真新しい現状
はじめまして。
数ある作品の中から本作を開いていただき、本当にありがとうございます!
四月。
教室の最も隅の席で、私は頬杖をつき、壁に背を預けながら、目の前の光景を無感情に眺めていた。
黒板には達筆な字で「祝 入学」と大きく書かれている。周囲には、真新しい制服に身を包んだ少年少女たちが溢れ、騒がしく大声を上げながら連絡先を交換したり、出身中学を探り合ったりしていた。
それだけではない。前の席に座っている奴は、さっきから後ろを振り返っては、私に向かって中身の欠片もないくだらない話題と感嘆をマシンガンのような早口で一方的に投げかけ続けている。私に会話に乗る気がまったくないことなど、これっぽっちも気にしていない様子だ。
……うるさい。
とっくに耳を塞ぎたくなっていた。
そもそも、私がこの教室にいること自体が間違いなのだ。
時間を三十分ほど巻き戻せば、私はこの学校の名前すら聞いたことがなかったのだから……。
——
今朝の通学路。
私はいつものように、起床直後の低血圧を引きずりながら、薄暗い高架橋の下をとぼとぼと歩いていた。
「……う、やっぱり昨日は夜更かしするんじゃなかったな……」
道路の脇にできた水たまりが、私の姿をぼんやりと映し出している。やや痩せ気味で凹凸の少ない体型、耳の高さで切り揃えられた黒髪のショートヘア。俯いて歩いているせいで、どこか退廃的でくたびれた印象を受ける。
「しっかりしろ、業見景。今日から高校生だぞ……」
そう自分に言い聞かせ、顔を上げて胸を張り、高架下の暗がりから踏み出した。
春の雲の切れ間から、陽光が正面から目に突き刺さる。急激な明暗のギャップに目が追いつかず、私は思わず立ち止まって目をこすった。
「……眩しっ……」
涙で霞む目を再び開けた瞬間、私の足はアスファルトに釘付けにされたかのように、完全に動かなくなった。
「……え?」
間抜けな声が、喉から漏れ出た。
目の前に広がっていたのは、格式高い石畳が敷き詰められた広大なロータリーだった。両脇には八重桜が咲き乱れている。そしてその奥には、ガラス張りのカーテンウォールと淡いタイルの壁が織りなす、まるで高級ホテルのような超近代的な校舎が堂々とそびえ立っていた。
正門の真新しい金属プレートには、端正な文字でこう刻まれている。
『私立新言臨川高等学校』
絶対に何かがおかしい。私が通うはずだった「県立東高校」はどこへ消えた?
慌てて胸元を見下ろすと、思わず息が止まった。身にまとっていた制服は、いつの間にか有名デザイナーの手によるものと言わんばかりの、仕立ての良いキャメル色の高級ブレザーに変わっていた。肩掛けバッグやスマートフォンといった私物も、すべて真新しくなっている。
ポケットからスマホを取り出すと、天気ウィジェットには『新言市・晴れ・18℃』と表示されていた。スクールバッグの底から生徒手帳を引っ張り出して開くと、そこには紛れもなく私の無愛想な顔写真が貼られており、その横に整った活字で印刷されていた。
『一年A組 業見 景』
……なんなんだこれは、異世界転移? ベタすぎやしないか。
服も、持ち物も、学校も、街の名前に至るまで変わってしまった。それなのに、私自身の存在だけは、この見知らぬ環境に寸分の狂いもなく綺麗に嵌め込まれている。
だが幸いなことに、私には数少ない長所がある。
「諦めが早く、妙に現実的であること」だ。
だからこそ、この超常現象を前にしても、私の心は驚異的な速度で白旗を揚げ、これ以上深く追求することを放棄した。
……まあいい。制服はあるし、名前も合っている。外をあてもなくうろつくよりは、大人しく教室の椅子にでも座っていた方がいい。万が一、ただの白昼夢かもしれないし。
——
私は指先で額にかかる乱れた前髪を軽く整え、そのまま潔く机に突っ伏した。よし、この世界でも私は空気になりきって、消費エネルギーゼロでこの三年間をやり過ごすことにしよう。
そう決心した、まさにその瞬間だった。
「――ぶはっ!? あぶなっ! 遅刻するかと思ったぁ――!」
ガタタッ、と前扉から響いた派手な音とともに、一つの人影が教室に飛び込んできた。
毛先をゆるく巻いた、明るい亜麻色のセミロング。ブレザーの制服はきちんと着こなしているものの、背負ったリュックには目立つぬいぐるみストラップがぶら下がっている。
勢いよく飛び込みすぎたのか、彼女は教壇の角に激突し、「うぅ~~痛ぁい……」と呻きながらへたり込み、足を抱え込んだ。
だが、クラス中の呆気にとられた視線に気づくと、彼女は跳ね起きるように立ち上がり、胸を張って満面の笑みを浮かべ、声を張り上げた。
「みんな、おはよ――っ! 僕の名前は相城 蓮! 今日からよろしくね! わあ、入学初日の朝の空気、マジでSweetすぎるでしょ!」
さすがは陽キャと言うべきか。
蓮は恥ずかしがる様子など微塵も見せず、キョロキョロと首を巡らせながら通路を突き進み、私の席の前でピタリと止まった。
「見つけた、十三番! ここが僕の席だぁ――!」
「どんっ」と豪快にリュックを下ろすと、彼女はくるりと振り返って私に向き直った。
そして、なぜかその大きな瞳をキラリと輝かせ、机に身を乗り出して顔を近づけてきた。
「Hello! よろしくね、お隣さん! ……うわ、黒髪ショート! すごく雰囲気あってカッコいいじゃん! 初日からこんなイケメン系女子の隣になれるなんて、Sweetすぎるかも!」
「…………」
「よ・ろ・し・く・ねっ!」
蓮がパチンとウインクする。至近距離から、圧倒的な光属性のポジティブエネルギーが真正面から直撃した。
私は、コミュニケーションに関して致命的な欠陥を抱えている。緊張すると口調が過剰に淡白になってしまうのだ。その悪癖のせいで、中学時代も友人と呼べる存在はほとんどいなかった。
「……座るなら座って。邪魔」
極力感情を交えずに返した。常識的な人間なら、怯えるか気を悪くして立ち去るところだ。
だが、蓮の思考回路は明らかに普通ではなかった。
「ひゃ……つ、冷たい! でもその鋭い目つきとトーン、めっちゃクールで個性的! 僕は相城 蓮! ねえねえ、名前は!?」
「……業見」
「アキラちゃんだね! よろしくアキラちゃん!」
「フルネームは言ってない」
「机の端のネームシール見た! やっぱりアキラちゃんのほうが響きがSweetじゃん~!」
駄目だ。こいつ、パーソナルスペースという概念が存在しないのか……。
私の社会的エネルギー残量が急速に底をつきかけたところで、担任である坂井という中年男性教師が、チャイムと同時に教室へ滑り込んできた。
——
「今日の午前中は、各自の教科書と副教材の受け取りと運搬を行う。座席の前後ペアで二人一組になり、裏手の別館倉庫まで取りに行くように」
担任の一言によって、私の午前中の運命は決定づけられた。
隣を見ると、蓮は『偉大なる航路へ出航だ!』とでも言わんばかりの奇妙なポーズを決めてこちらを見ていた。頼むからその恥ずかしいポーズをやめてくれ。私はただ……背景のモブとして生きたいだけなのだ。
倉庫の受付で、私たちは新学期用の教材一式を受け取った。
分厚く重たい大型の資料集や問題集が、山のように積まれている。
自分の分を取り分けようとしたその時、隣の蓮がクイズの早押しボタンを奪い取った回答者のように、元気いっぱいに割って入ってきた。
「僕に任せて僕に任せて! 中学の時はソフトボール部だったから、力には超自信あるんだ! 一番重いこの資料集の束は、全部僕が持つよ!」
「いや、均等に分けた方がいいと思うけど――」
「いいのいいの! せっかくのお隣さんにカッコいいところ見せたいし! これぞ『チームワーク』ってやつでしょ?」
どこがチームワークなんだ。私の制止も聞かず、蓮は両腕を伸ばし、二人分の資料集をごっそりと抱え上げた。合わせれば十冊以上、広辞苑三冊分を優に超える厚みだ。
完全に調子に乗っている。
まあ、本人がそこまで言うなら……それはそれで、楽でいいか。
私は残りの薄い問題集だけを抱え、蓮の後ろをのそのそと歩き出した。
——中庭の真ん中を歩いていた時だった。前を行く蓮に追いつこうと歩幅を広げた瞬間、私の胸の奥が唐突に激しく跳ねた。
……っ?
それは何の前触れもなく、首筋に冷たいものが走るような、奇妙な感覚だった。
しかし、その不可解な胸騒ぎの正体を突き止める暇もなく、
「……あれ? ちょ、ちょっと待って……!?」
前を歩いていた蓮の足が急ブレーキをかけた。彼女の悲鳴が、一瞬で私の思考を引き戻す。
案の定、と言うべきか。
彼女の腕に抱えられた分厚い資料集の束は、すでに外側へ「く」の字を描くように歪み、アコーディオンのように崩壊寸前となっていた。
「わ、わわわっ! 落ちる落ちる落ちちゃうぅぅぅ!」
新しい教科書を汚したくないという思いと、先ほど大口を叩いた手前があるのか、蓮はどうしても本を手放す決心がつかないらしい。
体勢を立て直そうと、彼女は反射的に右太ももを上げて滑り落ちそうな底辺を支え、両肘で横から飛び出そうとする中段を締め付け、さらに顎と胸で上から崩落してくる本の山を必死に押し潰した。
その結果――
蓮は片足立ちのまま、エビのように背中を丸めた滑稽な姿勢で、道の真ん中で完全に固まっていた。
「……」
「ア、アキラちゃん……! 助けて……いや見ないで! でも早く助けてぇぇぇ!」
「うわあ~ん! 全滅しちゃうよぉぉ!」
運の悪いことに、正面から同じクラスの生徒たちが何人か歩いてきた。道の真ん中で謎の静止ポーズを取る蓮を見て、誰もが怪訝な視線を向けている。
……アホすぎる。
……はぁ。見なかったことにして通り過ぎたい。
私は心の中で、重いため息をついた。
——
教室に戻って教材を配り終え、午前のホームルームは無事に終了した。私は机に突っ伏して少し眠ろうとしたのだが、蓮が自分の椅子を百八十度回転させ、私の机に向き合う形で座り込んできた。
そして、「ことん」と小さなタッパーが私の机の上に置かれた。
「じゃじゃーん! さっきのお礼ね!」
フタを開けると、中には綺麗に切り分けられた一口サイズの焼き菓子が並んでおり、香ばしい甘い匂いを漂わせていた。
「これ、今朝お母さんが焼いてくれたやつ! アキラちゃんが食べてくれないと、僕、悲しくて午後の授業ずっと机に突っ伏して泣き崩れちゃうからね!」
蓮はこれ見よがしに両手で目を覆い、嘘泣きの真似をしてみせる。まったく、騒がしい奴だ。
ため息をつきつつ、私はひとかけらを指でつまんで口に放り込んだ。……意外といける。
「どう? 味はどう!?」
「……悪くない」
「ツンデレだ! 本物のツンデレが出たぁ!」
私は、春風が吹き抜ける窓の外の並木道に視線を移した。
転移後の生活……思っていたより悪くはないかもしれない。……まあ、少々やかましすぎるが。
とりあえず、当面はこの現状を維持することにしよう。
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