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第94回 日本史上の兄弟について

 私には3つ年上の兄がいますが、正直、仲はあまり良くありません。


 というのも、兄が無口なので、一緒にいても話が進まず、間が持たない、というのもありますが。まあ、極端に仲が悪いわけではないですが、微妙な距離感です。


 兄弟というのは、同じ環境に生まれたのに、正反対になることがよくあり、うちの兄弟がまさにそんな感じ。性格も趣味も食べ物の好みも全くの正反対なので、なかなか合わないというのもあるのかもしれません。


 と言うことで、今回は「近くて遠い存在」兄弟について。

 日本史上で、有名な兄弟について、ざっくり解説します。


①源頼朝・義経

 ある意味、日本史で最も有名な兄弟。ちなみに頼朝は三男、義経は九男で、年は12歳も離れています。

 まあ、彼らについては今さら語るべきこともないと思いますが、源平合戦で兄の元に駆け付けた義経が各地で大活躍。

 しかし、頼朝の許可を得ることなく官位を受けたことや、平氏との戦いにおける独断専行から、兄と対立。

 ついには「朝敵」とされ、追われる立場になり、ご存じのように奥州平泉で、藤原氏を頼るも、頼朝に攻められ、自害。

 後白河法皇の策謀に巻き込まれた、というか利用されたとも言えます。義経が生き延びて、大陸に渡り、チンギス・ハンになったという説はかなり眉唾物《まゆつばもの》ですが。


②足利尊氏・直義《ただよし》

 尊氏は次男、直義は三男で、2つ違い。

 直義は、最初は兄のために懸命に働き、室町幕府の草創期において、「三条殿」と称されて実質的な幕政の最高指導者となり、公卿の地位に登っています。また、卓越した政治的手腕によって幕政の礎を築き、北朝の光厳上皇との関係強化にも努め、厚い信頼を得ました。

 ところが、彼の政策は非常に保守的で、鎌倉幕府の古法を多く模倣しており、その後、革新派の執事の高師直《こうのもろなお》との間で、政策や養子の直冬《ただふゆ》の処遇を巡る対立関係が発生します。そして、観応《かんのう》の擾乱《じょうらん》という武力闘争に発展し、最終的には薩埵峠《さったとうげ》の戦いで実兄の尊氏に敗れます。

 鎌倉に蟄居《ちっきょ》の後、政敵の師直が暗殺された丁度一年後という日付に急死を遂げていますが、これは毒殺だったとも言われています。


③織田信長・信行《のぶゆき》

 信長は長男、信行は次男。2歳違いの同母弟と言われています。名前は「信勝」とも。

 これも有名ですが、「うつけ」と言われ、将来を案じた織田家中の者に担がれる形で、信行が信長に謀反を起こします。

 しかも、うつけと言われていた信長があっさり信行を撃破。最初こそ許しますが、二度目の謀反でさすがに立場的に許せなくなった兄・信長が、「病気」と称して清洲《きよす》城に信行を呼び、そこで殺されたと言われています。


④武田信玄・信繁

 信繁は信玄の4つ下の同母弟。典厩《てんきゅう》とも呼ばれました。実は信玄らの父・信虎が信繁の方を可愛がっていたとも言われています。

 非常に優秀で、文武両道で活躍。兄のために献身的に尽くしますが、永禄4年(1561年)9月10日、第4次川中島の戦いで討死してしまいます。享年37。

 なお、この信繁の名にあやかって、息子に「信繁」と名付けたのが、かの真田昌幸だと言われています。


⑤真田信之・信繁(幸村)

 信之は長男、信繁は1個違いの同母弟。こちらも非常に有名ですね。父は真田昌幸。

 兄弟仲は非常に良かったようです。

 有名なのは、関ヶ原の戦いの前の「犬伏の別れ」で、ここで、昌幸と信繁が西軍に、信之が東軍につくことを決めた、と言われ、これは「どっちが勝っても真田が生き延びる」という昌幸の戦略だったと言われていますが、実は信之の妻が、徳川四天王の本多忠勝の娘なので、単純にその縁から、東軍についたと見ることも出来ます。なお、信繁の妻は西軍側の大谷吉継(よしつぐ)の娘なので、こちらも西軍に縁があります。

 後は、皆さんご存じのように、信繁が大坂の陣で、華々しく散って、真田の「名」を残したのに対し、信之は真田の「家」を残しました。

 なお、信之は当時としては異例の長寿と言える93歳まで生きてます。今でも通じる十分すごい長寿ですね。


⑥豊臣秀吉・秀長

 今年の大河ドラマの主役で有名になった気がしますが。

 秀吉と秀長は3つ違い。母は同じですが、父が異なるとも言われています。兄・秀吉が天下人になり、弟・秀長は大和大納言(だいなごん)と呼ばれ、内政・軍事両面で兄を助けました。

 各方面で活躍し、四国遠征では秀吉に代わって、10万を超える軍の総大将になっています。

 しかし、兄に先立ち、天正19年(1591年)、秀長は郡山城で病死しました。享年52歳。この秀長が亡くなったことにより、豊臣家は転落することになります。

 というより、徳川家に比べ、豊臣家は「血」のスペックが少なかったので、家を残せなかったとも言えます。

 戦国時代において、血脈を残すというのが非常に重要だったので。


⑦徳川家光・忠長

 家光は秀忠の長男。忠長は次男。2つ違いの同母弟です。

 家光は徳川幕府の三代将軍として有名。忠長は領地が主に駿河《するが》国(現在の静岡県の東部)だったことから、通称は駿河大納言とも呼ばれました。

 幼名は国千代。

 父・秀忠や母・達子(お江《ごう》)は、病弱で吃音《きつおん》があった兄・竹千代(家光)よりも容姿端麗・才気煥発な国千代(忠長)を寵愛していたと言われ、大伯父である織田信長に容姿が似ていたのも理由の一つだったとも言われています。

 やがて、忠長と名乗りますが、一説には「忠」は秀忠から、「長」は信長から取られた名前だったとも言われています。

 しかも、元和9年(1623年)11月7日に織田信良の娘・昌子と婚姻しています。

 ただ、忠長は気性が荒かったようで、殺生を禁じられている場所で猿を殺したり、鷹狩りに出かけた際に雪が降り、忠長が寺で休息していた時に、小姓・小浜七之助が雪で濡れていた薪に火を付けられなかった事に癇癪を起こし手打ちにしてしまうなど乱行が目立つようになります。

 結局、兄・家光により、忠長は甲府への蟄居を命じられ、寛永10年(1633年)12月6日、幕命により高崎の大信寺において切腹しました。享年28歳と若いのに亡くなってしまったわけです。


⑧秋山好古(よしふる)・真之《さねゆき》

 最後は、明治時代に活躍した有名な二人。司馬遼太郎の名著「坂の上の雲」の主人公として有名。

 兄・好古は1859年生まれ、弟・真之は1868年生まれで、9歳違い。

 好古は、陸軍に入り、騎兵として活躍。後に日露戦争の沙河《さか》会戦、黒溝台《こっこうだい》会戦、奉天《ほうてん》会戦などで騎兵戦術を駆使してロシア軍を打ち破る活躍を見せ、「日本騎兵の父」と呼ばれるようになります。

 一方、弟・真之は海軍に入り、日露戦争では連合艦隊司令長官、東郷平八郎の下で作戦担当参謀となり、第1艦隊旗艦「三笠」に乗艦。

 ロシア海軍旅順艦隊(太平洋艦隊)撃滅と封鎖のための旅順口《りょじゅんこう》攻撃と旅順港閉塞作戦において機雷敷設などを立案。ロシアのバルチック艦隊が回航すると迎撃作戦を立案し、日本海海戦の勝利に貢献しました。

 また、日本海海戦出撃の際の報告電報の一節で、後に名文と評された「本日天気晴朗(せいろう)ナレドモ浪高《なみたか》シ」や、「聯合(れんごう)艦隊解散之辞」の起草者としても知られています。

 なお、好古は写真を見てもわかりますが、彫が深く、西洋人風の顔立ちをしており、海外で西洋人と間違われたとも言われています。


 ということで、ざっくりですが、主な兄弟。

 他にも伊達政宗と弟、毛利三兄弟、島津四兄弟などもいますが。


 いずれにしろ、弟が「殺される」ケースが多いのが、次男の自分としては残念。

 兄弟というのは、血が近い分だけ実は難しいものなのです。


 ある意味、「親より遠い存在」に思えることが多々あります。まあ、それでもなんだかんだで兄が自分のことを心配してくれてるというのを感じることはありますが。

 切っても切れない縁ですからね。

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