第93回 お雇い外国人について
最近は、日本政府が際限なく外国人を入れまくって、正直うんざりしてます。
まともな人で、日本文化にリスペクトがある人ならいいんですが、明らかに「劣化」した不法外国人が多すぎるんです。
だから治安が悪くなるんですが。
さて、タイトルのように、「お雇い外国人」というのを、明治の初めに政府が呼びました。
彼らこそまさに「高度人材」に当たると思うわけで、今のように「高度人材」と言いつつ、簡単な作業をやらせたり、コンビニ店員やらせたりというわけではなかったのです。
では、以下、有名なお雇い外国人を簡単に紹介します。
・ウィリアム・スミス・クラーク(1826~1886)
クラーク博士、「少年よ大志を抱け」で有名なアメリカ人。北海道の札幌農学校(現在の北海道大学)に呼ばれ、植物学、自然科学一般を英語で教え、キリスト教の教育も行ってます。
ところが、彼は帰国後に、マサチューセッツ農科大学の学長を辞め、洋上大学の開学を構想するも資金が集まらず頓挫、生活費に困るようになっていたときに出資者を募って知人と共に鉱山会社「クラーク・ボスウェル社」を設立して7つの鉱山を買収します。
当初は大きな利益を上げますが、その知人が横領を繰り返し、その果てに逃亡、設立から1年半で破産、負債を背負ってます。
さらに、叔父から破産をめぐる訴訟を起こされ、裁判で罪に問われることはなかったものの、晩年は心臓病にかかって寝たり起きたりの生活となり、1886年3月9日、失意のうちに59歳でこの世を去ってます。
なお、アメリカではクラークは全然有名でありません。
・アーネスト・フランシスコ・フェノロサ(1852~1908)
同じくアメリカ人。アメリカ合衆国の東洋美術史家、哲学者で明治時代に来日したお雇い外国人。日本美術を評価し、紹介に努めたことで有名。
フェノロサが来日したのは、1878年(明治11年、当時25歳)で、東京大学政治学教授に任じられ、哲学、政治学、理財学(経済学)などを講じています。
フェノロサが美術に公式に関わるのは1882年(明治15年)のことで、同年の第1回内国絵画共進会で審査官を務め、日本画と洋画の特色を比較して、日本画の優秀性を説いています。
フェノロサは当時の日本の美術行政、文化財保護行政にも深く関わっており、1890年に帰国し、ボストン美術館東洋部長として、日本美術の紹介を行っています。
・ホーレス・ウィルソン(1843~1927)
同じくアメリカ合衆国の教育者です。19世紀末の日本に滞在して英語を教えました。日本に初めて野球を紹介した人物の一人で、ウィルソンは東京帝国大学の前身である開成学校の英語の教師になってます。
1872年もしくは1873年と言われていますが、ウィルソンは、学生たちはもっと運動をするべきだと考え、野球を教えたとされています。その数か月後には外国人教師と日本人学生との7イニングの試合が行われています。
2003年、野球を伝えた功績を称えて「新世紀表彰」として日本の野球殿堂に殿堂入りしています。
・ジョサイア・コンドル(1852~1920)
フランス系イギリス人の建築家。1877年(明治10年)に、工部大学校(現・東京大学工学部)の造家学(建築学)教師として来日して、西洋建築学を教えました。そのかたわら、明治期の洋館の建築家としても活躍し、上野博物館や鹿鳴館、有栖川宮邸などを設計しています。
その後、退官した後も民間で建築設計事務所を開設し、ニコライ堂や三菱1号館など数多くの建築物を設計しています。
彼は、日本人女性を妻とし、日本画、日本舞踊、華道、落語といった日本文化の知識も深かったそうです。暁英という号も持っています。
・ラフカディオ・ハーン(1850~1904)
「小泉八雲」という名前の方が有名。ギリシャ出身でアイルランドで育ち、アメリカ合衆国で活躍した後に日本に移住。日本では『怪談』『知られぬ日本の面影』『骨董』などで知られる明治時代の作家。明治期の日本を海外に紹介したことや、「耳なし芳一」「雪女」「ろくろ首」「貉」といった日本に古くから伝わる口承の説話を記録・翻訳し、世に広めたことで評価されています。
1896年(明治29年)に日本国籍を取得し「小泉八雲」に改名。
ちなみに、来日後の八雲は日本語があまり上手くなく、「ヘルンさん言葉」と自称する独特な片言の日本語の変種で他者と会話していたとされています。この「ヘルンさん言葉」を完璧に理解できるのは妻のセツだけで、英語のできない客人とは話が通じず、セツが間に立って「ヘルンさん言葉」を通訳していたと、次男の巌が『父八雲を語る』で回想しています。
・リチャード・ブラントン(1841~1901)
イギリスのスコットランド出身の土木技術者で、明治政府に灯台建設主任技術者として雇われ、明治初期の灯台建設を指揮しました。勤務していた7年6ヶ月の間に灯台26、灯竿5(根室、石巻、青森、横浜西波止場2)、灯船2(横浜港、函館港)などを設計したとされ、「日本の灯台の父」と呼ばれています。
私は、バイクに乗る関係で、彼が建設した灯台を何個か見に行ったことがありますが、100年以上前に造られたと思われないほど、立派な物が残っています。
・クレメンス・ヴィルヘルム・ヤーコプ・メッケル(1842~1906)
プロイセン王国及びドイツ帝国の軍人。最終階級は少将。明治時代前期に日本に兵学教官として赴任し、日本陸軍の軍制のプロイセン化の基礎を築きました。
陸軍の近代化を推し進めていた日本政府がドイツに兵学教官派遣を要請。日本からの度重なる派遣要請に対し、当時フランスが日本に教官を派遣していたことから、ドイツはこれに応じ、参謀総長モルトケの推薦により、陸軍大学校の兵学教官のメッケル少佐(当時)の派遣を決定し、メッケルは1885年3月に来日。
日本陸軍はメッケルを陸軍大学校教官に任じ、参謀将校の養成を任せます。メッケル着任前の日本ではフランス式の兵制を範としていましたが、桂太郎、川上操六、児玉源太郎らの「臨時陸軍制度審査委員会」がメッケルを顧問として改革を進め、ドイツ式の兵制を導入。陸軍大学校での教育は徹底しており、彼が教鞭を取った最初の1期生で卒業できたのは、東條英教や秋山好古などわずか半数の10人という厳しいものでした。その一方で、兵学講義の聴講を生徒だけでなく希望する者にも許したため、陸軍大学校長であった児玉を始め様々な階級の軍人が熱心に彼の講義を聴講したと言われています。
なお、「関ヶ原の戦い」の図面を見た、メッケルが「西軍の勝ち」と言ったのは俗説だという説があります。
他にもたくさんいますが、省略。
明治政府は1868年(慶応4年/明治元年)から1889年(明治22年)まで、およそ2690人の外国人を呼んだと確認できます。
そのうち、イギリス人は1127人、アメリカ人は414人、フランス人は333人、中国人は250人、ドイツ人は215人、オランダ人は99人、その他は252人だそうです。さらに期間を1900年までとすると、イギリス人は4353人、フランス人は1578人、ドイツ人は1223人、アメリカ人は1213人とされています。
彼らのような人材を「高度人材」と呼ぶのだと思うのですけどね、現・日本政府さん。
インド、バングラデシュ、ベトナムなどなどから簡単に移民を受け入れ、彼らが不法滞在して、日本で犯罪を繰り返す。
まさかそんな日本になるとは思ってもいませんでした。
確か現在でも約400万人の外国人が日本にいるそうです。
もちろん、彼らの中には真面目に働き、税金を納め、日本文化に馴染む人もいっぱいいます。
だからこそ、厳しく規制しないと、日本で真面目にやっている外国人に対しても、「失礼」だと思うんですよね。
だって、最近、埼玉県や神奈川県では勝手に、許可を得ずにモスクが建ったりしてます。
どう考えても外国人に甘すぎるから、「ナメられてる」んですが、反対すると、左翼がすぐ「ヘイト」って言いますからね。
むしろ、日本人がヘイトされてるんですけど。って私などは思ってしまいます。




