間章 それぞれの輪郭
いつもお読みいただきありがとうございます!
第5話、どうぞお楽しみください!
夜の帳が下りた新言市は、海から吹き付ける湿った冷たい夜風に包まれていた。
とあるビルの屋上。雨宮律は欄干の上に身を乗り出すような危険な姿勢で腰掛け、遠くに広がる喧騒に満ちた街の夜景を見下ろしていた。乱れた濃紺の長髪が、夜風に煽られて不規則に舞い踊る。
背後から、コンビニ袋が擦れ合うカサカサという音が聞こえてきた。
「班長。本当にあの子の言い分を信じているんですか?」
浅羽晴が片手にレジ袋を提げて歩み寄ってきた。彼は律のように危険な真似はせず、一歩引いた位置で足を止め、その背中を見つめた。
律は振り返りもせず、気のない口調で返した。
「信じてるさ。そりゃもう、めちゃくちゃ信じてるよ」
「夢を見ただけで鋳魂者になれるなら、総制局の外勤部門も万年人手不足に悩まされずに済むんですがね」
「浅羽ぁ、お前さっきから何なんだよ」律は振り返ると、ストローで空気を吹くような拗ねたトーンで文句を言った。「現場にいた時はあんなに必死になって野良の鋳魂者くんを庇ってたくせに、今さら疑心暗鬼か?」
律は差し出された袋から慣れた手つきで缶ビールを引き抜くと、小気味よい「パシュッ」という音とともにプルタブを開けた。そのまま喉を鳴らし、一息に半分以上を煽る。
浅羽は深いため息をついた。
「あの場ではあなたが裏で僕に善人役を振って、ご自身で悪役を買って出たからでしょう。……僕が納得いかないのは、なぜあの子をわざわざ『臨時構成員』として引き入れたのかという点です。単に監視下に置くだけなら、もっと穏当な手段があったはずですし、そもそも監視任務は僕らの本分ではない。僕らに関する情報は少なければ少ないほどいい――それが鉄則のはずですが」
律は冷えたアルミ缶を弄びながら、夜空を見上げた。
「もしかしたら……あの子は『受賜者』かもしれないぞ」
「証拠はあるんですか? あの子が口にした荒唐無稽な夢の描写だけで?」
「勘だ。……シックスセンスってやつさ」
「……」
浅羽は呆れたように眉根を寄せ、スーツの内ポケットから薄型の情報端末を取り出した。
「念のため、業見景の身元調査を洗い直しました。女性、十六歳。一昨年に両親を航空機事故で亡くし、親類の計らいで新言市へ単身進学、現在一人暮らし……」
「それで?」
「綺麗すぎるんです。不自然なほどに。現在の身元引受人に至っては、血縁関係すらありません。……疑わしいですね」
「諸密結社のスパイか? もしそうなら、ずいぶんと仕事の粗い素人スパイだな」
「あなたの警戒を解くための、計算された演技だとしたら?」
「あーもう、やめやめ!」
律は鬱陶しそうに乱れた長髪をかきむしると、残りのビールを一気に飲み干した。
「こちとら過労で身体がバラバラになりそうなの! 終業時間後に仕事の話を持ち込むな。――それより浅羽、私の焼き鳥はどこだ?」
「……は?」
「焼き鳥だよ。ビールがあるのに焼き鳥がないなんて、神への冒涜だと思わないのか?」
「ビールを買ってこいと言われた時に、焼き鳥の『や』の字も出ませんでしたよね。それに、この時間帯に開いている屋台なんて近所にはありません」
「はぁ……本当に空気の読めない男だな、浅羽。この私が度量に満ち溢れた理解ある上司じゃなかったら、お前の出世コースは一生途絶えてるところだぞ。突っ立ってないで、早く買いに行ってこい」
あからさまに話を逸らしにかかる上司を前に、浅羽晴は観念したように肩を落とした。
「今は終業後です。僕に命令する権利はありませんよ」
「ちっ、分かったよ。自分で買いに行けばいいんだろ、自分で」
律は軽々と欄干から飛び降り、スラックスをポンポンと叩いて屋上の出口へと向かった。すれ違いざま、浅羽の肩をぽんと軽く叩く。
「ま、全部手のひらの上さ。心配すんなって」
どこまでも不真面目で飄々とした班長の背中を見送りながら、浅羽は苦笑混じりに首を横に振り、結局はその後に続いて歩き出した。
——
「ただいま」
玄関の扉を開けると、静まり返った廊下の奥から、途切れ途切れのか細い咳払いが聞こえてきた。
「ケホッ……コホッ。お、おかえりなさい、お姉ちゃん」
白石詩織はローファーを脱ぎ、靴箱の横に綺麗に揃えて並べた。
「お母さん、今日も残業ね……もう、無理ばかりして。――薬はちゃんと飲んだ?」
リビングのソファから、痩せ細った体躯の少女が身を起こす――詩織の妹、白石 綾乃だ。
「……うん。お薬飲んだら、だいぶ……楽になったよ。コホッ」
「……よかった」
詩織は優しく目を細め、妹の髪をそっと撫でた。ブレザーを脱ぎ、慣れた手つきでエプロンを締めると台所へと向かう。
湯気の立つ夕食を前に、綾乃はスプーンをぎゅっと握りしめ、待ちきれない様子で身を乗り出した。
「ねえ、お姉ちゃん! 高校ってどんなところ? 新しいクラスのみんなとはもう仲良くなれた?」
「ええ、みんなとっても親切よ。それにね、今日の自己紹介のあと、みんなが推薦してくれて学級委員長になったの」
「わぁ、やっぱり! お姉ちゃんなら絶対に選ばれるって思ってた!」
嬉しそうに目を細める妹の笑顔を見て、詩織も微笑みながら料理を一口運んだ。
「それからね、今日新しいお友達ができたの。黒髪のショートで、背筋がすっと伸びてて……すごく凛々しくて、カッコいい女の子」
「へぇ……! どんな人なの? たくさんお話しした?」
「あんまりたくさんは喋れなかったけれどね。見た目は少しだけぶっきらぼうなんだけど、誰かが困っているとそっと手を差し伸べてくれる、とても優しい人よ。きっと、ちょっと人見知りなだけなんだと思うわ」
「カッコいいなぁ……まるで漫画の主人公みたい」
綾乃は温かいお茶の湯呑みを両手で包み込み、どこか遠い目をして憧れを滲ませた。
「いいなぁ……高校。綾乃もお姉ちゃんと同じ制服を着て、みんなと一緒に教室でお勉強したいな……」
詩織はそっと手を伸ばし、妹の細い手を優しく包み込んだ。
「大丈夫よ、綾乃」
「……本当?」
「ええ。ちゃんとお薬を飲んで、体を治せば、絶対に一緒に学校へ通えるようになるわ」
「本当に……お約束だよ?」
「もちろん。約束よ」
……こんな約束を、自分は一体これまでに何度口にしてきたのだろう。
詩織は胸を締め付ける鈍い痛みをぐっと抑え込み、その笑みを一片たりとも崩さなかった。
テーブルの料理がすっかり冷め切り、綾乃が部屋に戻って眠りについた後も、母親が帰ってくる気配はなかった。
深夜近くになってようやくスマートフォンが震え、受話口から母親の疲労困憊した声が流れてきた。
『ごめんね詩織、今日はどうしても仕事が立て込んでて、会社に泊まりになっちゃいそう……綾乃のこと、お願いできる?』
「ええ、大丈夫よお母さん。家のことは全部やっておくから心配しないで。……それより、夕飯はちゃんと食べた? お身体が一番大事なんだから、無理は禁物よ」
詩織はできる限り明るく、しっかりとした口調で応じる。
だが、電話越しの母親は『はいはい、詩織は気にしなくていいの』と気のない返事を寄こすだけで、詩織が言葉を続ける間もなく一方的に通話を切ってしまった。
耳元には、無機質なツコツコという切断音だけが虚しく残る。
「……もう」
誰もいないリビングで、詩織は小さく息を吐き出し、独り言をこぼした。
残った冷たい料理に丁寧にラップをかけ、一つずつ冷蔵庫へしまっていく。
自室に戻ると、勉強机の前の壁には、寸分の隙もなく書き込まれたタイムスケジュールと学習計画表が貼られていた。
スタンドライトを点け、ノートを開く。ペン先が紙を滑るサラサラとした音だけが響く。
いつの間にか、窓の外からはしとしとと小雨の降る音が聞こえ始めていた。
コンコン、と。
遠慮がちに部屋のドアがノックされた。
扉を開けると、そこにはパジャマ姿の綾乃が立っていた。
「お姉ちゃん……お勉強の邪魔しちゃった? ごめんね……」
「ううん、どうしたの? まだ眠れない?」
「うん……ちょっとだけ目が冴えちゃって。……あのね、お姉ちゃん。もうちょっとだけ、学校のお話聞かせてほしいな……」
申し訳なさそうに視線を揺らす妹の瞳を見つめ、白石詩織が断るはずもなかった。
「ふふっ、いいわよ。入って入って」
詩織の顔に再び柔らかな笑みが戻り、妹の手を引いてベッドの縁に腰掛けさせた。
「でも約束よ? お話ししたら、今度こそちゃんとねんねすること」
「うん!」
最後までお読みいただきありがとうございました!
面白いと感じていただけたり、応援してもいいよと思っていただけましたら、
ぜひ【ブックマーク登録】や、下部にある評価欄から【ポイント評価(★★★★★)】をポチッと押していただけると嬉しいです!
皆様の応援が更新の原動力になります。
感想やいいねなども、いつでもお待ちしております!




