一の事件』で父親と共に襲われ、現場から忽然と姿を消した被害者、山崎由美子その人だった。

 ニュースの報道写真で見た、上品で快活そうな面影はどこにもない。着ていたであろうブラウスやスカートは所々が破れ、地下の劣悪な環境のせいで油と煤で真っ黒に汚れきっている。頬は痩せこけ、唇は極度の乾燥でひび割れ、うつむいたままぴくりとも動かない。生きているのか死んでいるのかすら一瞬判別できないほど、完全に衰弱しきっていた。

 長期間に及ぶ地下の灼熱地獄での監禁。そして、遺産譲渡の書類に署名をさせるための、執拗で非人道的な拷問があったことは、彼女の腕や脚に覗く無数の打撲痕や擦過傷が、何よりも雄弁に物語っていた。


 そして。

 そのパイプ椅子に縛り付けられた由美子さんのすぐ傍ら、操作パネルの計器の前に、一人の男が立っていた。

 くすんだ灰色の、あちこちに油の黒い染みがついた厚手の作業着。頭には薄汚れた安全帽を被り、足元には重そうな安全靴を履いている。体型は中肉中背で、どこか運動不足を感じさせる小太りのシルエット。年齢は五十代半ばといったところか。その男の右手には、長さ五十センチはあろうかという、凶悪な質量を持った鋼鉄製のモンキーレンチが、鈍い光を放ちながら固く握りしめられていた。


 山崎(やまさき)昭一(あきかず)

 由美子さんの叔父であり、この巨大機関室を含む咲浜市のインフラ管理を任されている関連子会社の社長。

 警察の目を完全に欺き、大正ロマンの街を震え上がらせていた『連続男女ペア襲撃事件』の真犯人。

 神出鬼没の怪物、人間の肉体を跡形もなく消し去る悪魔――警察がプロファイリングし、世間が恐れおののいていたその幻影の正体は、たった今、僕たちの目の前で完全に丸裸にされた。

 そこにいたのは、映画や小説に出てくるような、冷酷で知的な殺人鬼でもなければ、常人には理解しがたい異常な美学を持った快楽殺人者でもなかった。

 金と権力という、あまりにも陳腐で下世話な欲に目が眩み、自分の姪を地下の熱波の中に監禁して拷問を続ける、ただの小悪党。

 あまりにも凡庸で、あまりにも醜悪な、人間のエゴの到達点がそこにあった。


「動くなッ!! 警察だ!! 凶器を捨てて両手を上げろ!!」


 巨大な機関室の轟音を切り裂くように、瀬田警部補の腹の底からの怒声が響き渡った。

 瀬田はトレンチコートの裾を翻し、神宮寺巡査部長と共に、プラットフォームへと続く鉄製の階段の下まで一気に距離を詰める。二人の手には、黒光りするニューナンブが真っ直ぐに構えられ、銃口はプラットフォーム上の山崎昭一の心臓を正確に捉えていた。


 その瞬間だった。

 昭一は、警察の姿と自分に向けられた銃口を視認するなり、ビクッと大げさに肩を震わせ、持っていた巨大なレンチを『ガランッ!』と鉄格子の床に落とした。

 そして、両手を高く顔の横まで上げ、まるで地獄に仏を見たかのような、悲痛で切羽詰まった声を張り上げたのだ。


「け、警察の方ですか!? 撃たないでください、私はこのインフラ施設の責任者の山崎です! ああ、よかった……助けに来てくれたんですね!」


「……何?」


 瀬田警部補が、予想外の反応に一瞬だけ銃口を揺らす。彼らは、ここにいるのが『血に飢えた猟奇殺人鬼』だと思い込んでいるからこそ、この善人を装った態度に猛烈な違和感と戸惑いを覚えたのだ。

 だが、昭一の演技は続く。


「先ほど地下の異常警報が鳴ったので、何事かと思って一人で確認に下りてきたんです! そしたら、行方不明になっていた姪の由美子が、こんな酷い姿で縛り付けられていて……!」


 昭一は顔面を恐怖で蒼白に引きつらせ──あるいはそう見事に演技し──、震える指先で、機関室のさらに奥、巨大ボイラーの裏側にぽっかりと口を開けているダストシュートの搬入口の暗がりを指差した。


「犯人は……あの連続殺人鬼は、私がこの扉を開けた瞬間に、あっちの暗がりへ逃げていきました! 黒いコートを着た、大柄な男でした! 早く、早く奴を追ってください! 私は姪の拘束を解きますから!」


 極めて理路整然とした、第一発見者としての完璧な主張。

 自分は施設の管理者であり、ここにいる正当な理由がある。姪を助けようとしていたところであり、真犯人は奥の闇へ消えた、と。


「先輩! 犯人がこの奥に!」


 神宮寺巡査部長が血相を変え、拳銃を構えたままダストシュートの方向へ駆け出そうとする。瀬田警部補もまた、「神宮寺、お前はここでこの男と人質を確保しろ! 俺が追う!」と叫び、昭一の言葉を完全に信じ込んで走り出そうとした。


 警察の(さが)だ。彼らは『逃げる背中』という動的な情報を提示されると、論理的思考よりも先に、狩猟本能でそれを追いかけてしまう。昭一の安っぽい三文芝居は、警察のその習性を完璧に突いていた。

 彼が企てた連続殺人という『森の偽装』は、最後の最後まで機能しようとしていた。


「待て、番犬ども。どこへ行くつもりじゃ」


 だが、その騒々しい警察の動きを、冷徹で絶対的な声が背後から縫い留めた。

 如月瑠璃だった。

 彼女は、大正ロマンの着物の袖を優雅に払いながら、瀬田と神宮寺の前にスッと立ち塞がり、ダストシュートへ向かう動線を物理的に遮断したのだ。


「き、如月のお嬢ちゃん!? どけ、犯人が逃げちまうだろうが!」


 瀬田が焦燥を露わにして怒鳴るが、瑠璃は微塵も動じない。彼女は呆れ果てたように深くため息をつくと、冷ややかなアメジストの瞳を、プラットフォームの上で両手を上げている山崎昭一へと真っ直ぐに向けた。


「逃げる犯人など、最初からどこにもおらぬ。お主らの目は、節穴どころかただのガラス玉か?」


「な、何を言ってる! そこの男は第一発見者だと言っているだろうが!」


「そこにいる、安っぽい三文芝居を打っている油まみれの小悪党。……そやつこそが、この連続殺人を偽装したすべての事象の真犯人(ルーツ)じゃ。それ以外のノイズなど、この空間には一ミリも存在せぬ」


 その断言に、機関室の空気が一瞬にして凍りついた。

 瀬田警部補の銃口が下がり、神宮寺の足が止まる。


「な、何を言っているんだ君は! 私は様子を見に来ただけだと言っているだろう!」


 昭一が、引きつった声で反論する。


「警察の方、早くその頭のおかしい小娘をどかして犯人を追ってください! 姪がこんなに衰弱しているんですよ!」


 必死に善人を装うその顔の表面には、しかし、隠しきれない焦燥の脂汗が滝のように滲み出していた。彼は本能的に察知していたのだ。眼の前に立つ紫の着物の少女が、ただの口を開いた子供ではなく、自らの完全犯罪のシナリオを根底から解体しにきた『本物の死神』であることを。

 瀬田警部補も戸惑ったように銃を構えたまま、「お嬢ちゃん、こいつは施設の管理者だ。地下にいてもおかしくねえし、第一発見者だって言ってる。証拠もなしに犯人扱いは……」と口ごもる。

 警察の捜査とは、常に証拠と法律の壁に縛られている。昭一が『自分は第一発見者だ』と強弁し、凶器から指紋が出ず、犯行を立証する直接的な証拠がなければ、裁判で言い逃れをされるリスクがゼロではない。このアナログな地下迷宮において、彼の犯行を決定づける証拠など、彼らには何一つ見つけられていなかった。


 だが、その警察の懸念を、論理の刃が一瞬にして切り裂いた。


「見苦しい弁明は終いにするのじゃ、山崎昭一」


 如月さんが、氷のように冷たく、そして絶対的な確信に満ちた声で宣告した。

 彼女は、狂乱を隠して必死に言い逃れようとする昭一に向かって、ゆっくりと、一段ずつ鉄の階段を登り始めた。その足取りには、相手に対する警戒など微塵も感じられない。


「連続殺人鬼が逃げていったじゃと? 存在しない森の幻影に責任を転嫁し、自らの罪から目を逸らす。……実に愚鈍で、反吐が出るほど凡庸な思考回路じゃな。お主がこの醜悪な偽装劇の主人公であることは、すでに完全なる物理的証明によって導き出されておる」


「ふざけるな! 防犯カメラの一つもないこの地下で、私がやったという証拠がどこにある!」


 昭一が怒鳴る。その通りだ。このアナログな世界には、彼の犯行を録画している電子の目など存在しない。


 しかし、如月瑠璃の唇には、残酷なまでに美しい冷笑が浮かんでいた。


「防犯カメラの電子データ? そのような脆く、改ざんが容易なデジタル情報などに頼る必要はどこにもない。……お主自身が、己の身体にこびりついた汚れを用いて、絶対に消すことのできない『物理的な署名(サイン)』を、現場に書き残してきておるではないか」


署名(サイン)……だと?」


「思い出すのじゃ。第四の事件の直前、お主は別の場所から、第一の被害者である由美子、あるいはダミーの被害者を運搬していたはずじゃな。その際、お主はこの時計塔の『裏階段』を利用し、中間層である三階の踊り場を通過した」


 その瞬間、巨大機関室という暴力と死の予感が支配していた空間は、如月瑠璃という名探偵の言葉によって、完全なる『論理と推理の法廷』へと強制的に書き換えられた。

 瀬田警部補の銃口が下がり、昭一の顔面から一切の余裕が消え失せる。

 誰もが、この大正の幻影を纏った美しき怪物から放たれる、圧倒的な知性の輝きから目を逸らすことができなくなっていた。

 解決編の幕は、如月瑠璃の絶対的な支配のもと、ついに切って落とされたのである。



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