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誰も口にせぬこと

いつもお読みいただきありがとうございます!

第2話、どうぞお楽しみください!

「――いわゆる『大断裂』とは、今から約三百年前、突如として発生した史上例を見ない地球規模の超大規模地殻変動を指す。その原因については諸説あり、現在も定説は存在しない。この未曾有の大地震は世界規模で地形を完全に造り変え、当時の文明に甚大な爪痕を残した……」


教壇に立つ社会科の教師は、黒板に走らせるチョークの手を止めず、淡々と講義を続けている。

私は頬杖をつき、上の空で教科書を見下ろしていた。

時計の針は、放課後まであと数分を示している。


……どうやら、これこそが私のいた元の世界と、現在この世界との決定的な「分岐点」らしい。

しかし、教科書の中でこの事件に割かれている紙幅は、わずか一課程度にすぎない。

配られたばかりの地図帳を開くと、私のいる「新言市」は列島北部の沿岸部に位置していた。……いや、そもそも地図に描かれた日本列島の輪郭そのものが、子供が手当たり次第に引きちぎった油粘土のようで、かつての面影などどこにも残っていなかった。


「まあ、このあたりは小中学校の義務教育で嫌というほどやっただろうし、今さら深掘りする必要もないな。だが基礎問題にはよく出るから、各自で復習しておくように」

先生はそう言いながら、あっさりとそのページをめくった。


飛ばすな。頼むから飛ばさないでくれ!

そんなもの、私にとっては初見どころか、常識のデータベースに欠片すら存在しないんだ。

……この先かなりの長期間、私の近代史と地理の成績が目も当てられない大惨事になる未来が、今からありありと予見できる。


おまけに、午前中に中庭で感じた、あの唐突な「胸騒ぎ」。

胸の奥底から湧き上がったあの奇妙な感覚は、今も喉の奥に小骨でも刺さったかのように引っかかり、消えてくれない。

どうにも、何か良くない事態が起こる前触れのような気がしてならないのだ。

……考えただけで面倒くさくてたまらない。私はトラブルに巻き込まれるのが大嫌いだ。省エネ主義のモブとして、平穏無事に高校三年間をやり過ごしたいだけだというのに。


「――よし、今日の授業はここまで。日直、号令」

無慈悲にも放課後のチャイムが鳴り響いた。


自他共に認める(自称だが)「帰宅部の絶対的エース」である私にとって、今日は災難のオンパレードだ。入学初日だというのに、よりによって日直兼掃除当番の貧乏くじを引かされてしまった。


「ええっ――!? アキラちゃん、今日まっすぐ帰れないの!? 放課後は一緒に部活見学に行こうと思ってたのにぃ――!」

前の席の相城蓮が「がたん」と音を立てて振り返り、両手を合わせて、これ見よがしに残念そうな顔で駄々をこねてくる。

「……体験入部があるんだろ。さっさと行け」

「うぅ、ソフト部の体験が始まっちゃう……! アキラちゃん、掃除が終わったら連絡してよね! 絶対に超Sweetなドリンク奢るから!」

嵐のように騒ぎ立てた後、蓮は名残惜しそうに部活棟の方へと猛ダッシュしていった。……正直、ようやく私の鼓膜に貴重な休息が訪れてホッとしている。


教室に残ったのは、私の他にはもう一人だけ。

今日、満場一致で学級委員長に選ばれた少女――白石(しらいし) 詩織(しおり)だ。

肩口で切り揃えられた栗色の髪を、後頭部できっちりとハーフアップのお団子にまとめている。制服には一分の隙もなくアイロンが当てられ、胸元には几帳面に書き込まれたクラス手帳を抱えていた。初日の自己紹介だけで、クラス三十五人全員の名前と出身中学を完全に記憶してみせた、驚異的な観察力と気配り力を誇る優等生だ。


「業見さん、お待たせしてしまってごめんなさい。一緒にパパッと終わらせちゃいましょう」

白石さんは優しげな垂れ目を細め、ふわりと柔らかな笑みを浮かべた。

だが、教室の後ろにある掃除用具入れの扉を開けると、彼女は困ったように小首をかしげた。

「あら……ほうきとモップが一本ずつ足りないみたい。お昼に掃除した誰かが、別館の方に置き忘れちゃったのかしら……私がお昼にちゃんと確認しなかったせいね、ごめんなさい」

トラブルが起きると無条件でまず自分を責めてしまう。その生真面目すぎる性格は、見ているこちらがハラハラしてしまうほどだ。


「……私が取ってくる」

白石さんは申し訳なさそうにポケットから倉庫の鍵を取り出し、私の手のひらにそっと乗せた。

「ごめんなさい、お願いしてもいいかしら? 別館の一階、一番奥にある倉庫よ。あそこは少し薄暗いから、足元には気をつけてね。私は教室の机を並べておくわ」


鍵を受け取り、夕日に染まった渡り廊下を歩く。

放課後の別館は部活動の喧騒からも遠く離れ、あたりは静寂に包まれていた。

埃の匂いが漂う重々しい鉄扉の前に立ち、鍵穴に鍵を差し込む――その、瞬間だった。


ドクン。


午前中とまったく同じ、あの冷たい胸騒ぎが、ごく微かに私の心臓をノックした。

「……っ」

不吉な予感に息が詰まる。だが違和感はそれ以上膨らむことなく、すぐに空気の静けさの中へと溶けて消えた。

……気のせいであってくれ。

胸のざわつきをねじ伏せながら鍵を回し、倉庫の鉄扉を押し開けた。


薄暗い倉庫の奥、雑多に積み上げられた備品の間から、目当ての掃除用具を見つけ出した。

よし、さっさと教室に戻ろう。そう思ってモップを抱え、踵を返そうとした――その時。


ドクン! ドクンッ!!!!


「ぐ……っ!? う、げほっ……!?」

先ほどとは比べ物にならない異様な感覚が再び襲いかかり、自らの鼓動が狂ったように激しく跳ね上がる。


――ギギギ、メキッ……!

異音は、私のすぐ真後ろから響いた。

振り返る間もなく、重厚なスチールラックが何者かの不可視の力に押し倒されたかのように、轟音とともに崩落した!

ズガガガガガンッ――!!!


間一髪のところで私は前転するように飛び込み、床すれすれを滑り込んだ。

もうもうとした白煙と埃が倉庫内に立ち込める。片手で床をつき、私は激しく咳き込んだ。

「ケホッ、ゴホッ……な、何が起きて……」

手で煙の幕を払い、崩れ落ちたラックの残骸を見上げた瞬間、私は完全に凍りついた。


それは、“そこにいた”。


立ち込める粉塵の中、ゆっくりと浮遊する奇怪な影。

半透明で、巨大な芋虫のようでもあり、クラゲのようでもあるおぞましい実体。

宙を泳ぐように触手をくねらせていたソレは、突如として私を捕捉し、空気を切り裂く鋭い風切り音とともに真正面から突進してきた!


「えっ!? なんなのこれ……っ!」

恐怖と混乱が一気に脳内を満たし、私はその場に立ちすくんで目を固く閉じた。身体が防衛本能のまま、咄嗟に両腕を交差させて顔の前に掲げる。


――バァンッ!!


硬質なガラスが粉々に粉砕されたような、あるいは分厚いゴム風船が激しく破裂したような耳障りな破壊音が、誰もいない倉庫に木霊した。


……痛くない?

予想していた衝撃は訪れなかった。

恐る恐る目を開けた私の視界に飛び込んできたのは、常軌を逸した光景だった。


空中で静止した、半透明の怪物。

その胴体の中央を、一本の「漆黒の金属杭」が深々と貫通していた。

怪物は激しく痙攣し、やがてひび割れたガラス細工のようにポロポロと剥落すると、大気の中へ溶け込むように完全に霧散した。


「……え?」

呆然と立ち尽くす私の視線が、己の腕へと落ちる。

身を守るために交差させていた前腕の皮膚から、直接あの漆黒の杭が生え伸びていた。

冷ややかな光沢を放つ、黒鉄色の造形物。

(これ……私が、出したの……?)

怪物の消滅に伴って張り詰めていた神経が緩むと、腕に生えていた黒い棘もまた、砂の城が崩れるかのように急速に崩壊し、跡形もなく消え去った。


幻覚なんかじゃない。

小刻みに震える自分の指先を見つめ、私は唾を飲み込んだ。

意識を再び胸の奥へと沈め、先ほどの感覚を全力で手繰り寄せる。

黒い杭。鋭利で、硬質な金属の塊――


背筋をゾクリとした異様な感覚が駆け抜けた。

体内から何かがごっそりと引き抜かれるような感覚。

直後、私の右の掌から、砂利のような質感の黒い物質が急速に湧き出した。それらは膨張と収縮を繰り返し、耳障りな摩擦音を立てながら瞬く間に変形し――最終的に、無骨でいびつな黒い金属の杭へと凝縮された。


手のひらに伝わる、あまりにもリアルな冷たい質感とずっしりとした重量。

「……嘘でしょ? 超能力……?」

声が震えた。こんな展開、漫画やライトノベルの中にしか存在しないはずじゃないのか!?


「おい! 誰かいるのか!? 今の音は何だ!」

廊下の向こうから、慌ただしい足音と警備員の厳しい怒声が響いてきた。棚の倒れた轟音に引き寄せられてきたらしい。

私は慌てて両手を背後に隠した。

「す、すみません! 私がうっかり棚にぶつかって倒してしまって……!」

駆け込んできた警備員に何度も頭を下げ、怪我はないと必死にアピールして、どうにかこうにかその場を言いくるめた。


——


「業見さん!? 怪我はない!? 大丈夫!?」

モップを抱え、埃まみれになって教室に戻った私を見るなり、白石さんは顔を真っ青にして駆け寄ってきた。

「ちょっと……倉庫の棚が倒れてきて。用具は無事だったから」

超能力のことも、あのクラゲのような怪物のことも、口が裂けても言えるはずがない。

「そんな……! 私が用事を押し付けてしまったせいで、業見さんにそんな危険な目に遭わせちゃうなんて……!」

白石さんは申し訳なさで眉を八の字に寄せ、躊躇いもなくポケットからラベンダーの香りがする清潔なハンカチを取り出した。

「あ、自分で拭くから――」

私の遠慮など耳に入っていない様子で、白石さんは背伸びをしながら、壊れやすい陶器でも扱うかのような極めて繊細な手つきで私の頬や肩についた埃を払い落とし始めた。

「お顔に傷はないかしら? どこか痛むところは? ……よかった、本当に怪我はなさそうね……ごめんなさい、私がいっしょに行っていればよかったのに」

至近距離から、不純物の一切混ざっていない純度百パーセントの善意と気遣いが真正面から降り注ぐ。

「……白石さんのせいじゃない。もう大丈夫だから、早く掃除を終わらせよう」

私のコミュメーターは限界を迎えつつあった。動揺を誤魔化すように視線を逸らし、ほうきを握って床を掃き始める。白石さんはまだ責任を感じている表情だったが、「ゴミ捨ては絶対に私一人で行きます!」とそこだけは頑として譲らなかった。


——


夕日に茜色に染まる校門の前。

「今日は本当にありがとう。明日は絶対に無理させないからね。……気をつけて帰ってね、業見さん!」

「うん。白石さんもお疲れ様」

軽く手を挙げて応じ、小走りで去っていく白石さんの背中を見送った。


ふぅ……ようやく一人になれた。

一刻も早く家に帰って、あの力を検証しなければ。私の身体に一体何が起きたのか? さっき襲ってきたあの化け物は一体何だったのか?


そう思考を巡らせながら、踏み出そうとした右足が。

アスファルトに杭でも打たれたかのように、ピタリと止まった。


……待て。


超能力だの化け物だのを考える前に、もっと差し迫った特大の問題があるじゃないか。


――私、今の自分の「家」がどこにあるのか、まったく知らないぞ!

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