第77回 栗田艦隊、謎の反転について
今回は、日本史史上に今も残る有名な「栗田艦隊、謎の反転」について取り上げます。
時は、昭和19年(1944年)10月20日~25日。
大東亜戦争(太平洋戦争)末期。フィリピンのレイテ島沖で行われた、いわゆる「レイテ沖海戦」です。
実はこの前に、マリアナ沖海戦というのがあり、すでに日本軍は多くの熟練パイロットや戦艦、空母などを失っていました。
しかし、それでも海軍はここを一大決戦にして、挽回を期していたのです。
そのため、日本軍は、空母4、戦艦9、巡洋艦21、駆逐艦35、航空機約600機を集めます。
もっとも、対するアメリカ軍は、空母35、戦艦12、巡洋艦25、駆逐艦141、航空機約2500機。相当な開きがありました。
日米双方合わせて、約20万人以上の海上兵員が参加し、日米共に総力戦となった、ある意味、史上最大の海戦とも言えるのですが。
有名なのが、栗田艦隊。
元々の作戦では、小沢治三郎中将率いる小沢艦隊が、囮として敵主力のハルゼー艦隊を引き付けている間に、残りの栗田艦隊(=栗田健男中将)、西村艦隊(=西村祥治中将)、志摩艦隊(=志摩清英中将)がレイテ湾に突入して、敵の輸送船団を襲撃するという物。
これは、後になって考えるとわかるんですが、この作戦はそもそも大雑把すぎました。
不測の事態を考えてもおらず、4艦隊による連携も取れていません。軍に限らず、仕事でもそうですが、必ず「不測の事態」を考えて事に臨む必要があります。
結果的に、小沢艦隊は、作戦通りにハルゼー艦隊を北に引き付けることには成功していますが、残りの西村艦隊が壊滅、志摩艦隊は撤退。
残ったのは、栗田艦隊だけ。
さて、ここで問題となったのが、この栗田艦隊。レイテ湾にそのまま突出していれば戦果は違っていたのに、いきなり反転してしまい、要は戦場を離脱。
これが後に色々と批判されました。
では、何故栗田はそんなことをしたのか。
栗田健男という男はどういう男だったのか。
元々は、軽巡阿武隈や、戦艦金剛の艦長も務めた経験がある、ベテランの水雷屋だったそうです。
ただ、彼は海軍大学校の甲種卒というエリートではなく、兵学校出身なら誰でも入れるという乙種卒だったので、要は「現場叩き上げの職人」みたいな立場。
なので、実際にその彼が司令長官になった時、自らを自虐的に「こんな野武士にやらせちゃダメだろ」と言ってます。
そのため、実はこの栗田に対する悪評の多くは、一部の海軍出身者から甲種ではない栗田に対して、甲種であるエリートたちによる、責任の押し付けもあったと言われています。簡単な話、妬みですね。
実際は、栗田自身、優秀な軍人だったけど、周りの妬みから批判されたという側面があるそうです。
で、本題ですが、レイテ沖海戦による「謎の反転」に関しては、栗田自身が戦後、多くを語らなかったのと、一切の弁明をしなかったので、どういう思いだったのか、あまりわからないという点があります。
一応、GHQやアメリカのメディアの質問には答えており、つまり彼が日本のマスメディアを信用していなかったとも言われています。
ちなみに、その時、アメリカのジャーナリストの質問に対し、栗田は「ハルゼーが日本側の囮作戦にハマり、北に回ったのを知らなかったのか?」と聞かれ「まったく知らなかった」と言ってます。
この謎の反転に関しては、様々な意見があります。
①英断説
あまり支持はされてませんが、これは英断で、すでに消耗していた艦隊を、突入によって無益な損失を避けたとするもの。
②臆病説
一般的に言われている説で、激戦の末に、栗田が戦意を喪失したというもの。
③情報不足説
そもそも栗田艦隊は、情報不足で、小沢艦隊がハルゼーを引き付けたことも知らなかったので、苦渋の決断だったというもの。
まあ、今となっては正解はわからないのですが、ただ一つ言えることは。
この作戦成功のために、大勢のパイロットが神風特攻隊として出撃してます。そして、作戦成功のために、空母瑞鶴・翔鶴をはじめ、戦艦武蔵、山城、扶桑など多くの貴重な艦船が失われています。
その意味では、作戦は無駄になってしまったわけですが、そもそもあの時、栗田艦隊がレイテ湾に突入しても事態が好転したかはわからないです。
それに、負けたのを全部栗田一人の責任にするのもかわいそうで、そもそも元々の作戦からして、間違っていたというか、緻密なものではなかったのが問題なのです。
その点、アメリカ軍の方が緻密に作戦を組んでいたそうです。
日本軍は、負けてるのに「勝った」と喧伝したり、楽観的な考えで作戦を立てていたので、それが一番の敗因だとは思うのですが。




