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第82回 日本三大怨霊

 「日本三大〇〇」というのは結構色々とありまして。


 今回は、そのうち「怨霊」について扱います。


 まあ、ご存じの方もいると思いますが、ざっくり説明します。

 日本三大怨霊とは、一般的には「菅原道真(みちざね)」、「平将門(まさかど)」、「崇徳すとく天皇」を指します。


 実はこの3人、いずれも「平安時代」に活躍したという共通点があります。

 これは、この時代に怨霊や幽霊や、霊的な物が恐れられていたというか、まだ科学なんてない時代だったから、人々が信じやすかったというのもあります。


 それでは、簡単ですが、見ていきましょう。


①菅原道真(845~903)

 「学問の神様」として有名な菅原道真。道真と言えば、官吏登用試験に合格し、宇多うだ天皇の近臣となったものの、左遷によって九州の大宰府だざいふに飛ばされた、というのが有名ですね。


 詳細は、昌泰しょうたい4年(901年)正月に従二位に叙せられたものの、天皇を廃立して娘婿の斉世ときよ親王を皇位に就けようと謀ったとして、1月25日に大宰員だざいいん外帥がいのそちに左遷されたとのことです。


 しかも、その死は無残で、刑死ではなかったものの、実態は衣食住もままならず死に追い込まれたわけで、ほとんど緩慢な死罪に等しかったそうです。


 それが後に怨霊伝説に変わります。


 道真を怨霊と見る向きが決定的になったのは、延喜えんぎ23年(923年)に醍醐だいご天皇の皇子保明(やすあきら)親王が薨去こうきょし、これを受けて道真の復権が行われた頃だと見られています。


 その後、宮中で落雷が起こったり、疫病が流行ったりしたので、道真のたたりとして正二位・左大臣が贈られています。


②平将門(903~940)

 平安時代に常陸ひたち国(現在の茨城県)で、大規模な反乱を起こし、自ら「新皇しんのう」と名乗るも、討伐軍に追いつめられて、討死。


 その後、将門の首が宙を飛んだという伝説が非常に有名ですね。


 ちなみに、現在でも東京の一等地の大手町に、「将門塚しょうもんづか」という首塚があり、私は地理的に近いので、実際に見に行ったことがあります。


 今や周りがビルだらけの場所なのに、いきなり古びた塚が現れ、そこだけ一種異様な雰囲気が漂ってます。


 この首塚、一向になくならないのですが、曰く付きで、色々なエピソードがあります。


 大正12年(1923年)に発生した関東大震災後の復興計画において、当時、大蔵省の仮庁舎を建てようとした際、工事関係者や省の職員、さらには当時の第1次若槻(わかつき)内閣で大蔵大臣だった早速はやみ整爾せいじの相次ぐ不審死が起こったことで、将門の祟りが省内で噂されることになり、省内の動揺を抑えるため仮庁舎を取り壊して鎮魂碑を建てたと言われています。


 しかし、実際には、早速整爾が亡くなったのは、仮庁舎建設の3年後の大正15年(1926年)であり、仮庁舎建設には関わっていないので、この辺りは謎だったりします。


 さらに、戦後、戦災復興都市計画として、連合国軍占領下の日本を実質的に統治したGHQが、丸の内・大手町周辺の区画整理にとって障害となるこの地を撤去・造成しようとしたことがあります。


 この時、不審な事故が相次いだため、計画を取り止めたと言われています。GHQの主体であるアメリカ軍のブルドーザーが作業中に横転し、運転手が投げ出されて死亡したとか、それ以前にも謎の事故が起こり、日本人の労務者に怪我人が出ていたので付近を調査したところ、転覆したブルドーザーの前に半分埋まっている墓のようなものが見つかり大騒ぎとなります。


 これが将門の首塚の碑であることが判明し、GHQ当局に陳情を重ねた結果、塚の取り壊しが中止されたと言われています。


 なお、現在でも、将門の首塚は取り壊しや移転を免れて残っており、毎日、花が絶えない程の崇敬ぶりで、近隣の企業が参加した「史蹟将門塚保存会」が設立され、維持管理を行っているそうです。現在の物は「第6次改修後」なので、新しくなっています。


③崇徳天皇(1119~1164)

 崇徳天皇は、平安時代末期、鳥羽天皇の譲位により、わずか5歳(=数え年)で即位しますが、保元元年(1156年)7月に皇位継承問題や摂関家の内戦により、朝廷が後白河天皇方と崇徳上皇方に分かれ、双方の衝突に至った政変、いわゆる「保元の乱」に加担。


 結果的に乱に敗れて、讃岐さぬき国(現在の香川県)に配流され、その地で46歳で亡くなってます。


 ただ、一説には、京からの刺客に暗殺されたとも言われています。


 死後、しばらくは崇徳天皇は罪人として扱われていましたが、安元3年(1177年)になると状況は一変。この年、延暦寺の強訴ごうそ(=強硬な態度で相手に訴えかける行動)、安元の大火、鹿ケ谷の陰謀などが立て続けに起こり、社会の安定が崩れ長く続く動乱の始まりとされ、これらが崇徳天皇の祟りと言われるようになります。


 前年の安元2年(1176年)に、建春門院けんしゅんもんいん・高松院・六条院・九条院が相次いで死去。後白河や藤原忠通(ただみち)に近い人々が相次いで死去したことで、崇徳天皇の怨霊が意識され始め、翌年の大事件続発がそれに拍車をかけたと思われています。


 怨霊としての崇徳院のイメージはその後、定着し、近世になると文学作品である上田秋成(あきなり)の『雨月うげつ物語』や曲亭きょくてい馬琴ばきんの『椿説ちんせつ弓張月ゆみはりづき』などにおいても怨霊として描かれています。


 ということで、日本三大怨霊についてでした。


 ちなみに、私自身は全然霊感がないので、霊的な物を見たことはありません。

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