第81回 徳川埋蔵金伝説
漫画「ゴールデンカムイ」は、アイヌが隠した金塊を巡る争いですが、それ以外で日本史上、最も有名な埋蔵金伝説が、この「徳川埋蔵金」伝説。
確か、昭和か平成の頃に、テレビで発掘調査するも失敗、みたいなのがあったと記憶しています。
では、徳川埋蔵金とはどんなものか、見ていきましょう。
元々は、江戸時代末期の1867年(慶応3年)に江戸幕府が大政奉還に際し、密かに埋蔵したとされる幕府再興のための軍資金で、翌年の1868年(明治元年)4月に江戸城が無血開城となった際に、当時財政難に喘いでいた明治新政府は幕府御用金を資金源として期待していたらしいです。
ところが江戸城内の金蔵は空であったため、幕府が隠匿したと判断した新政府軍による御用金探しが始まったとされています。
真っ先に疑われたのは、幕府の勘定奉行であった小栗上野介(忠順)。小栗は奉行を辞任した後、上野国(現在の群馬県)の権田村に隠遁していたのですが、彼が幕府の財政責任者であったことから「小栗が幕府の金を持って逃げた」といった流言が飛び、さらには「利根川を遡って来た船から誰かが何かを赤城山中へ運び込むのを見た」と証言する者まで現れたと言われています。
さらに、小栗が江戸城開城に伴う幕府側の処分者の中で唯一、命に関わる刑罰(=斬首)となったことも重なり、「幕府の隠し金が赤城山に埋められていることは事実である」と信じた人々が赤城山の各所で発掘を試みたそうです。
ちなみに、その埋蔵金の額は、約400万両と言われており、これは現在の価値で約20兆円にもなる巨額だそうです。
赤城山のどこか、というのが通説ですが、他にも、
・日光山内
・男体山、中禅寺湖、明智平(=いずれも奥日光)
・榛名山、妙義山
・足尾銅山の坑道
・上野東照宮、久能山東照宮、日吉東照宮、世良田東照宮など各地の東照宮
なども候補になっています。
また、徳川埋蔵金を示すとされる証拠もいくつか上がっているそうです。
・東照権現の黄金像
これは1890年(明治23年)、源次郎の古井戸から出たとされています。
・銅製の燈明皿
・同じく 源次郎の古井戸から出たとされています。
・大義兵法秘図書
1891年(明治24年)、児玉惣兵衛宏則なる人物が書き残したとされています。
・意味不明な文字や絵図が刻まれた3枚の銅板
双永寺の床下から出たとされています。
・直径が20メートルもある巨大な石灰の亀
2代目義治という人物が山中で発掘したとされています。
・亀と同じ大きさの石灰の鶴
1963年(昭和38年)に亀の近くで発見したとされています。
・萬四目上覚之帳
同じく、 源次郎が保管していたとされています。
などが上がっていますが、それでも決定的な物は出ていないわけです。
他にも、久能山御用金説というのもあり、徳川家康が残した軍用金が、静岡県の久能山東照宮に納められたが、その後、江戸に運ばれたとされるもの。ほとんど使いきったが、裏帳簿に残されており、これが約100万両はあるとされる説です。
面白いのは、都市伝説の一つとして、童謡「かごめかごめ」の歌詞の中に埋蔵金の在り処を示すとしているものがあるとされている説まであります。
もちろん、「埋蔵金非実在説」というのもあります。
これは、幕末期の江戸幕府が大赤字に見舞われていたため、埋蔵金にあてがうだけの金銭・蓄財が存在するはずがない、とされる説。
・開国後の軍備増強に金を使いきった。
・もし、巨額の資金があるなら、幕府軍はもっと軍備増強にその資金をつぎ込むのが自然であり、幕府存続の危機的状況において資金を蓄財しておくことはできなかったし、必要性はなかった。
・仮に秘匿されて明治維新を乗り越えた蓄財があるとしても、維新以降に静岡藩へ移され、元幕臣らの生活を守り、また牧之原台地の開墾などに資金が必要だった徳川宗家が、この資金の活用に着手しないはずがない。
・江戸城では何千人もが働いており、開城の混乱に紛れて1人が200から300両ずつ持ち逃げしたとするならば、400万両ほどはすぐになくなる。
などとも言われています。
まあ、いずれにしろ見つからないとは思いますが。
ちなみに、仮に誰かが見つけた場合でも、
・発見者は文化財保護法第57条の2の規定により、ただちに文化庁長官宛に江戸時代後期の遺構が発見されたことを書面で報告しなければならない。また、発見後は災害等の緊急避難的措置を除き、現状維持をしなくてはならない。
とのことで、まあ、早い話が発見者は独自の判断で発掘を行うことはもちろん、許可が無ければ埋蔵金に触ることもできなくなる上に、その金は、徳川幕府の埋蔵金であるという客観的証拠が発見された場合でも、所有権は現在の政府にあるので、国に取り上げられるということらしいです。
一応、発見者には、5~20%の報労金が支払われるらしいですが。
ある意味、夢がないですね。




