第92回 織田信長の血脈
今回は、「戦国の覇王」こと織田信長の末裔について。
ご存じのように、織田信長にはたくさんの子がいましたが。
有名なのは、長男の信忠、次男の信雄、三男の信孝。
このうち、信忠と信雄は、信長の側室、生駒吉乃の子と言われています。信孝は、母が坂氏と言われていますが、母の身分が低いため、神戸家に養子に出され、神戸信孝と名乗ったと言われています。信雄もまた、北畠家に養子に出され、北畠信雄と名乗っています。
さて、本来、信長の跡を継ぐべきは、長男の信忠で、彼はなかなか優秀だったのですが、ご存じのように、本能寺の変の時に二条城にいて、変事に巻き込まれ、信長共々死亡。
そこで、跡を継ぐのは信雄か、信孝か、になったんですが。
はっきり言って、この二人は二人とも「器」ではなかったのです。
どちらかと言うと、信孝の方がまだマシに思えたんですが、結局、羽柴秀吉と柴田勝家の戦いで、柴田側につき、戦後に兄・信雄から自害させられています。
残ったのは、信雄。
しかし、信雄は、秀吉と対立する徳川家康につき、小牧・長久手の戦いに挑むも、勝手に講和をしてしまいます。
結局、信雄の領国は、尾張(現在の愛知県)一国(52万1千石)と美濃(現在の岐阜県)の一部(石津郡、2万7千石)、伊勢(現在の三重県)9郡(46万6千石)と伊賀(現在の三重県)3郡(8万4千石)、三河国(現在の愛知県)の一部(碧海郡半分、4万1千石)の併せて113万9千石もあったのに、一気に転落。
詳細は省きますが、江戸時代初期には、関ヶ原の戦いで、領土を奪われ、大和国(現在の奈良県)宇陀郡の所領3万石と関東(上野国甘楽郡・多胡郡・碓氷郡、現在の群馬県)における2万石の併せて5万石に転落。
その後、織田家は信雄の長男・秀雄と次男・高雄が父に先立って病死したため、三男・信良が継ぎ、この系統が上野小幡藩、後に出羽(現在の山形県)高畠藩・天童藩の2万石の大名となってます。
つまり、あれだけ勢力を誇った織田家も、最後は小大名に転落。
ちなみに、信忠の息子、三法師(後の秀信)が、清須会議で秀吉により祭り上げられたのは有名で、後に岐阜を中心に13万石の大名になりますが、この秀信も関ヶ原の戦いで、西軍についたため、戦後に改易、高野山に流刑となり、わずか26歳の若さで亡くなってますが、これは自害とも言われています。
なお、秀信は岐阜城を落とされていることから武将としての力量に欠けるとされることが多く、「遊芸にのみ長じた」などと酷評される向きもあります。ただ、関ヶ原前哨戦では積極的に軍備を整え、岐阜城攻防戦で取った戦術や敗北時の振る舞いから、敵将として戦った福島正則が「さすが信長の嫡孫也」と秀信を称えている(『改正三河後風土記』)という記述もあります。
余談ですが、織田信長のかなり年下の弟、織田有楽斎は、茶人として有名で、現在の東京都の有楽町に屋敷があったことから「有楽斎」と名乗ったという説があります。
ちなみに、幕末維新期において、織田家は、天童織田家、柏原織田家、芝村織田家、柳本織田家と四家あったらしいですが、そのうち天童織田家以外は官軍側に味方したため、維新後は、三家が華族待遇を受け、後に旧・大名の織田4家は爵位基準を定める『叙爵内規』に基づき旧・小藩知事として子爵家に列しています。
1990年代にテレビタレントとして活躍した僧侶の織田無道は織田信長の子孫であると自称していましたし、フィギュアスケート選手だった織田信成も信長の末裔と自称しているんですが、実はこの辺りは、結構眉唾物だったりします。
まあ、「本当かどうかはわからない」というのが正しいのかと。
いずれにしろ、織田家は落ちぶれたわけですが、豊臣家のように完全に滅亡には追い込まれなかったわけです。
なお、元々の「織田」一族の発祥の地は越前国織田荘(現在の福井県丹生郡越前町)だと言われています。




